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27 シエラと赤い目の魔物 その2



(え? ええ? どういうこと?)


 足元は落ち葉の積もった濡れた山道だ。バケツをひっくり返したような雨が降っている……一瞬にして池に落ちたかのようにびしょ濡れになってしまった。慌てて雨宿りする場所を探そうと歩き出すと同時に、ひょいっと前足の付け根とお尻をすくいあげられた。


「黒猫さん、濡れてしまいますよ」


 黒猫シエラの目を覗き込んだのは、美味しそうな葡萄色の目をした可愛らしい少女だった。雨除けのために頭からすっぽりフード付きの雨合羽を羽織っている。


「……あ、シエラさんなのですね。ふふ……可愛らしいお姿ですね」


 少女は首輪を確認すると、黒猫シエラを抱えたまま、近くにあった山小屋のような建物に向かって歩みを進めた。建物の中には入らずにぐるりと壁伝いに歩いて外階段を上る。屋根付きのテラスには調理用を兼ねた小ぶりの薪ストーブが置かれていた。やかんからあたたかそうな湯気が立ち昇っている。


 何もかもすべて洗い流そうとするかのような雨のせいで、周りの景色は全く見えない。


 雨に濡れたローブをハンガーにかけると、少女はストーブの隣に置いてある椅子に腰を下ろした。首に巻いていたストールを外して、膝の上のシエラを包み込み丁寧に体を拭いてくれる。柔らかい布の肌触りとストーブの熱が心地良い。


 さっきまであんなに冷たかったのに、すっかり体が乾いた今はとても暖かくて眠たい。もう何とでもしてという感じでだらーんと少女の膝の上で体を伸ばす。


「せっかくこうしてお会いできたのに、今は記憶がないのでしたね。残念です……色々お話したいことがあったのに」


 悲しそうな声だ。もしや、彼女はずっとひとりきりでここにいたのだろうか。こんな大雨の中、話し相手もいないなんて、寂しすぎる。

 黒猫シエラは頭を上げると「いいよ。お話いっぱいきくよ?」という気持ちを込めてじいっと葡萄色の瞳を見つめた。だから、もっともっと撫ぜて下さいと背中に置かれた手に体をすりつける。だんだん心も黒猫に近付いているような気がするが大丈夫なのだろうか。


「手触りが全く違いますね。柔らかい。かわいいです……」


 ――いいえ可愛いのはあなたです。


 そんなことを思いながら目を閉じた。話を聞くとか言いつつも、あっという間に眠りの世界に誘われてしまう。猫なので。


『お話……してください……ちゃぁんと、起きてま……ふ……』


 にゃあ……にゃあ……にゃあ……


 くすくす笑う声が耳に届く。黒猫シエラは安堵の息をついた。彼女の孤独を癒せたのなら、猫になった甲斐があったというものだ。……うん。鏡に向かって投げつけられたけど。


「シエラさん……わたくし自分で思っていた以上にヤキモチ焼きだったみたいなのです。あの方が他の女性とちょっとお話しするだけで不安になって……ついついくしゃみの魔法をかけてしまうのです。……困りました」


 重い瞼を上げると、少女が恥ずかしそうに頬を赤らめている。その可憐な姿に一瞬にして心を奪われ、少し目が覚めた。

 いやいや、こんなに可愛くヤキモチを焼いてくれるならば、相手は相当嬉しかろう。これは、自分には絶対にできない芸当だ。……まぁ関係ないけれど。猫だし。猫だっけ? ……まぁいいや。


『そういう……時は、襟に……キスマークですよ』


 にゃあ……にゃあ……にゃあ……


 半分寝かかっているシエラはあまり深く考えずにアドバイスした。心が読めないかもしれないと気付いて、伸び上がって紺色のタートルネックにキスをしてみせる。


『ちょっとがんばれば……身長差あっても……届きま……す』


 にゃあ……にゃあ……にゃあ……


 少女の顔がみるみるうちに真っ赤になる。衝撃的なくらい可愛かった。再び眠気が吹き飛んだ。


「……そ……それは、わ、わたくしには、む……りかも……です」


 震え声で少女はそう言うと、ぎくしゃくとシエラを抱き上げて立ち上がり、自分が今まで座っていた椅子の上に下ろす。そして、真っ赤になった頬を誤魔化すように、少女はストーブの前にしゃがんで薪を足し始めた。火が大きくなればあたたかくなる。あたたかくなると眠たくなる……猫だから眠い……ねむい……ねむい……


 椅子に戻って来た少女はシエラ膝に乗せ、炎で温められた手で優しく背中を撫ぜてくれる。

 雨音に時折薪が爆ぜる音が混ざる。しゅんしゅんっと、やかんの中でお湯が沸いている。少し離れた場所から、別の音が聞こえてきた。何だろう。と、黒猫シエラはピクピクと耳を動かす。

 誰かが階段を上って来る。お客さんですよと知らせるために、黒猫シエラは大きく尻尾を振った。足音が止まると同時に、背中を撫ぜていた手も止まる。


「あの頃、空を飛べる獣になりたいと思っていた。そうすれば、どこにいてもすぐに君を迎えに行ける……こんな風に」


 穏やかで優しい声が雨音を遠ざける。彼女の好きな人は、ちゃんとここまで迎えに来てくれたのだと黒猫シエラは安堵した。

 ……でも、困った。もう少しこの居心地がいい膝の上で眠りたい。ここは譲らなければと思うのに瞼が重い。ねむい……でも、おりないと……馬に蹴られる。


「わたくしも領域の管理者ですから……そう簡単には」


「それでも、ひとりで泣いていないだろうか、辛い目にあっていないだろうかと心配で仕方がないんだ」


「……はい。……えっと……あの……迎えにきて下さり、ありがとうございます。ひとりは寂しかったので……嬉しいです……」


 声が緊張しているのは、先程のアドバイスのせいかもしれない。


(襟ですよ襟)


 そう心の中で念じて床におりた。ストーブで温められた床はほんのりとあたたかい。丸くなって目を閉じ、応援するように尻尾を大きく揺らす。すると、覚悟を決めたようにすっくと立ちあがる気配があった。


「………………え?」


 戸惑ったような男性の声。

彼女はちゃんとできたのだろうか。……甘くくすぐったいような雰囲気がその答えのような気がするけれど。

 色々想像して、ちょっとにやけそうになってしまう。これこそまさに、ニヤニヤ笑う猫、だ。そんな幸せな気分でまどろんでいると、黒猫シエラは穴に落ちた。


『なぜにー!』


 にゅあー


 情けない鳴き声を上げながら、闇の中を落下する。目の前から急速に遠ざかってゆくのは金枠の鏡だ。顔から血の気が引く。お腹の辺りがスース―する。思い出した。飛ぶのは苦手なのだ。

 シエラの周囲には様々な物が落下している。ランプに鐘にテトラポット。インク瓶に蒸篭にアルバム……遥か下に見える地上部はまさに、ゴミの埋め立て場だ。

 あそこに落ちて埋まるのは絶対に嫌だと、黒猫シエラは手足をじたばたさせた。滅茶苦茶に空を掻いているだけだったが、それでも体は少しずつ前へと進み、落下中だったソファーに前足が触れた。これは使えるかも! と、爪を立ててソファーによじ登り、背もたれを駆け上がって思いきりジャンプする。


 しかし、空中に捕まるところなどある訳もなく……


「落ちたくないんだ。じゃあ一緒においで」


 声のした方を振り返ると、何匹もの蝶を白いシャツにまとわりつかせた青年が、黒猫シエラと一緒に落下していた。とりあえずその顔を見た瞬間ものすごくムカついたため、思いっきり頬に猫パンチを食らわせてやろうとしたのに、あと数センチ届かなかった。


「なぜに!」


 唇から飛び出したのは、ちゃんとした言葉だった。握りしめた拳も人間のものだ……が、シエラの意識がまともだったのはそこまでだった。


「むり、むりむりむりっ」


「落ちるのが嫌なら捕まるといいよ」


 足を組んで座っているような状態で優雅に落下している青年が、シエラに向かって甘く微笑み両手を差し出す。


 落ちるのは嫌だがこの手を取るのはもっと嫌だ! 


 何か言い返してやろうかと思った途端に遥か下の方から声が聞こえてきた。


「魔物に会ったら沈黙!」


 その言葉にぐっと唇を噛みしめ、声の主の姿を確認しようと下を向いたのが失敗だった。逆立ち状態となり落下速度が一気に上がってしまったのだ。地面から何かが浮き上がり迫って来る。徐々に大きくなってゆくのは金枠の鏡だ。中には大きく両手を広げた赤い目の魔物が映っている。やがて鏡はシエラだけを飲み込んだ。


 先程の場所に戻って来たのだということはシエラにもわかった。真っ暗な闇の中に、大きさの異なる金色の枠の鏡が浮いている。そこに何が映し出されているのか確認する余裕などある訳がない。


「無理! 気持ち悪いっ吐きそう。もう無理っ。ほんと無理。もうやだっ。やっぱり飛ぶのきらいっ。むりっ。これ以上はぜったいむりっ」


 抱きかかえられたと思った瞬間に相手にしがみつく。胃の中には何も入っていない筈だが、気持ち悪くて吐きそうだ。


「こわかったこわかったこわかったついでにきもちわるいーっ」


 目に涙が滲む。何か叫んで気を紛らわせないと、本当に吐きそうなのだ。


「わかった。わかったから、少し我慢して」


 額に唇が触れると、少しずつ吐き気と眩暈がおさまっていった、シエラが顔を上げると、心配そうな赤い目の魔物と至近距離で目が合う。彼はきまり悪そうに、抱きかかえていたシエラをおろした。

 地面におりたような感覚があったことに安堵するが、実際は宙に浮いている。そこは考えてはいけないのに……考えてしまった。浮いているということは、いつか落ちる。


「もう帰るっ」


 シエラは癇癪を起こした幼い子供のように泣きながら叫んだ。足元に地面がない場所は嫌だ。まだキノコのように地面から生えている方がマシ。


「無理っ。飛ぶの無理。絶対無理。もう嫌だ帰ろう今すぐ一緒に晶洞の森に帰ろう」


 腕にしがみ付かれた赤い目の魔物は、困ったなという顔をしてため息をついた。


「あのね、もう、余白がほとんどないから……」


「そんなの知らんっ。今すぐ一緒に帰るっ」


 言いかけた言葉を遮り泣きながら訴える。どれだけ嫌な役を演じてみせても、結局、彼はジオードの分身なのだ。


「好き。愛してる。だから帰ろう」


 これで対価は払ったから、さっさと願いを叶えろ! と、相手を睨みつける。勢いで告白までできるようになった。色々あったから恋愛面で成長したのだ。もうそういうことにしてしまえ!


「安いなぁ。……でも、僕はその願いを叶えてあげられない。ごめん。もう本当に余白がないんだ」


「これだけの対価払わせといて、つべこべ言うな!」


「……欲張りだね」


 ふっと笑って、魔物は顔を近付けてシエラの瞳を覗き込んだ。そして「何が見える?」と、優しく尋ねる。


「忘れ去られるというのは消滅を意味する。ならば、僕の事は忘れないと君は言うだろう。でも、それでもどうしようもないことはある。ジオードは『もの』に『たましい』を与えることができる。そして、ジオードにできることは配偶者である君にもできる。でも、与えられるのはあくまで仮初の命だ。小さなメモは文字で埋め尽くされれば、役目を終える」


 ルビー色の瞳の中に一枚の便箋が見えた。それが何であったのか今のシエラにはわからない。ただ、喉の奥に熱がせり上がってきて、恐怖とは違う涙が頬を流れ落ちた。


「赤い髪の彼は最後の最後まで、同じ痛みを抱えている君のことを気にかけていた。その想いがここまで君を守ったね。……やっぱり面白くはないな」


 すっとシエラから体を離して、赤い目の魔物は背後を振り返る。彼の背後にある鏡に映っているのは夥しい数の蝶だ。それらが必死に表面のガラスを破ろうと体当たりを繰り返している。ピシっと言う音が聞こえ始める。細かい亀裂が入り……それが大きく広がってゆく


「君は絶対に忘れない。だから、これでいいんだよ」


 赤い目の魔物が、手を上に伸ばして何かを引き下ろすような仕草をすると。金枠の姿見が落下してきた。まるで、シエラを守るための盾のように。

 目の前にあるのは鏡の裏面だ。その前をはらりはらりとひるがえりながら白い便箋が落ちていった。そこに書かれていた『丸坊主』という文字がかろうじて読めただけ……

 便箋はやがてぼんやりとした白い光のようになって、シエラの足より下の闇の中を落ちていった。どこまでも……どこまでも……


「……危ないから、もう少し下がっていなさい」


 のろのろと顔を上げた時、シエラの目の前にあったのは金枠の鏡の裏面ではく、渦巻きと多角形を組み合わせた複雑な模様だった。

 背中を向けているため顔は見えないが、背の高い金の髪の男性だ。金色の刺繍が施された紺色の軍服を身に纏っている。彼はシエラを背中に庇うようにして、今にも割れ砕けそうな鏡と対峙していた。

 ガシャンという音が響き渡り、鏡の中から蝶が後から後から飛び出してくる。シエラはそろりそろりと後ろ歩きで後退した。


「また君か。亡国の王子様」


 金の枠だけになった鏡の中から出てきた白いシャツを着た魔物は、うんざりした声で言った。蝶たちは、魔物を守ろうとするかのようにつかず離れずの位置を飛び回っている。一緒に宙を落下していた時よりもその数は随分増えていた。


「またおまえか、貪食の魔物」


 それよりもさらにうんざりした声で言い返しながら、軍服の男性は耳の横を飛ぶ蚊を払うような仕草をした。

 魔物の上に雨のように金の針が降り注ぐ。

 針は魔物本体を傷付けることは出来ないが、魔物に纏わりついた蝶たちを次々に刺し貫いていった。翅を貫通した針が光り輝いて爆ぜる。美しい花火のように後には煙だけが残る。その煙が白いシャツの魔物の周辺を漂っているため、彼の姿がぼんやりと霞む。……あれが害虫退治の燻煙剤だったらいいのに。


「雑草のように、何度刈っても何度刈っても生えてくる」 


 金の髪の男性が低く掠れた声で呟いた。黒光りする虫よりは、幾分かマシな例えだなとシエラは思った。こういう所に育ちの差が出るのかもしれない。


「そこにいる彼女のおかげだね。メモ程度でも十分だ。飛び散った記憶をかき集める方法などいくらでもあるか……」


 言い終わるのを待つことなく、紺の軍服の男性は剣を抜いて大きく振った。リィン……と風鈴のような音が響く。剣身に輝く金の模様は軍服の背中の刺繍と同じものだ。魔物は宙がえりをするようにして大きく後方に下がる。

 軍服の男性が一気に間合いを詰めて剣を振り下ろす。魔物は後方に回転するようにしてぎりぎりで避ける。涼やかな音が鳴ると、魔物の顔が大きく歪んだ。


「相変わらず厄介な剣だ」


「私には『彼』のたましいが宿っているからな」


 身をかがめて踏み込み、剣を横に薙ぎ払う。切っ先が魔物の胸元を掠める。リィンという音と共に、切り裂かれたシャツの上に金色の渦巻き模様が浮かび上がった。魔物の体がびくっと震えて硬直する。

 勢いよく突き出された剣が渦巻き模様ごと魔物の心臓を貫くかと思われた瞬間――二人の間に蝶の形の魔法陣が出現し、剣先を押し戻す。今度は金の髪の男性が後ろに下がった。

 魔法陣は緑色にぼうっと発光し……まるで両開きの扉が開くように中心部がずれる。何かが出てこようとしている。ホラーは嫌だなとシエラは思った。


「ここで扉を開けば我が領域への不法侵入とみなす。――去ね」


 空間に響いたのは威厳に満ちた声だった。シエラのすぐ右隣に『鏡と仮面の森』というプレートのついた金枠の鏡が浮いている。映し出されているのは、青白く輝く狼だ。


「永らく不在であった我が主を迎えに来ただけです。ご容赦下さりますよう」


 魔法陣の蝶の体の部分が僅かに開いて、肘から先の手だけが隙間からにゅっと現れた。女性のようでもあり男性のようでもある耳に心地よい不思議な声だった。手は白く艶めかしい。それが……妖怪のようにぐにゃりと伸びた。やぱりホラーじゃないかと、シエラは顔を引きつらせる。イカの触腕にも似た長い長い腕は、白いシャツの魔物に巻きつくと、そのまま魔法陣の中に引きずり込もうと引き寄せ始めた。

 ホラーは嫌いだが、あれを持って帰ってくれるのなら非常にありがたい。


「……意外と早かったなぁ」


 やれやれといった表情の、魔物は抵抗もせずされるがままだ。


「主さまの戻られた『沼』は程なく元の姿に戻るでしょう。森林保安協会の方には改めて後日ご連絡差し上げます。……ああ、ようやく……ようやく見つけた。私の心臓、私の記憶、私の思い出……私の新しい名前」


 白い手はうっとりとした声でそう言って、愛おしそうに魔物の頬を撫ぜた。


「保安官の派遣を申請するよ。君を指名したいな」


 魔物がシエラに向かって片手を差し出す。誰が行くか! とシエラは心の中で言い返した。


「では保安官殿、その時にまた改めて」


 気取った仕草で一礼した魔物はそのまま魔法陣の中に引きずり込まれていった。ほどなくして魔法陣も消え失せる。もう二度と出てくるな! とシエラは心の中で強く念じた。


「……いやぁ、お迎えが来てくれてよかったよかったぁ」


 ぼそりと隣からそんな声が聞こえた。ころっと声が変わった事に驚いて鏡の中を覗き込む。そこに映っていたのは狼ではなく……人間の足がはえたマンボウだった。


 なぜにこうなる……


 シエラは虚しさに耐えながら、ただ黙っていることしかできなかった。


「ここ、笑う所だよー?」


「すみません。無理です」


 ……さすがに、このセンスにはついていけない。


 そんな会話を繰り広げている間に、金の髪の剣士の姿は消え去っていた。


「君にもお迎えが来ていますよー。記憶が戻ったらまたおいでませー」


 陽気な声と同時に、勢いよくシエラの頭の上に金枠の鏡が落下してきた。

 奇術師のマントが落ちるように、一瞬にして世界は変わる。そこはもう、晶洞の森に建つ洋館の玄関ホールだった。

 ちゃんと床がある。それだけのことで、ああ、生きているのだと実感できる。地面は大事だ……などと現実逃避をしながら、シエラは嫌々顔を上げた。


 目の前に立っていたのは白い髪の美女だった。女性の時は、柄の悪さは三割減。……だが、前回同様、目を吊り上げて怒っている美女というのは大変迫力があった。


「浮気者」


 第一声はそれだった。意味がわからない。


「どっちが!」


 泣きそうな顔でシエラは言い返す。こっちだってすごく嫌だったのだ。他の女の人に笑いかけたり、触れたりするのを見るのは、想像以上に辛かった。まるで、氷でできたネジをぐりぐりと心に捻じ込まれているようだった。冷たさで麻痺したと思ったら、思い出したように鋭い痛みに襲われる。


 他の誰かに甘く微笑みかけないで、優しく触れないで。

 放置された油汚れに似た感情なんて抱えていたくないのに、恋愛初心者のシエラには、それを捨て去る方法もわからない。


 ――それでジオードは女性の姿なのか。と、シエラは気付く。


 その気遣いも、いかにも慣れている感じがして腹が立つ! 


 ため息をついたジオードの姿が男性に変わる。口の中に苦いものが込み上げる。平気なふりなどとてもできない。この独占欲はいったいいつ生まれたものだろう。このどろどろとした気持ちは心の中に居座り続けるのだろうか。


 欲張りだね、と言った声が耳に蘇る。これでいいんだよと寂し気に笑った顔を思い出してしまう。 


 体が重い。疲れた。……思い出すと悲しくなってしまうから、眠ってしまいたい。

 どうして涙が出るのだろう。どうしてこんなに悲しいのだろう。まるで失恋したみたいになっている。本人が言っていたではないか。走り書きのメモを取っておいても仕方がないよと。


「それは、物語の余韻のようなものだ。……図書館はどうだった?」


「うわきものー」


 何か言ってやらないと気が済まない。本当に気が済まない。


「どっちが」


 同じ言葉を返して、ジオードは色違いの目を眇める。


「ひとの気も知らないで、勝手な事ばかり言う」


 自分だって別の女性を口説いて、手の甲にキスしてたじゃないか。シエラの瞳からぶわっと涙が溢れ出した。


「で、泣くのか……ずるいな」


 ジオードは呆れたようにため息をついた。

 ああどうせ可愛げがないし、面倒くさい女ですよ。心の中で悪態をつく。


「他の男に好きだの愛しているだの簡単に言ったくせに」


 詰る声が胸を抉る。ジオードだって同じようなことをあのミントグリーンのドレスを着た美少女に言っていた! 心の中で言い返しながら、シエラは歯を食いしばって嗚咽を噛み殺す。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。どうしていつもこうなるのだろう。

 どうすれば正解なのか全くわからない。クイズの答えはマンボウだったが、それももうどうでもいい。

 何だろうこの修羅場。勝手に癇癪を起こして、勝手に泣いている。完全なる一人相撲だ。わかっているから放っておいてほしい。


 頭の上にふわふわのタオルが降ってきたから、それを掴んで顔に当てる。柔軟剤の香りが気持ちを少し落ち着かせてくれる。ジオードはシエラが泣き止むまで、このままそっとしておくつもりのようだった。

 相手の同情を引こうとしている。そんな自分の行動が気持ち悪い。でも、何を言っても何をしても、どれだけ泣いても、胸をざわつかせるこの不快な感情が消えてくれないのだ。


 ……いや、ちょっと待てよ。


 時間が経つにつれて頭が冷えてくる。シエラはふと気付いてしまった。

 単純に、他に記憶がないから、ここまでジオードに執着して、ぐちゃぐちゃ思い悩んでいるだけなのではなかろうか……と。


 シエラの記憶の中にはもうジオードしか残っていない。彼を他の誰かに奪われてしまったら、シエラには何も残らない。そう考えれば……むしろ、こうなって当たり前ではないか。


「ジオード、記憶返して」


「他の男に好きだの愛してるだの言ったくせに」


 冷静になればわかる。ジオードは赤い目の魔物を『別の男』扱いしているが、シエラの方は、同一視している。だから話がかみ合わない。


「ジオードだけを愛しているから、記憶返して」


 タオルに顔を埋めたまま、勢いで言ってしまった。

 しまった! と思ってももう遅い。泣き腫らした顔を上げると、ジオードも、ああやったな……と言いたげな顔をしている。

 対価を提示し願いを口にしたら、契約は成立してしまう。魔物に会ったら沈黙というのは、そういうことなのだ。


「その『愛』は恋愛?」


 少し考え込むような素振りを見せてから、ジオードはシエラに尋ねた。魔物は願いを叶えてからしか対価を受け取れないが、今の言い方だとシエラはすべての愛をジオードだけに捧げなければならなくなる。

 ……親愛、友愛、家族愛、人間愛などなど、愛には色々な形があるが、それらすべてをひとりだけに向けるとなると、それこそ閉じた世界に二人きりという状況でもなければ無理だ。


「恋愛」


 シエラはしっかりと頷いた。その瞬間、カチリと何かが心臓に嵌められた。そんな気がした。


「ふーん……ならいい。蛍石が今精製してるから、終わったら返す」


 すっかり機嫌が直ったジオードが、シエラの頬に手をあてて少し仰向かせた。赤く腫れた瞼に、頬に、鼻の頭に、軽く唇で触れてゆく。腫れや痛みがひいてゆくのに、何だか背中がぞわぞわする。

 記憶を取り戻したら、シエラは契約通りに対価を支払わなければならない。……これ以上何をどうせよと?


「初心者を上級者コースに連れて行ってはいけません」


「記憶、返してほしいんだろう?」 


「初心者コースでお願いします」


 相手の目を見てしっかり告げる。そこだけは絶対に譲ってはいけない気がした。





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