30 シエラとまつろわぬ者 その2
お誕生日は一年に一度の特別な日だった。
それは、この世界に来てからも変わらずに。
「ハッピーバースディ。お誕生日おめでとう。さぁ、ろうそくを吹き消して?」
耳元で誰かが囁く。葉月がゆっくりと目を開けた瞬間、パンッとクラッカーが鳴って、火薬の匂いが立ち込めた。……その瞬間に思い出す。
確か、『地元を離れて就職したら、下宿先に陽気なお兄さんとお姉さんが住んでいた』というような設定だったな……と。
「葉月、おたんじょうびおめでとう! 一年お疲れ様でした。いやぁ……びっくりするくらい死にかけたねぇ今年も」
厚紙で作られた星柄の三角帽子を頭に乗せた男性が、クラッカーから飛び出した紙テープを丸めている。サマーニットにスラックスを合わせ、今年もやっぱり黒い髭と鼻がついたおもちゃの眼鏡で素顔を隠していた。
「おたんじょうびおめでとうー、葉月。永遠の十八歳! ……あ、そうなると永遠にお酒飲めないか。そろそろ永遠の二十歳にしとく? ……ま、細かいことはいっか。いやぁ、今年も一年よく働いたね! えらいえらい!」
どーんとソファーに大の字に座って、天井に向かって高らかにそう言ったのは、例年通りサンタクロースの仮装をしている女性だった。赤いサンタ帽子に白い鬘。絵本でおなじみの赤い衣装……ではなく、襟元と裾に白いファーの縁取りがついた赤い半袖のワンピースを着て、顔には白い眉毛と口髭と顎髭をつけている。
因みに葉月の誕生月は、名前の通り八月だ。……つまり今は夏。冷房はよくきいているが、鬘と髭は暑かろう。
「私もえらい! 今年もよく働いたなぁ私! 自分で自分を褒めるぅっ!」
フルート型のグラスの中身を半分程一気に飲み干して、「くぅぅぅ、高い酒はうまいっ」と、足をバタバタさせながら笑っている。……もうすでにだいぶ酔っている。楽しそうで何よりだ。
葉月は金色の厚紙で作られた王冠を頭乗せ、ツナギの上から『本日の主役!』と書かれたタスキを斜め掛けし、彼女と同じ縦に細長いグラスを右手に持ってソファーに座っていた。シュワシュワと発砲している金色の液体はジンジャーエールだ。
「見よ、この飾りつけ。今年も我ながら素晴らしいね! 芸術的だね!」
そう言ってサンタクロースは満足そうに室内を大きく見回す。折り紙で作った鎖が壁を飾り、ローテーブルの脇には、カボチャをくりぬいて作られたランタンとクリスマスツリーが一緒に飾られ、ドアの脇にはガラスケースに入った三段飾りのひな人形が鎮座していた。ケースの上には鏡餅まで乗っている。……毎年のことながら色々詰め込みすぎだ。
テーブルの上には、毎年恒例の大量のサンドイッチと山盛りの唐揚げ。そして、カボチャサラダを小さく丸めてプラスチックのピックを指したオードブル風の料理。
サンタクロースが髭を気にせず食べられるように、どれも一口で食べられるように工夫されている。
「この酔っぱらいが……」
取り皿に料理を乗せながら、ヒゲメガネがため息をついている。
「これ美味しい。すごーく美味しい。飲む? あ、葉月はダメだよ。お酒は二十歳になってからです!」
今年もテンション高いなーと思わず葉月は笑ってしまう。
「ここで俺まで酔っぱらったら、誰がこの部屋片付けるんだよ。ったく。……最初から飛ばしすぎだ。とにかくまず腹に何か詰めろ」
葉月とサンタクロースの目の前に、料理を取り分けた皿が置かれる。空になったサンクロースのグラスには、お酒ではなくジンジャーエールが注がれた。ヒゲメガネは今年も大変甲斐甲斐しい。
「よかったー。今年も無事乗り切れた。葉月本当によくがんばったねーっ。じゃ、お誕生日を祝して、かんぱーい!」
ジンジャーエールを一気に飲み干したサンタクロースは、勢いよくソファーから立ち上がると、そのままがばっと葉月に抱き着いた。王冠が頭からすべり落ちて、手に持ったグラスも大きく揺れる。間一髪、ヒゲメガネが葉月の手からグラスを奪い取ってテーブルに置いた。
「あぶないだろうが! 一度外に出て頭冷やしてこい!」
「今年こそ胃に穴空くかと思った。ホントに心配したんだからねー」
聞く耳を持たないサンタクロースは、葉月の肩に顔を埋めて肩を震わせはじめる。酔っ払いとは感情の起伏が激しい生き物なのだ。
「祝いの席で泣くな、酔っ払い!」
冷たい声でそう言ったヒゲメガネは、サンタクロースを力づくて葉月から引っぺがすと、ぽいっとソファーに投げ捨てる……が、彼女は反動を利用して勢いよく起き上がり、見せつけるように葉月を抱きしめて頭にすりすりと頬ずりしはじめた。ふわふわの髭が頬にあたって少しくすぐったい。
「本当にやきもち焼きだなぁ。もぉーしょうがないなぁ」
「……否定はしないが腹立つな」
そうは言いつつ、やりたいようにやらせているのだから、彼も大概彼女に甘い。
「今年も無事に、この日を迎えられてよかったぁ。……葉月、お誕生日おめでとう!!」
涙声でそんな事言われたら、もらい泣きしてしまうからやめてほしい。いつも『行けばわかる』『ちょっと危険』で送り出すくせに。
――でも、本当は知っている。それこそ本当に胃に穴があきそうなくらい、ふたりが心配してくれていることを。
不安で仕事が手につかなくて、どんどんファイルは机の上に山積みになっていって……
『おかえりシエラ』
迎えてくれるその声が、いつも微かに震えていることも知っている。
だけどそれは、一年に一度。誕生日の日の夜にしか思い出せない。
ふたり同時に会えるのは一年にたった一度きり。
(ああだから、サンタクロースなのか……そして、ヒゲメガネには特に意味はないのか……)
葉月がそう納得した瞬間。
……ぐうぅぅぅぅ、ぎゅるるるぅぅ。
お腹が派手に鳴った。ぴたっとサンタクロースとヒゲメガネの動きが止まる。
「おなかすいた。ごはんたべたい……いちねんぶりのまともなあじのごはん……」
葉月は涙目でサンタクロースに訴えた。せっかく目の前にご馳走が並んでいるのに、お預け状態は辛すぎる……
「あ、ごめん葉月。ほら食べな食べな、若い子はしっかり食べな―」
「若くなくても酒飲む前にまず食べろ」
「若くないとか言うなっ」
「では、遠慮なくいただきます!」
葉月は小さなサンドイッチを勢いよく口の中に押し込んだ。ちゃんとハムサンドの味がした。……涙が出た。
「毎年言っている気がするけど、私カボチャあんまり好きじゃないんだよねー」
「誰かさんが毎年頑なに作ると言い張るランタンの中身だなぁこれは。だから責任もって食べろ。……葉月、お茶が良ければ冷蔵庫にあるから取ってくるけどどうする?」
「あほへほはひはふ……」
「口の中のものなくなってからもう一回言ってくれる? 誰も取らないから落ち着いて食べなさい。口の中に一度に入れすぎ」
「私、カボチャサラダより、ポテトサラダの方が好きなんだけどさぁ……」
「だったらカボチャでランタン作るな。ジャガイモで作れ」
「ハロウィンと言ったら、ジャック・オ・ランタンでしょう!」
「なら文句言わずにカボチャ食べろ」
サンドイッチを一生懸命咀嚼している葉月の目前で、ヒゲメガネとサンタクロースが言い争っている。ちらっと横目でカボチャのランタンを確認すると、今年も大変不細工だった。口の中に物が入っているのに、吹き出しそうになってしまい、急いで両手で押さえる。そういう細かいところで笑いを取りに来るのだ、彼女は。
取り皿に乗っていたサンドイッチを全部一気に食べて、唐揚げも食べて、カボチャサラダも食べて、ジンジャーエールも飲み干して、それでようやく人心地がつく。
「ありがとう。ふたりのおかげで今年もなんとか生き残れたよ!」
満面の笑顔を浮かべて葉月が一年分の感謝を伝えると、延々と言い争っていたサンタクロースとヒゲメガネは、ふたり揃って少し照れたように笑う。
――お誕生日は特別な日。
『下宿先のお兄さんとお姉さんにお誕生日をお祝いしてもらう』という無理やりな設定の中で、いつも見守ってくれているふたりに感謝の言葉を伝えられる日。
一年に一度だけ、ほんの少しだけ現代日本に帰った気になれて……まともな味のごはんが食べられる日。
「さて、四択です」
そう言ったサンタクロースの顔を凝視ししながら、葉月は右から一枚ずつカードを上部をつまんで相手の反応を見る。
「一番右っ」
「えー、やだぁ。その隣にしないー?」
「しない!」
そう言って抜き取ろうとした瞬間に、すっと指先からカードが逃げる。「ふふんっ」目を細めて笑ったサンタクロースは、手の中で揃えたカードの順番を入れ替え始めてしまう。
「という訳で、また四択です」
再び葉月の目の前に、扇形に広げられたカードが突き付けられた。
「諦めろ。顔に出るんだよ。この酔っ払いが」
待ちくたびれたヒゲメガネが、手札をテーブルに伏せて置いて、天井を仰いだ。
再び葉月は、相手の目を見ながらゆっくりと一枚ずつカードの上部をつまんでゆく。左端のカードをつまんだ瞬間サンタクロースが瞬きを止めた。まるでそれを取れと念じるかのようにじいいっと葉月の目を見つめる。一番左を取ると見せかけて……
「左から二番目っ!」
「えーっ」
相手がひっこめる前に、左から二番目のカードをかすめ取る。
「やった! いち抜けーっ!」
テーブルの上にできているカードの山に、二枚のカードを表に向けて落として両手を突き上げる。口髭が斜めになってきているサンタクロースが、足をばたつかせて悔しがっている。
「あーもうっ、なんでーっ」
「だから、顔に出るんだって……ほらさっさと一枚引け」
呆れ顔でそう言ったヒゲメガネは、伏せてあったカードを持ち上げる。葉月は立ち上がって、ソファーの後ろに回って二人の持つカードを順番に覗き込む。やはりジョーカーを持っているのは、サンタクロースだ。これはもう絶対に彼女の負け。これで今年も三連敗。
――今日はこの世界にきて何回目の誕生日だろう。
心が壊れてしまいそうになるから、そんなことは考えない。ひたすら食べて飲んで、酔っ払いのサンタクロースのハイテンションに合わせて、笑って過ごす。
「往生際が悪いっ。さっさとそのカードよこせ。違うそっちじゃないっ。そこまでしてまで勝ちたいかこの酔っ払い!」
目の前でサンタクロースとヒゲメガネが一枚のカードを引っ張り合っている。双方目が完全に据わってきていた。その様子を葉月は大笑いしながら眺めている。
つらい事、悲しい事、先のことも考えない。お腹の底から笑って……
――疲れて眠って目覚めたら全部忘れている。
「そろそろ電気つけてもいい?」
パチッと音がして、数回瞬いてから電気が灯る。テーブルの上にはホールケーキがぽつんと置いてある。
ガタンと椅子を引く音がして、正面に誰かが座る。真っ赤な口紅を塗った艶やかな唇がゆるく弧を描く。白い襟にキスをしたら、きっと芸術的に美しいキスマークが残るだろうなと、そんな事をぼんやりと考えている。
サンタクロースの仮装していない彼女は、現代日本人の容姿をしていた。
紺色のスーツを着て首にスカーフを巻いて、百貨店の化粧品売り場に立っている。そんな……大人の女性。
――ああそういうことか、と。腑に落ちたことが沢山あった
「大丈夫。これは想定内。……でも、一度しか使えない。次はないからね」
ケーキの向こう側で、彼女は頬杖をついて、軽く首を傾げる。
きれいに片付けられた部屋には、クリスマスツリーもひな人形も、彼女が毎年作ってくれたカボチャのランタンもない。それが、とても寂しい。
視線を正面に戻すと、ホールケーキには大きなカレースプーンが突き立てられていた。そのまま削り取られ、ケーキにぽっかりと穴があく。中はピンク色のアイスクリームだった。
「……ねぇ、切ってから食べた方が良くない?」
「今日はいいよ、好きに食べれば。私たちがこうしてお祝いしてあげられるのはこれが最後だし、残ったらそのまま冷凍庫にしまえばいいしね。……切り分けようか?」
そう言いながら、ケーキ皿を二枚持ってきた緑色の瞳の魔物が、丁度彼女と葉月の間の位置に立つ。『鏡と仮面の森』で黒猫シエラを投げつけた奇術師は、今日も大変に見た目がいい。
「何か背徳感がすごい。……葉月もやってみる? 中身バニラとストロベリーアイスの二層になってる。気合入ってるねぇ」
「せっかく二層になってるのなら、切った断面も見てみたい。……ところでこれ、何のお祝いのケーキなの?」
「ちょっと遅くなったけど、葉月の結婚祝い、かな?」
そう言いながら、手慣れた様子で切り分けてケーキ皿に乗せる。
どうぞ……と、目の前に置かれたケーキの断面は白とピンクでとても可愛らしい。スプーンですくって口に運ぶと、ふわっと甘い苺の香りがして口の中で溶けた。
「おいしい……」
「それはよかった」
魔物はとても感じよく笑う。……ああ、そういうことか、と葉月は改めて気付く。
赤い目の魔物には。目の前の魔物の成分も何割か入っていたのだ。
鏡の世界で、スピカに成り代わっていた魔女があまりにあっさり恋に落ちていたから、変な魔法でもかけたのかと思っていたのだが……
――そんなことしなくても……これは普通に惚れる。
なんだかものすごく納得してしまって、葉月は苦笑しながらアイスクリームケーキを口に運ぶ。
子供の頃からの憧れだった、アイスクリーム屋さんのショウウインドウに飾られているアイスクリームケーキ。冷凍庫に入らないからという理由で、一度も買ってもらえなかった。
胸がつかえて食べられなくなってしまいそうだから、今は何も考えたくない。でも……曖昧なままにしておくこともできない。
「ねぇ……『おたんじょうびおめでとう』が、キーワードだったの?」
「それだけだと、誤作動する可能性があるから、『さぁろうそくを吹き消して』までがセット。……でも、もう使えない」
半分ほど食べたところで、葉月はスプーンをお皿の上にそっと置いて、正面にある自分と同じ黒い瞳をまっすぐに見つめる。
「……じゃあ、私はこれからずっと、ふたりのことを忘れたままになるの?」
(全部忘れてしまうから、これで最後だから、だから姿を見せてくれたの?)
そんな風に聞いたら、決定的になってしまいそうで、怖くて聞けなかった。
「葉月にはもう、新しい家族がいるでしょう? これからは毎年、ジオード君とノジュールちゃんにお祝いしてもらいな? クリスマスとお正月とひな祭りも、ちゃんとご馳走作って、一緒にお祝いしてくれるよ」
彼女はにっこりと笑ってごく軽い調子でそう言ったけれど、大きなスプーンを強く握りしめた手が、小刻みに震えていた。
「下宿先のお兄さんとお姉さんは、お嫁にいった葉月の誕生日を祝って、毎年ここで酒盛りしてる!」
すっと小さく息を吸ってから、彼女は泣き笑いの表情で明るく言い放つ。
「飲みすぎるから、酒盛りはやめてね?」
喉の奥が詰まったようになってうまく声が出ない。
「一年で一番おいしいお酒なのよ……私たちにとってはね」
「本当にそうだな。……早く食べないと溶けるよ、葉月」
優しく促されて、再びスプーンを手にした瞬間――
――葉月の心の中で何かがプツッと切れた。
「いやだっ! いやだいやだいやだいやだっっ!」
いきなり感情が爆発する。聞き分けのない子供のように大声で叫んで、立ち上がる。倒れた椅子床に当たって大きな音を立てた。スプーンを握りしめたまま、拳でテーブルを叩く……何度も、何度も。お皿がテーブルの上でガチャガチャと音を立てる。
「葉月っ」
「やめなさい怪我するからっ」
両手首を掴まるから、振り払おうと大きく身をよじる。別の手が握りしめたスプーンを奪い取り、大暴れする体を抱きしめる。
「こんなのは、こんなのは絶対にいやだっ。なんでっなんでなんでっ」
「私たちは、これからも、そばにいるからっ 大丈夫だから!」
「やだっ。こんなのはいやだっ。どうしてっ。なんでこんな目に遭うの? なんでっ、どうしてわたしばっかりっ。なんでいつもわたしなのっ?」
体を二つ折りにして叫ぶ。あまりに不条理だ。どうしたっておかしい。なんでどうして自分だけが、なんで、どうして。頭の中がぐしゃぐしゃになる。
「葉月ごめんっ。……でも他に対価に使えるものが何もないんだよ。人間が対価に支払えるものは、自分の体の一部か、記憶くらいしかないんだ」
本当はわかっている。どうしようもないのだと。これだけ大切な記憶だからこそ、対価としての価値があるのだと。それでも、だからこそ、簡単に手放すことなどできる訳がない。
「いやだ。いやだっ。いやだぁぁぁっ」
声の限りに絶叫する。もう家族のもとには戻れないかもしれないと気付いてしまったあの日のように。泣き叫びながら暴れ続ける。
そして、唐突に……スイッチが切れたように全身から力が抜け落ちる。
ずるずると床に座り込んで、膝をついて抱きしめてくれる人に縋りつきながら、荒い息をくり返す。
「葉月、ジオード君とノジュールちゃんが待ってる。戻ってあげな?」
背中を撫ぜてくれている男のひとの声。家事万能で過保護で、時々口の悪いヒゲメガネ。……いやだ。忘れたくない。
ひっくひっくとしゃくり上げながら、首を横に振る。
「戻って安心させてあげよ? ……ね?」
抱きしめてくれている女のひとの声。泣き虫で心配性で、酒癖の悪いサンタクロース。……いやだ。絶対に忘れたくない。
必死に首を横に振る。何度も何度も。
「……葉月……ごめん。こんな思いばっかりさせて、ほんとにごめん……」
「もうやだ……」
「うん……やだね…………ごめん……ごめんね……」
涙交じりの声がそう答える。ぽろぽろと涙が頬を流れ落ちる。泣きすぎてもう頭が痛い。だけど、枯れることなく涙は溢れ出す。目の前がだんだん暗くなってゆく。
「やだぁ……」
それに必死に抗おうとするのに、意識が急速に遠ざかる。
「私たちはずっとそばにいる」
「葉月の幸せを、いつもいつも願ってる」
そんな言葉、何の慰めにもならない。いやだ。忘れたくない。そう言いたいのに、もう声にならない……
――そして、ゆっくりと目を開く。目尻を涙が伝い落ちる。
何を忘れたのかはわからなくても、かけがえのない大切な思い出を失ったということはわかる。目を閉じて瞼の上で腕をクロスさせる。頭痛がひどくて何も考えたくない。
「ごめん……軽率だった」
もう少し警戒すべきだった。巻貝の使い魔だということであの魔物を無条件に信用してしまった。
「なんであんたが謝るんだ?」
ベッドの端に誰かが腰かける気配がして、頬を濡らす涙にタオルがあてられる。うっすらと目を開けると、丁度頭の横に座ったちいさな白い魔物が、唇を噛んで必死に泣くのをこらえている姿が見えた。手を伸ばしてそっとノジュールの頭を撫ぜる。
柔らかくてあたたかい。ノジュールからはいつもいいにおいがする。
「……ジオード怒ってるの?」
声を聞けばわかる。抑え込めない怒りが滲み出している。
「自分に腹が立ってるだけだ。あんたに対してじゃない。あんたがどれだけ思い出を大切にしてるか知っているのに……失わせた」
その一言の重みが胸に伸し掛かる。目を閉じて、大きく深呼吸する。
「一時間くらい……眠ってもいい? なんか、すごく……疲れた。それでね、起きたらみんなでご飯を食べて。その後で一緒に、トランプを……しよう……」
どうしてここでトランプが出てくるのか、もう思い出せない。
目を閉じた闇の中、遠くにぼんやりと光る窓が見えた。それは、電車の窓から見た風景のように一瞬にして背後へと飛び去ってゆく。……もう二度と戻らない時間のように。
光りの中に見えたのは、三角帽子を被っている誰かのシルエット。
スパークリングワインの泡のように弾ける、明るい笑い声。
本人が覚えていないため出てくる予定はないのですが、彼女の名前は環さんです。
ちょっと音の響きが似ているという設定です。




