32 シエラとまつろわぬ者 その4
背後が非常に騒がしい、前回と違って今回止める人間がいないから余計に。
猛り狂っている鳥というのをシエラは初めて見た。血走った目で見つめられた瞬間に、人生の終わりを悟った。……が、幸いにもまだ個体判別はできるらしく、黒い鳥はシエラに襲い掛かってきたりはしなかった。ばっさばっさと羽ばたきながら周囲を旋回してみたり、イライラと歩き回ってみたり、かと思えば、長男の肩に飛び乗って頭髪を容赦なくむしり取ったりしている。
標的……というか八つ当たりされている長男は、土下座状態なのでどんな表情をしているのかは全くわからない。今回もまた、父と弟は全く止める気がなさそうだった。ざまあみろ! と思う段階はとっくに通り過ぎて、すでに憐れみしか感じない。
「鳥は捕食者ってことですか?」
なるべく背後を気にしないようにしながら、シエラは『蛍石の森』の統治者であるフリュオリネ(父)に尋ねた。シエラが何を言っても怒りで暴走している鳥はきっと止まらない。いっそ気が済むまでやらせた方が被害が少なくて済むかもしれない……毛根の。
「そういうことなんだろうね。『沼』は……ああ、『沼』とか『沼の森』というのは管理不能となった領域のことを指す言葉なんだ。物で溢れかえったゴミの山のような状態だっただろう? この森を呑み込もうとしていた『沼』も、元々は別の名前の領域だったのだよ。統治者が失われて配偶者が後を引き継いで間もなく『沼』と化し、周囲の森を手当たり次第に呑み込みはじめた。今は西に移動してきているのだけれど、以前は南との境にあった」
フリュオリネ(父)は、手を伸ばして目の前の結晶にそっと触れた。その中には黒い鳥の本体である美しい女性眠っている。幸せな夢をみているかのような穏やかな表情だ。……中身は背後で暴れ回っている。
またしても『南』か……と、シエラは内心ため息をつく。南担当からすると面倒ごとが西に移動してくれてほっとした。といったところか。
(あーだから西の事務所に『沼』についての詳しい資料が残っていないのかぁ……)
その辺りの引継ぎもうまくいっていないに違いない。何しろ『沼』についての情報がほとんどないのだ。
「お嬢さんが新星の名前を与えた魔物が、かつての統治者だ。配偶者は蝶の姿を取っている。つまり、蝶々夫人というわけだね」
シエラの頭の中で有名なオペラ曲が流れ始める。私は必ず勝つ! 王子が歌い上げるのは別の作品か。……ややこしいな。アザレの新しい名前は『ピンポンパン』でいいかもしれない。そういえば、あっちも早急に何とかしないといけない。忙しすぎて感傷に浸る暇もない。
「巻貝さんの使い魔だったというあの魔物はどうなったのですか?」
どう考えてもあまりいい状態になっているとは思えないが、一応確認しておく。
「自らの意思で幼虫の餌となったようだ……食い尽くされて完全に消滅したという訳ではなさそうだけどね。硬い卵の殻の中に、こちらに知られては困ることをすべて隠していたから、誰も気付くことができなかった」
フリュオリネの言葉はシエラの胸に重く胸に響いた。『夜と洋灯の森』に出現したあの触腕のような白く長い腕は、外部からあの場に侵入したものではなく、巻貝の姿をしていた魔物の体に産みつけられていた卵から孵化したものだった。幼虫は巻貝の姿をした魔物を捕食して一気に成長し、アーラとシエラに襲い掛かったのだ。
首筋にナイフを振り下ろされたはずのアーラは当たり前のように無傷だったのだが、魔女黒蝶を閉じ込めていた瓶は白い腕によって持ち去られてしまった。
あの腕だけ見れば、蝶々夫人というより烏賊夫人だ。……でもさすがに烏賊夫人はダメだろう。単なる悪口になってしまう。
巻貝の使い魔であると言い張っていたあの魔物が烏イカ……ではなく蝶々夫人(仮)の手下であったことはまず間違いない。もし彼が無理やり操られていたというならば、アーラの反応は違ったものであったはずだ。
「スピカとミモザにも同じ卵が産みつけられているんですね……」
視線を横にずらす。一回り大きな結晶の柱の中でスピカとミモザが眠りについていた。目を閉じた二人は揃って心臓の上に左手を当てている。手の甲には以前シエラが『硝子と忘却の森』の配偶者から与えられたものと同じ、青い瞳のような『孔雀の羽根』の模様が浮き上がっていた。
「今日まで卵が孵化しなかったのは、恐らく捕食者である鳥がすぐ身近にいたからなのだろうね。魔女巻貝の店にも『コトリ』の名前と姿を持つ魔物がいる。それが抑止力として働いた。……それでも、いつ何が起こるかわからない」
フリュオリネ(父)はそう言って、結晶の中で眠るスピカとミモザを見つめて表情を陰らせる。
少し離れた場所で一人で立っているカールが、蒼白な顔で結晶の中のふたりを見上げている。胸の中に様々な思いが去来しているのだろう。体の横で握りしめた拳が小刻みに震えていた。
妹たちから一番懐かれていた長男は、ショックのあまり抜け殻のようになってしまったらしい。黒い鳥は暴力をふるっている訳ではなく、『いつまでも腑抜けてないでしっかりしろ!』と激励しているのだ。……怒りを発散しているだけにしか見えなくもないが。
ふと胸に暗い影が差し、遠い面影が脳裏を掠めた。元の世界に残っている睦月も、もしかしたらこんな風に……そんなことを考えた途端に、頭の中がぼんやりとして何も考えられなくなる――
『今は、忘れていろ』
耳元で気づかわし気な声が囁いた。それ以上考えたら、泣き崩れて立ち上がれなくなってしまうから、シエラは一度目を閉じて気持ちを切り替える。
(何を考えていたっけ……そうだ、蝶の卵のことだ)
黒蝶の体から生まれた蝶たちを改めて確認した結果、すべての蝶に複数個の卵が産みつけられている事が確認された。
スピカとミモザ、もしかしたらコトリの体にも、卵は産みつけられているかもしれない、しかし、人の姿だと卵が小さすぎて見つけられないのだ。それこそ体内に入ってしまっている可能性もある。
結晶の中の時間は止まっている。卵は孵化することができない。だから今はこうするしかない。
ずきりっと胸が鋭く痛んだ。いつの間にか、シエラにとってふたりはかけがえのない大切な存在になっていた。
一枚ずつ鱗を剥がすように――大切なものが奪い取られてゆく。
不意にギャアギャアギャア! というけたたましい鳴き声が響き渡った。はっと我に返って背後を振り返る。長男の頭の上にどんっと乗った黒い鳥が、翼を広げて嘴を天に向けながら雄叫びを上げていた。……怪獣映画のワンシーンを見ているかのようだった。
彼女は、ここにいる全員の代わりに怒ってくれているのだ。
「彼女は今、鳥であるせいで、あまり難しいことは考えられない。だから本当のことはわからないのだけど、自ら結晶の中に閉じこもったのは、卵が産みつけられることを警戒してのことだったのかもしれないね。たましいの方が鳥の姿になっているのも、蝶に対して優位に立てるからだろう」
彼女は何もかもを諦めて結晶の中に閉じこもったのではなかった。最後までこの森を守るために戦うという強い意思が、黒い鳥の姿に込められていた。……きっと狂暴化しているのはそのせい。
「蝶々夫人は本能的に捕食者である鳥を恐れている。その中でもとりわけ『硝子と忘却の森』の『孔雀』を苦手としていようだ。そういうこともあって、『孔雀』の力が弱まる繁殖期を狙って活動を開始したのだろうね。主を取り戻すことには成功したが、孔雀を始末することには失敗した」
シエラの時のように直接手を下さず。魔女二人を捨て駒として利用したくらいだから、蝶々夫人(仮)はよほど『孔雀』が苦手なのだ。だからこそ、スピカとミモザの手の甲にある孔雀の印が強力な虫除け効果を発揮する。
「魔女黒蝶の目的は、巻貝さんを消し去ることと、孔雀を捕食することだった。……なら、スピカの姿をしていたもうひとりの魔女の目的とは一体何だっだのでしょう。黒蝶が捕らえた孔雀を横からかすめ取るつもりだった、とかですかね?」
魔女黒蝶は、姉弟子である巻貝の使い魔を奪い取り捕食したことによって罪人となった。その過去をどうしても消し去りたかった黒蝶は、もうひとりの魔女に唆されてノヴァの姿の魔物たちを使役して、巻貝の存在を完全に消し去ろうとした。……で、その巻貝の使い魔が、蝶々夫人の手下。……意味がわからない。
最初から全員グルだったのだろうか。考えれば考える程、頭が混乱してくる。
「ふたりの魔女は、蝶々夫人に操られているという自覚はなかったのだろうね。魔物は心が読めるし、剣のアザレは保安官の目を持っている。隠し通せるわけがないからね」
……あ、誤魔化された。とシエラは気付く。フリュオリネ(父)は、わからないならわからない。とはっきり言うだろう。
「私には言えないことなんですか?」
おずおずとシエラが尋ねると、フリュオリネは目を細めて笑った。
「ほら、お嬢さんもこうやって誤魔化しを見抜くことができるだろう?」
指摘されてシエラは思わず目を瞬いた。なるほど。新人保安官ですらこの程度のことができるのだから、剣のアザレの前ではそれこそどんな隠し事もできないだろう。相手が素直に喋ってくれなかった場合は、切っ先突き付けて脅してそれでもダメなら容赦なく武力行使……
「言えないことではないんだよ。でも今はまだ知らない方がいいかもしれない。そうだね……お嬢さんの上司の言葉を借りれば『行けばわかる、やればわかる、ちょっと危険』ということになるのかな?」
……その言葉は毎回命の危機とセットになっているので、あまり聞きたくない。
登場人物は少ないのに状況が複雑すぎる。
主役は三人の魔女だ。
一人目は、自分のことを出来損ないだと思っていた魔女巻貝。
二人目は、姉弟子の使い魔を奪った罪で、罪人の烙印を押された魔女黒蝶
そして、ノヴァの記憶を拾って自分のものとした『未熟な魔女』。金枠の鏡の作り出す檻の中で、スピカに成り代わっていた彼女が――三人目の魔女。
南の保安官が落とした鍵を使って、本部に不法侵入を繰り返していたのも、『蛍石の森』の配偶者を騙してたましいを金の鎖につないで隠したのも、魔女黒蝶に『クレイス』という字を貸し与えて、『硝子と忘却の森』を襲撃させたのも、『未熟な魔女』の仕業だったということはわかっている。でも、肝心の目的がわからない。
鏡の檻から逃げ出した彼女が今どこにいるのかもわからないし、巻貝の使い魔は蝶々夫人(仮称)の手先だったし、魔女黒蝶から飛び立った大量の蝶たちには夫人の卵が産みつけられていたし、本当に訳がわからない。シエラは机に突っ伏して深いため息をつく。明日提出期限の報告書は真っ白なままだ。
「お湯沸かしてるけど、何か飲むか?」
何の前触れもなくドアが半分ほど開いて、ジオードが顔を覗かせる。
「……今考えてたこと全部忘れた」
ショックのあまりシエラは半泣きになった。
「忘れたくないなら、メモしておけばいい」
「書く前に忘れたーっ」
きれいさっぱり全部忘れてしまった。明日までに報告書を作成しないといけないのに、どうしてくれるんだ……とばかりにジオードを睨むが、憐れみを込めた視線を返されえて余計に悲しくなった。
女性姿のジオードは、夕食の準備中らしく、いつもの白いドレスの上に飾り気のない黒いエプロンをつけていた。喫茶店でもはじめれば商売繁盛間違いなしだろう。そんなことを八つ当たり気味に考える。
「何か甘いものが飲みたい。砂糖もミルクも多めのココアが飲みたい。……メモするで思い出した。手紙返して」
「今手もとにない。今お湯沸かしてるから後にして」
そっけなくそう言って、ジオードは台所に戻ってしまった。確かに、火から目を離すのは危険だ。だが、次に請求した時も別の理由をつけてはぐらかされる気がしなくもない。
というか、あの手紙はまだ存在しているのだろうか。
もう余白がないと赤い目の魔物は言っていた。それが具体的にどういう状態を指すのかはわからないが、元の文字が読めないくらい真っ黒状態で戻ってきたら泣いてやる。
すみません……短いですが、一旦出します。