28 シエラと恋の話 その6(終)
『蛍石の森』からは暗い翳りが取り払われて、すべての物の色が以前よりも明るく見えた。
フリュオリネ(父)の配偶者である彼女を無事に取り戻せたなら良かったと心の底から思う。……鳥のままだけど。
「ままやめてっ。おにーちゃまがはげるー」
「おかーさんやめて。お願いもうやめてあげてっ。お兄ちゃんすごく反省してるから」
ミモザとスピカが一生懸命黒い鳥の足を捕まえようと奮闘しているが、鳥は二人の手を簡単にすり抜けて鋭い嘴でフリュオリネ(兄)の髪をむしり続けている。むしられている方は、地面に額を擦りつけた土下座状態だ。
――ようやく記憶を取り戻して最初に目にした光景がコレ……
「……なぜに?」
シエラはがっくりと肩を落として呟いた。
「貴方には大変申し訳ない事をした。すまなかった」
土下座状態で謝罪しているフリュオリネの両脇で、目にいっぱい涙を溜めたミモザとスピカもシエラに向かって三つ指ついた。
「おねーちゃん、おにーちゃまがごめんなさいぃぃぃ」
「お姉ちゃん、お兄ちゃん、本当に反省してるから、許さなくてもいいから謝罪を受け入れると言ってあげて。お願いっ」
そう言ったスピカの頭の上にどんっとのっかった黒い鳥が、怒りで目をぎらつかせながら長男の頭髪をむしり続けている。二、三本咥えて引き抜いて、ぺっと吐き、また数本咥えてはぺっと吐き……
正直言って、そっちが気になってしまって謝罪の言葉が右耳から左耳に抜けて行く。
「もういいです。もう十分です。謝罪を受け入れます。なので、もう本当にやめてあげて下さい。カール君お願い止めて」
どうして謝罪されている方が、加害者になった気分に陥っているのだろう。見ているだけで頭皮が痛くなってくるので、シエラは少し離れた場所に立っているカールにお願いしてみた。
「大丈夫だよシエラ。髪はまた生えてくるから……たぶん」
カールはとても素敵な王子様の笑顔でそう言った。「たぶん」と付け加えた声が普段より低かった。
「ふ……フリュオリネさん、止めてあげて下さい」
フリュオリネ(父)は、曖昧に笑ってシエラからすっと目を逸らした。
「まぁ……そのうちに………………」
フリュオリネ(兄)がシエラにやったことに対して二人が大変怒っているということはよくわかった。
しかも、二人はスピカとミモザにここまで庇われている長男を見て……かなりイラっとしている様子なのだ。
妹たちが、この森で大変愛されていることがわかってよかった。……よかったからもう終わって欲しい。こっちは記憶を取り戻したばかりなのだ。刺激が強すぎて頭がくらくらする。
それに――
「も、もういいです。もう本当にいいです。私もひどい事を言ったんです。だから私も罰を受けます!」
勇気を振り絞ってシエラは自己申告する。ピタッと動きを止めた黒い鳥が、ばさばさっと大きく翼を羽ばたかせてシエラの元に飛んでくる。覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた途端――
こつん。嘴で右のこめかみを軽くつつかれた。爪先で弾かれたのに近い感覚だった。そして肩がずしっと重くなる。目を開けて横を見ると、「これで許してやる!」とばかりに黒い鳥は大きく頷いて、スピカの頭の上に戻り、再び容赦なく長男の髪をむしり始めた。
自らが不在の間に長男がやらかしてしまった事に対して……どうにもこうにも怒りがおさまらないという感じだった。
つまりこれは、母親が息子を叱り飛ばしている図、ということになるのだろう。
……暴力反対。でも鳥は喋れない。
(うん、嘴でつつき回すというよりは、優しいのかもしれない……)
人間で例えるなら、怒り狂って説教している母親の足元で、正座させられている息子という感じなのかもしれなかった。
「おかーさん、もう本当にやめてあげて。お兄ちゃんも、修行僧みたいに耐えてないで、少しは抵抗してよっ」
「おにーちゃまがはげる~」
スピカはとうとう怒り出して、床に額をつけたままのフリュオリネ(兄)の背中をゆさゆさと揺すっているし、ミモザは握りしめた手で顔を覆ってわんわん泣いている。黒い鳥はぺっぺっとむしり取った髪を辺りに巻き散らかし、その様子を笑顔のカールとフリュオリネ(父)が不機嫌オーラ全開で見守っている。記憶も無事に戻ったことだし、そろそろ事務所に帰ってもいいだろうか。と、シエラは思った。
そんなことがその後数十分間続き、それでようやく気が済んだのか、黒い鳥はフリュオリネ(父)の肩に移動した。
「十円ハゲどころの話じゃない……赤くなってる……痛そう……」
スピカが、フリュオリネ(兄)の髪を指で漉きながら悲し気な声で呟いている。
「おにーちゃま、ちゃんと毛はえる? 元にもどる?」
フリュオリネ(兄)の背中におぶさるようにしがみついているミモザは、泣き腫らした目でスピカに尋ねていた。
それを見てもカールやフリュオリネ(父)や、黒い鳥のように特にイラっとしたりはしないので、きっと謝罪してもらえた時点で、一旦気持ちに区切りがついたのだ。
というか、一方的に母親から怒られている子供を見かけて「まぁまぁお母さん、もうその辺りで……」と言いたくなる、あの感じ……
ただ、謝られて許してそれでおしまい、という訳にはさすがにいかない。
でも、何となく……シエラにはわかってしまったのだ。ノヴァに喰われかけているシエラを助けに現れた時、『ずっと嫌っていろ!』と言い放った時の彼の気持ちが。
兄の睦月もそういう不器用なところがあった。だから、ミモザとスピカはフリュオリネ(兄)にとても懐いている。……似ているのだ。
許してもらおうなんて思っていないから、謝らない。
こちらから謝ったら、絶対に許さないと思っている相手の負担になるかもしれないから、謝らない。
結局謝っても自分の気が済むだけだと思うから、謝らない。
相手は自分の顔なんかもう見たくもないかもしれないから、謝らない。
……いや、ぐちゃぐちゃ考える前に、まず誠心誠意謝れ。
はあああっとシエラは深いため息をついた。ここにいるのは全員魔物だが、誰もシエラの心を読んだりしないから気が楽だ。
「スピカと私の記憶の精製をして下さたと聞きました。ありがとうございました」
土下座状態で力尽きているフリュオリネ(兄)にそう声をかける。
魔女に記憶を奪われてしまったスピカには、シエラの記憶が貸し出されていた。
そのため、魔女から取り戻された記憶と貸し出された記憶を一度混ぜて、中身を一切見ない状態で振り分ける。という大変面倒な作業をする必要があったのだ。それをフリュオリネ(兄)は一人で行ったらしい。
彼のお陰で、シエラもスピカも違和感なく『自分の記憶』を取り戻している。
シエラとスピカは、同じ姿と記憶を共有していても違うものだ。
だから、きちんと分けてもらえたことにとても感謝している。
「いや……それは……別に……貴女に感謝されるようなことじゃない」
フリュオリネ(兄)は、何やら口をもごもごさせてふいっと横を向く。
こちらが歩み寄ってるんだから、引くな。
とはいえ、そういう反応が返って来るだろうなという気はしていた。
睦月は、精神的に追い詰められたり気が動転すると、変な方向に暴走しがちだった。
目の前の魔物も、何を犠牲にしてもこの『蛍石の森』を守らなければいけないと、思い詰めていた。そういうことなんだろうな……と、察してしまう自分が辛い。
そして、彼はこの先もずっとシエラに対して負い目を感じ続けるに違いないのだ。別れた彼女のことを、睦月がいつまでもいつまでもいつまでも忘れられなかったように。
あの時ああすればよかったとか、ああ言えばよかったとか、いつまでもぐちゃぐちゃ考えて引きずって……やめよう。これ以上は苦しくなってしまうから。
こんなにもはっきりと思い出せるから、大丈夫。そう自分に言い聞かせ、口角をぐいっと上げる。
いつか必ず願いは叶うと信じている。目を閉じると見える鮮やかな赤。その色がいつもシエラに前に進む勇気をくれる。でも、これは恋愛じゃないから大丈夫!
「お姉ちゃん……」
心配そうな顔で声をかけてきたスピカに、大丈夫だと笑ってみせる。
「ミモザとスピカのこと、よろしくお願いします。私は……ずっと兄にべったりだったので」
今はこれが精一杯。後は時間が過ぎるのを待つしかない。
いつか……あの時のことを笑い飛ばせる日がくるのかもしれない。
相手の反応を確かめることなく、シエラはフリュオリネ(父)の肩に乗っている黒い鳥を見上げた。
「もう、元の姿に戻られるおつもりはないのですか?」
結晶の中で微笑んでいた美しい女性の姿を心に思い描きながら尋ねる。鳥は大きく頷いて、夫の耳の辺りに頭をすり寄せた。
黒い鳥の心は誰にも読めない。どのくらいの知能があるのかもわからない。そうスピカは言っていたが……やってることをみれば、全部わかっているのではないかなという気がしてくる。
「この姿だと、余計な記憶を抱えなくて済むから楽なのかもしれないね。……それに、本人もこの姿がとても気に入っているようだ。私もとても美しいと思うよ」
フリュオリネ(父)の言葉を聞くや否や、鳥は慌てて羽づくろいをしはじめる。
魔物は忘れることができない。『鏡と仮面の森』で見たゴミが降り注ぐ埋立地のように、記憶は溜まり続ける一方だ。いっぱいになる前に手放さなければ、最悪自己崩壊を起こしてしまう。
古い記憶は、対価を払って魔女に引き取ってもらうか、他の魔物に捕食してもらうか、罰則覚悟で不法投棄するしかない。ただ、魔女の本質は騙し奪うものだから、魔女を相手にするならば、騙されるかもしれないという覚悟が必要だ……
――でも、終わりよければすべてよし。
一度事務所に戻ってから、次の森に移動する。
「一応お伺いしたいのですが、なぜに見合い写真はあれにされたのでしょう……」
『あーうんあれね。ウケるかなと思って? 私は、できれば私の笑いのセンスを理解してくれる人がいいなと思ってるんだよね』
どこからともなくモーターの音が聞こえてきていた。他に誰もいない水族館の青い光の中で、シエラは巨大な水槽の前に座っている。まるで体を半分にぶった切られたような魚は、足を大きく動かしながら優雅に泳いでいる。
シエラはお見合い写真に写っていたスーツを着た魚を今でも鮮明に思い出すことができる。そうやってひとつひとつ確認すると安堵する。ちゃんと記憶が戻ってきたんだなと……
――アーラの占いで出てきた人魚とは、どちらの姿のことだったのだろうか。
『……じゃないと、お互いに不幸だよね。うん』
「そうですね」
シエラは真顔で頷いた。そうか、あれはテストのようなものだったのかと納得する。あれを受け入れられるか、受け入れられないかでふるいにかけられる訳だ。……受け入れるという選択をしたひとはいたのだろうか。
「うん……まだ一人もみつからない」
……でしょうね。わざわざ声に出す必要もないので、心の中で強めに返しておいた。いきなりあれはハードルが高すぎる。
「いつもコレじゃないんだよー。ゆっくり話をするにはいいかなって。気に入ってもらえたならよかったなぁ。魚だったら何でもなれるよー」
のーんびりとした口調が青い世界の中で何とも心地いい。マンボウは確かに見ていて癒される……が、とりあえず足はいらん。
「一番最初にお会いした時は、狼さんでしたね。命の危険を感じました」
「うん。その反応がすごく嬉しくてね。息を飲むくらい綺麗で怖いって思ってくれたでしょう? だからもう一度会いたいなって思ったの。お魚の時はどう感じてくれるのかなーって。……僕も孔雀さま程ではないけど、二面性があるもんだから、あんまりにも違いすぎて疲れちゃうみたいで。狼は大丈夫だけど魚は無理とかその逆とかね」
確かにまるで裏と表だ。狼の時は本能的な恐怖で足が竦んでしまうくらい、美しくも恐ろしい存在だった。シエラはディーの後ろに隠れているしかできなかったのだ。とても目を見て話せなかった。でも今は……まぁ……怖くはない。
……でも足はいらん。
「すみません……私も狼のお姿の時は、怖いですね」
「こっちの僕を受け入れられるひとは大抵そう……」
「受け入れてないです」
強めに訂正しておいた。勝手に受け入れたことにしないで頂きたい。……くどいようだが足はいらん。
「狼の姿が好きなひとたちは、魚の僕が許せないみたいでねぇ。見るのも嫌みたいな感じになっちゃう。ずっと狼の姿にしておく方法はないかとか勝手に探し始めたりして。そういうの僕は望んでないのにねぇ。どっちも僕だ」
確かに理想の押し付けは良くない。……だが、足の生えたマンボウを許せないひとたちの感覚を完全否定することはシエラにはできなかった。
「魚から陸に上がって狼になって、それからまた海に戻るんですね。クジラみたいに。そしてまた魚に戻る。そのくり返し。なかなかドラマチックですね」
「ありがとうー。なんか嬉しいなぁ。晶洞の森の彼はいいひとをお嫁さんにもらったねぇ。独り者の統治者がまたひとり減って、ちょーっと焦りを感じる部分はあるんだけどね……でも、僕もじっくりと探すよ。僕と一緒のタイミングで笑ってくれるひとを」
マンボウは水槽の中をくるりと一回りして、シエラの前でゆっくりと瞬きをした。
(うん。そこは妥協しない方がいいと思います)
シエラは相手の目を見てしっかりと頷いた。
この世界のどこかにきっと、足の生えたマンボウや、スーツを着た魚を受け入れてくれる人がひとりくらいはいるであろう。
「とりあえず、肺呼吸になっていただけると助かります。ここにサインください」
シエラは背負っていたリュックを下ろすと、中からファイルとボールペンを取り出して、水槽の前に翳した。
――何か、どっと疲れた。
闇の中に、様々な大きさの金の枠が浮いている。統治者の元に繋がっている鏡がどれなのか、シエラにはもうわからない。地面があるのは、統治者の彼がシエラに気を使ってくれたからに違いない。この配慮は大変ありがたい。
シエラは魚面人からサインをもらったファイルをリュックにつめると、魔除けの紋が縫い付けられたローブと眼鏡ケースを取り出す。
頭から被るようにしてローブを着て眼鏡を首にかけリュックを背負う。フードと眼鏡は外しておく。
これで出発の準備は完了だ。シエラはズボンの後ろポケットから守り石を取り出した。
「これで、図書館貸し切り利用料金の支払い関連は終わった。このまま『針と迷路の森』に向かうよ」
「……そういえば、サフィータがシエラに会いたがっていた。さっきは行き違いになったが、そろそろ事務所に戻っているかもしれない」
手の中の守り石が思い出したようにそう言った。対価が発生するので姿を現わすことができないのだ。省エネ月間だとか何とか上司は言っていた。青の騎士たちが襲撃してきた際に、剣のアザレが暴れて本部を壊したせいで西担当はお金がないらしい。
そのアザレは『硝子と忘却の森』の湖に沈んでいる。「しばらくほっとくことにした」と、キレ気味に上司が言っていた。一応気が向いたらそっちの様子も見てきてくれとは言われている。
「ここからだと事務所より『針と迷路の森』の方が遥かに近いんだよなぁ。でも、サフィータさん、忙しいよね。この機会を逃すと、次に事務所に戻ってくるのは何十年だか何百年後とかいう話だよね……」
何千年と生きる魔物と脆弱な人間なシエラでは時間感覚が違いすぎる。
自分がまだかろうじて人間だと仮定すると、次に多忙なサフィータが事務所に戻って来た時に、シエラの寿命が残っているかは微妙な所だ。
サフィータはこの『鏡と仮面の森』でルールーを演じながら、黒い鳥を探し回ってくれたのだと聞いている。彼女(?)にもきちんとお礼を言っておきたい。
「そういえば、守り石の魔物って、『針と迷路の森』の金色の毛並みの配偶者さん役だったんだよね? で、カール君がセリアナさん役だったって聞いたけど……」
セリアナが演じていたコトリは眠気が吹き飛ぶくらい可憐な少女だったが、カールの演じていたというセリアナも、気品に溢れたお姫様という感じだったに違いない。
一方、カールはお花畑な孔雀さんが演じていた。シエラも鏡を通してちらっとだけ見ることができたが、あれはあれで、大変可愛かった。
「……見たい」
真剣な目をして手の中の守り石に頼み込む。魔物は記憶を自由に出したり戻したりできるはずだ。
「カールの許可を取れ」
やっぱりできるらしい。
「にっこり笑って断られる気がする」
「だろうな。諦めろ」
守り石の魔物があっさりとそう言った。でもそう簡単には諦めきれないので、今度会ったら頼んでみようとシエラは心に決めた。
「……で、出口はどこだろう?」
次にどこに行くかは出てから考えればいいかと、出口を探して周囲を大きく見回していると、目の前にするすると矢印が書かれた案内板が降りてきた。本当にありがたい。
守り石を手に持ったまま、矢印に従って歩き出す。シエラが歩くと矢印も進む。周囲には金枠の鏡浮かんでいて、ローブを着たシエラの姿を映していた。赤い目の魔物のことを思い出して、チクリと胸が痛む。でも、彼のことばかり考えていると不機嫌になる魔物がいるのでほどほどにしておかなければならない。
多分、あの魔物には、何割か赤い髪のアザレの成分が混ざっていた。笑い方が少し似ていた。
と思った途端に悪寒がして、ぶるっと体を震わせる。
……やめよう。
シエラはぶんぶんと首を横に振った。自分の身の安全が最優先だ。上級者コースの急斜面から転がり落とされるのは遠慮したい。
「あれ……? 何か、引っかけてある?」
視界の隅でキラッと何かが光った気がして、シエラは目を凝らす。そして、少し離れた場所に浮かんでいる金枠の鏡の端から何かぶら下がっているのに気付いた。
近付いてみるとそれは、引きちぎられたネックレスだった。元々何色だったかはわからない。古い十円玉のように茶色く変色してしまっている。トップの部分は大半が失われてしまっているが、かろうじてバラの花だったであろう名残をとどめていた。僅かに残った花弁部分にも細かい亀裂が入っていて、今にも割れ砕けてしまいそうだ。
何となく気になってもっとよく見ようと顔を近付ける……と、バラの花の中心部分に、小指の爪くらいの大きさの蝶がしがみついていることに気付いた。枯れ葉色の羽根はもうボロボロでほとんど残っていない。
「うわっ」
シエラは顔を強張らせて後退る。黒光りする実は飛ぶ虫が壁にひっついているのを見つけた時と同じ反応になってしまった。蝶に罪はないのだが、シエラの中で蝶はあらゆる意味で嫌な記憶に結びついているのだ。
――おねがい。なまえを! はやくっ!
悲痛な声が頭の中に響く。バラのネックレスか蝶かどちらかわからないが、とにかく名前をつけろということらしい。はやくはやくと同じ声が頭の中で渦を巻いてシエラを急かす。
「え? ええええー?」
急に言われても困るのだが、例えば、こういうネックレスが似合うとしたら、大きく胸の部分が開いたドレスを身に纏った妖艶な女性とか、後は銀幕の大女優とか……
「ええっと……グレースとかヴィヴィアンとか?」
ぱっと思い浮かんだ名前を羅列する。
――よかった……まにあった……
再び同じ声が頭の中に響くと、力尽きた様に蝶が落下し始めた。
「……え?」
――つぎは、ぜったいに、あいされるがわになりなさいよって、つたえて?
反射的に手を伸ばして受け止めると、シエラのてのひらの上で蝶は光の粒子になって消えてしまう。
「……良かったな、事務所に戻る用事が他にもできた。拾得物の管理も森保の業務に含まれる」
シエラが茫然と空っぽの手のひらを見つめていると、反対側の手に握りしめた守り石からそんな言葉がかけられた。
がっくりと肩を落としつつ、金枠に引っかかっていたネックレスを、そおっと外して回収する。
多分これも、巻貝が姿を変えた砂時計やミモザが姿を変えた水ようかんと同じで、これ以上割れたり傷ついたりすると取り返しがつかないようなものに違いない。魔法の影響を受けやすいから、守り石の魔物に本部に送ってもらうこともできない。シエラが自力で持ち帰らないといけないのだ。
丁寧にハンカチで包んで、さらにジオードが洗濯したふわふわのタオルを緩衝材がわりにくるくると巻きつける。リュックの中にしまうのも不安なので、手提げ袋に入れて抱えて持ち歩くことにした。
宙に浮いている案内板が勢いよく回転して、止まる。矢印が指し示す方角に向かってシエラは歩き出す。
しばらく進むと、床の上に金枠の姿見が置いてあった。シエラはフードを被り首から下げていた眼鏡をかけると、鏡像の自分に向かって手を伸ばす――
「あれ? シエラ戻って来たんだ。……あ、蛍石の所で新しい印もらったのか」
三日かけて職員室風の事務所に戻ると上司は男性だった。相変わらずフードを目深に被っているのでどんな姿をしているのか全くわからない。
上司がとんとん、と自分のこめかみを指先でつついているので、シエラは同じ場所を指で触ってみた。丁度黒い鳥に嘴でつつかれた位置だ。
「そうそうその辺り。額にはジオード君の印があるし、剣のアザレにスピカちゃんミモザちゃん、カール君と、あと他の統治者や配偶者たちの印もついてるから、なかなか派手な感じになってきたねぇ。まぁ……真ん中にあるジオード君の印が大きすぎて余白が少ないからしょうがないよね」
「ちょっと待ってください。私の顔今どうなってるんですか!」
「落書きだらけ?」
はあっ? と思わずシエラは素っ頓狂な声をあげてしまう。
「なぜにそれを私は自分の目で確認することができないんですかねぇ」
「超強力な魔法をジオード君がかけてるから。どうしても見たければジオード君に頼んでみたら? ま、世の中には知らない方がいいこともたくさんあるけどね」
一気に疲労が両肩に圧し掛かってきた。記憶が戻ってからそんなんばっかりだなとシエラは思う。とりあえず、シャワー浴びて髪を洗いたい。そして一度帰ってちゃんとしたごはんが食べたい。携帯食は相変わらずマズかった。
「きれいにまとめようとしないで下さいよ。……あ、落とし物拾ったんで、その報告のために寄りました。確認お願いします。報告書書く前にシャワー貸りてもいいですか? あとサフィータさんもう行っちゃいました?」
相変わらず上司のデスクの上は積み上げられた書類の山に占領されている。シエラは応接セットソファーにリュクと手提げ袋を置くと、ぐるぐる巻きのタオルを取り出した。テーブルの上に乗せ、細心の注意を払いながら巻いてあったタオルを外してハンカチを開く。怖くてあれから一度も確認していなかったのだが、ネックレスは『鏡と仮面の森』で見た時と同じ状態だ。ハンカチに金属片がひっかかっているということもない。
「…………っ」
背後で上司が息を呑む音がはっきりと聞こえた。え? まさかコレ危険物なのか? と、シエラは慌てて振り返る。
「危険物じゃないから心配しなくていいわ。おつかれさま、ゆっくりシャワー浴びてきてね。サフィータは今席を外してるけど、しばらくは事務所にいる予定。……で、守り石出してくれる?」
上司の声は一瞬にして女性に変わっていた。妙に明るい声でそう言われ、何となく誤魔化されているような気がしたが、どうせ聞いても何も教えてもらえない。
シエラはズボンの後ろポケットに入れてあった守り石を取り出して上司に手渡した。
定時になっても、どこかに行ったまま上司は戻って来なかった。
書き終えた報告書は仕方がないので、応接セットのテーブルの上に置いておく。時間になったら帰っていいとは言われていた。
引き戸を開けると炊き込みご飯の匂いがするジオードが立っていた。
「お帰り、ごはんできてる」
思わずシャツに顔を近付けくんくんと匂いを嗅いでしまう。何だか泣けてきた。中級者コースくらいならいってもいい。
「ジオードすき」
「……安いな」
呆れ声でジオードはそう言って、シエラの背中に手を回す。顔を上げるとそこはもう晶洞の森だ。奥に見える洋館から白いドレスを着たノジュールが飛んでくるのが見える。
お気に入りの場所であるシエラの頭の上で腹ばいになった魔物は、上機嫌でぺちぺちとシエラの額を叩き始めた。
「ただいま、ノジュール」
頭に手をやって、ちいさな魔物を頭を撫ぜる。しみじみ思う。記憶があるって素晴らしい。
ジオードと手を繋いで、ノジュールを頭に乗せて。そんな毎日がこれからも続いていくことを、いつしか願っている。
そこに罪悪感を感じることも、もうない。どうしたって時間は過ぎてゆく。
それでも、絶対に忘れないから――
泣いてなかったよ。元気にしていたよ。美味しいご飯も食べてたよって。いつか、会えた時に全部話すよ。
だから待っていて。必ず会いに行くから。どんな姿になっていてもちゃんとわかるから。
心に浮かぶ面影ひとつひとつにそう声をかける。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「ただいま、ジオード」
色違いの目をまっすぐ見つめて、笑顔でそう言ってから、ぎゅうっと腕にしがみつく。
ジオードが少し驚いたような顔をするのがおかしくて、ついつい笑ってしまう。
「おなかすいた。今日のごはん、なに?」
「炊き込みご飯と、お吸い物。あと、ほうれん草のお浸し」
「全部だいすき。ありがとう!」
「……知ってる」
大変珍しい事に、ジオードは少し照れたような顔になってふいっと顔を背けた。