夜と飛ぶ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あ、ふああ……ああ、こーちゃん、おはよう。いま何時くらい?
――午前4時過ぎか。もうちょい眠れるけれど、寝過ごす危険があるかもしれない、微妙な時間帯だよね、いまは。朝早く起きての旅行、遅刻はまずいもんね。
うーん、この時間だと空も青みを少し帯びてきてるなあ。いい天気になりそうで何より。
もうじき、夜ともお別れだ。こんなにも世界の誰より大きいのに、寝起きでぐずぐずする僕と違って、いさぎよく去っていく。
自然が動物に勝るところは、律義さだと僕は思うよ。自分の受ける結果に対し、悲しみも喜びもせず、ただ粛々と受け入れる。いかなる異状を受けようともだ。
それがもたらす結果に、僕たちは喜んだり苦しんだり、感謝の言葉を告げたり不平不満を漏らしたりして生きていく。
もしそのように、気をもむことなく時を過ごしていくことができたなら……心疲れた覚えがある人なら、一度は考えたはずだ。
もし、それをかなえるすべがあるとしたら……どうする?
僕の昔に聞いた話。眠気覚まし代わりに、耳に入れてみない?
むかしむかし。
あるところに、冬の出稼ぎから帰ってきた青年がいたらしい。
懐かしの生家に戻り、「ただいま」と声をかけてしまい、すぐしまったと思う。
すでに彼に「おかえり」を返してくれる家族はいない。父は小さいころになくなり、母も数カ月前の流行り病で亡くなった。
仕事に取り組んでいる間は、そのことを忘れることもできたが、こうして慣れた景色を目の当たりにすると、つい出迎えさえ当たり前にあるように感じてしまう。
しかし、これから先にどう願おうとも、もう父母の声を聴くことはかなわないのだ。
目頭の熱くなるのを感じながら、青年は寝床へ横になる。昼の間は歩き詰めで疲れがたまっている。すでにあたりも暗くなって久しかった。
まぶたを閉じる青年の腹の虫が、くううと鳴く。昔なら、この音を聞くや母が飯づくりに取り掛かってくれたけれども、それももうない。
二度と食べることのできない、母の煮物の味とともに、生前の彼女との語らいがぽつぽつと脳裏に浮かんでくる。
そのいくつもの思い出の中、彼は夜にいろりを囲んでいたときに、聞いた話を思い出した。
「もし、これから先にしんどいこと、刹那でも忘れたいことがあったら、身一つでできるこれを試してみなさい」と。
時間が決まっている。うとうとまどろみ、時の流れを失っていた青年だけど、まだ外は暗がり。機会は去っていなかった。
母より教わった方法は、薄明を待って行う。
仮眠をとって目覚めた青年は、まだ空が明けやらぬ中を、上着を羽織ってそっと家を出た。
村はずれにある、ひとつ岩。人が腰かけるには高く、さりとて苦労して登るには足りない、半端な大きさの石が、地面に埋まっていたんだ。
青年は手足をひっかけて、ひょいとそのてっぺんに飛び乗ると、あぐらを組んで東の空を眺める。そのような格好の彼を乗せてなお、岩の頭にはいくらかの余裕が残っていた。
「人の背を越し、さりとて飛び降りてもまず支障がない高さ。その上へ腰を下ろし、夜が明けていくのを待ちなさい。時機こそが大切なのだから」
母の言いつけより余裕を持ち、青年は少しずつ白んでいく空をしり目に、東の一点へ意識を凝らしていった。
「夜が明け、陽が上る瞬間。光を受けて、自分の身のまわりより闇がしりぞくとき。あなたも同じように退きなさい。去っていく夜にならい、跳ねて、地から足を離すのよ」
山々を真正面に据えるこの位置で、鳥の鳴く声が響き始めるや、青年はすっと岩の上に立ち上がる。
来た。
連なる山々の輪郭、その谷間からほんのわずかに真新しい白が、頭をのぞかせる。
じかに注ぐ光が、すぐそばの山の緑を映し出し、その先へ扇の広がるようにして、すそ野を、木々を、草原を遠慮なく照らしていく。
日が暮れてより、ほんの先ほどまで。ずんと居座っていた暗闇を、一切の遠慮なく、たちまち彼方へ追い立て始めたんだ。
その光が、自分のもとへたどり着くより早く。青年は岩より飛び上がっていた。
闇がのく速さは、人が走ってとうてい追いつくものじゃない。飛んでいる最中に、かけ去っていく闇たち。その逃げの流れに、浮かせた体をゆだねていくよりなかった。
けれど、闇の引きはすぐさま彼をさらう。
ぐんと後ろへ引っ張られたかと思うと、目の前に灰色の丸みを帯びた物体が現れ、あっという間に遠ざかっていく。
言われるまでもなく、彼がつい先ほどまで腰かけていた岩だ。いま彼の身はすさまじい勢いで陽の差す側との向かい。西方へ向けて、強く引っ張られ続けているのだった。
自分の見回していたあたりは、たちまち彼方へ消えて、ついでに浴びていたはずの陽の光さえも遠ざかって。いままた消えようとしていた夜の中へ、すっぽり青年はつつまれていたんだ。
取り巻き続ける涼しさを感じ、青年は飛ぶ。
やがて彼の右耳の穴に、ちゃぷりと冷水が注がれる感触があった。
肉へ、骨へ、そして脳へ。
次々としみとおる冷えは、頭がまるごと氷になってしまったかと思うほど。されど、不快はそこになく、むしろ眠りさえいざなわれてしまうような、快さ。
まもなく、入ってきたときと似て、再びちゃぷり。今度は左からじわじわ逃げていく冷気を感じながら、青年は自らまぶたを閉じていった……。
それが、朝方に岩へ横たわっていた青年の話だった。
以降、彼は母や父を思い、寂寥の感に襲われることはなくなったらしいが、それは乗り越えたとは到底言えない。
彼は父母の名前すら出てこないようになっていた。周りの皆も冗談かと思ったが、時とともに彼は次々と、村に生きるものとして大事なものを忘れていく。しまいには、身にしみ込んだであろう仕事のやり方、言葉の発し方さえも。
いかなる医者も彼を治すことはあたわず、やがて彼は、ある晩を境にすっかり姿を消してしまったんだ。
まだ話すことのできた、彼の語った「夜と飛ぶ」こと。そのおり、彼は心の重荷をおろすために、すべてを夜へ置き去りにしていったのだろうと、噂されたそうな。




