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お姫様と魔物


 むかしむかし――


 とある国に、美しいお姫様がおりました。


 お姫様は三日後に結婚式を控えています。花婿となる男性はもうすぐこの国に到着するようです。お姫様は船に乗って遠い国からやってくる男性を待ちわびながら、部屋でくつろいでいました。


 お姫様は欲しいものを何でも手に入れることができました。美しいドレスも、珍しい宝石も、美味し食事も甘いお菓子も……海の向こうに住む王子様も。背後に控えている侍女に一言告げるだけで、何もかもがすぐさまお姫様の手許に届けられるのです。


 お姫様はすっかりそれが当たり前だと思い込んでおりました。


 もう深夜に近い時間です。しかし、たくさんのランプで照らされたお姫様の部屋は昼間のように明るく、窓から差し込む満月の光をすべて跳ね返していました。

 広い広い部屋の真ん中。お姫様の体と同じ大きさで作られた木彫りの人形が婚礼衣装を身に纏っています。深紅に染められた薄くやわらかなシルクの布に金糸で花の刺繍が施されていました。

 お姫様は寝椅子に横たわりながら、自分の婚礼衣装をうっとりとながめておりました。しかし、突然不機嫌そうな顔つきになって起き上がると、背後に控えていた侍女に言いました。


「ねえ、あそこの部分が寂しいわ。刺繍を足して頂戴」


 婚礼衣装の裾を整えていた娘が弾かれたように顔を上げて、おずおずと侍女に歩み寄ると耳打ちしました。


「どのような模様にいたしましょうか? と申しております」


 侍女はお姫様に向かって尋ねました。


「バラの花が良いわ。袖と同じものを。裾にも一周刺繍しなさい」


 娘の顔色が変わりました。そのバラを刺繍するには三日では足りないのです。

 娘は異国から連れて来られた腕の良い刺繍職人でした。お姫様の婚礼衣裳の刺繍はすべて、海の向こうで暮らしている花婿の衣装とお揃いの柄になるように、彼女が一年かけて刺したものです。毎日毎日寝る間も惜しんで刺繍をしてきたため、酷使した目は、もうぼんやりとしか見えなくなっていました。


 もし刺繍が間に合わなければ罰として自分は殺されてしまうのだろう。娘は悲しそうな顔でお辞儀をすると、刺繍道具を取りに行くため、扉に向かって歩き出しました。


 その時、室内に一陣の風が吹き込みました。


「美しいお姫様。そのお役目、是非ともこの私にお任せください」


 室内に立っていたのは、黒い髪に黒い目をした、どんな女性も一目で心を奪われてしまうような、美しい男性でした。


「私がその婚礼衣装を、あなたの思い通りのものに仕上げてみせましょう」


 聞く者の心を虜にしてしまうような素敵な声で男性はそう言いました。お姫様と侍女は突然の侵入者に大変驚いた様子でしたが、相手の風貌を確認した途端にそんなことはどうでも良くなってしまったようでした。

 お姫様と侍女は、見たこともない程美しい男性を、うっとりと見上げています、


 一方で刺繍職人の娘は、木製の扉の前で座り込んでしまいました。恐ろしさに声も出ません。故郷の民族衣装を着ている娘には、その男が使った人間を誑かす魔法が効かなかったのです。


 こんな風に突然部屋に現れた男が人間の筈がない。間違いなく魔物だと娘は確信していました。

 娘には男性の姿はぼんやりとしか見えません。しかしお姫様と侍女の様子から、彼がとても魅力的な容姿をしているのだろうと想像がつきました。


「美しいお姫様。この婚礼衣装にバラの刺繍を加えたら、褒美として、あなたの持ち物であるそのダイヤモンドの指輪を、私に与えて下さいますか?」


 男は耳に心地よい声で歌うようにそう言いました。それを聞いた途端、刺繍職人の娘はガタガタと震え出しました。

 やはりこの男は魔物なのです。魔物はすべてを奪ってゆく恐ろしい存在だと彼女の国では言い伝えられていました。

 家族を魔物から守るために、娘の国では女性たちが服にびっしりと魔除けの模様を刺繍するのです。今彼女が着ている民族衣装にも、祖母の手によって一針一針丁寧に魔除けの刺繍が施されていました。そのせいで、魔物は娘に近付くことすらできないのでした。


「いいでしょう」


 お姫様は幸せな夢を見ているような顔で頷きました。男が手を伸ばして婚礼衣装に触れた瞬間に、裾にバラの刺繍が浮かび上がりました。


「では、その指輪を褒美にいただきましょう」


 男がそう言うと、お姫様の指から指輪が消え失せました。


「他に何か望むことはありますか?」


「では、裾にもっと刺繍を足しなさい」


「かしこまりました美しいお姫様。褒美として、あなたの持ち物であるドレスを一着私に与えて下さいますか?」


「たくさんあるから好きなものを持ってゆきなさい」


 お姫様は鷹揚に頷きました。すると、ドレスの裾に金のバラがいくつも咲きました。


「他には?」


「後ろの裾をもっと長くして」


 お姫様は機嫌よさげにそう言いました。


「褒美として、あなたの持ち物である宝石をひとつ私に与えて下さいますか?」


「好きなのをあげるわ」


 お姫様がそう答えた途端に、ドレスの裾が部屋の壁に触れそうなほど伸びました。


「裾にもバラの刺繍を」


「では、あなた持ち物であるドレスを、今身に着けているもの以外すべて私に与えて下さいますか?」


「かまわないわ。新しいのを作ればよいだけだもの」


 お姫様は声をあげて笑いました。




 刺繍職人の娘はぼんやりとした視界の中で、どんどんと色を変えてゆく婚礼衣装を茫然と見つめていました。あまりの恐怖に麻痺してしまった心はもう何も感じません。

 お姫様の要求は留まるところを知りません。自分の思い通りの婚礼衣装を作り出すことに夢中になっているのです。

 長く長く床に伸びた裾全体にバラの刺繍が浮かび上がり、袖は小花の刺繍で埋め尽くされました。ドレスの色は赤から黄色へ、黄色から青へ……そして再び赤へ。それに合わせて刺繍の色も変えるようにお姫様は命じます。


「やっぱりドレスの色を金にして」


「では、褒美として、あなたの持ち物である侍女を私に与えて下さいますか?」


「ええ、いいわ。代わりならいくらでもいるもの」


 婚礼衣装の色は金に変わり、侍女の姿が消え失せました。


 気が付けば部屋の中は真っ暗でした。ドレスに宝石、ランプから家具にいたるまで、部屋の中にあったすべてのものを魔物に褒美として与えてしまったからです。

 満月の光が差し込む空っぽの部屋で、寝椅子も褒美に与えてしまったお姫様は、婚礼衣装と向き合うように立っていました。


「刺繍の色を赤に変えて」


「では、褒美としてあなたの持ち物であるこの国の民を私に与えて下さいますか?」


「かまわないわ。私には関係のないことだもの」


 城内がしんっと静まり返りました。お城で働くすべての人が消え失せてしまったのです。刺繍職人の娘はこの国の人間ではありませんでしたから、消えずにこの場に残りました。


「ベールをもっと長くして」


「では、褒美としてあなたの持ち物であるこの国を私に与えてくださいますか?」


「いいわ。この国がなくなったら、あの方の国に行けばいいのだから。……ああ、でも、あの国は今ボロボロね。では、もっと綺麗な他の国に行きましょう」


 刺繍職人の娘が凭れかかっていた扉が消えてしまい、彼女は地に倒れました。激しく背中を打ち付けたのに、もう痛みも何も感じません。

 木々と草が残るだけとなってしまった国で――美しい金色の婚礼衣装が満月の光を浴びてキラキラと輝いていました。


「他には?」


 魔物がお姫様に問いかけます。


「そうね。もう十分かしらね」


 そこでようやくお姫様は満足げに頷きました。男は口の端を吊り上げるようにして笑いました。そしてお姫様をこう唆したのです。


「では、これで最後にいたしましょうか。……この婚礼衣装を着てみますか?」


「そうね、侍女がいないから着せてくれるかしら?」


 心の底から満足げな顔をして、お姫様はそう答えました。しかし、周囲を見渡して困ったように首を傾げたのです。


「でも、もう私の持ち物はなにもないわね」


 そして彼女は、地面に倒れている刺繍職人の娘に気付くと、無邪気に笑って言いました。


「……ああ、あそこにいる娘は私の持ち物ではないけれど、持ってゆくといいわ。私に与えられるのはもうそれだけだから」


「では、褒美としてあの大層美しい娘を私に与えて下さいますか?」


 男はそう言って、刺繍職人の娘を振り返りました。娘を見つめる男の瞳には、恐ろしい程の執着が宿っていました。娘はのろのろと体を起こすと、判決を待つ罪人のような目をして、お姫様を見つめました。


「ええ、かまわ……」


 お姫様はその言葉を最後まで言うことができませんでした。


 娘が最後に見たのは、ゆっくりと地面に倒れてゆくお姫様でした。その胸に突き刺さった金色の何かが、満月の光を反射してぎらりと輝いたようでした。


「彼女は私の民だ。おまえのものではない」


 背後から聞こえて来たのは、冴え冴えとした月の光のような冷たい声でした。


 ――こうして、とても豊かで大きかったお姫様の国は、一晩にして消えてしまったのです。

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