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29 シエラとまつろわぬ者 その1



 ――ハッピーバースディ。お誕生日おめでとう。 

 ――さぁ、ろうそくを吹き消して? 



 ほのかに発光する巨大な球体のガラスの中に閉じ込められて、水底に沈められた。まさにそんな感じだった。


 実際は、ガラスの球体ではなく空気の塊だ。呼吸をすれば空気は減る。二酸化炭素の泡が湖の表面にのぼってゆくたびに、呼吸の度に空気の球は少しずつ小さくなっている。今はまだ二人の少女が両手を広げても、水に触れられないくらいの量の空気があるけれど、タイムリミットは確実に存在するのだ。


 湖底には白い砂地になっている場所があった、そこに立ってシエラは青い世界を大きく見渡している。頭上を魚が泳いでいる。鱗が銀色に輝いてとても綺麗だ。

視線を正面に戻すと、水面から差し込んできた光の筋が、白い砂に突き刺さった巨大な剣をスポットライトのように照らし出した。


 ……偶然だろうか。神々しくみせるための演出のような気がしなくもない。


「いい加減、アザレさん、帰りましょうよ……みんな困ってます……」


「お姉ちゃん嘘はダメ。実は大して困ってない。ただ、このままだと剣のアザレさんの戻る場所がなくなるよってだけ」


 シエラは背後を振り返る。無理やり湖底探索に付き合わされているスピカは、見るからに機嫌が悪かった。フードの奥の目が完全に据わっていた。

 ふたりはこの世界の住人に見られても構わないように、フード付きのローブで自らの姿を偽っている。スピカ曰く、『その辺普通に歩いてそうな姉妹』らしいのだが、眼鏡をかけていないシエラには、自分たちが今どのような姿をしているのかわからない。


「……少なくとも私が困るから、嘘じゃないです」


 何でこんな言い訳しているんだろう……と、シエラは内心ため息をつく。


「保安官の素質を持ってるひとって少ないって言うし……アザレさんいないと困る……」


「保安官の瞳は、剣士の方のアザレさんに半分引き継がれてるから大丈夫、問題なし。もうほっとけばいいって」


 どうして、一生懸命戻ってきてもらえるように説得しているのに邪魔するかな、とスピカに恨みをこめた視線を向ける。ふっと鼻で笑って軽く首を竦めたスピカは、背後にどす黒い闇を背負っていた。実はスピカが剣のアザレ説得のために湖に潜るのは四回目なのだ。最初は剣士の方のアザレとリューカと一緒だったらしい。次はディーとサフィータ、その次上司と守り石の魔物、そして今回のシエラで計四回。……湖底に刺さっている剣なんか見たくもないという気持ちはわからなくもない。


「えー、でも、ここにあると邪魔だから持って帰ってほしいって、頼まれたし」


 どうせ隠しても心を読まれればバレるのだ。シエラは開き直って真実をぶちまけた。

 先日、『硝子と忘却の森』の配偶者である少年から、困り果てた声で事務所に電話がかかってきたのだ。大変迷惑なので一刻も早く森保の方で回収してほしいと。


「孔雀さんが元の姿に戻る前に帰ってほしいみたいなんで、アザレさん、とりあえず事務所に戻りましょう。管理者の許可なく領域に居座り続けるのは、重大な違反行為らしいです。はい撤収!」


「お姉ちゃん、テンション上がりすぎて、観光地の銅像に向かって一生懸命話しかけてる人みたいになってる……」


 シエラが奇怪な行動を取っているように見えるのは、剣のアザレが何の変哲もない剣のフリをしているせいだ。……でも、指摘されるとさすがに凹む。


 ああもう、魔物は本当に面倒くさい。それ以上でも以下でもない。


 水の底でシエラは死んだ魚の目になった。くるっとアザレに背を向けその場にしゃがむと、付き合いの良い妹は、隣に同じように隣にしゃがむ。


「ねぇ、スピカ、いつまでも沈んでいると、アザレさん……錆びると思うんだけど?」


「魔物だから錆びはしないと思うけど、苔は生えるかもね」


「スピカでも抜けないの?」


「簡単に抜けるなら、最初っから皆で無理やり引っこ抜いてるって」


 つまりは、剣士のアザレでもリューカでも、ディーやサフィータでも、上司ですら抜くことができなかったのだ。シエラは確実にリューカより脆弱な人間だ。彼らにできないことができるとも思えないから挑戦しない。


「……燃やしてみる?」


「お尻に火が付くと飛び上がるって? 火って酸素ないと燃えないんだよね。私は何とでもなるけど、お姉ちゃん、その実験に命賭ける覚悟ある?」


「ない……」


 シエラは素直に首を横に振った。そして少し考えてみた。燃やせないなら、ちょっとだけ溶かしてみるのはどうだろうか。


「じゃあ、王水でもかけてみるとか……」


「ここ換気できないんだけど?」


 どんな化学反応がおきるかわからないから、何が発生するかわからない。……うん。危険。


「もう帰りたい……。空気の球小さくなってきてるし一度地上に戻ろう。何か胸がドキドキしてきた」


「喋れば空気減るよね」


 スピカはそう言って立ち上がると、ワンピースの裾についた砂を払う。そして小さく息をついてから、剣のアザレを振り返った。


「……で? アザレさんここで何年喪に服すつもりなの? 慶弔休暇はすでに使い切ってるから、減給は免れないよ?」


 緑色の瞳が片方ゆっくりと開いた。左目は閉じたままだ。

 シエラと同じ力を有する剣のアザレの左目は、剣士のアザレに引き継がれていた。それを本部の許可どころか、剣士のアザレの承諾も得ずに勝手にやったらしい。


「百年くらい眠る」


 その声は前回会った時より気だるげだった。昼寝中に無理やり起こされて眠いだけ……という訳ではなさそうだった。瞳に全く生気がない。


「ということは、ここで私とは今生のお別れですね。お世話になりました」


 シエラは剣に向かって深々と頭を下げた。途端に、スピカとアザレから『何を言っているんだコイツ』と言いたげな冷たい目が向けられた。……いや、間違ったことは言っていないはずだ。とシエラは思う。脆弱な人間であるシエラは、いくら栄養状態をよくして適度な運動と睡眠を心掛けても、この先百年は生きられない。


 スピカが腰に両手を当てて、水面を仰ぎながら、大きく深呼吸した。コポリ……という音がして、大きな泡が水面に向かって上がってゆくのが見えた。確実に限りある空気は消費されていっている。


 百年以上一緒にいた古い友人を、剣のアザレは一度に二人もうしなった。自暴自棄になるのも無理はない。それは迎えに来た全員がわかっている。……のだが、ここに刺さっていると邪魔になるから、どこか別の場所に移動してもらいたいのだ。切実に。


「もうしょうがないからさ、お姉ちゃん、何か適当に名前つけてあげてくれる? それで上書きして『アザレ』としての力を封印する。ただの剣が湖に沈んでいるのなら問題ないはずだから、気が済むまでここに沈んでいてもらおう。百年後に苔だらけの状態で目覚めても、誰も拾いに来ないかもしれないけどね」


 顔を正面に戻したスピカは、腰に手を当てたままそう言った。……そういう裏技が使えるならさっさと教えてくれれば良かったのに! と、シエラは思った。


「地上に戻る前に空気なくなると嫌だから、ちゃっちゃと名前適当につけちゃって。ポチでもタマでも」


「あのな、俺に相応しい名前……」


「もう『不燃ごみ』とか『不法投棄物』でいいと思う。そんな悩む必要ないって。急がないと水面に戻る前に空気なくなるよ」


「ええーっ」


 最近こんな風に急かされてばっかりだなと思う。名前なんてぱっと思い浮かぶ訳がないではないか。でも水面に上がる前に空気がなくなるのは絶対に嫌だ。シエラは腕組みをして固く目を閉じた。前回は銀幕の女優だった。ならば男性俳優の方を……と思ったのに、焦っているせいなのか、一人も名前が思い浮かばない。

 例えば、南北戦争時代を描いた長編映画の主人公の相手役は誰だったろう。……全く覚えていない。

 

 ――でも、そうだ、地名とテーマ曲のタイトルなら覚えている! 


 シエラの頭の中に壮大な映画音楽が流れた。


 もう時間がないしこれでいこう! シエラは開き直って満面の笑みを浮かべた。


「タラちゃん!」


「却下!」


 アザレには拒否権があるらしかった。






 結局水面に戻る前に時間切れとなり、びしょ濡れになったシエラは巻貝の店でお風呂を借りることになった。

 着替え終えてキッチンに移動する。オーブンから甘い匂いがしているのに、巻貝の姿はない。店に繋がるドアを抜けると、そこはカウンターの内側だ。

 椅子に座ってスピカがお茶を飲んでいる。入り口付近で、コトリと剣士の方のアザレとリューカが窓に新しいカーテンをかけていた。店が改装中のため、巻貝とコトリ二人だけでは用心が悪いからと、男性二人が一緒に住んでいるのだ。


 シエラは、カウンターから出て、スピカの隣まで移動する。お礼を言いたいのに、店にも巻貝の姿はない。ここで少し待っていれば会えるだろうか。


 窓際の椅子に座ったコトリがカーテンにフックを取り付けている。それを黒髪のアザレが持ち上げて、リューカがカーテンリングにひっかけてゆく。そんな流れ作業を見るともなしに眺める。

 黒髪のアザレの左目は緑色になっていた。ここまで姿が変わってしまうと、もう、赤い髪だった頃とは別人のようにしか思えない。今の彼は、コトリとリューカの優しいお父さんだ。セラスとは笑い方が少し違う。


 ……やはりあの赤い目の魔物は……似ていたなと思う。比率はわからないが、混ぜるとああなるらしい。手紙はまだ返してもらえていない。


 用心棒として『姉』と一緒に暮らすことになったリューカは女性に慣れてきていた。相変わらずの無表情だが、ここから見る限りはコトリとは普通に会話している。『家族』を見上げて微笑んでいるコトリはとても幸せそうだ。そのことに安堵すると同時に……不安が過った。


「ねぇスピカ、コトリさんとセリアナさんって似てるよね? きっと、ミエレさんも素直で可愛らしい女性だったんだろうね」


 シエラがそう言った途端に、『実は飛ぶ黒い虫』の存在を思い出してしまったのか、スピカの眉間に深い皺が寄った。


「コトリさんは、元主の姿を写しとっているからね。使い魔だった頃は記憶を共有していたはずだし、性格や考え方なんかはミエレさんの影響を受けているのだと思うよ? で……何が言いたいの?」


「ああいう感じの女性が好みなんだろうね」


 名前を口にすると悪いことが起きそうなので言いたくない。

 カウンターに頬杖をついたスピカは「お姉ちゃん自覚ないからなー」と呆れたように口の中で呟く。しかしその微かな声はシエラの耳に届かなかった。


「……確かに、リューカさんがコトリさんと一緒に暮らしているのって、あの魔物を警戒してのことだと思うんだけどね、多分コトリさんは大丈夫。嫌な言い方をすると『本物』ではないから。魔物はプライドが高いからね。模造品は身に着けたがらない。そういう意味では、あたしとミモザもお姉ちゃんの偽物ってことで安全……」


「スピカもミモザも偽物なんかじゃないよ!」


 それは聞き捨てならないと、シエラはむっと顔を顰める。


「怒るとこそこー? だから、嫌な言い方するけどって最初に断ったよね」


「偽物なんかじゃない! スピカはスピカでミモザはミモザだよ!」


 真面目に取り合わないスピカにイラっとして、シエラが怒った声で繰り返すと、その剣幕に驚いたようにスピカはパチパチと数回瞬きをした。


「…………あ、ありがとお姉ちゃん」


 スピカは一息にそう言って、焦ったようにカップを持ち上げてお茶を飲む。頬が少し赤い。「わかればよろしい」と、シエラは偉そうに頷く。


「……じゃあ、これでこの話はおしまいでいい? 『噂をすれば影が差す』って言うしね」


 スピカはカウンターの上に置いてあったポットを持ち上げて、空になった自分のカップに中身を注いだ。ふわっと立ちのぼった香りが、『紅茶の香り』だと認識できたことに驚いて、シエラは茫然と目を見開く。シエラの反応を確認したスピカは、ソーサーの上に伏せて置かれていたカップをひっくり返す。そして、ゆっくり丁寧に紅茶を注いで、シエラの目の前に置いた。


「このお茶、巻貝さんが淹れてくれたんだよ。いい香りだよね? お姉ちゃんも飲めると思うよ」


 勧められるままに一口飲む。それは……ちゃんと紅茶の味がした。


『私、シエラさんが美味しく食べられる瓶詰、作れると思います! 何がいけなかったのか、わかったから』


 改装中の店内は、棚もショーケースも空っぽでがらんとして物悲しい……あの鏡の中の店と同じように。

 あの時、ここで一人静かに泣いていた彼女は、辛く苦しい状況に押しつぶされることなく、何かを掴み取ったのだ。シエラの願いを叶えることができた彼女はもう、『出来損ないの魔女』ではない。


「おいしい」


「うん……おいしいね。……よかったね」


 両手でカップを包み込むように持ちながら、シエラは目を閉じて、目尻から溢れた涙が頬を伝ってゆく感触を追いかける。

 巻貝が淹れてくれたお茶をシエラがこの店で飲むのは、今日が最初で最後になる。彼女はこの店をコトリに譲り、別の場所へと移り住むと決めたから。


『ここにいると、どうしても、魔物によって記憶を奪い取られていった時のことを思い出してしまうんです』


 ここを去る理由を巻貝はそう説明していた。

 でも、魔物に喰われかけたことよりも、それを仕組んだのが妹弟子の黒蝶だったということの方が、ずっとずっとショックだったに違いないのだ。

 彼女が妹弟子だった頃の記憶はもう巻貝の記憶にも残っていない。けれど、存在を消し去ろうとするほどまでに誰かから疎まれていたという残酷な事実は、巻貝の心に消えない傷を残した。

 ここにいると、どうしても引きずってしまう。だから、知らない土地で、生まれ変わったつもりで新しくやり直すと彼女は決めた。


 人間よりずっと長く生きる魔女は、ひとつの場所には留まらない。混乱を避けるために、十年ごとに別の場所へと移動する。それが、迫害と弾圧の歴史から生み出された『人間と共存するためのルール』だからだ。

 魔女には魔女のネットワークのようなものがあり、空き店舗の情報などはそこで手に入れることができる。丁度同じ時期に移動する魔女から、店をそのまま譲りたいと巻貝のもとに連絡がきたのだそうだ。


 ――そうやって、魔女たちはいつ回帰するのかわからない彗星のように世界を巡っている。


「失敬な! 巻貝のお茶が美味しいのは当たり前だ。僕の巻貝を侮辱するなっ」


 怒鳴り声が聞こえた途端に、はあっと、これ見よがしにため息をついたスピカが、「してないし」と、うっとうしそうに呟いた。


「何か聞こえたぞ。僕に喧嘩売ってるのか」


 声の主に視線を移す。キッチンに繋がっているドアの前に、焼き菓子の乗った皿を持った巻貝が立っている。そのすぐ背後に立っているのは、巻貝と全く同じ顔をした魔物だった。巻貝はエプロンドレス姿。魔物の方は吊りズボンをはいている。こうして並んでいると双子のようだ。


「見るな。巻貝は僕の巻貝だ」


 魔物はいきなり巻貝を背後からぐいっと引き寄せて、細い肩に顎を乗せてシエラを睨みつけた。さりげなくスピカが手を差し出して、巻貝の手から焼き菓子の乗ったお皿を受け取りカウンターの上に置く。


「喧嘩売ってるのはあなたの方でしょう? シエラさんは私の恩人なの」


 魔物の腕を振り払った巻貝は、見るからに疲れ果てていた。


「そんな態度を取るのなら、ここには置いてあげられない。自由にどこへなと……」


「いやだー」


 巻貝に最後まで言わせることなく、魔物が悲鳴のような声をあげる。


「捨てないでっ。僕は巻貝がいないと生きていけない」


 そうして魔物は魔女の正面に回り込むと、床に膝をついてみっともなく取りすがって泣き始めた。


「……今すぐ捨てたい」


 かたく目を閉じた巻貝が、天井に向かってそう言った。


「湖に沈めればいいと思う……」


「おまえうっさい。だまれ。あっちいけ。話しかけるな。巻貝は僕だけの巻貝だっ」


 巻貝のお腹に額を押し付けて泣いていた魔物が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔でスピカを振り返った。


「蝶に戻ればいいのに」


「余計な事言うな!」


「……巻貝さん、ごめんね。やっぱり無理だよね。しょうがないから、持って帰るよ。いらないけど」


「過去の私に問いたい。何故、これを自分の使い魔に選んだのか……」


 巻貝は半笑いの表情で、過去の自分の選択を悔いていた。……とはいえ、その頃の記憶はもう巻貝の中には残っていない。

 一方、蝶に変えられていた魔物の方も、巻貝の使い魔だった頃の自分の姿も名前も覚えていないのだ。残っているのは巻貝に対する一方的な愛だけ……


「何で、なんでそんなこと言うの。僕の何が気に入らないの? 僕こんなに巻貝のことを愛しているのにーっ」


 そう魔物は言っているが実際は何も覚えていない。記憶もないのに、愛を叫んでいる。赤い髪のアザレもそんな感じだったのかもしれないが、二つの愛を同列に扱ってはいけないような気がしてならない。


「ほんとうっさいなぁ……もう。……ほら、迷惑だから『蛍石の森』に帰るよー。巻貝さんお引越しの準備もあるし」


「ひとりで帰れ。いやだ、僕はずっと巻貝と一緒にいる。もう二度と離れない」


「……お願い離れて。どうかこれからは自由……」


 慈愛に満ちた微笑を浮かべた巻貝が言いかけた言葉を、またしても魔物は強引に遮った。


「いやだ。自由なんていらない。巻貝とずっと一緒にいたい。捨てないでお願い。何でもするから」


「何でもするなら、自由にどこかへ……」


「それは絶対にいやだーっ」


「だからうるさいって。ほら、迷惑だから帰るよっ」


「外に行こう姉さん。ここにいると姉さんが穢れる」 


 突如リューカが、コトリをひょいっと抱え上げると、と余計な一言を残して、店の外に運び出した。……残念ながらシエラにはリューカの言葉を否定できなかった。






「もう諦めた方が……」


「嫌だ。絶対にいやだ……」


 『夜と洋灯の森』のランプに照らされたテントの片隅で、巻貝の姿をした魔物が膝を抱えてしくしくと泣いていた。


「しょうがないですよ。巻貝さんにはあなたの記憶がないし、あなたももう、元の姿を思い出せないし、一度すっぱりと離れてみて、お互い心機一転新しい相手を……」


 まるで拗れた別れ話の相談に乗らされているような気分だ。……面倒くさい。この女々しい魔物を誰か何とかして下さい。


「絶対にいーやーだー」


「アーラ、何を差し出せば何を得られますか? ……でも、がっつり関わりたくはないです」


 うんざりしたシエラは、手っ取り早く羊の目をもつ魔女に助けを求めた。アーラはいつも以上に気だるげだった。


「……魔物は一度執着するとしつこいからねぇ」


 そう言って、テーブルの上にモザイクを描いている、色とりどりのランプの影に指を滑らせてゆく。まるで星座を結ぶように。

 くるり、くるり、と影が回転し始める。上を向いても天井がら下げられたランプが動いている様子はない。影だけが回っている。


「ふぅん……なるほどねぇ……でも、まぁ、これも経験……」


 小さな声で呟いて、アーラが眉間に皺を寄せた。そうしてから、テーブルに頬杖をついて物憂げな表情でシエラを見上げる。


「……え?」


 そのアーラの背後に、真っ白な腕が浮びあがった。その手に握られているのは禍々しく光る銀のナイフ。それがためらいなく魔女の首筋に振り下ろされる。

 時間が引き延ばされたような感覚。止めなければと思うのに体は全く動かない。ガシャンというガラスの割れる砕ける音と共にすべてのランプが消えて、世界が暗転する。


「魔女というのは本当に中途半端で哀れな存在ですね。人にも魔物にも、神にもなれない」


 暗闇の中で響いた印象的な声。目を開けているのか閉じているのかわからない闇の中にぼんやりと浮かび上がったのは、ほのかに発光しているイカの触腕に似た白く長い長い腕。


「主さまに新しい名前をありがとうございました。これでもうあなたは用済みです」


 白い手が一気にシエラに迫ってくる。逃げなければと思うのに、体は全く動かない。


「わが主は私だけのものです。体も心も記憶も全部私のもの。だから、消えてください。あの方の御心を乱す存在は跡形もなく排除しておかなければなりません」


 その声から敵意は全く感じられない。それなのに、大きく開いた手がぐっと首に押し付けられる。喉が詰まり息ができなくなった。

 まだ苦しくはない。だから、自分の起きていることに理解が追い付いていない。まるで現実味がないのだ。だが、今は平気でもすぐ苦しくなってくるはずだ。


 このまま首を絞められたら脆弱な人間は……


 どうしてか、頭の中で誕生日の歌が流れ始める。視界がブレる。シエラ自身が震えているのかもしれない。青白く光る腕に、誕生日ケーキの幻覚が重なる。丸く並べられた赤い苺、ロウソクに照らされたホワイトチョコレートプレートには、『おたんじょうびおめでとう』の文字。


 ハッピーバースディ、お誕生日おめでとう。

 さあ、ろうそくを吹き消して?

 一回で全部消さないとダメなんだからな。

 何だそれは、今はそんなルールがあるのか?


 拍手の中で懐かしい声たちが遠くなったり近くなったりする。


 ほらほら、早くしないと。クリームが溶けてきてしまうわよ。


 誰かがそう急かすから、ロウソクに向かってふうっと息を吹きかける。


「ジオード……」


 耳に届いたのは掠れ切った自分の声だった。強い力で後ろに引っ張られる。深い口付けと共に新鮮な空気が肺に流れ込んでくる。どうしてこんなことになっているのだろう。全くわからない。


 だんだん視界がはっきりしてくる。ジオードは男性姿だ。


「だめ……」


 ためらいなく角を折ろうとする手を掴んで止める。ジオードが泣きそうな顔をしているから、状況はかなり悪いのだろう。パキパキという音とともに、視界に黒い線が入ってゆく。


「だめだよ……補填したらまた削られる。これはそういう呪いだ」


 しびれたようになっている喉から無理やり声を絞り出し、シエラはジオードの頬に手を当てて微笑む。指先に細かな亀裂が広がってゆく。まるで割れた鏡に映る景色を見ているかのようだ。ひび割れた鏡面がはがれ落ち、風景が欠落してゆく。ジオードの姿もあっという間に見えなくなる。


 ――そして、粉々に砕け散る。


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