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7 シエラと魔女の料理


 苦手な給食が出る日の憂鬱感に似ていた。今日は学校行きたくない。


 この世界に来た当初、シエラの食事は三食同じだった。スパイスカレーっぽい見た目の何か。

 本部に脆弱な人間はほとんどいないため、数少ない人間職員のための食事は外部委託されていた。そのスパイスカレーもどきは、どこぞの『森』に住む魔女が、人間に安全な食材を、人間に安全な道具を使って、人間に安全な調理法で作っているという特注品だった。


 歯が欠けそうな程固いスティック状のパンを、広口瓶に詰められたカレーらしきものの水分でふやかしながら食べる。香りに癖があるだけで辛くはない。シエラの口には合わなかったが、他の人間からは一切文句が出ていないらしいので、異世界人のシエラの口に合わないだけらしい。


 シエラの食事を西の森の事務所まで配達してくれていたのは、ディーという名前の動物成分多めの男性職員だった。彼は、瓶入りのカレーっぽいものと、小太鼓を叩くスティックのようなパンを受けっとって半笑いになるシエラの肩を叩いて、


「まぁ、腹に入ればちゃんと栄養にはなる。食べるものがあるというのは幸せな事だ」


 と言って慰めてくれた。


「直接お腹に入れる方法ないですかね?」


「作ってくれた人への感謝を忘れず、ちゃんと噛んで食べろよ」


 この一連の会話を毎日繰り返していた。


 これも仕事の内だと言い聞かせ、文句を言わずに心を無にして黙って食べた。

 作ってくれた人への感謝の気持ちは「いただきます」と「ごちそうさま」の中に込めることにした。美味しいと言えないのはシエラの味覚の問題であって、作ってくれている魔女のせいでは決してない。栄養的なバランスは完璧に整えられているらしく、体調は万全だった。

 因みに、山登りの携帯食はアーモンドに似た形をした赤い木の実だった。数個食べると、人間なら一食分に匹敵するカロリーが取れるという夢の食糧なのだが……これがびっくりするくらい不味い。最初の頃は泣きながら水で無理矢理胃の中に流し込んでいた。

 カレーっぽい何かにしろ、携帯食の木の実にしろ、どうやら味よりも匂いがダメらしい。どちらも元の世界では嗅いだことのない摩訶不思議な匂いがするのだ。

 だから、晶洞の森で暮らすことになった時、どんな食べ物が出て来るのかとシエラは戦々恐々としていたのだった。


 結論から言えば、ジオードと出会った後、シエラの食生活は劇的に改善された。


 ――その、改善された食生活が失われてしまった。




 久しぶりに本部の廊下に出る。

 ジオードたちと暮らすようになってから、事務所の扉は晶洞の森に繋がっていた。一瞬足が止まってしまい、シエラは思わず苦笑する。

 こういう些細なことで寂しくなってしまうから困る。事務所にいる間、何度無意識に頭の上に手をやっただろう。手のひらが、そこにいる筈の、柔らかくてあたたかくていいにおいのする存在を求めていた。


 カールは一旦蛍石の森に戻った。次の出発は明後日だ。帰る場所のないシエラを気遣って、蛍石の森に来るように誘ってくれたのだが、兄の方と顔を合わせると面倒なことになるのでお断りしておいた。……彼もそろそろ蛙から戻った筈だろう。


 晶洞の森に移り住む前までは、シエラはこの職員室風の事務所の奥にある当直室で寝泊りさせてもらっていた。月が重なるまでの間そこに戻ればいいやと安易に考えていたら……当直室は上司に乗っ取られていた。ノジュールと遊んでいたせいで仕事が溜まりまくっていて帰れないのだそうだ。自業自得だがシエラも割を食った。

 仕方がないのでシャワーと洗濯機はここで借りて、寝るのは森林保安協会本部の宿泊棟を利用することになった。


 西の森担当事務所は職員室風だが、廊下は別世界だ。

 白と黒の市松模様の床。天井と壁は真っ白で汚れひとつない。壁には木製のドアが並んでおり、その上にはガラスが入っていない明り取りの正方形の窓が行儀よく一定間隔で並んでいる。壁の向こうは外の筈なのにドアが並んでいるのだ。最初見た時は、だまし絵かと思った。

 扉には金色の文字が書かれたプレートが下がっている。どのドアがどこに繋がるのかは、扉の魔物の気まぐれで変わるので、いちいちプレートを確認しなければならないのが面倒といえば面倒だ。廊下はシエラの左右に果てなく伸びている。


 斜め前のドアが開いて、ディーが廊下に出て来た。


「お! 丁度いい所に、シエラ。ほい夕食な」


 そう言って手付きの籠を渡された。中にはもう二度と見たくないと思っていた、瓶入りの茶色い食品と、蓋を叩くと良い音がする固いパンが入っていた。泣いた。


「……泣くなよ」


「本当に……直接お腹の中に転送できるような方法はないんですかね?」


「作ってくれた人に感謝して、よく噛んで食べろ」


「正論すぎて辛い」


 ディーは魔物ではないのでフードは被っていない。体は人間っぽいが頭部はネコ科の何かだ。毛並は真っ黒で瞳は金色。身長はシエラよりだいぶ高い。アオザイ風の服を着て、黒い手袋をしている。手の形は人間と同じだ。字も書けるし楽器も弾ける。ただ、ディーがどんな仕事をしているのか、シエラは知らないのだ。ほぼ毎日本部にいる様子なので事務職なのかもしれないが……事務仕事が得意そうには見えない。


「しばらく振りだな。とうとう魔物の餌にでもなったかと心配してた」


 猫に似た動物がにんまりと笑う。彼が喋ると口の動きと言葉が合っていない吹き替え映画のような状態になる。本部内ではすべての言語が自動的に翻訳されているのだ。これにももう慣れた。


「おかげさまで、まだ何とか生きておりますよ」


「ん? お前印がついたな。いい統治者みつかったかー。良かったな。これで一安心だ。長生きしろよ」


 背中をバンバン叩かれる。


「なぜにわかるのですか?」


「額に印がついてる」


 言われて思わず額を押さえる。真っ赤になったシエラを見て、ディーが目を細めた。ダメだ思い出すな。思い出してはいけない。あの時ジオードは女性だった! 


「鏡見ても何にもないんですけど?」

 

 必死に動揺をおさえながら、ディーに尋ねる。


「シエラには見えないようにしてるかもな。その辺は本人に聞いてみるといい。まぁ、額に誰かの名前がでかでかと書いてあるってのも、確かに気分良くな……」


 とんでもない事を言われた気がして、シエラは慌ててディーに詰め寄った。


「ちょっと待って。そういう話なんですか?」


 何、額に名前書いてある? それって、かなり恥ずかしい……。


「自分じゃ見えないんだから気にするな。名前って言っても、模様だからな。誰かの配偶者だという証だから……シエラの場合は目立つ場所にあった方がいい。バカとか書いてあるわけじゃないから、そんな悲壮な顔するなよ。結構似合ってる似合ってる。おしゃれだおしゃれ。諦めろ」


 確実に誤魔化されている。でかでかと名前が書いてあるって最初言ったではないか。どっちが本当なんだろう……今度カールに相談してみよう。今考えてもこれは何ともならない。

 ディーはにやにや笑っている。物語に登場する笑う猫のように。


「……ディーはこれからどこに行くんですか?」


 この話を続けると結局自分ばかりがダメージを受けそうなので、話題を変える。


「本日の業務はこれ届けて終わりだから食堂行こうかと」


「あー」


 シエラの顔からすべての表情が抜け落ちた。


「……気持ちはわかるがな。これから食事に行こうとする相手に対して、その顔どうなんだろうな」


 実は本部に食堂は存在している。基本的に利用するのは、動物成分多めの方とか魚成分多めの職員だ。彼らは鮮度にこだわる。そして素材そのものの味を楽しむ。食堂は彼等の健康維持のために、鮮度の良い原材料を使っているので匂いがすごい。


 ディーに連れられて、何も知らずに食堂に足を踏み入れた途端……あまりの酷い匂いにシエラはその場で吐きそうになった。時間差で蕁麻疹が出て丸一日寝込んだ。それから一度も行っていない。

 後で聞いたことなのだが、食堂で出されている料理の原材料は魔獣の肉らしかった。人間には刺激が強すぎて毒になりかねない危険物だった。


「すみません。ディーには申し訳ないのですが、食堂に関しては良い思い出がないものでして……」


「……いや、確認しなかった俺が悪かった」


 お互いそっと目を逸らす。


 ……あれは、シエラがこの世界に迷い込んですぐのことだった。

 ディーは保護された迷子の空腹を満たしてやろうと、厚意で食堂に連れて行ってくれたのだ。まさか、その迷子が異世界から来た脆弱な人間だとは思っていなかった。事故だった。


 ――シエラは匂いで死にかけた。思えば、あれがこの世界に来て最初の命の危機だった。


 以後、責任を感じているらしきディーは何かとシエラを気にかけて世話を焼いてくれている。


「……この話もやめましょう」


「……そうだな。で、シエラ何探してるんだよ」


「宿泊棟に続く扉を探します」


「宿泊棟使った事あったっけ?」


「……初めてですね。上司は相変わらず行けばわかるの一点張り。あ、お金持ってくようには言われましたね」


 シエラがため息をつきながらやれやれと肩を竦めてみせると、ディーは笑った。牙が剥き出しになりなかなか獰猛な笑顔だ。慣れたけど。


「対価の相場は銀貨二枚くらいだな。場所によって違うから多めに持って行けよ? その人間用の食品と同じでさ、本部が一部の『森』の管理者と契約してるんだよ。利用者に合った『森』に繋がるから、シエラだとどこに出るんだろうなぁ……。魚系のヤツだと海の中だし、鳥系の奴だと木の上だし。まぁ確かに行けばわかるんだけどさ。最低限の説明は欲しいよな。……魔物はそういう所があるんだよなぁ」


 どうやら彼も苦労しているようだ。困ったもんだというように、シエラと同じ様にため息をついて肩を竦めてみせる。


「本当にディーがいなかったら私、右も左もわからないまま、魔獣に喰われて人生終わってたと思うんですよねぇ」


 行けばわかる。やればわかる。ちょっと危険。上司は基本その三言で片付ける。


 この廊下の仕組みを教えてくれたのも、本部内を案内してくれたのも、最初の仕事に同行してくれたのもディーだった。……上司仕事しろ。


「宿泊棟ってことは自分の森に帰らないのか?」


「仕事でしばらく帰れないんですよね。しっかし、一度快適な生活覚えると、元の生活には戻ると辛い。ごはんとかごはんとかごはんとか」


「ふーん。さりげなくのろけられた気分」


「大事にしてもらっていたと今身に染みて感じてますよ。ごはんとかごはんとかごはんとか」


 申し訳ないが、今はジオードよりも切実に和食が恋しい。


「はいはい。ま、がんばって泣きながら食べろ」


 そんな会話をしながらも、横に移動しながらプレートを確認してゆく。総務部。休憩室。図書室。玄関ホール。第一会議室。第四保管庫……シエラには漢字とカタカナで書かれているように見えるこの文字も、きっとディーに見えている文字とは違う。

 『嘘と偽物とごまかし』とは一体なんなのだろう。

 眼鏡をかけた状態で色々見て回ってみたいと思っていたのに、「怖くて夜眠れなくなるから本部内では眼鏡禁止」と上司に言われてしまった。脅しだと思うが、その命令に逆らう気にはなれない……


「ないな」


「ないですねぇ」


 二人は顔を見合わせてため息をつく。


 目の前のドアが開くから、慌てて横に避ける。出て来たのは目深にフードを被っているから魔物だ。知り合いかどうかは声を出してもらわないとわからない。


 脆弱な人間のシエラは本部にほとんど知り合いがいない。彼らとは時間感覚が違うからだ。魔物たちは一度本部の外に出かけると、十年とか百年単位で戻ってこない。


「何探してるの?」


 あ、知らない声だ。とシエラは思った。


「食堂」


「呼んだら?」


「対価払うのがなぁ……節約中なんだよ」


「探す方がめんどうだと思うけど。図書室見なかった?」


「あ、見た見た。……えっと、シエラどれだったっけ?」


「三つ隣ですね」


 尋ねられたので、指でさしながら答える。


「ありがとう西のお嬢さん」


 僅かに見える口元に浮かんだのは感じの良い笑みだ。声は涼やかな女の人だった。彼女がドアを開けると。背の高い書架が一瞬だけ奥に見えた。


「……何で知っているんだろう?」


「人間の保安官は珍しいからだよ。……みんな心配してる。厳しい仕事だってわかってるからさ」


 成程、ありがたいことである。とはいえ、シエラはまだ大した仕事はしていない。上司に千尋の谷に突き落とされているだけで。


「対価、私が払いますよ。いつもお世話になってますし」


 シエラはそう言って、脇ポケットから小さながま口を取り出し、中から銀貨を二枚取り出した。


「扉の魔物。宿泊棟と食堂の扉を私の目の前にお願いします」


「シエラそれ、対価として多すぎるっ」


 慌ててディーが制止するが、シエラが宙に放り投げた銀貨は、ふっと中空で消えてしまう。ああっとディーが何とも情けない声を出した。「そうか、金銭感覚が全く身についていないのか……」そんなことをぶつぶつ呟いている。


「え? だって銀貨一枚だって以前上司が。だから二人分だと二枚?」


「銅貨だ銅貨! 毎回銀貨支払ってたらあっという間に給料使い切るだろうが」


「私、山登りしてるか事務所にいるかなんで、扉の魔物にお願いするのって月に一回あるかないかなんですよね。……あとお給料の使い道が他にないので別にいいですよ」


「相場は銅貨一枚だ。覚えとけ。お釣りは戻ってこないからな。……そうかぁ、シエラ衣食住全部支給品で給料から天引きだったもんなぁ。箱入り娘のまま嫁に行ったかぁ」


 意味がわからないという顔をしているシエラを見て、ディーががっくりと肩を落とす。


「俺さっき、宿泊費が銀貨二枚だって教えたよな? 扉一回呼ぶのと一泊の料金が同じって、どんなぼったくりだよ」


(……ひょっとして、私が思ってるのとゼロの数が違う?)


 ん? とシエラは首を傾げた。

 銀色のコインは現代日本だとアイスクリームが買えるくらいの貨幣価値だと思っていたのだが……どうやら違うようだ。

 目の前の壁がまるで水の底にあるかのように大きくゆがんでゆらめいた。元に戻るのを待って、ディーが目の前の扉のプレートを確認する。


「……うん。ありがとな。宿泊棟のドアは、ノックして返事を待ってから開けろよ。心配しなくとも、扉の魔物がきっと大サービスしてくれてる筈だ」


 そう言って、ディーは食堂へ繋がる扉の少しだけ開けてするりと身を滑り込ませた。それでも肉が腐ったようなものすごく嫌な匂いが一瞬鼻をつき、シエラは思わず口元を押えた。

 シエラには耐え難い悪臭が、ディーにすれば新鮮なご馳走の匂い。この部分に関しては一生相容れないに違いない。


 そんな事を考えながら、シエラは目の前の扉と向き合う。


(ノックして返事があってから開ける……)


 上司から一切説明はなかった。ディーに会えていなかったらどうなっていたのだろう。念のために財布の中身も確認する。小さながま口の中には銀貨が四枚と銀貨が一枚。一呼吸して、緊張気味にノックをする。


「……ああ、シエラだね」


 よく知っている声が扉の内側から聞こえて来た。


「いいよ。お入り」


 ドアを開けた先で嫣然と微笑んでいたのは、紫色のドレスを着た魔女アーラだった。アーラはいつものように、丸テーブルに肘を付いて気だるげな様子だ。シエラは安堵のあまりその場に座り込みそうになる。


「宿泊棟って、アーラの森なのですか……?」


 どうして上司は最初から教えてくれないのだろう。どうせ何事も経験とか言うのだろうが。


「他にもあるよ。だから、他の森に繋がる可能性もあった。でも、扉の魔物がシエラのためにわざわざうちを選んだんだろうさ。対価を多めに払ったろう?」


 確かに、ディーがきっと扉の魔物はサービスしてくれると言っていた。シエラはぼんやりと頷く。


「宿泊棟は、わかりやすく言うと森保と契約している宿屋だね。対価目的で魔女が営んでいることが多い。うちはシエラならいつでも歓迎するよ。対価を払って扉の魔物に頼めば繋げてくれるさ。銅貨三枚も積めば大丈夫だろう。次回からはそうしな」


 やはり銅貨か。では、銀貨一枚は銅貨何枚分なのだろう? 銅貨百枚で銀貨一枚とかだったら笑ってしまうが、それでアーラの所に繋げてもらえたのなら、何の文句もない。


「夕食にするかい? ……でもそれ、シエラの口には合わないだろう」


 綺麗に整えられて青紫に塗られた爪が、シエラの持つ籠をさす。


「……そうなんです。でも作ってくれた人に感謝して泣きながら食べろって言われました」


「対価としてそれをくれるなら、こちらで食事を用意してやってもいいけど、どうする?」


「お願いしますっ。足りなければ宿泊代に上乗せして下さい」


 シエラは勢い込んで身を乗り出した。


「……だから、魔女に対してその交渉の仕方は危険だと言っているんだけどねぇ。宿泊代は銀貨一枚だよ」


 やれやれという顔をして、アーラが手を差し出すから、シエラは銀貨を二枚差し出す。ディーが相場は二枚と言っていたからだ。手に持っていた籠もテーブルの上に置く。


 アーラは苦笑して銀貨二枚を受け取った。


「交渉成立だね。……一度差し出してしまったら取り戻せないからね、これもよく覚えておきな。銀貨一枚で良いと言ったのは、そっちの料理に価値があるからだ。別の魔女が作ったものに直接触れられる機会はそうそうないんだ」


 魔女が密封されていた瓶の蓋を開けると、ひねた匂いが室内に広がった。もうこの時点で食欲が失せる。

 アーラはスパイスカレーもどきを指で掬って、反対側の手のひらの上に垂らした。その途端、粘りのある茶色い液体は砂に変わる。指についていた分も、いつの間にか茶色いキラキラとした砂になってテーブルの上に零れ落ちていた。


「ああ、若いけどいい腕だ。人間が生きていくのに必要なものがすべて溶け込んでいる」


「でも私の口にはどうしても合わなくて。他の人間の職員は平気みたいなんですけどね」


「味と匂いは深く記憶と繋がっているからね。時間そのものだ。シエラにとっては異質だろう」


 アーラはテーブルの下から小さな壺を取り出すと、スパイスカレーもどきを移し替え始めた。

 瓶から零れ落ちてくるのはキラキラとした砂……天井のランプの光を受けて砂金のように輝いている。流れ落ちてゆく様はとても美しく、それがとても上等なものだと何となくわかる。でも不味いのだ。どうしようもなく。


 きれいに空になった容器をシエラに返しながら、アーラはとても満足気に笑った。

 壺いっぱいになった砂の中にアーラは指先を潜り込ませると、中から一枚カードを引き出す。金と茶色が混ざったような色のカードだ。

 前回と同じように、アーラは立ち上がって頭上のランプを一つ外す。テーブルの上に置いて、カードを火にくべた。キラキラとした白い煙が立ち上り、テントの中を流れてゆく。ゆっくりゆっくりカードは燃えてゆくようだ。シエラは思わず煙の行方を目で追う。


「これはいい拾い物だ。さすがシエラだね」


「私は何もしてません」


「稀に大当たりを引く。ただし代償が大きい。ま、そんなところだね」


 意味ありげにアーラは頬杖をついて笑う。反対の手の指先を砂に埋めて、ゆっくりとかき混ぜている。壺から砂が零れてテーブルの上に零れ落ちる。


「これは、独り立ちして間もない若い魔女が作ったものだ。今の彼女の名前は『巻貝』。彼女の才能は特出している。だがバランスが悪い。だから自分が出来損ないだと思っているのさ。面白いね。……あと、若い魔女は困った状況にある。これは保存食だから……作られたのはだいぶ前だね。状況はさらに悪化しているだろう」


(保存食だったのか!)


 瓶に入っていたのはそういう意味か。パンが固すぎるのもそのせいだったのか……


「触れるとわかりますか?」


 アーラは軽く首を傾げて目を眇めた。


「シエラもだいぶわかるようになってきたね。そうだよ、心を込めて作ったものには記憶が移る」


 遠くからリュートを爪弾く音が聞こえて来た、肉が焼けるいい匂いがする。シエラのお腹がくぅと鳴った。そういえば朝食を食べたきりだった。アーラが出してくれる食事は、香辛料のよくきいた辛めの料理だが、脆弱な人間であるシエラが食べても問題がない上に文句なく美味しい。


「アーラ、お願いがあるんですけど、月が重なるまで、私のご飯……」


 何故か後半は声が出なかった。喉を押さえてアーラを見ると、困った顔で唇に人差し指を当てている。


「シエラ、だからね、それがダメなんだ。魔女の前で自分から願い事を口にするのは禁忌だ。いいかい、もしシエラが今最後まで願いを言ったとして、私が『その願いを叶える対価として命をもらうよ』と告げたら、それで交渉は成立してしまうんだよ。魔物は願いを叶えてからしか対価を受け取れないが、魔女は願いを聞いただけで対価を受け取れる。カールにも言ったが、願いを言わせて対価だけ受け取る質の悪い魔女もいる」


「前払いか後払いかってことですよね?」


 あ、もう声が出るとシエラは喉から手を離す。

 その話はアーラから以前聞いたことがあった。魔物と魔女は全く違う存在なのだと。


「魔女は魔物より非力だ。だからより狡猾に振る舞う必要があるのさ。人間程ではないにしろ、私たちも脆弱だからね」


 カードは、まだ右上の角が少し燃えたくらいだ。煙はもうテントの外まで流れていた。






「悪いんだけど、シエラ、急遽調査に行ってもらうことになったの。目的地の『森』自体には危険はないんだけど、危険物がいるみたいだからちょっと気を付けてね。すぐ準備して。時間がない」


 翌朝出勤した途端に、上司は書き物から目も上げずにそう言った。手の動きが早い。声が真剣だ。


「どうやらうちの管轄の森で野良の魔物がふらふらしているみたいでね。あまりよろしくない状況なのよ。他の保安官出払ってるから、シエラに見て来てもらうしかないのよね。近くにいるのには連絡取ったから。合流できるようにしとく」


 絶妙なバランスで、上司のデスクの上にはファイルや書類が山積みされていた。立っているシエラの身長よりも高い。よくぞあそこまで溜め込んだものだ。


「シエラはそこの管理者に会って、その書類を見せてサインもらうのが仕事ね。今回、管理者は湖の上だから山登りはなし。荷物は最小限で大丈夫。地図はファイルの中に挟んどいた。行けばわかる。考えるの後にして」


 早口で上司が捲し立てる。


「時間がないから急いでローブ着て。リュックにファイル入れたね。お財布持ったね。あと眼鏡首から下げて。フード外さないようにね……じゃ、守り石の魔物。シエラを門まで飛ばして」 


「え? ちょっと待……」


「とにかくまず急いで管理者のとこに行く! 今回は本当に時間がないの。サインもらってからでないとこちらからは干渉できない。詳細はそこに書いてあるから、サインもらってから確認して。とにかく今すぐサインがいる。あ、あそこの場合サイン書くのは配ぐう……」


(……はいぐ?)


 言われるままに荷造りをし、デスクの引き出しに入れておいた眼鏡ケースを取り出して開ける。首からかけられるようにと眼鏡にはチェーンを付けた。眼鏡をかけてチェーンを首の後ろに回して顔を上げた時にはすでに守り石の魔物に飲み込まれた後で、周囲は闇の中だった。


 一瞬にして視界は晴れる。シエラは水辺に立っていた。潮風の匂いではないから、巨大な湖なのだろう。湖岸に木製の古びたドア枠がぽつんと立っている。

 なんだかよくわからないが、急げと言われた。あそこまで切羽詰まった上司は初めて見た。


 シエラは眼鏡をかけて目深にフードを被り、そっとドア枠に手をかけた状態でドア枠を潜って様子を窺う。前回のことがあるから、さすがにもういきなり飛び込んだりはしない。

 門の中は明るい雑木林の中だ。明け方らしく、霧が出ている。人の気配はない。


 改めて門を潜って『森』に入る。フードを外し眼鏡も取って周囲を見渡した後、眼鏡をかけてレンズ越しにもう一度同じ景色を見る。……変化はなし。

 市場ではあまりの人の多さにそんな余裕がなかったのだが、見える範囲で自分の着ているものをしっかり確認しておく。履いているのはよれよれの革靴。足首まである茶色いロングスカート。白いブラウスを着て肩に手編みのショールをかけている。これがこの領域でのごく一般的な女性の服装なのだろう。『針と迷路の森』でびっしりと刺繍が施された服を着ていた市場の人々に比べると随分シンプルな印象だ。


 リュックを置いて黒い皮表紙のファイルを取り出して開き……思わずシエラは顔をしかめた。手書きのものすごく雑な地図が挟んであった。マジックで五分で書いたような代物だ。よたよたのたうった数本の線と、丸で囲まれた『門』と『管理者』と『魔女』の文字があるだけ。

 どうやら本当に急を要する仕事のようだ。


 その雑な地図によると、管理者の元に辿り着くには、門を背に直進すればいい。振り返ると、二本の巨木の間に隠れるようにドア枠が立っている。帰りはここを潜ればいいということだ。

 フードを被り、門を背にしてまっすぐ歩きはじめる。眼鏡を外しているとフードによって視界が狭くなるが、眼鏡をかけるとフードの方が透明になってしまうようだ。普通に空まで見える。


(野良の魔物か……)


 できれば遭遇したくない……が、命の危険を感じることなく終わった仕事はほとんどない。今回のシエラの仕事は管理者にサインをもらうだけのようだが、相手は野良だ。いつどこで出没するのかわからない。


(魔獣の方がまだマシなんだよな……)


 奴らはわかりやすく襲ってくるから、走って逃げて、タイミングを見て守り石の魔物に隠してもらえばいい。

 だが、魔物は違う。上司やジオードと同じ。何を考えているのかわからない分、相手がどう仕掛けてくるのか全く読めない。

 嫌だなと思いながら歩き続けると、目の前に大きな湖が見えて来た。門の外で見たように、湖の中心に島がある。あそこに管理者がいるのだろう。ただ問題は……。


(白鳥さんボートならいけるんだけどなぁ)


 湖の中にまっすぐに伸びる桟橋に、木製の手漕ぎボートがロープで繋がれている。果たしていきなりボートというものは漕げるものなのだろうか。無理な気がする。


 後ろポケットを探って、守り石を取り出す。


「ねぇ守り」


「何かいる。声を出すな。眼鏡はかけていろ」


 小声で守り石の魔物が警告する。慌ててシエラは左手首の腕時計を確認する。いつの間にか文字盤は赤。つまり魔物か魔獣が近くにいる。ぼんやりと考え事をしながら歩いていたので気付かなかった。これでは本末転倒だ。

 シエラは守り石を手の中に握りしめて立ち上がった。


「やあお嬢さん」


 突然声をかけられる。背中がぞわりとした。大丈夫。フードは被っているし眼鏡もかけている。そう簡単には保安官とはバレない筈だ。

 恐る恐る振り返ると、少し離れた場所に、大変見た目の良い若い青年が樹に凭れかかるようにして立っている。飾り気のない白いシャツに黒い長ズボンという服装だ。


「お参りしに島に行きたいんだよね? ボート漕いであげるよ」


 警戒した様子のシエラに頓着することもなく、青年は船着き場に近寄って来る。シエラは慌てて顔を伏せると、手の中の守り石を握りしめた。感じの良い笑みを浮かべていたが……間違いなく彼は魔物だ。肌が泡立つ。『魔物は願いを叶えてからしか対価を受け取れない』というアーラの言葉を心の中で何度も唱えて自らに言い聞かせる。


「そんなに警戒しなくてもいいよ。そうだな……君が持っている何かと交換で良いよ。僕が漕いであの島まで連れて行ってあげる」


 シエラは俯いたまま首を横に振った。


「何? 君声が出ないの? それを治してもらいにあの島に行きたいの? ねぇ、僕が良い薬をあげようか。君の声はきっと出るようになるよ。だから、僕と一緒にあの島に行こう?」


 青年がどんどん近付いてくる。胸の前が熱い。丁度セリアナが魔除けの渦巻きを縫い付けてくれた辺りだ。青年が桟橋の上に一歩進みかけた足を戻し、不快そうに耳に手をやった。


「何だろう。嫌な音がするな。君、聞こえる?」


 シエラはただ首を横に振り続ける。青年はそれ以上シエラに近寄れないようだ。渦巻き模様の魔除けの効果に違いない。


(どうする? どう切り抜ける)


 いつもなら守り石の魔物に隠してもらうのだが、先程声を出すなと言われた。きっと何か理由がある。そうなるともうできることはひとつしかない。正面には魔物。背後は湖。

 覚悟を決めて、シエラはボートに乗る。杭に繋げてあったロープを外すと、ゆっくりとボートが流れ始める。漕ぎ方なんてわからない。だからボートの真ん中に座った状態でオールは武器として構える。近寄ってきたらこれで殴る。


「あーあ、逃げられちゃった。……次を待たなきゃ」


 大して残念そうでもなく青年はそう言って笑うと、幻のように消え失せる。

 腕時計を確認する。赤かった文字盤がオレンジから黄色へ。そして青に戻る。シエラはほっと安堵の息をついた。


「もういいですかね?」


 オールを傍らに置き、手を開いて握りしめていた守り石に向かって尋ねる。強く握りしめていたせいで、すっかり汗ばんでいる。全力疾走した後のように心臓がバクバクいっている。


「……よくやった。これでしばらく時間を稼げる。まさかここまで近くに来ていたとは。ギリギリだったな」


 守り石が割れて、手のひらサイズの守り石の魔物が目の前に出現する。


「あれが野良の魔物ですか。私について来ると言い張ったのは……ひょっとして……」


「あいつだけでは管理者の元に辿り着けない。誰かに連れて行ってもらう必要がある。やたらとお前について行きたがったのはそのせいだ。……あれはここの管理者を喰うつもりでいる」


「……私、結構危なかったんじゃ?」


「言い訳になるが、そんなつもりはなかった。だが結果的にそうなったな。シエラは本当に色々引き寄せる。良いものも悪いものも。その魔除けがなければ危なかった」


 守り石の魔物は心底安堵したような声でそう言った。シエラは石を持っていない方の手で胸の刺繍に触れた。まだ少し温かい。改めて結構危険な状況だったのだと察せられてぞっとする。


「どうしてボートに乗ったら諦めたんだろう?」


「空間を切り離されたからだ。……船をよく見て見ろ」


 そう言われてボートをよく観察する。船べりにはぐるりと孔雀の羽根模様が描かれ、デッキ部分に小さな金属プレートがはめ込まていた。刻まれた文字は……


 『硝子と忘却の森』


 ボートはまるで引き寄せられるかのように、中心の島に向かっていた。

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