31 シエラとまつろわぬ者 その3
「葉月は……『いい子』でいれば、きっともうこれ以上悪いことは起こらない。多分……ずっと、そう思ってたんだよね……」
床に正座した状態で、しゃくり上げながら彼女が微かな声で呟く
その様子を見下ろしながら、彼の指先は無意識の内にテーブルにつけられた傷を指でなぞっていた。
葉月がスプーンの柄を叩きつけて作った酷い傷。消すことは容易いけれど、そうする気にはなれない。
あんなに取り乱すほど大切に思われていたのだと、こんな残酷な形で知ることになった。
対価にしたのは三人分の記憶だ。魔物は記憶を捕食して生きている。他人の記憶を自分のものにしたり、誰かに譲渡したり、そんな事を毎日の食事のような感覚で行っているから慣れている筈なのに……
まさに体の一部をもぎ取られたかのようだ。あまりに大きな喪失感に息が詰まる。
もう失われてしまったけれど、それは、何物にも代えがたい大切な記憶だった。……葉月にとっても、自分たちにとっても。
かたく握りしめた拳のやり場が見つからない。歯を食いしばって荒れ狂う感情を必死に抑え込む。
どちらかが冷静さを取り戻せば、相手もその影響を受ける。
実は、接客業をしていた彼女の方が、気持ちを切り替えるのが上手い。そこだけは、どうしたって敵わない。
「せっかくのケーキが溶けかけてる。冷凍庫にしまっておいて? 今度、一緒に食べよう」
俯いたまま彼女はそう言って、よろよろと立ち上がる。
「顔洗って、大師匠のところに行ってくる。あいつは『黒蝶』を取り戻したかったんだろうね。……大丈夫。バカな真似はしない。怒りに任せて出ていけば、向こうの思うつぼだ。それくらいはわかってる」
俯いたまま、自分に言い聞かせるように繰り返した後、彼女は顔を上げることなくドアに歩き出した。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっているから見られたくないのだ。
「……若齢幼虫の内に、BT剤で駆除してやる」
部屋を出る寸前に足を止めて、ぼそりと彼女は不穏な言葉を呟いた。葉物野菜を食い荒らす害虫扱いだが、あの様子だと本当に実験と培養をくり返しているのかもしれない。
テーブルの上の、溶けかけのアイスクリームケーキを冷凍庫に戻して、彼はドアに背中を預け目を閉じる。
「ゲームをしよう魔女さん」
魔物が現れた! そんな言葉が頭に浮かぶ。流れたのはおなじみのゲーム音楽だ。
道を歩いていたら、いきなり目の前に黒い髪と目をした魔物が出現した。
東洋人寄りの風貌だなと冷静に分析する。いくら美形でも相手は捕食者だ。ときめく訳がない。
(何がゲームをしようだ。捕食する気満々のくせに)
と、内心毒づく。どうせ心を読まれているのだ。遠慮などしない。
(前にもこんなことあったなぁ)
魔女シエラはうんざりした気分で空を仰ぐ。相手にするのも面倒くさい。だが……さすがにもう魔女になって長いので、この手の魔物に目を付けられた時点で逃げられないということもわかっている。
ここで「しない」と答えれば、願いを叶えたからと対価を要求されるに決まっているのだ。
こうなった以上、使い魔の黒猫が戻ってくるまで時間を稼ぐくらいしか、自分にできることはない。
本当に、一体どこに行ったんだあの黒猫。もう会えないかもしれないな……と、チラッと思ったら。胸が微かに痛んだ。
『魔女喰らいの魔物』
この世界には魔女を弄んで喰らう魔物がいるらしい。
都市伝説のようなものだと思っていたのに、現実に存在することが今確認された。その魔物から逃れられた魔女はひとりもいないらしい。……終わった。
「僕の正体を当ててくれたら、あなたの願いを何でもひとつ叶えてあげる。その代わり、不正解する毎に記憶を一つもらうよ」
やるなんて一言も言っていないのに、すでに承諾したような流れになっている。でも、魔物なんてこんなものだ。……うちの押し掛け使い魔もそうだった。本当にどこをほっつき歩いているんだあの黒猫。
正体を当てろということはつまり、今だかつて誰もこの魔物の正体を見抜けなかったと、そういうことだ。何しろ助かった魔女はひとりもいないのだから。
この魔物には、自分の正体が見破られることはないという確固たる自信がある。
(魔女を格下に見ている、ということは勿論あるけど、それだけじゃないな、この感じは。かなりマニアックか、或いは、呼び名がコロコロ変わるとか……あと可能性があるとすれば……)
無言のまま、頭の中で分析する。
――魔物の強さは持っている記憶量に比例する。そこは魔女と変わらない。
何でもかんでもためらいなく捕食して大量の記憶を抱え込み、それでも自己崩壊を起こさないで自分を保っていられる魔物が『強い魔物』だ。要するに記憶の化け物と言っていい。
そして、忘れ去られてしまうと消滅してしまうこの世界においては、『新しいもの』よりは『古いもの』。そして、『誰も知らないもの』より『誰もが知っているもの』の方が存在価値が高く、強い力を持つ魔物ということになる。
これだけ強大な力を持つ魔物だ。相当古いか認知度が高いものであるはず。
……しかし、犠牲になった魔女たちは、誰ひとりとしてその正体を言い当てられなかった。
魔物はまるで恋に落ちたかのように頬を紅潮させて、魔女シエラをうっとりと眺めている。
(これは……あれか。料理を一口食べたら想像していた数倍美味しかったから、感動した、と。そんな感じか……めんどくさい)
「へぇ……君、面白いこと考えるね……いいなぁ。君と遊ぶのはとても楽しそうだ」
どんどん口角が上がり、目がぎらついてきている。完全に獲物を前にした肉食獣の目だ。……黒猫早く帰ってこい。
「じゃあ、始めようか。勿論ただでとは言わない。参加してもらうための対価を……」
「いりません。その代わり、この勝負にあなたの寿命を賭けてもらいます。そうでなければ割に合いませんので」
勝てる見込みなど万が一にもないことはわかっている。でも、こっちが命をかけるのならば、相手も同じでなければ不公平というものだ。それに、可能性はゼロじゃない。生き残った後にすぐまた無理難題を突き付けられるのは遠慮したい。……だから負けたら大人しく消えてくれ。
「へぇ?」
すうっと目の前の魔物が目を細める。心臓を握られたかのような恐怖に全身がぞわっと泡立つ。それでも背筋をピンと伸ばして、にっこりと笑ってみせる。……接客業舐めるな。
「そんなに警戒しなくても、最後の最後までちゃんと遊んであげるよ? 途中で飽きて放り投げたりはしない」
「疑り深い性分なものでして」
「まぁ、いいよ。構わない。……これで契約は成立だね」
魔物は泰然とした様子でそう言った。相当な自信だ。自分が負けた時のことなど想定する必要もないということか。
――本来ならこのゲームの勝負など一瞬でつく。
相手が格下ならば、瞳を覗き込めばその正体を見破ることができる。つまり……最初に目の中を覗き込んだ時に何か見えなければ、こちらの敗北はほぼ確定したということ。
後はそれこそ、藁を金の糸に変えた娘の童話のように、まぐれ当たりを信じ、あてずっぽうで答えてゆくしかない。奇跡的に正解を口にする確率は無量大数分の一あればまだマシな方。
当てられる可能性が少しでもあるのなら、最初からこんな勝負を挑んでこない。
(森の中で自分の名前を歌っているようなことは……ないだろうなぁ)
魔女シエラは目を閉じて、肩を上下させ大きなため息をつく。
記憶というものは、硬い殻を被った胡桃のようなものだ。柔らかくて美しい大切な記憶は殻の中で大切に守られている。黒猫や師匠たちと過ごした記憶を奪い取られてしまうとしたら、それは本当に最後の最後。そこまで正気を保っていられるか自信はないので……手遅れになる前に黒猫には是非とも戻ってきてほしい。最後に一目くらいは会っておきたい。
「じゃあ、始めようか」
そう言われてゆっくりと目を開けて魔物の瞳を覗き込む。
「……余裕ですね」
魔女シエラは呆れ声で思わず呟く。黒い瞳の中には彼の『正体』がはっきりと映し出されていたのだ。本来ならば、格下の魔女シエラに見えるはずがない。つまり……わざとだ。
この魔物は、魔女シエラが、絶対に自分の正体を当てられないと高をくくっている。他の魔女に対しても同じことをやっていたとしたら……
どれだけこちらをバカにしているのだと、カッと頭に血がのぼった。咄嗟に両手を頬に当てる。手先の冷たさを利用して頭を冷やす。「冷静になれ」と心の中で繰り返し念じて気持ちを落ち着かせる。
瞳の中に見えたのは――黄色の実をつける柑橘の木だった。
(まぁ確かに……柑橘類は枝替わりを起こしやすいとは聞くけど……でもきっとそういうことじゃない)
蜜柑、檸檬、オレンジなど、知っている限りの柑橘の名前を答えてゆけばその内正解に辿り着ける……と、そういう話ではないのだ。
これだけ強大な力を持つ魔物だ。その正体が、知る人ぞ知るというようなマイナーなものだということはまずあり得ない。
(誰もが知っている有名な柑橘というなら、今までこのゲームに参加させられた魔女たちが誰一人として答えられなかったというのはおかしい……)
『左近の桜。右近の橘ってあるじゃないですか』
突然――無邪気さを装った甘ったるい声が頭の中に響いた。
思わず「あ……」と声に出してしまう。視線が絡み合った瞬間、魔物はたじろいだように先に目を逸らした。余裕ぶっていた顔に初めて焦りのようなものが浮かぶ。
誰もが一度は『橘』という名前を、苗字や和歌で耳にしたことがあるはずだ。だが、それが柑橘の木だと知っている人は案外少ないかもしれない……
「左近の桜。右近の橘」
じっと相手の顔を見つめて反応をうかがう。相手はこちらの心を読める。当然この言葉を思いついたことにも気付いている。だからこれは正解ではない。
ビクッと表情を強張らせた後に、魔物は嘲るように声をあげて笑った。
「不正解。……記憶をもらうよ」
何の記憶を奪われたかはわからないが、人格に影響を及ぼす程のものではない。実際、記憶を奪われた魔女シエラより、奪った魔物の方が落ち着きを失くしている。
『左近の桜、右近の橘ってあるじゃないですか? 私と先輩が並ぶとまさにそれですよね! という訳で、今度のお休みに一緒に見に行きませんか!』
神社仏閣巡りをこよなく愛する変人集団だった。
もともとは大学のサークル仲間だったのだ。幹事を率先して引き受けてくれるマメな先輩がいてくれたおかげで、卒業して社会人になっても彼らとは細く長く交流が続いていた。
彼女の名前は『さくら』で、彼の苗字は『橘』だった。だから、上手いこと言うな、と素直に関心してしまった。彼はどうしていいのかわからないといった顔で、ちらちらとこちらの様子を伺っていたっけ……
気付いているけれど、気付かないフリをして、ひたすらお酒を飲んでいた。飲み放題コースだったもので。
(それはとても古いものであり、誰もが一度は手に入れたいと願うもの)
魔女シエラはどんな反応も見逃すまいと、落ち着きなく視線を彷徨わせている魔物の様子を観察する。目線の動かし方や笑い方、声の調子。そして、言葉の選び方……
相手の様子を観察し、社交辞令の奥に隠された本心を察するのは得意な方だ。肌に触れればもっとよくわかる。……あの頃、必死なって勉強していた。販売スキルを上げるために必要だと思うことは、休日返上してでも、とにかく何でもやった。
「楽しかったですか? 怯える魔女たちから記憶を奪っていたぶるのは……『不老不死の薬』さん」
挑むような目をして、魔物に尋ねる。
「違うよ」
半笑いの表情で魔物はそう答えたが、その声は明らかに震えていた。ここまで自分が追いつめられた経験がないため、今混乱の極みにいる。
――この魔物は油断しすぎたのだ。それか或いは、うちの黒猫が一枚上手だった。
出張のお土産だと手渡された匂い袋を見た途端、すべてを察した。
土産物屋の店先で平積みされている定番のお菓子しか買ってこない男が、匂い袋になんて目が行くはずがない。でも……
『こういう香りが好きだったよね』
(そう言って、私に手渡してしまう彼の愚直さが……好きだった)
そして、非常に面倒なことに、自分はこういう嘘を許せないタイプだった。
諦念と……悲しみと、持って行き場のない怒りと。そんなぐちゃぐちゃしたものを抱えながら歩道橋の上を歩いていた。ビルの隙間から見える夕焼けがとても綺麗だったことを覚えている……
――非時香果。今謂橘是也。
「慢心は身を滅ぼすって、本当ですね。『時じくの香の木の実』さん」
魔物の瞳が限界まで大きく見開かれる。なぜ……とその唇が動く。まさに、茫然自失といった様子だ。
この魔物は、魔女シエラが異なる世界の記憶を持っていることに気付いていなかったのだ。……黒猫が巧妙に隠しているせいで。
壊れかけの古い記憶が役に立つ日が来るなんて想像だにしなかった。
長い人生本当に、何が幸いするかわからない。人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。
「見せなければ、絶対にわからなかったのに」
魔女シエラはにっこりと笑ってみせる。
これは偶然だろうか、それとも……この魔物に食いものにされた魔女たちが引き寄せた必然、だったのだろうか。
この魔物は、少しずつ記憶が失われてゆくことに恐れおののき嘆き悲しむ魔女たちを、玩具にして遊んでいた。
不正解する毎に記憶を守る外殻は削り取られてゆき、やがて脆く柔らかい部分が剥き出しになる。
思い出が失われてゆく。自分が失われてゆく。
ほんの少しだけ似たような経験したことがあったからこそ、許せなかった。
誰の記憶にも残らず消えてゆくというのは、一体どれ程の恐怖だったのか。
その何百分の一でも味わわせることができたのなら――まさに僥倖。
「私はね、君が、とても好きだよ」
唇にあたたかいものが一瞬触れてすぐに離れる。それではっと我に返った。記憶の中で魔女シエラと同化していたせいで、一瞬自分が誰かわからなくなっていた。……その状態に陥っている時に、真名を字だと勘違いして手放してしまうと、自己崩壊を起こす。
冷蔵庫から背中を離してそっと抱きしめる。
彼女が抱いているのは恋愛感情というより友愛に近い気がする。
そういう形が彼女にとって一番心地いいならそれでいい。
「だから、髪はちゃんと乾かせといつも言ってるだろう」
首にかけてあるタオルを奪い取って、頭に被せる。体を離してドライヤーを取りに行こうとしたら手首を掴まれた。
「あの記憶があるから、無念の内に消えていった魔女たちの仇を討てたんだって、単純にそう思ったんだよ、あの時はね。……それに、ちょっと気分良かった」
タオルの奥で、苦笑する気配があった。
「確かに強大な力を持つ魔物だとは思ったけど、まさかあれが、領域の管理者だったなんて当時は考えもしなかったんだよね」
魔女シエラとのゲームに負けたことによって、今はノヴァと名乗っている魔物はほどなく消滅した。自己崩壊と異なり、寿命を迎えた魔物から飛び散った記憶は野良の魔物や魔獣にはならない。粉々に砕け散った隕石のような状態で地上に残り、ゆっくりと風化してゆくという過程を辿る。
でも……それで終わらなかったのだ。
ノヴァは、西と南の境界線付近にある『森』の管理者だった。
彼の消滅後、『森』はそのまま配偶者に引き継がれたのだが……
――それ、は、独占欲と嫉妬心だけでできているような存在だった。
あれに比べれば、魔物の嫉妬心など本当に可愛いものだと心の底から思う。
「私があの時素直にあそこで喰われてい……」
「結果は変わらなかった。あんたと会った時点であの魔物は『化石と塩の森』に不法侵入している。それは明らかに侵略行為だ。たまたま出会ったあんたに興味をひかれてゲームを持ちかけたが、本当はペルナを喰らうつもりだった。あんたがあそこで止めなければ、『化石と塩の森』は『夜と洋灯の森』に引き継がれることなく消滅していた」
窓際のチェストの上に飾られた一枚の写真。そこに写っているのは森を背にして笑う『化石と塩の森』の統治者のナーヴィスと配偶者のペルナ。そして弟子の魔女シエラ。
どうしてもノヴァのすべてを取り戻したかった配偶者は、飛び散った記憶を搔き集めるために、『化石と塩の森』及びその近隣の『森』に侵略を開始し、猛烈な勢いで飲み込み始めた。
――やがて『化石と塩の森』は、『沼』に飲み込まれて消滅した。
それ、は、ノヴァの体も心も記憶も、何もかも全部自分だけのものにしておきたいと思っている。
ノヴァが興味を示した魔女という存在を憎み。
ノヴァの心を奪った美しい物語すべてを恨み。
そのすべてを、誰の記憶にも残すことなく、完全に消し去ってしまいたいと考えている。