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5 シエラと迷路の森


 夜と洋灯の森から出る。

 久しぶりの昼間の世界だ。振り返ると、切り立った崖の先端に青黒い色をした巨大な額縁が立っている。金色の装飾が施されたとても豪華なものだ。その中にランプに照らされた夜の森が見える。額縁の上部中央に、きらきらと輝く金色の文字で『夜と洋灯の森』と書かれている。シエラの目には日本語で書かれているように見えるが、きっとカールには別の文字に見えていることだろう。


 シエラはリュックを下ろすと、大きな地図を出して地面に広げた。


「今は、ここ」


 西の森の担当区である、大陸の西側を描いた地図だ。いくつも赤いバツ印がつけられている。

 シエラがその一つを指差すと、カールは興味深げに地図を覗き込んできた。


「これ、僕が見ても良いの?」


「許可は取ったから大丈夫です。それに、森は気まぐれに移動するから地図もすぐに変わってしまう。それを調査するのも森保のお仕事なんですよ」 


 同盟を結べば、近付くし、抗争になればどちらかが消えるか離れる。


「ここが蛍石の森で、隣のバツ印が沼の森。この辺りに印が少ないのは、沼の森が吞み込んだり、近くの森が逃げたりしたからです。今はもっと少なくなっているかもしれない。とにかく沼の森の管理者の正体がわからない。森にはいないらしいくて、保安官や調査員が探し回っています」


 地図上に指を滑らせて、極端に印が少ない一部分に円を描く。


「情報が欲しいから、他の保安官にどこかで会えると良いのですが……」


 とはいえ、声は知っているが、姿はわからない。人間の姿かどうかもわからない……

 カールが辛そうな顔をしているので、話を先に進める。今できることをする。そう二人で決めた。


「次に向かうのはここ。針と迷路の森。まずは二人で行動する練習って上司が言ってました。ここの管理者に会ってサインをもらうのが今回の目的です」


 一旦、『夜と洋灯の森』に指を戻してから、斜め上のバツ印を指す。


「多分あの山の上ですね」


 崖の向こうに青く連なる山脈の内のひとつを指差す。次に登るのはあの山。……遠い。ついでに高い。シエラはげんなりとした顔になる。


「ここから飛んで行くのはダメなの?」


 不思議そうな顔をしてカールは尋ねる。


「麓の門までなら大丈夫。でも、門を潜ってからは自力で登らないと辿り着けないんです。それがルール」


 お参りみたいなものだと上司は言っていた。或いは巡礼の旅。

 大陸の西は山岳地帯だから山登りになるが、例えば海の多い辺りだと、ひたすら海底に潜らなければならないし、砂漠だとオアシス求めて彷徨う感じになるのだそうだ。確実に人間は死ぬ。空にある場合もあるらしいのだが、どういう状態で存在しているのか、もう想像もつかない。


 シエラは後ろポケットから守り石を取り出す。ノジュールからシエラの記憶を消したせいで、当然守り石の魔物と上司のことも忘れられてしまった。二体の魔物の落ち込みようは大変なものだった。……でも、やれと言ったのは上司だ。

 後ろポケットから守り石を取り出して手のひらの上に置く。


「守り石の魔物……復活してる?」


「なんだシエラ」


 呼びかけると力ない声がして、石が割れた。目の前にフードを被ったローブを姿の守り石の魔物が現れる。


「……ちっちゃ」


 非常にわかりやすく意気消沈している。守り石の魔物は手のひらサイズにまで縮んでいた。強い風が吹けば簡単に吹き飛ばされてしまいそう……


「……月が重なったら記憶も戻るよ。可愛いドレス今の内に探しとくといい。きっと喜ぶよノジュール」


 こうなったのはシエラばかりが悪い訳ではないと思うのだが、多少の罪悪感があるので慰めておいた。


「わかってる。……で、何だ?」


「『針と迷路の森』の門の前まで運んでくれる? カール君も一緒がいいんだけど。できる?」


 守り石の魔物は、ふよふよとカールの目の前まで移動すると、


「その姿は危ないから、ここからはローブで姿を隠しなさい」


 年長者らしい落ち着いた声音で言った。……久しぶりにまともなことを言っているのを聞いた気がする。

 カールは頷いてリュックを下ろすと、中からローブを取り出して、頭からすっぽりと被った。


「シエラもだ。その姿は目立つからな。フードは外すな、絶対に気を抜くな。おまえは配偶者だから、もう人間よりも魔物に近い。人間の中には魔物を敵視する者も多い。今までのようにはいかない」


 また意味の分からないことを言い始めたぞとシエラは思う。カールの父親がいれば解説してくれるだろうが、生憎ここにはいない。

 今までも人間がいる場所を通る場合は、守り石の魔物と同じローブを着て姿を隠していたが、あまり悪目立ちしないと判断した場合はフードは外していた。これからはそれが許されないということだろうか。


「指輪も絶対に外すな」


 守り石の魔物も、魔女アーラと同じ事を言う。カールまで危険に晒すと言われてしまえば、もう絶対に外す気にはならない。シエラもリュックからローブを取り出して頭から被り、頭の上から靴先までを黒い布で隠した。……怪しい人である。現代日本でこんな格好で歩いていたら確実に通報される。


「……それでいい。手を繋げ」


 言われた通りに、二人は手を繋ぐ。ばさっと小さな魔物はローブの裾を翻した。ローブの下は空っぽの闇だ。その闇が伸びあがって二人に覆い被さってきた。


 再び視界が明るくなる。

 最初に見えたのは見渡す限りの草原だった。二人の目の前には大きな石を積み上げて作られたアーチがある。アーチの奥には、これから登ることになる緑の山。


「じゃあ、行きましょう」


 シエラとカールは躊躇いなく石のアーチを潜った。


 突然耳元で弾けるような笑い声。反射的に両手で耳を塞ぐ。いきなり出現した二人組に驚いて目の前の女性がしりもちをつく。シエラは慌てて周囲を見渡す。人が多い。店が立ち並んでいる。市場だろうか。振り返ったシエラ目の前にいた男性の口が、スローモーションのようにゆっくり大きく開かれる。


(まずいっ)


「カール君、手を」


 耳から手を離し、慌ててカールの手を掴んで走り出す。背後で響き渡った男性の叫び声。カールを引っ張りながら人の間を縫うようにして走る。

 やはり市場だ。目は必死に身を潜められそうな場所を探す。

 休業中らしき店の横に、太い柱が立っているのが見えた。カールの手を引いて、壁と柱の隙間に身を滑り込ませる。息を切らしながらしばらく身を固くして警戒していたが、どうやら追って来る者はいないようだ。


「いきなりこれは……」


「びっくりした……」


 息を整えながら、シエラとカールは顔を見合わせる。門を潜った途端人間のいる場所に出るというのは初めてのパターンだ。草原とか森の中の場合が多い。一度川の中に出て流されたことはあった。


「私、こんなに人が多いとこに来たの初めてです」


 柱に背を預けて、シエラは大きく息を吐くと左手で心臓を押さえた。本当に肝が冷えた。

 保安官になってから、何度か山登りの途中で人里のような場所は通ったが、どこも寂れた田舎町といった感じだった。そして、街の住人は歩いているシエラの事を気にも留めない様子だった。言葉が通じないからコミュニケーションを取る手段がない。シエラはいつも通り過ぎるだけだった。


「僕も。こんなにたくさんの人間を見るのは初めて」


 カールもあまりの人の多さに衝撃を受けているようだ。


 柱の陰から顔だけを出して周囲を見渡す。

 頭上高くに、美しい模様が描かれた天井がある。通路の幅は三メートルくらいだろうか。両端にちいさな店が隙間なく並んでいる。バザールという言葉がぴったりとくるような雰囲気だ。

 山積みにされた野菜や果物。吊り下げられた干し肉。巨大な寸胴鍋から柄杓でスープをすくって売っている店もある。その隣は香辛料を売っているのだろうか。様々な色の粉が山に盛られていた。この辺りは食料品を売るエリアのようだ。商品は通路を侵食し、何もかもが雪崩れそうに積み上げられている。


 呼び込みの声や怒声や笑い声に混ざって、チリン……チリン……と涼し気な音がなり続けていた。建物の中で音が反響しうねっている。相当騒がしい。頭に響く。


 市場を行き交う女性たちは頭に布を巻いて、丈の長いスカートを履いている。男性たちは立ち襟のシャツに、裾のゆったりしたズボン。シエラよりずっと背が高く、彫りの深い顔をした人々。男性たちも、女性と同じように布で頭部を覆っているが、こちらの布は落ち着いた色味のものが多い。衣装にも頭に巻いた布にも、様々な柄の刺繍がびっしりと施されている。花の模様や、幾何学模様。動物の柄……


「とりあえず、市場を抜けましょう」


 人が多すぎる。嗅ぎなれない匂いで気分が悪くなりそうだ。


 ポケットからコンパスを取り出す。針は全部で三つ。それぞれてんでバラバラの場所を指している。北を指す赤い針と、管理者のいる方角を指す緑色の針。そして、カールの母親がいる方角を指す細い金の針。今進むべきは、緑の針が指す方向だ。緑の針は真上を指しているからこのまま通路に沿って直進すればいい。念のために、コンパスを回して赤い針先を北のマークを合わせる。そうすると、緑の針が指しているのは東北東。


「とりあえず進んでみます」


 カールと手を繋いで、コンパスを手の上に置いたまま歩き始める。先に進むにつれて人の量が増えてゆく。リュックや肩がぶつかり合うが、市場の利用者にとっては日常茶飯事のことのようで誰も気にも留めない。目の前には十字路。シエラは脇目もふらずにまっすぐ前に進む。聞き取れない言語。甘いような苦いような匂い。


 食料品を扱うエリアを抜けると、今度は日用品を取り扱う店が立ち並ぶ。古着を扱う店には鮮やかな刺繍の服が、アクセサリーを扱う店には、シエラの頭より遥かに高い位置からビーズの首飾りが束ねられ吊り下げられている。陶器の皿を扱う店は、壁中にカラフルな皿を飾っていた。あれは売り物なのだろうか? それとも飾り?

 どの店も、店先に蚊取り線香のような渦巻き模様の風鈴を下げている。金色の金属でできているようだ。チリン……チリン……という音はあそこからか。一度気になると、耳に絡みついてくるようで振り払えない。……終わりが見えない。こっちに出口はあるのだろうか?


「……出口どこだ?」


 シエラは焦り始める。ちらりとコンパスを確認する。先程緑の針は真上を指していたのに、いつの間にか左下を指している。


「シエラ……」


 カールが絞り出すような苦し気な声を出す。その時シエラはやっと気付いた。背の低い彼には、周囲の大人の体しか見えないだろう。自分がこれだけ息苦しいのだ、小柄な少年にはもっと辛い筈だ。


「カール君、そこに抜けます」


 酒樽にお茶のようなものを入れて量り売りをしている店の奥に、立ち止まれそうなスペースがあった。行き交う人に体当たりして空間をこじ開けるようにして道を作る。カールの手を引いて、何とかそこまで二人で辿り着く。 


「大丈夫? 気付かなくてごめんなさい。気分悪いですよね」 


 酒樽の陰にしゃがみ込んでカールの顔を覗き込む。フードは外せないから顔色までは確認できない。


「大丈夫。シエラは大丈夫?」


「私が大丈夫じゃないから、カールくんはもっと大丈夫じゃない筈です。本当にごめんなさい」


 カールが慌てて首を横に振る。本当に我慢強い子だ。申し訳なさと後悔で胸が苦しくなる。


「少しここで休憩しましょう。多分このまま進んでも外には出られない」


 リュックから水筒を取り出してカールに手渡す。ようやく人心地ついて、二人は目の前の人の流れを見つめた。よくあの中から抜け出せたなと思うくらいの密度だ。


 その時、ふと気付いた。


「ねぇ、カール君。カール君の目には私はどういう風に見えていますか?」


 シエラは床に置いたリュックの中から手のひらサイズの二つ折りの鏡を取り出す。鏡を開いて確認すると、そこに映るシエラはフードを被って顔を隠した女だ。


「うーん……どう説明すればいいかな。僕には、シエラはいつものシエラとは全然違う人に見える。ここにいる人と同じような服を着て、顔もここの人たちと同じような感じ」


 カールが困惑した顔でそう告げる。疲れているのが、声に力がない。

 やはりそうなのか、とシエラは愕然とした。今まで考えたことがなかったのだ。このフードの意味を。


「そっか……はい、鏡。自分はどう?」


「鏡にはローブ姿しか映らないよ。だから気をつけないと」


 当然のようにカールはそう言ってから、はっとしたようにシエラを見上げた。


「そうか、シエラには、見えないのか! 多分僕もいつもの姿とは全然違ってる筈だよ。顔も服もここの人たちの中に普通に紛れ込めるようになってる」


 シエラにはカールがフードを被ってローブを着た少年にしか見えない。


「……フード外すなってこういうことなんだね」


 茫然とシエラは呟いた。ようやく魔物たちがフードで顔を隠す理由がわかった。人間には別の姿を見せているのだろう。……でも、保安官のシエラにはその姿を見ることができない。


「ローブの意味を知らなかったの?」


「……誰も教えてくれなかったんですよ」


 シエラは情けない声で言い訳する。


「……じゃあ、カール君の目の前に何がありますか?」


「そっか……そうなると、シエラと僕の見えているものが同じとは限らないんだね」


 カールはそう言って、ほんの少しだけフードを上げて、前方を見渡した。


「僕には、市場が見える。人がとても多い。あっちの店は野菜とか果物みたいなものを売ってる」


 カールが左側の店を指差した。その店は商品陳列用の平台に、野菜や果物を零れ落ちそうなくらい積み上げて売っている。シエラが現代日本で食べていたのと同じ見た目のものもあるが、口に入れるのは躊躇われるような毒々しい色味のものもたくさん並んでいる。……多分カールと同じものが見えている。


「今通って来た道は、カール君の目で見てもまっすぐ?」


「まっすぐだよ」


 手の中のコンパスを確認する。赤い針先は北のマークの付近を指したままだ。

 通路が微妙なカーブを描いていたという訳でもないのか。


 ちょっと厄介な場所と上司は言ったが、やはり魔物のちょっとはあてにならない。

 ここで立ち止まっていても管理者の元に辿り着けないが、あの人波の中に無計画に突っ込む訳にもいかない。……どうするか。 


「お嬢さんたちお茶でもどう?」


 朗らかな声は頭上から降って来た。驚いて顔を上げる。目の前に黒くて細いフレームの眼鏡があった。レンズの向こうには笑顔の女性。でも、レンズを通さない景色の中には、シエラと同じローブを着てフードで顔を隠した……上司。


「やっぱり迷ったわね」


 上司は女性の声でそう言った。


「……わかってるなら、先に教えといてくださいよ」


 安堵のあまりシエラは泣きそうになる。 


「先入観を持つと危ないのよ。実際体験した方がいいの」


「シエラ?」


 カールが怯えた声を出して、シエラのローブを両手で握った。


「上司です。前会った時は男の声でしたけど、女性の時もあるんです」


 カールには上司が、きっとこのレンズ越しの姿に見えている。カールが警戒を解いて握っていたローブを離した。


「はい、シエラ、眼鏡。かけてみて」


 上司から眼鏡を受け取りかけてみる。目の前には見知らぬ女性が立っている。派手な刺繍の服を着て、頭を布で隠している。市場を行き交う人々の中に紛れても全く違和感のない容姿だ。


「こういうものがあるなら最初からですね」


 シエラが眼鏡を外して、眉間に皺を寄せて文句を言うが、上司は全く取り合わない。


「だから、経験して理解してからじゃないと危ないのよ。自分の目についてはわかった?」


「何となく」


「見えていないといけないものが見えないというのも、危険なの。でも、隠されたものを暴く力は貴重なのよね。この世界は嘘と偽物とごまかしでできているの。何が見えて何が見えないかはもう経験するしかないのよ。……カール君もシエラの目について少しは理解できたかしら」


 嘘と偽物とごまかしって……本物はないってことではないか。真実はどこにあるのだろう……ひとつもないのだろうか。上司に聞いても訳がわからない答えが返ってくるに決まっている。今度フリュオリネに会ったら聞いてみよう。


「はい」


 カール君はあの説明で理解できてしまったようだ。やっぱり魔物の感覚はわからない。


「カール君が理解できたなら上出来ね」


 端からシエラが理解できるとは思われていなかったらしい。バカにされている訳ではないと知っているが、落ち込む。


「さて、カール君が疲れてるみたいだから、今回だけは特別よ」


 眼鏡のレンズを通してみる上司は、にっこり笑ってウィンクをする。すいっと彼女が指を振れば、世界は変わる。


 目の前には中学生時代に時折お世話になった保健室。消毒薬の匂いがする白い空間だ。

 白いカーテンで仕切られれる白いベッドが四つある。これもシエラの記憶から作り出されたものだろう。眼鏡を外しても景色は何も変わらない。では、嘘と偽物とごまかしの違いとは何なのだろうか。謎は深まるばかりだ。


「横になりなさい。カール君、我慢のしすぎはダメ。無理なら無理と言わないと」


「……はい」


 しょんぼりとした顔でカールが頷く。ローブを脱いだカールは真っ青な顔をしていた。ここまでなるまで彼は我慢していたのだ。白いベッドに横たわるカールに、上司が布団をかけてから、そっとカーテンを閉めた。

 シエラは隣のベッドに座るように促され、ベッド脇に置かれた丸椅子に上司が腰を下ろした。上司は相変わらず何者か全くわからない黒いローブ姿だ。

 シエラ力なく項垂れて、手の中の眼鏡をぼんやりと見つめる。

 

「シエラ……もう少しカール君のことを注意して見なさい。彼はあなたより子供なの。身長が違うから、視界には人の足しか見えないし、人いきれで苦しかった筈なの。でもあなたは気付いてあげられなかったわね?」


「……はい」


 シエラは素直に頷く。シエラは今まで小さい子供と接する機会があまりなかった。兄はいるが弟や妹はいない。勝手がわからなかった。でも、それは言い訳でしかない。……きちんとカールを気遣っていればすぐにわかることだ。今までいかに自分本位で生きて来たのか思い知らされた。


「あの子はご両親のことで必死だわ。無理をしているようなら、あなたが気付いて止めないといけなかったのよ」


「……」


 返す言葉が何もみつからない。涙目になりながら、自己嫌悪でどんどん小さくなってゆくシエラを見て、上司はため息をついた。


「……まぁ、いきなり意識を変えろといっても無理だとは思うの。こうなることは想定内。練習だと言ったでしょう? 世界の見え方すら二人には違うの。これから一緒に旅をする中で、お互いのことを少しずつ理解していきなさいね。カール君はとても優しい子よ。彼の心は人のそれに近い。……だから、あなたに必要だったものが何か、わかるわね?」


 シエラの肩をポンと叩いて、フードの中の赤い唇がにっこりと笑った。


「これでお説教はお終い。手助けもここまで。シエラも少し横になりなさい。カール君が回復したら、門からやり直し。ちょっと厄介なところだと言ったでしょう? 迷うと体力ゴリゴリ削られるわよ~」



 


 目を閉じる。瞼の裏にはクラゲ。ふわふわとゆらゆらと気ままに漂う半透明の美しく怖い生き物。


 世界の見え方すら違った筈なのに……そんなこと気付かせもしなかった。


 ――読まないとわからないから。


 ジオードはそう言っていた。でもきっとそれだけではない。 

 だって、シエラは例えクラゲの気持ちがわかったとしても。クラゲの望むようには行動できない。


 傷つけないように、戸惑わせないように、彼はどれ程真剣にシエラのことを見ていたのだろう。


 ベッドに横たわり手の甲で目を隠す。


(ほら、全然平気じゃない……)


 寂しくて苦しくて、胸が張り裂けそうだ。

 本当に大切にしてもらっていた。それに甘えているばかりだった。離れて気付かされる。


 自分は全然優しい人間じゃなかった。自分よりずっと小さい子に気遣われてあそこまで我慢させて……それに全く気付かないまま自分勝手に行動した。


 唇を噛みしめて嗚咽を堪える。人としての未熟さを目の前に突き付けられるのは、痛くて辛い。

 何もかも投げ捨てて晶洞の森に逃げ帰ってしまいたくなる。でも今戻ってもジオードはシエラのことを覚えていない。


 ――だから、最初からやらなきゃよかったんだ。


 記憶の中の声が呆れたようにそう言う。きっと、彼は今のシエラを見たらそう言って困ったように笑ったのだろう。


 声を思い出すだけで泣きたくなる。

 恋とはこんなにも……心の痛みをもたらすものなのか。


 右手で左指の指輪に触れる。冷たくてかたい指輪。もう左手の薬指と一体化していて、嵌めているのを時々忘れてしまう。だから右手の人差し指でなぞって確かめる。

 触れていると気持ちが落ち着いてくる。瞼の裏でクラゲが優雅に泳いでいる……


 自分は、ジオードのように出来るだろうか。


 シエラはカールの心は読めない。でも。カールの心は人に近いのだから……シエラに足りなかったのは気遣いと思いやりだ。


(……カールくんがあんな風に我慢しなくてもいいように、ちゃんと辛いときには辛いって言ってもらえるような人になりたい)


 クラゲに向かって心の中でそう告げる。自分に言い聞かせるために、何度も、何度も。だんだんクラゲの姿が遠ざかる。


 起きたら……さあ、最初からやり直し。




「さて、二回目です」


 シエラはレンズ越しに草原の中にぽつりと立つ石のアーチを見上げて、重々しく言った。


「二回目だね」


 カール君も決意を込めた目をして頷く。リュックの中身はほぼすべて必要ないとわかったので、守り石の魔物に預かってもらった。相変わらず手のひらサイズだった守り石の魔物は、ものすごく吸引力のある掃除機のように、二人のリュックをフードの中に飲み込んだ。一体彼の体の構造はどうなっているのだろう……


 カールは二人分の水筒をお腹の前に下げているだけ。シエラは両手が使えるように、サインをもらうのに必要なファイルと筆記具を入れただけのカバンを斜め掛けにしている。一回目と異なり随分身軽だ。


 今ならわかる。いきなり二人で飛び込まずに、まず門の中の様子を窺うべきだったのだと。

 シエラと手を繋いだ状態で、カールだけが体半分だけ門を潜る。肩から腕だけを残して少年の姿が消える。すぐにシエラは手を引っ張り、カールの体を門の外に引っ張りだした。


「一回目と多分一緒。市場に繋がってる」


 カールの報告を聞いた後、シエラはしゃがみ込んで、カールと目の高さを同じにする。


「あのね、カール君、お願いがあります」


 眼鏡をかけていても、まだカールの姿はフードで顔を隠した少年だ。門を潜るときっと変わるのだろう。


「私はわからないことが多すぎるんです。この世界のことはほとんど知らない。だから気付いたことは何でも教えて下さい」


「ぼくもあまり、他の森のことは知らない。でも、ぼくが当たり前だと思っていることを、シエラは知らないかもしれないんだね?」


「うん。このまま突入しても、きっと一回目と同じことになります。カール君、なんか気になったことはありませんか?」


 カールはちょっと考え込むような仕草をした。


「僕、あの音が嫌。どこからか聞こえてくる、金属がぶつかるような音? 何かあれ聞いていると頭が痛くなって……」


 店の前に必ず吊り下げられていた渦巻きの風鈴のことだろう。あの音は確かに一度気になると纏わりついてくるような嫌な感じがした。あの風鈴のようなものは何だったのだろう。形からすると毎年夏に登場する蚊除け……ではなくて、


「魔除け?」


「あ……」


 そうだ、きっとあれは魔除けだ。渦巻きは『目』にも見える。目は古代から魔除けのモチーフだった筈だ。

 カールは魔物だ。シエラも配偶者になったから魔物に近いと守り石の魔物は言っていなかったか。確かに人にとっては、災厄のもたらす類の魔物は招かれざる客人だろう。


「それがわかっても、対処の仕様がない……」


 シエラはがっくりと肩を落とす。上司の言っていた「迷うと体力ゴリゴリ削られるわよー」とはこういうことか。


「一刻も早く迷路を抜けろということですね……」


 ここは『針と迷路の森』。市場の迷路を抜けなければ管理者の元に辿り着けないのだろう。


 右手の手のひらに乗せたコンパスを確認する。緑の針は確かにアーチの方向を指している。カールがコンパスを覗き込もうとするから、シエラは彼に手渡した。カールはコンパスをくるくる手の中で回して針を揺らしている。


「ねぇシエラ、一回目って、緑の針が指す方向にまっすぐ進んだんだよね」


「そうなんですけど、次に見たらかなりズレていました。道がこちらが気付かないくらいカーブしてて、少しずつずらされている感じかと思ったんだけど……」


「結構大きくずれたの?」


「……そうですね。それでは説明つかないくらいずれましたね」


 シエラの眉間に皺が寄る。道がカーブしているなら、赤い針がずっと動かないのはおかしい。


「ねえシエラ、これって、管理者のすむ場所を指すの? それとも管理者をそのものを指すの?」


 ぽつりとカールが言った。声に出してから何かに気付いたように顔を上げる。


「管理者を指しているなら、相手が動いてたら針も動くよ」


 はっとして二人は顔を見合わせる。


「市場の中を移動していたりとかですね?」


「そう。例えば近くの店の中にいたりすると、僕たちが前を通り過ぎただけで針は動くと思う」


「そうか、管理者は山の上にいるものだと私が勝手に思い込んでいたから……」

 

 ――管理者は市場の中を彷徨っているのかもしれない。


 気付いてしまえば簡単なことだ。先入観が邪魔をした。

 今までシエラが尋ねた管理者たちはすべて高い山の上にいた。だから今回も山を登るのだと勝手に思い込んでいた。

 この森は、何もかもが今までとは違う。『練習』と上司は言ったのだ。

 シエラは新人保安官だ。しかも脆弱な人間だ。簡単な仕事しかさせてもらっていない。言うなれば初心者コースを回っていた。きっとここは中級者コース。今までと同じようにはいかない。


「カール君、コンパス持っていてくれますか? 北のマークを上にして持って、緑の針の先が指す数字を教えてください。今は北のマークを指していますよね。門を潜ると動くはずです。緑の針と数字以外は全部無視して下さいね。私の方が背が高いので、カール君を他の人から守ります」


 シエラの言葉に、カールが力強く頷く。


「……行きましょう」


 二回目なので、カール君と手を繋いで、周囲を警戒しながら門を潜り、まるで隣の店から出て来たかのようにさりげなく人波に紛れる。この辺りはまだ身動きが取れる。チリンチリンという魔除けの音がする。カール君が気分が悪くなる前に、早くこの迷路を抜けなければ。


「シエラ、緑の針は三百を指してる」


 つまり進むべきは西北西方向か。左斜め前。


「わかりました。北のマークを上にしたままで持っていて下さいね」


 コンパスを見ながら前を歩くカールの肩に手を置いて、周囲を警戒しながらしながらシエラは進む。カールが通行人にぶつかりそうな場合は抱きしめて守る。


「次の四辻を左に曲がります。曲がってから数字を見て下さい。顔を上げて、曲がりますよ。北のマークを必ず上に」


 左折した先にも市場が続く。まだそれほど人は多くない。前方から勢いよく歩いてきた男性とカールの間に体を捻じ込む。相手はシエラの背中に激しくぶつかるが、気にかける様子もなく行き過ぎる。


「今二十辺りを指してる。あ、四十で止まったよ」


 北東方面。つまり右前方。管理者は移動していない。


「次の三叉路を右に入ります。大丈夫ですか?」


 周囲を大きく見回す。昨日歩いた時は、こんなに通路が複雑に交差している様子はなかった。

 徐々に人が増えてきている。周囲の店では食料品が売られている。呼び込みの声に混ざって、魔除けの風鈴の音がする。


「集中してれば大丈夫」


「顔を上げて下さい。しばらく道なりなので」


 体に纏わりついてくるような風鈴の音を振り払うように進む。三叉路を右へ。これでまた針は動く筈だ。

 明かりが消えた店を見つけてその前で立ち止まる。手編みの手袋や靴下を売る店のようだ。天井から色とりどりのカセ糸が吊り下げられていて、店内の商品棚は靴下や手袋で隙間なく埋め尽くされていた。店の前にはロープが張られているから、きっと休憩中なのだろう。


 二人でコンパスを確認する。緑の針が指すのは真上にある北のマーク。つまり直進すればいい。

 この辺りは四方から来た人波が合流する場所なのか、一気に人の量が増えた。シエラはカールの背後に回ると、肩を抱きかかえるようにして、少年のちいさな体を守りながら歩く。


「あ、動きそう。三百四十……三百。あ、西を指したよ。え、まだ動く。二百六十……二百四十?」


「通り過ぎましたね。それか相手が移動している。戻ります。カール君、左の店に入りますよ」


 人だかりができている店の前で立ち止まる。平台に木箱を並べ、様々な種類の豆や穀物をザルですくって量り売りをしている。頭上で風鈴の音。頭に響く。急がねばならない。


「Uターンします。コンパスは北のマークを上のままでお願いしますね」


「今。……二十だよ。四十の方に向かって動き出した」


「カール君顔を上げて。ここからは下を見ていると危ないです」


 容赦なくぶつかってくる買い物客を避けながら、店の前すれすれを移動する。


「今八十だから、もうすぐ東の位置。……この辺りの店の中にいるってことだね」


 ……そろそろ右横にいるはずだ。一体どの店だ?


 鼻が曲がりそうな匂いを放つ乾物が詰め込まれた木箱の間をすり抜け、両手を挙げて大声で呼び込みをしている男性の脇を通り過ぎる。軒先にぶら下げられている鍋に頭をぶつけそうになる。


「今丁度緑の針は東を指してる……この店のはずだよ」


 すぐ横は食器を売る店。鮮やかな花の模様が描かれたカップが並べられている。……おかしい。先程通った時には、この辺りは食料品を売る店ばかりが並んでいた筈だ。振り返ると、乾物屋は金物屋に変わっている。前に向き直ると隣の食器屋はスカーフを売る店に変わっていた。洗濯物のように吊り下げられたスカーフ。美しい刺繍をびっしりと施された布の縁には、可愛らしい花のモチーフが揺れている。


「……あ、動き出した」


 シエラたちの目の前、スカーフを売る店から出て来た男性は、手に革表紙の薄い本のようなものを持っている。彼は左隣の店の前に立っていた男に本を手渡すと、踵を返して自分の店に戻ってきた。隣はつる籠を店中に吊り下げて売っている店だ。本を受け取った男は胸ポケットからペンを取り出し、本を開いて何かを書き込むと、そのまま隣の店へ歩いて行く。 


(回覧板?)


「あ……また南に向かって動く」


「その回覧板です!」


 シエラは大声で叫んだ。その声に驚いた数人がシエラを振り返るが構っていられない。シエラは籠を売る店の前を通り過ぎ、隣の店に駆け込む。ちいさなガラスの香水瓶を棚にぎっしりと並べて売っている店。若い女性客が多い。


 店主らしき中年女性に手渡される回覧板。その表紙には鮮やかな花のフレームの中に森の絵。下の部分に金の文字で書かれた文字は……


『針と迷路の森』


「みつけた!」


 シエラはカールの手をしっかり握りなおすと、反対側の手を伸ばして革表紙に触れた。

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