4 シエラと旅立ちの時
ここは空から水が降らない。だから、住居は美しい布でできている。天井も壁もすべてが、複雑な文様を織り込まれた薄い布だ。幾重にも重なり風に揺れている。
ノジュールの嫌いな夜が長く続く森。しかし、木々には色硝子のランプが大量に吊り下げられているから、周囲は明け方のようにぼんやりと明るい。
大きな天幕の中。室内の至る所に吊り下げられた丸いランプ。色とりどりのガラスをとおって来た光が白い床で回る。目の前のテーブルと、その上にあるシエラの手を染める……落ち着きのない子供が回す万華鏡のように。左手の薬指を横切ったのは、一際明るいオレンジの光。
煙のにおい。そして、遠くから流れて来る香ばしく肉が焼けるにおい。誰かがリュートを爪弾いている。
――ここは夜と洋灯の森。統治者は、羊の目を持つ魔女アーラ。
「たましいとからだが分離しているね。たましいは別の姿を取らされている。金の鎖で繋がれた翼がある生き物だ。彼女は戻りたがっているが、鎖のせいで逃げ出せない。たましいが現在の姿に引きずられている。記憶が薄れてきている。……少し急いだほうがいいかもしれない。場所は……海が見える。金の額縁と海。人魚たちが見える」
砂の入った銀の甕を、白く綺麗な指がサラサラとかき混ぜる。気だるげな魔女はテーブルにだらしなく頬杖をついて。空いた手で砂をかき混ぜテーブルの上に零す。
魔女が頭からかぶっている紗の布も、零れる砂も、ランプの光で色とりどりに染め上げられている。目が回りそうだ。
シエラの横に座る十歳くらいの少年が、どこを見て良いのかわからないというように、落ち着きなく青い瞳を揺らしている。灰色のカソック風の服。頭にまだ角はない。
「私にみえるのは、いまはそのくらいだ」
「ああ……大体見当がつきました。ありがとうございます」
「では、対価としてまた血をもらうよ」
ほとんど透明に近いような薄い布が、隠しているようで隠していないうつくしい顔。紫の口紅を塗った口許がゆるやかな孤を描く。
「ええ」
シエラは手許に置いてあった細い銀のナイフで、躊躇いなく左手の人差し指の先に傷をつける。ぽってりとしたガラスのタンブラーの上で指を傾けると、彼女の血は赤い砂となって細く流れ落ちた。砂時計の砂が落ちるように。
「シエラっ」
その行動に焦ったのは少年だ。顔色を変える。
「大丈夫ですよ。そんな大量ではないので死にませんから。ただ、この後ちょっと休ませてくださいね。貧血状態にはなるので」
赤い砂が溜まってゆく。その量に、少年はますます顔色を悪くする。
「僕も……」
真っ青な顔をした少年の口を、シエラは慌てて右手で塞ぐ。
「ダメですっ。それ以上口にしてはダメです」
魔女がおっとりと笑った。
「そうだよ。口にしてしまったら現実になるからね。魔女は恐ろしいものだ。絶対に自分から対価を払うなどとは言ってはいけないよ。下手をしたらたましいを取られてしまうからね。魔女に先に対価を提示させるんだよ。それに納得できるのなら願いを言うんだ。でも、その願いが叶えられても叶えられなても、対価は必ず払わねばならない。悪い魔女もいる。気をつけな」
少年は真剣な目で頷いた。ガラスのタンブラーが赤い砂で満たされると、シエラは指を戻し、先程指先に傷をつけたナイフの腹で傷を押さえる。ナイフを外すと傷はきれいに塞がり消えていた。血をうしなったせいで、少しめまいがする。
「……ああ、でもそうだね。魔女が絡んでいるかもしれないねぇ。少年、対価を払う覚悟はあるかい? これ以上はシエラには酷だ」
「……なにを払えば、なにを得られるの?」
「……上出来だ。さすがは蛍石の息子だね」
「お知り合いですか?」
「彼は長いからね。会合で何度か顔を合わせている。……いい統治者だ。消えるのはあまりに惜しいね」
「父上は消えない。僕が必ず母上を助けるから」
少年は魔女をまっすぐ見て決意を込めた声で宣言する。
「ああ、良い目をしているね。おまえはお守りとして父親から色々もらったね。そのひとつと交換に、母親が誰に謀られたのか見てみようか」
「わかった。これでいい?」
少年は床に置いたリュックの中をゴソゴソと漁り、ちいさなきんちゃく袋を出す。その中身をテーブルの上に広げて見せた。大小入り混じった蛍石の結晶。八面体のものもそうでないものも入り混じり、色も様々だ。
「ひとつで十分だね」
魔女がその中の一つを指差すと、少年は頷き、残りを袋にしまった。
魔女は立ち上がって、真上に吊り下げられていた赤いランプを外してテーブルの上に置く。彼女が宙を指先で摘まむ仕草をすると、赤いカードが一枚出現する。彼女はそれをランプの火にくべた。赤い煙が上がる。煙はまるで意思を持つように直角に折れ曲がり、部屋をまっすぐに横切って外に流れ出てゆく。
「このカードは前回シエラからもらった対価で作ったものだ。少し待とうか。……シエラ辛そうだね。そこで横になりな」
「すみません。そうさせてもらいます」
立ち上がろうとしてふらついたシエラを、慌てて少年が支えようと手を差し出した。父親に似て優しい子だ。彼に手を引かれて、シエラは天幕の端に用意されていた長椅子の上に体を横たえた。
「大丈夫? シエラ」
不安げで心配そうな顔が覗き込んでいる。
「少し休めば大丈夫ですよ。カール君。少し目を閉じていますね。あなたは魔女の元に戻って下さい。占いの結果が良いものであるように祈っています」
「……うん。寒くない? 僕になにかできることはある?」
ちいさな王子様がここにいる。うっかりときめいてしまうではないか。相手は少年だから犯罪だ。どうやら、長男が母親に似て迷惑極まりない激情型で、次男は父親の穏やかで優しい気質を受け継いだようだ。
「大丈夫です。ありがとう……」
「なんか困ったことがあったらすぐ呼んで」
シエラの口元に寂し気な笑みが浮かぶ。優しくされると、彼を思い出してまだ少し辛い。
「ふざけるなっ」
「もうやめなさい」
落ち着き払った声がその場に落ちる。背後のジオードが安堵したように力を抜いたのがわかった。シエラから激高する男の姿を隠そうとするように、同じ灰色の服を着た一人の年嵩の男性が現れる。
「父上、しかしこの女、母上を……」
「……全く、わたしが留守にするのを狙ったね。向こうで反省しなさい。……晶洞の森の、迷惑をかけて申し訳なかったね。彼女はきちんと私が責任を持って送り届けるよ。その時に対価も払おう。もう君は戻った方がいい」
「対価は必要ない。この間の会合で迷惑かけたから。あんたが後始末をしたと聞いた」
ジオードはその男と親しいようだ。喋り方が柔らかい。
「大したことはしていないよ。対価はこちらで用意しておく。……もう行きなさい」
優しく教え導く教師のような口調だ。素直にジオードの姿が消える。晶洞の森に戻ったのだろう。気付けばシエラを睨みつけていた青年の姿も消えている。
「……申し訳ないことをした。息子が大変迷惑をかけたね」
先ほどまでこの場にいた青年が、年を重ねるとこうなるだろうなという風貌の男だった。でも目がずっと優しい。ジオードとノジュールと同じように、角が冠のように頭をぐるりと一周している。
――彼もまた、蛍石の森の統治者フリュオリネ。
統治者が複数人いる森もあるとは聞いていたが、ここはそのパターンのようだ。親子二人で統治をしているのだろう。
「罰はすべてわたしが受けるよ。お嬢さんの気のすむようにすればいい。本当にすまなかったね。息子はしてはならないことをした。あなたの記憶を土足で踏み躙った。許されない事だ」
彼はそう言って深く深く頭を下げる。シエラは息を呑んだ。彼が言っていることすべてが、シエラの基準においてまともだったからだ。ようやく話が通じそうな人物が登場した。ここまでシエラに近い感覚を持った相手というのは……実はこの世界に来て初めて会った。怒りなんてあっという間に霧散した。
「頭を上げてください。……息子さんが何をしたかったのか伺っても?」
「……彼が来れば、もしかしたら母親が目覚めるかもしれないと思ったのだろうね。子供っぽい考えだ。親としては大変お恥ずかしい」
とても申し訳なさそうな顔をしてもう一人のフリュオリネは言う。
「ああ、それで私が邪魔だった訳ですか。……だったら普通に本人に頼めば良かったのに。謝罪は受け入れました。お話を聞かせてください。私は知らないことが多いので」
「……お嬢さんはここに来てまだそんなに長くはないのだね。それは戸惑うことも多いだろうね。彼が晶洞の森に閉じ込められているのは知っているかい?」
「閉じ込められている?」
「……話していないのか。彼は会合がある場合と、お嬢さんを迎えに行くという理由でのみ、外に出るのを許されているようだ。あまりあの場所から離れさせないほうがいいよ。負担が大きいからね。お嬢さんも閉じ込められてはいるが、それほど制約が多い訳ではないようだね。戻って来るならそれでいいという感じだ」
「そういえば、ジオードが言っていました。私は閉じ込められているのだと」
「きっとお嬢さんには意味がわからないだろうね。言葉で説明するのが難しいことが多いんだよ。だんだん感覚として身につく。その内わかってくるよ。焦らなくていい」
熟練の教師のような目をした彼の言葉は、何の引っ掛かりもなくシエラの胸に入って来る。彼の言葉は理解できる。他の魔物の言葉は全く意味がわからなかった。この差は一体何なのか。
(ジオードはあの森から出さない方が良い……)
彼は何も教えてくれないから、本当に困る。
シエラはフリュオリネの背後にある結晶中の女性に目をやる。ジオードの昔の恋人だったという女性。彼女はとても満足げに微笑んでいる。なのに、この森はとても寂しい場所だ。木々が少なく弱弱しい。色がないのだ。何もかも暗い影を纏っていて寒々しい。どことなく墓地というイメージが浮かぶ。
「……目を覚ましませんでしたね」
「そうだね。だからもう打つ手はない。この森は、いずれ沼の森に飲み込まれて消える」
その言葉の意味を確認するために、手の中のファイルの内容を確認する。前回の担当者が書いた資料によると、この蛍石の森は、沼の森と抗争中だ。仲裁が必要かもしれないというメモ書きがあった。
「仲裁をお望みで?」
「話の通じる相手ではないのだよ。……それに、彼女がこうなってしまった以上、沼を退けたとしてもまたすぐに同じことが起こる。私は彼女を守り切れないからね」
男性は気にしなくていいよというように、微笑んだ。
「すみません。私は新人保安官なので意味がわかりません。説明をしていただけますか?」
「配偶者が命をうしなうと……統治者の命も消え、森も消えるのだよ」
「……ちょっと待ってくださいね。そんな恐ろしい話なんですか配偶者って」
「……配偶者の命は森そのものと一体化するんだ。統治者が命を失っても配偶者さえ残れば森は次代に引き継がれる。森は時折ぶつかり合う。弱い方が消えて強い方が残る。私はそこまで強い統治者ではなかったから、息子と二人で統治している。それでも、やはり彼女なしでは勝ち残れない。この森も大部分が沼に沈んだ。いつまでもつかはわからないな」
「もし彼女が目覚めるならば、この抗争に勝てるということですか?」
「彼女は強い魔物だから、負けることはないだろうね。恐らく沼の方が引くだろう。……だが、彼女はこの通り自分の命を閉じ込めてしまった。このまま沼に飲み込まれるつもりなのだろうね……どうしてそう決めたのかわたしにはわからない。本当に、魔物の気持ちを理解するのは難しいね?」
フリュオリネは暗くなった雰囲気を払おうかとするように、いたずらっぽく笑った。それで確信した。
「あなたは、私と同じなんですね。……彼女があなたを魔物に?」
「彼女に会ったのは、私が魔物になった後なのだよ。人間だったのはずっとずっと昔の事だ。でも結局今でも私の感覚は人であった頃のままなのだろうね。こうしてお嬢さんと話しているとほっとするよ。……私は蛍石を集めるのが好きでね。だからここを蛍石の森にしたんだ」
昔、人であったというその男は、すべてを諦めたような顔をして言ったのだ。
「私は、かつて人だったから死というものが身近にあった。でも息子たちは魔物だからね……受け入れ難いのだろうね」
――と。
「そこで助けてやろうという感覚が、理解できない」
つなぎの作業着を着て、シエラはテーブルに置かれたリュックに荷物をつめている。頭の上のノジュールがいかにも不満そうな顔でシエラの額をペチペチ叩いている。
「相互理解は進みませんね。離して下さい。仕事に行ってきます。少し長く留守にしますので後よろしく。ノジュールも良い子にしててね」
手を伸ばして頭の上の小さな魔物の髪を撫ぜる。晶洞の森の洋館の居間でシエラは山登りのための荷造りをしている。
「……なんでシエラが、あの森のために動くのか全く理解できない」
着替えに携帯食に、地図が見当たらない。どこに行ったのだろう。……せっかく詰めた荷物を出そうとするな。ああ本当に邪魔くさいな。
「……私が魔物じゃなくて人間だってことですよ。お互いクラゲですね」
「あんな性格が悪い女ほっとけばいい」
真顔でジオードは言い切った。あくまでジオード主観の『性格の悪い女』は、本当によく出来た人であるフリュオリネの配偶者である。恋人だったジオードをあっさりと捨て、押しかけて押し切ってフリュオリネの配偶者の座を手に入れたのだそうだ。……ジオードには悪いが、彼女の気持ちは大変よく理解できる。
「はいはい。上が今回のはちょっと問題がありそうだと判断したので、調査に行ってきます。沼の森も、もうずっと問題視されてはいたんですよね。手あたり次第あちらこちらの森に抗争をしかけて潰しているので。どうやら沼の森の統治者は全く話の通じない方らしいですね。代替わりしてから保安官の調査も拒否しているみたいで。調査員は誰一人として現在の統治者に会ったことがないそうです。ついでにそちらも調査してこいと」
ジオードがさりげなく後ろ手に隠していた地図を奪い取りながら、シエラは淡々と答えた。
「危ないことはしてほしくない。行かせない」
だから仕事だと言っているだろうが。本当に話が通じない。話が通じる人に出会った後だとよけいに疲れる。
ジオードが腕に閉じ込めようとするから、肘でさりげなく抵抗する。頭の上ではノジュールがペチペチ額を叩いてくるし、ジオードはベタベタしてくるし、本当に鬱陶しいなこの魔物たち。
「カール君が一緒なので大丈夫ですよ」
フリュオリネの長男はシエラとの相性が最悪だったため、調査には次男が同行することになった。カルクルスという名前の少年だ。
長いのでカール君でも良いですかと尋ねると、「はい。ではシエラさんとお呼びしても良いですか?」と、礼儀正しく笑顔で尋ねて来るようなしつけの行き届いた良い子だ。『さん』は要らないと言ったら、とても困った顔をしていた。結局、カールが「シエラ」。シエラが「カール君」と呼ぶことで合意した。彼とならこの上なく上手くやっていけるだろう。
「他の男と一緒なのは気に喰わない」
結局腕の中に閉じ込められる。やれやれ、とシエラはため息をついた。今日も彼は書生風の服装だ。案外気に入っているのかもしれない。
「……あの子、身長私の腰までしかないですけどね。お父さんによく似て、礼儀正しいとても良い子ですよ」
「よく知ってる。会合で会うから」
(知ってるのかっ)
やれやれと思いながら、しばらく大人しくジオードの心臓の音を聞いている。当分の間彼ともお別れだ。決心が揺らいでしまうから、やるなら早い方が良いだろう。シエラは意を決したように強く息を吐いた。
「……まぁこうなることはわかっていたので……上司に教えてもらった奥の手使います。大丈夫ですよ。ノジュールが寂しくないようにしますから」
後ろポケットから、ちいさな赤いカードを取り出す。魔女に対価で払った血で作られたものだ。それを見た途端にジオードの顔つきが変わる。ぼっとカードにカードに火がついて、赤い煙が立ち上り始める。
「魔女アーラに対価を払って作ってもらいました。時忘れの香です。二人から私の記憶を消します。月が重なるまでの間です」
ジオードがカードを奪おうとするから、シエラはつま先立ちで彼の唇に触れる。手の中でカードが燃え尽きるまで。赤い煙がシエラとジオードとノジュールの周りをふわふわと漂う。
甘い甘い香りがする。縁日のりんご飴の匂い。この煙は二体の魔物の体を痺れさせる筈だ。
「シエラっ」
離れた唇から放たれたのは、焦ったような、怒ったような声。頭の上のノジュールが落ちて来ないようにシエラは両手を頭の上に上げて、柔らかな体を持ち上げると、胸に抱きしめる。
不安そうなノジュールの目を見て、シエラはにっこりと笑う。視界が涙で滲む。
「必ず戻ってくるよ。待っていて。お土産たくさん持って帰ってくるからね」
そう言ってそっと頭を撫ぜると、ノジュールの目が眠たげになり、カクっと力なく項垂れた。そのまま部屋を横切って、ちいさな体をソファーに横たえる。これで、目が覚めた時、ノジュールはシエラのことを何も覚えていない筈だ。
「ノジュールとジオードは私を絶対に行かせないでしょう? でもお仕事なんですよ。……大丈夫、二人は一ヶ月前の生活に戻るだけです」
ノジュールの寝顔をしゃがんで見下ろす。頬を涙が流れ落ちる。ああ、ダメだな。こうすると決めたのは自分なのに。
「なんで、なんであんたは、こんなこと平気でっ」
振り返ったシエラを見たジオードは言いかけた言葉を飲み込んだ。自分はちゃんと笑えているのだろうか。
顔を顰めた彼が、力尽きるように床に両膝をつく。このまま倒れたら頭を打ってしまうかもしれない。シエラはジオードのそばに駆け寄ると、凭れかからせるように彼の頭を抱きしめた。赤い煙が座り込む二人に纏わりついている。
「……全然平気じゃないですよ? これは単なる私の我が儘です。ジオードはこの森から出ない方がいいと聞きました。あなたは私を助けに来てしまうから……私のことはしばらく忘れていて下さい。床で寝るのは痛いかもしれませんが我慢して下さいね。私にジオードは運べないので。戻ってきたらちゃんとお詫びをしますから。もし嫌われてしまったのなら……」
「そんなこと……ある訳ない」
胸の中で眠たそうな声。
「……それを聞いて安心しました。ジオード、だいすきです。……おやすみなさい」
力が抜けた大きな体をぎゅっと抱きしめる。……ちゃんと言えた。届いたかどうかはわからないけれど。
目が覚めるとシエラは泣いていた。色とりどりのランプの光が滲む。「ああ、起きたね」という声がして、魔女が近付いている。
「シエラ、長く危険な旅になるよ。私もおまえを気に入っているからあまり行かせたいはないのだけどね」
「お仕事ですからねぇ」
涙を払いながら、シエラは微笑んだ。魔女は赤や黄色の布を幾重にも体に巻き付けたような不思議な衣装を身に纏っている。
「シエラ、約束しておくれ。絶対に指輪は外してはいけない。それだけは何があっても必ず守るんだよ。いいね。どんなことがあっても……だ。もし指輪を外したら、シエラとあの少年は命を落とすことになる」
いつも眠たげな魔女が、その時ばかりは真摯な目をしてシエラに言った。左手の薬指に嵌めた、黒い指輪を見るだけで、再び涙が溢れ出す。
「……不思議ですね、一ヶ月くらい一緒に過ごしただけなんですけどね」
あの人がそばにいないと思うだけで、心が悲鳴をあげる。もうあの人は名前を呼んでくれない。抱きしめてくれない。だって……もうシエラの事を覚えていないから。
シエラはジオードが眠った後、逃げるように洋館を飛び出した。時忘れの香がちゃんと効いたのか確かめるなんてことは、とてもできなかった……
「…………隣の天幕に食事の用意が出来ている。少年はもう食べているよ。今の内にしっかりと泣いておくことだ。この先そんな余裕はなくなるだろう。……落ち着いたらおいで」
――血を対価に支払ったシエラは大事を取って、シエラの腕時計の文字盤にある日付が三日進むまでの間、魔女の森で過ごした。
「ありがとうございました。行ってきますね!」
「お世話になりました。行ってきます!」
シエラとカールは振り返って、笑顔で魔女アーラに手を振る。二人はお揃いのつなぎの作業服を着て、同じ様な巨大なリュックを背負っている。
二人が滞在している間、一度も夜は明けなかった。ランプの明かりで森は燃えているように明るい。結局あのリュートを弾いていたのは誰だったのだろうか。
「お土産買ってきますね」
「僕も」
カールはシエラが体を休めている三日間で、旅の注意点や、魔物や魔獣への対抗策を色々教えてもらっていたのだそうだ。
「絶対に絶対に、シエラは僕が守るからね。僕、兄上より強いから安心してね」
「はい。頼りにしています」
二人は顔を見合わせて微笑み合う。この少年は父親と同じで話が通じるからとても助かる。同行するのが長男でなくて本当に良かった。あの男、結局シエラに謝らなかったのだ。あ、思い出すとイライラする。あまりに腹が立ったから守り石の魔物に頼んで、一週間蛙に姿を変えてもらった。お姫様が失くした鞠を探しに池にでも潜れば良いのだ。
父親もとても楽しそうに笑っていたから、何の問題もない。
しかし……そうか。次男の方が強いのか。きっとカールは真面目に鍛錬したのだろう。あっちはサボったに違いない。
「しばらくは山登りですよ。覚悟はいい?」
「大丈夫だよ。どこを目指すの?」
「まずは、『針と迷路の森』へ行きます。上司が言うには、ちょっと厄介なところみたいですから、気を引き締めていきましょう」
――何しろ、魔物のちょっとは全くあてにならないので。
……やっと旅立ちました。