6 シエラと針の森
しんっと辺りが静まり返る。
「ああ、辿り着けましたね」
耳に心地よい高い声。目の前で微笑む美しい女性と、その背後に大きな金色の獣。
刻々と色を変える不思議な目をした美しい人は、淡い金色の長い髪を垂らし、白い布に青い糸でびっしりと花の模様を刺繍したスモックドレスを着ている。
彼女が凭れかかって座っているのは、黄金色の長い毛をした細い顔のとても大きな獣だ。獣が伏せていた頭を起こしてこちらを見る。さらさらとした絹糸のような毛の中に、吸い込まれそうな青い瞳が隠れていた。垂れた長い耳の上には鹿のような二本の角。
獣が視線をシエラの足元に落とす。つられるように下を見たシエラは、ぎょっとした。
「ど、土足……すみませんっ」
登山靴の下には緻密で美しい刺繍が施された布があった。ふわっと体が浮く。
「シエラ、これでいい?」
「ありがとうございます。カール君」
どうやらカールが体を浮かせてくれているようだ。シエラは安堵の息をついた。慌てて足元に広がる布を確認する。
「汚れ、汚れは……」
ざっと確認した感じでは泥汚れはついていないように見える。横幅は二メートルはあろうか。縦の長さは振り返らないとわからない。
布の地色がわからないくらい様々な色の糸で複雑な模様が刺繍されている。布を目で辿ってゆくと膝を曲げて座る美女の手許に辿り着く。つまり、彼女が巨大な布に繊細な刺繍を施しているのだ。
彼女は刺繍枠を使わずに刺繍をするようだ。美しい布が膝かけのように足元を隠している。一体……何十年、或いは何百年間刺し続けたのだろうか。茫然としてシエラは金色の髪の美女を見つめる。彼女の瞳の光彩は今は紫から黄色へ移り変わろうとしている。
「大丈夫ですよ。汚れてはおりませんから」
手を休めて、美しい人は、穏やかに微笑む。
そう彼女は言ってくれているが、彼女が長い時間かけて作り上げている作品を、土足で踏んでいたのだ。シエラは悄然として項垂れた。目はどうしても足元の布の汚れを探す。
「……例えそうであったとしても、大切な作品を土足で踏んでしまいました。申し訳ございません」
「踏んじゃいました。すごく綺麗なのに……ごめんなさい」
シエラとカールは揃って謝罪する。
「ふむ。確かに人間だな。不可抗力であろうに。そちらの魔物の子も考え方が人に近いのか」
おかしそうにそういったのは。低く耳に心地よい声だ。驚いて目を上げる。喋っているのは金の獣だ。シエラもだいぶこの世界に慣れた。獣が喋ったくらいでは驚かない。
「自らお声をおかけになるとは珍しいですね」
女性がとても嬉しそうに金の獣にそう言った。
「あまりに落ち込んでいる様子なのでな。彼らは君の大切な作品に敬意を払っている」
「嬉しいです」
瞳の色は黄色から鮮やかな緋色へ。
「カール君、布の外に降りたいです」
シエラがカールに頼むと、二人はふわふわと横移動して、地面に降りた。
足元には乾いた落ち葉が敷き詰められている。深い森の中の開けた場所のようだ。
「ありがとうございます」
そうカールにお礼を言ってから、シエラはフードを外し、眼鏡を外して後ろポケット入れる。目前の世界に変化はない。シエラは美女と金の獣に向かって深く一礼する。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。森林保安協会から来ました、保安官のシエラと申します。こちらは同行者です」
「カルクルスです」
カールもフードを取って、丁寧にお辞儀をした。
「はい。丁寧なご挨拶ありがとうございます。わたくしは、この『針と迷路の森』の管理者のセリアナと申します。後ろにいるのはわたくしの配偶者です。名前は秘密です。例え字であったとしても、この方の名前を呼べるのはわたくしの特権なの……」
セリアナは金の獣の背を撫ぜながら、頬を染めてはにかんだように笑った。金の獣が首を伸ばして、セリアナの頬にキスをする。
(うわぁ……)
何というのか雰囲気が甘い。完全に二人の世界だ。シエラは照れて真っ赤になってしまい。隣のカールはどうしてよいのかわからなかったのだろう。シエラの背に隠れてしまった。
「あ……はい。よろしくお願いいたします」
どきどきしながら、シエラはようやくそれだけ返した。
「ええっと……サイン下さい」
どうしよう顔の熱が引かない。狼狽しながらも肩掛けカバンからファイルとボールペンを取り出す。布を踏まないように気を付けて、シエラはセリアナの元に歩み寄った。ファイルを開いて手渡した時に、彼女の額に揺れるちいさな青い小花に気付く。
セリアナは糸で作られた立体的なちいさな花をいくつも繋げて、花冠のように金色の髪を飾っていた。
「……かわいい」
思わず声に出してしまって、慌てて口を押えた。
セリアナが顔を輝かせる。感情をストレートに表に出すとても素直な人のようだ。
「ありがとう」
「よく似合っているだろう?」
金の獣が穏やかな声でそう言うので、シエラは大きく頷いた。セリアナは頬を染めて俯いてしまう。
「はい。とても……とても素敵です。本当によく似合っていらっしゃいます」
金の髪のあちこちに、青い小花が咲いている。それが優し気な彼女の雰囲気にとても似合っている。金の獣の目の色と同じ青だ。大切な人の色で髪を飾る。とても素敵だなとシエラは思う。
「……奪おうとしない所が……やはり人間だね」
「奪う?」
ぎょっとしてシエラは聞き返した。
「魔物はね、気に入ったものがあるとすぐに奪ってしまうのだよ。私は君と一緒のちいさな子のことは好ましく思っている。でも正直、魔物は嫌いでね。この森には魔除けが仕掛けてあっただろう?」
あの渦巻き模様の風鈴のことかとシエラは頷いた。
「私の大切なセリアナを奪おうとする魔物が多くてね。彼女はとても美しいから」
セリアナは本当に綺麗な人だ。ジオードも女性になると綺麗だが種類が違う。汚れないというか透明感があるというのか……俗世に染まった自分が触れてはいけない存在な気がする。ノジュールが女性になって成長したら、こんな感じになってくれるのだろうか。
サインを終えたセリアナが恥ずかしそうに頬を染めながら、ファイルをシエラに手渡す。幸せそうな彼女を見て、ついつい口元が緩む。
シエラはお礼を言ってファイルを受け取りサインを確認してから、右脇に挟んだ。
「こちらにいらっしゃい」
セリアナが少し離れた場所で立っているカールに手招きをする。しかし、金の獣の言葉を聞いた魔物はためらったように動かない。
「おいで」
金の獣が優しくそう声をかけて、ようやくカールは恐る恐るシエラの横まで来る。不安そうな顔をして、ぎゅっとシエラのローブの袖を掴んだ。
「怖がらなくていいよ。ああ……悪いことをしてしまったね」
金の獣が申し訳なさそうな声を出すから、カールはびっくりした顔をして、首を横に振る。
「ちいさな子を怖がらせてしまったお詫びをしなくては」
「そうですね」
セリアナが傍らに置いてあった藤のバスケットの蓋を開ける。中には色とりどりの刺繍糸や刺繍に必要な道具が詰められていた。彼女はそこから白いハンカチ大の布と刺繍枠を取り出し、布に刺繍枠をはめる。続いてバスケットから糸切狭を取りし、金の獣の毛を少量手に取ってためらいなく鋏を入れた。
「あ!」
と思わずシエラは声に出してしまった。
セリアナが切り取った金の毛にふっと息を吹きかける。ふわりと宙に浮いた細い毛は宙に舞い上がりながら大きく渦を巻く。金色の毛に撚りがかかり、キラキラと輝く金色の糸に変わってゆく。
出来上がった糸を使って、セリアナは白い布に刺繍を始めた。迷いのない針の動きは見入ってしまうほど手早く迷いがない。
シエラとカールが見つめる中で、セリアナは慣れた手付きで金の渦巻きを刺繍する。布の裏で金の糸を縫い目に潜らせて糸始末すると、隣にもうひとつ同じ大きさの渦巻きを刺した。直径は五センチくらいだろうか。
刺繍する姿を見るのは初めてらしいカールが、興味深そうに繊細に動く手許を見ている。あっという間に二つ目の渦巻きが刺し終わる。
「すごいですね」
キラキラした目で、カールがセリアナをみつめた。セリアナはにっこりと笑うと刺繍枠を外して、ハンカチを持ち上げて顔の前に広げた。
「祝福を」
金の獣が低く厳かな声でそう言った途端に……ハンチが白く光り輝き、溶けるように消え失せて、空中に金の糸の渦巻きだけが残った。
金の渦巻きを、セリアナが二人のローブの胸の中心に、縫い付けてくれる。
「人間の中には魔物を狩ることを生業とする者たちがいる。その飾りがあれば、彼らは君たちには手を出さないだろう。でも、魔物を狩ることに楽しみを見出している者たちもいる。そういう人間たちには通じない。ちいさな子よ。十分気をつけなさい」
二人がお礼を言うと、セリアナと金の獣は顔を見合わせて目を細めた。
また二人の世界が出来上がってしまうから、シエラとカールはどこを見て良いのかわからず宙に視線を彷徨わせる。
「……で、では、失礼いたします。ご協力ありがとうございました」
お邪魔虫は早々に消えるべきであろう。しかし、どうやって帰るんだここは。このまま山を下れば帰れるのだろうか。それか、もう一度あの市場に戻らねばならないのだろうか。
「市場にも戻せるが、このまま山を下った方が楽かもしれないね?」
金の獣はセリアナに同意を求める。しかし、彼女は難しい顔をして考え込んだ。瞳の色は緑から金色に移り変わってゆく。どの瞬間も美しい。もう少し見ていたい気がするが……この甘い空気の中にいつまでもいると胸やけを起こしそうな気もする。
「山は人間の足には厳しいです。でも市場はちいさな子に優しくはないでしょう」
「ならば山道を下ります」
シエラは迷うことなくそう答えた。
「ならば急いだ方がいい。じきに日が暮れはじめてしまう」
シエラは周囲を大きく見渡してセリアナに尋ねた。
「市場は麓にあるのですか?」
「市場はこの布の中です。わたくしの世界はこの刺繍そのものなの。わたくしが刺し続ける限りわたくしの森は広がってゆく。彼が私を守り続けてくれる限りは」
桃色の瞳のセリアナが笑って、膝に置かれる布をそっと撫ぜた。金の獣がセリアナの肩に頬ずりをする。セリアナはとても嬉しそうだ。幸せな気持ちは伝染するのかもしれない。胸が温かくなる。とても素敵なご夫婦だなとシエラは思う。この甘々な感じはひょっとして新婚さんなのだろうか。
……ずっとずっと彼らの幸せが続くといい。心の底からそう思った。
「幾久しく幸多かれとお祈り申し上げます」
これで間違っていなかっただろうか。シエラが迷いながらもそう告げた途端、セリアナが笑み崩れた。その言葉を今ここで告げて良かったと思わせてくれるような、本当に幸せそうな笑顔だった。
「ありがとう。とても……とても素敵な言葉ね、そこに込められたあなたの気持ちもとても嬉しいです」
セリアナの瞳が青に変わる。その途端、彼女の纏っているスモックドレスの青い刺繍がほどけ始めた。
「え?」
せっかくの美し刺繍が! とシエラが慌てるが、セリアナは大丈夫よと頷いた。
「この服は、あなたの言葉がとても気に入ったようです。言葉はひとつの魔法なのですよ。使い方によって奪うことも、与えることもできます。あなたの魔法でこの服がどんな風に変わるのか楽しみだわ」
そう言っている間にも刺繍はするするとほどけていってしまう。糸は宙に浮かび上がり、糸玉に巻き取られてゆく。服が自分の意思で姿を変えようとしているらしい……考えてもどうせ理解できない。
「ああ、大きく姿を変えるようですね。少し時間がかかるかもしれません。山を下るのであればお引止めすることはできませんね……あなたがかけた魔法の結果を見に、また会いに来て下さいますか?」
「喜んで」
自分の言葉がセリアナの服にかけたという言葉の魔法。俗世に塗れた自分でも、あの瞬間の気持ちは純粋なものだった……筈だ。大丈夫な……はず。
楽しみなような怖いような、でも、セリアナに似合う服であってくれるといいなと切に願う。
「……では、失礼いたします」
「失礼します」
シエラとカールは夫婦に一礼して踵を返した。
「しばらく北に向かって進むといい。……気を付けて山を下りなさい」
金の獣が優しい声でそう言った。振り返るとセリアナが大きく手を振ってくれているのが見えた。
ぜいぜい言いながら、険しい山道を下る。さすがに人間はいなさそうなので、眼鏡とローブとついでに斜め掛けカバンも……荷物はすべてカールに託した。
しばらく北に進めと言われたので、その通りに進んでいる時は全く問題がなかった。そこから、上司にもらった地図に書かれたルートに向かった途端に……何かがおかしくなった。
手書きの地図に書かれたルートは獣道ですらなかった。近くの木にしがみつき途方に暮れる、ほとんど直角なんじゃないかと思えるような急こう配だ。ここを下れというのである。仕方がないので、目の前の木に向かって大きく足と手を伸ばす。……届かない。うっかり滑ったらどこまでも転がり落ちてゆけそうだ。本当に相変わらずハードな仕事だな。
「ねぇシエラ……」
振り返ると、地図を持った魔物の少年は心配そうな顔で宙に浮いていた。彼もローブを脱いでいる。つなぎを着た少年は可愛いなとシエラは現実逃避する。
「……大丈夫? 浮いた方が楽じゃない?」
「人間なので、落ち着かないんですよ地に足がついてないと。断崖絶壁とか、危なそうな場所はお願いしますね」
「ここ、すでにすごく危ないよ。この地図って……本当に人間用?」
カールが疑わし気な声でそんなことを言う。上司に渡されたのだから、人間用の筈だ。きっと……多分。そういえば考えたことがなかった。
地図は各森に常住している調査員が作成したものだ。シエラは調査員についてほとんど教えられていない。とりあえず森の中にいて、保安官のために地図を作ったり、内部の状況を本部に報告したりするらしい。……あれ? それって諜報活動ではなかろうか。
とにかく、この地図も『針と迷路の森』に住んでいるか潜んでいるかしている調査員が作ったものである。この森は魔物の侵入を快く思っていない様子だったから、きっと調査員は人間だ。ただ、シエラよりはるかに身体能力が優れ、体力がある人なのだろう。山岳救助隊なのかもしれない。このルートは確実に上級者コースだ。クライミングロープも使えないようなシエラには、この地図の通りに下るのはとても無理な気がする。
「もう少し下ったところになんかバツ印があるよ。とりあえずそこまで浮いていかない? ……この地図、絶対人間用じゃないと思う」
「……お願いします」
シエラは素直に諦めた。自分には無理。このままもたもたしていたら日が暮れてしまう。ただ、気になるのがカールの言うバツ印だ。上司がつけたものだろうか。
体が地面から数センチ浮く。こうなるともうシエラは身動きが取れない。どうすれば前に進めるのか全くわからないのだ。滑れないのにローラーブレードやスケート靴を履いた人間状態だ。カール君に手を引っ張ってもらう。
「……酔う」
遊園地によくある、回りながら浮上して上下に大きく動く乗り物に乗っているかのようだ。シエラはあれが苦手だった。三半規管が悲鳴をあげている。背中がぞわぞわする。口元に手を当てて生あくびを繰り返す。
「……もうすぐ、もうすぐだから一気に行くね。ちょっとだけ我慢してね」
手を引いているカールが焦ったように言った。市場の時と完全に立場が逆転している。
水音が聞こえてくる。近くに川があるのだろう。その音を聞いた途端にシエラはなんだかほっとする。
崖下に細い川が流れている。川の中にある巨大な岩の上で誰かが両手を振っている。黒いローブを着てフードを被った……上司だ。
カールと手を繋いで、ゆっくりと降下する。背中がスース―する……酔う。シエラの眉間の皺がさらに深くなった。
ようやく大きな石の上に足がついた瞬間。シエラはへなへなと座り込んだ。
「大丈夫? シエラ。お水飲める? あ、飲むと余計に気持ち悪くなりそう?」
慌ててカールが地図を石の上に置くと。肩から下げていた水筒のコップに水を入れて差し出してくれる。ああ……カールの優しさが身に染みる。この半分でも良いから相手を思いやれる人間でありたい。
「飛ぶって……酔うんですね」
コップを受け取って、シエラは力なくへらりと笑った。
「自分で飛べば多分大丈夫だよ、きっと……」
それはあれか、運転手は車酔いしないというやつなのだろうか。兄は乗り物酔いが酷くて、高校も大学も自転車通学できる範囲で選んだような男だったが、自分で車を運転している時は酔わないと言っていた。そういえば兄はメリーゴーランドでも酔っていた……
「あらあら、今度はシエラが青い顔してるのね」
近付いてきた上司が、シエラの顔を覗き込んでため息をついた。
「この川の上を飛んで行けば、手っ取り早く山が下れるんだけどね……」
まだ飛ぶのか。と、シエラが情けない顔になる。
「……酔うんです」
「……桃の中に入って流れてみる?」
そして、洗濯をしに来たおばあさんに拾ってもらえとでも言うのだろうか。川の水は白い水しぶきを上げ岩にぶつかり渦を巻いている。こんな急流下ったら、岩にぶつかって柔らかい桃なんてすぐにボロボロのぐしゃぐしゃだ。きっと桃太郎の入っていた桃は強化プラスチックでできていたに違いない。気持ち悪すぎて思考回路がおかしくなっている。
「下流まで生きていられる気がしません」
手の中のコップの水を一口飲んでみる。大丈夫そうだったので、ゆっくりとカップ一杯分飲み干して、一息ついた。
「……じゃあ、人間用の地図いる?」
「あるんだったら最初からそっち渡してくださいよ」
やはり人間用ではなかったのかその地図は。シエラは猛然と抗議した。涙目になっていた。
「あんまりここで時間かけるのもどうかと思ったのよ。人間用の道を使って普通に下ると三日くらいかかってしまうから。……もう、しょうがないなぁ。おんぶしてあげるから捕まりなさい」
声が女性から男性へと変わる。背中を向けてしゃがんでくれた広い背中に、シエラは抵抗する気力もなく覆いかぶさった。人間は魔物と違って脆弱なのだ。
上司は立ち上がって岩から降りると、水の上を歩き出した。カールはふよふよ浮きながら、心配そうにシエラの顔を覗き込む。川の水で冷やされた空気が頬に当たって気持ちいい。
「本当に手がかかる子なんだよねぇ。愛情深く育てられていたから……」
つまり甘やかされて育ったと言いたいわけだな。それが当たり前だったから、全く気付いていなかった。そして、この世界にきてからも、随分甘やかされてきたのだ自分は。今回痛感した。
「……優しくされた経験があるから、いつか誰かに同じことを返せる。……悪い方にばかり考えない」
そういうものなのだろうか。きっとそうなのだろう……そういうことにしてしまえ。
(……お腹空いた)
そういえば朝食を食べたきりだ。今は何時だろう。腕時計を確認する気力も湧かない。甘いものが食べたい。
(メロンパンとか)
……メロンパンを食べそこなったなとシエラはふと気付く。
水族館に送ってもらう車の中で、兄が買ってきてくれると言っていたクリーム入りのメロンパン。ショッピングモールの中にあるパン屋さんで、第三土曜日が特売で……
「メロンパン食べたかった……」
「はいはい。ジオード君の記憶が戻ったら頼みなさい。五色の短冊に書いて笹に下げるといいよ」
七夕はそういうイベントではない。五色の短冊は魔除けだ。嫌がらせなのか。
「記憶戻らなかったらどうしよう……」
お腹がすくと心細くなる。ついついそんな言葉がシエラの口から零れ落ちた。すんっと鼻が鳴る。
「それはないから安心しなさい。僕だってノジュールちゃんに忘れられたままなのは耐えられない……シエラ、寝るな」
「眠いです……」
規則正しい揺れが心地良い。安心する。電車に揺られていると眠たくなるような、そんな感じだ。空腹より眠気が勝る。
「寝ると重くなるから本当にやめてくれる? 寝たら川に落とすよ」
上司が脅すように言った。だが眠い。あんな険しい山道を下ろうとしたせいで疲れたのだ。瞼がくっつきそうになる。でも水に落とされるのは嫌だな。そう思ったのに、丁寧に川の中平らな岩の上に座らされた。その隣にカールがちょこんと座る。また水筒を取り出して、カップに水筒の水を満たして手渡してくれる。
「だから重いって。これ以上は対価が高くつくから嫌なんだよ。年間予算オーバーすると上から怒られる」
重い重い言わないで欲しい。こちらは年頃の娘なのだ。
「私が払います」
水をちびちびと飲む。頭がはっきりしてくる。乗り物酔いのような状態からも回復したようだ。でも飛ぶのは嫌だ。上司もカールの隣に腰を下ろした。足の下には水しぶき。
「……寿命尽きるけど?」
上司が真顔で言った。
「やめます」
シエラは引き下がった。シエラの命では支払いきれない対価のようだ。
「……何か、来るよ」
カールが空を見上げて警戒した声を出す。右側の森の上。上空から何かがゆっくりと降下してくるのが見える。
金の獣と……その背に横座りしているのはこの森の管理者であるセリアナだ。目の色はここからはわからない。
セリアナは裾の長い白いドレスを着ていた。金や銀色の糸で花や葉っぱの模様が刺繍されている。袖の先が大きく広がっていて手の先が見えない。頭には円筒形の帽子を乗せて、薄いベールが肩を隠している。金の獣もお揃いの刺繍を施された布で顔の周りや背中を飾っている。見とれてしまうくらいの美しさだ。
「きれい……」
カールが思わずと言った感じで呟いていた。本当にその通りだ。後光がさしている気がする。神々しい。これがシエラがかけた魔法の結果だというのなら……ちょっと出来すぎではなかろうか。
「森の気を乱しております。申し訳ございません」
上司が岩の上に跪いて首を垂れた。
「そこまで遜る必要はないといつも言っておるのになぁ」
金の獣が苦笑する気配がする。
「対価は必要ありません。そちらのお嬢さんから十分すぎる程いただきました。……とても綺麗でしょうこの衣装」
セリアナがバラ色の頬に指先を当てて、恥ずかしそうに小さな声で言う。川風に煽られて、大きな袖とベールが天女の羽衣のようにふわりと舞い上がる。
「勿論衣装も素敵なのですが、お二人が大変お美しいです」
シエラは勢い込んで答えた。上司と守り石の魔物ではないが、写真に撮って残したい。どうして手許にカメラがないのだろうか。
「あなたがくれた言葉は、婚礼の時に送られる言葉だったのですね? だから、この服はこんなに美しい婚礼衣装になったの。……ありがとう。あなたは私の願いを叶えてくれました。ようやく……ようやく本来の姿に戻ることができました」
セリアナの青い瞳からほろほろと涙が零れ落ちる。金の髪に青い瞳の彼女には白い婚礼衣装がとても良く似合っている。
「ここからお帰り。私たちは君たちの旅の無事を心から祈っている。……またおいで」
金の獣は再び浮上し始める。どんどん空へ。そして見えなくなる。
「シエラのお陰でお許しが出たから、一気に帰ろうか」
――上司が指を振れば、世界は変わる。
「幸せでありますように。もうこれ以上、辛い思いをなさいませんように」
『辛い思いをしていませんように。泣いていませんように』
赤い布に、刺繍職人の娘は金の糸でバラを刺してゆく。膝を立てて壁にもたれて座っている。彼女の国では刺繍をするときに刺繍枠を使わない。こうして膝の上に置いて刺す。でも、このシルクの布は、彼女が故郷で刺繍をしてきた布とは手触りが少し違う。
娘の国は美しい毛織物が有名だった。独特なぬめりがある薄く柔らかい布に、刺繍職人たちは何年も何十年もかけて美しい刺繍を施す。そうして出来上がったショールが王族に献上されるのだ。指先がその感触を懐かしがる。
祈りをこめて、一針一針赤い布に刺繍を施してゆく。
目は見えなくなればいい。この衣装が出来上がった時に殺されてしまっても構わない。彼女の帰る国はないし、待っていてくれる人もいない。……もしかしたら、あの柔らかい布を作れる職人はもういないのかもしれない。
でも、それでも、祈りを込めて刺繍をしてゆけば、この布は……きっとあの人を守ってくれるだろう。
故郷の人の顔を思い浮かべ、昔の穏やかな日々を思い出しながら、ただひたすらに手を動かす。
「どうか、どうかあの方が幸せになれますように。穏やかに笑って暮らせますように」
『彼女が幸せになれますように。ずっと穏やかに笑っていられますように』
声に出すのは、言葉は魔法だと昔教えられたから。
窓もない狭い部屋で、ろうそくの明かりがゆらゆらと揺れる。扉の向こうをひっきりなしに人が行き交う気配がするのに、異国の娘はいつも一人ぼっちだ。
「あの方が幸せになれますように」
『彼女が幸せでありますように』
願いはただそれだけ。そのために自分ができるのは、もうこれくらい。赤い婚礼衣装にバラを咲かせてゆく。彼が好きだと言った模様。涙が溢れそうになるから手を止める。婚礼衣装に涙を落として良いのは花嫁だけだ。
幸せを祈る気持ちだけで刺繍をしなければ。……魔が入り込まないように。
涙を払って、気持ちを切り替えて。娘は再び手を動かし始める。見えなくても指先が覚えている。あの人の衣装にも刺したお揃いのバラの模様。
言葉は魔法だ。だからきっと、あの方は幸せになれる。
(言葉は魔法だ。だからきっと、いつかこの手は彼女に届く)
ろうそくの炎が大きく伸び上がって消えて、辺りは真っ暗になってしまう。娘は壁に凭れたまま束の間の眠りに落ちる。
――幾久しく幸多かれとお祈り申し上げます。
どこか遠くから、そんな声が聞こえた気がした。
随分長い間眠っていた気がする。目を開けると、明るい世界の中で、自分を見つめる青い瞳に出会う。
差し出された手を取る。お揃いの白い袖が見える。袖を飾るのは銀色のバラの花の模様だ。柔らかくて軽い、懐かしい肌触りの布。
歓声が上がる。たくさんの人が沿道につめかけている。刺繍がびっしりと施された鮮やかな民族衣装を着た人々。手に持ったバスケットに入っている青い小花を空に投げる。
花嫁と花婿に青い小花が降り注ぐ。婚礼衣装をより華やかに彩る。
「言葉は魔法だ。だから必ず君は幸せになれる」
傍らに立つ大好きな人が、そう言って幸せそうに微笑んでくれるから、それだけで嬉しくて、胸が一杯になる。……そうして気付く。
――長い長い時間がかかったけれど、やっと……やっと彼女の願いは叶ったのだと。