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分水嶺



「んっ! 美味しい! 絢子が作る角煮、最高!」

「……ありがと」

「絢子って何やらせても完璧だよな」


 絢子の目の前で哲也は、ニコニコと角煮を頬ばった。


「……そうかな?」

「掃除、洗濯、炊事、全部完璧だろ?」

「……最近はちょっと手を抜いちゃったりするし……」

「手を抜いてこれ? すごすぎない?」

「……うーん」


 曖昧に笑みを浮かべながら、絢子は哲也の様子を窺った。他意も含みもなさそうな哲也の笑みに、絢子はなぜだか恐怖を感じた。


『浮気相手、増えたから。よく言うじゃん? 浮気すると優しくなるとかって』


 会合でのみのりの言葉が蘇る。理由が伴う態度の変化なら、こんなふうに怖いと感じることもなかったはずだ。今日も残業せずに帰宅した哲也。浮気の贖罪からの優しさとも思えない。哲也はこれが通常だから。

 絢子が浮気に気づけなかったのも、哲也の態度が一貫して変わらなかったからだ。今は哲也のその「変わらなさ」が、理解が届かない未知の生き物のような不気味さに感じた。

 じっと考え込み箸が止まっていた絢子は、視線を感じて慌てて笑みを浮かべた。ぼんやりしていたことを誤魔化すために、反射的に絢子は言葉を捻り出した。


「えっと……もしかして何かあったの?」

「んー、いや。まぁなくもないかな。なんていうか勤続年数長いだけじゃダメなんだなって思って」

「勤続年数……?」

「ああ、仕事の資料作らせたけど、細かいミスが多いんだよね。それでも他よりは使えるんだけどね」


 使える。その言葉を使った瞬間、哲也は一瞬酷く顔を歪めた。今まで見たことのないその表情に、目を見張った絢子に哲也は振り返った。その表情はもういつもの哲也だった。


「絢子って、仕事でも完璧だったよね。正直、今も絢子以上に仕事できる女なんか社内にいないと思う」

「そ、そう……」


 ずっと見つからなかったものの片鱗を見つけた気がして、かろうじて答えた絢子の唇が震えた。


「やっぱり俺さ、絢子と結婚してよかった。家事だけじゃなくて、絢子はベッドでも完璧だし……」


 箸を置いた哲也の手がゆっくり伸びてきて、絢子の手に触れる。


「だから今日……」


 低められた哲也の声を遮るように、哲也のスマホが甲高く着信を知らせた。びくりと手を引っ込めた絢子に、哲也は画面にちらりと視線を走らせ眉根を寄せた。つられて画面に目をやった絢子の心臓がどくりと音を立てる。

 今井 直樹。一瞬だけ見えた画面に、妙な胸騒ぎを感じた。


「……哲也、でないの?」

「…………」


 無言でスマホを引き寄せた哲也が、立ち上がりながら電話に出る。その瞬間、吠えるような直樹の声に哲也は耳に当てたスマホを引き離した。


「……っ! 上原! 弥生が……!」

「ちょ、直樹さん、落ち着いてください!」


 ちらりと絢子に視線をやって、哲也はそそくさとリビングを離れていく。残された絢子は今すぐスマホに伸びようとする手を必死に押し留めた。


(弥生さんに何かあった……?)


 なんともなさそうに笑っていた弥生。でも本当はそうではなかったかもしれない。どくどくと不規則に肋骨を叩く心臓に、絢子は息苦しくなって胸を抑えて俯いた。


「すぐ行きますから落ち着いてくださいって! はい、わかりました!」


 片手に上着を持って戻ってきた哲也は、声を荒げてスマホを切る。ハッと顔を上げた絢子は、急いで哲也に駆け寄った。


「何か……あったの……?」


 真っ青になって縋るように尋ねた絢子を、じっと哲也は観察するように見つめて、フッとため息をついた。


「……なんでもないよ、ごめん。驚かせて。今井さんなんだけどなんか夫婦喧嘩がどうとかって、すごい動揺してるみたいだからちょっと話を聞いてくる」

「……っ! そう、気をつけてね……」


 反射的に自分も行くと言いそうになって、絢子はかろうじて踏みとどまった。弥生ともみのりとも絢子は面識がないことになっている。ここで必要以上に動揺するわけにはいかない。

 玄関に向かう哲也の後ろをついていきながら、絢子は震える唇を噛み締めた。


「はあ、絢子と過ごしたかったのに……」


 靴を履いて立ち上がった哲也が、絢子を見つめてため息をついた。


「私のことは気にしないで」

「ごめんね、絢子……」


 見送る絢子を哲也が引き寄せて強く抱きしめる。「使えない奴は、これだから……」絢子を手放す瞬間、哲也の独り言が耳を掠めた。

 玄関扉が閉じた瞬間、絢子はリビングに駆け出した。引っ掴んだスマホに少しだけ悩んでから、絢子はみのりにメッセージを送信した。すぐにみのりから着信がくる。


「絢子さん、弥生さんが……っ!!」

「みのりさん、落ち着いて! 今どういう状況かわかりますか?」

「実はウチの友達が……」


 今日もきっちり夫たちを尾行してくれていたみのりの友人たちは、直樹がマンションに帰宅したところまで監視していたらしい。大抵は急な外出に対応できるように、そのまま帰らずその場で報告をみのりに送信して少し待機するのが常らしい。

 そろそろ解散しようかと言う時に、荷物を持った弥生が飛び出してきて、迷った末にみのりの友人の一人が弥生を追いかけたそうだ。弥生は二駅も歩き続けてから、公園のベンチで座り込み泣いていたという。今はみのりの友人が保護して、弥生の実家へ送り届けてくれているらしい。


「よかった……! 弥生さんは無事なんですね」

「うん……だけどもう戻りたくないって……ウチと絢子さんに申し訳ないって、ずっと泣いてるみたいで……」

「そんな……弥生さん……」


 でもそうして泣く弥生の気持ちが痛いほどわかった。二人の悲しみを怒りを知っている。同じだけの痛みを分かち合い、支えあってきた。同じ空間にいることが耐えられなかった弥生の気持ちがわかる。そして自分の行動のせいで、他の二人が耐え忍んできた努力が無駄になるとしたなら。


「みのりさん、旦那さんは?」

「弥生さんの旦那さんから連絡きて、血相変えて会いにいったよ。友達が尾行してくれてる」

「そうですか……」

「ねえ、絢子さん。別にもうバレてもいいよね? 弥生さんが顔を見るのも耐えられないの当然だもん。だから……」

「うん。もうある程度準備はできてますから。大丈夫ですよ」


 裏切られボロボロにされたのに、同じ境遇の仲間に申し訳ないと弥生は泣いている。弥生が楽になれるなら、今バレてもどうでもいい。どうせ離婚だ。壮大な復讐をするより、弥生のチームメイトの心を守るほうが大切だ。


「弥生さん、限界だったんだと思う。ほら、あいつら予想もつかない動きしてくるからさ……ゴミどもの言動なんて予測できるわけない。だから不意打ちでダメージ喰らう羽目になって……」

「そうね……でも……予想は、ついてた……」

「絢子さん……?」


 不倫相手が増えるかもしれない。それ自体は予想がついていたのだ。ダメージが大きいのは、実際にそうなった場合の自分たちがどうなるかの予測はできていなかったから。当然だ。こんな裏切りが日常的にゴロゴロしているわけがない。ただの不倫だけならまだしも、不倫相手を交換して重ねる裏切り。ここまでバカにされる謂れも、そんなクズに遭遇することも普通は考えないのだから。


「最高の舞台……」


 でももしも起きる出来事に事前に備えて、心構えを作れていたならどうだろう。これを入力したら上がる、もしくは下がる。自分は一度もその予測を外さなかった。

 

「絢子さん?」

「みのりさん、現場乗り込みを一番楽しみにしてたのは弥生さんでしたよね?」

「うん……でも弥生さんはもう限界で……」

「みのりさん、今すぐ弥生さんと連絡取れますか?」

「それは……今、友達が弥生さんを送っていくところだからできるけど……」

「ならなんとかできるかもしれません。すぐに弥生さんと話をさせてください」

「え、でも……」

「みのりさん、私、魔王になります」

「あ、絢子さん!?」

「みのりさん、すぐにお願いします。時間との勝負ですから!」


 ぷつりと電話を切って絢子は拳を握った。どうして最高の舞台が整うのを見守る選択をしていたのか。見守るのではなく操ればよかったのに。チーム・サレ妻という仲間がいればそれができる。どうやら長く仕事を離れていて、すっかり頭が鈍っていたようだ。


「……私より仕事ができる女はいない、だったわね?」


 見せてやる。裏切った女が、どこまで完璧かを。おぼろげに見えた気がする哲也なりの「理由」。宇宙人などではなかった。ただ絢子が認めなかっただけ。だからきっと絢子が完璧であることこそが最大の復讐になる。

 鳴り響いた着信に素早く反応した絢子は、泣いて謝る弥生に秘策を囁いた。

  

 

 

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