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3 シエラと白い指輪


 朝、鏡の前で寝癖を直している時に気付いた。左手の指輪が鏡に映っていない。つまり他の人間には見えていないということなのかもしれない。指を伸ばすストレッチのふりをして、指輪を第二関節の近くまで動かす。恐らく抜くことはできそうだ。ただ、外すことに対してものすごく抵抗感がある。


(色にも違和感があるな)


 葉月の目に映る指輪の色は白だ。でも、きっと本来は違う……


 ――カタン。


 突然、隣の棚に置いてあった、母親の化粧水が倒れる。そのまま棚から落ちそうになるから、慌ててひっつかんで元の位置に立てて戻した。ホラーだ。


 ……外すなということか。さりげなく指輪を指の付け根に戻す。


 鏡に映る葉月は、よく日焼けしていて髪が短い。部活のジャージを着ている自分の姿を見るのは久しぶりだ。……少し若いのだろうか。そこはよくわからない。


 兄が背後を通り過ぎる。鏡に映っているのは見知った兄の姿。だが、振り返ると違う。灰色のカソック風の服を着たやたらと顔のいい男の上に、だらしなくパジャマを着た兄の映像がうっすらと投影されている感じだ。……こちらもまさにホラー映画。

 葉月は体ごと振り返る。知らない男が面白くもなさそうに葉月を一瞥するが、気付かないふりでやり過ごす。


 ――大したことない女。どこがいいんだか。


 その声は、「母さんせっかちだから」という兄の声に重なって聞こえた。恐らく声の主があの無表情な男だ。言っていることは間違ってはいないのだろうが、性格はかなり悪い。友好的に対応する気にはなれない。


「後ろ、寝癖ついてるよ」


 髪を指差して指摘してやる。


「おー」

 

 眠たそうな声で兄が答える。良く知っている声。そのまま階段を上がってゆく。二重になっている兄の背中に声をかける。


「バイト何時から?」


「四時から。その前で良けりゃ送ってやる。買い物行きたいから」


「葉月っ、あんたのんびりしてるけど大丈夫なの?」


 台所で母親が叫んでいる。鏡に映る左右反転した掛け時計を確認し、葉月は慌てて洗面所から飛び出した。葉月は今現在恐らく高校二年生だ。当時の顧問は大変時間に厳しかった。





「葉月。動け。働け。何故君はそこで草むしりをしている」


 テニスボールが大量に入った買い物かごを両手に持って運んでいる少女が、背後から声をかけてくる。


「さっき足捻ったから無理」


「確かに見事な転びっぷりだったな。非常にわざとらしかった。……良かったな顧問見てなくて」


「やっぱりバレてるか」


 久しぶりにラケットを握った途端に、あ、これ、無理だなと思った。昔取った杵柄とかいう言葉があるらしいが、感覚が戻るまでには時間がかかる。正確に打ち返せる気が全くしない。ランニング中にわざと転んで足を捻ったことにして、テニスコート周辺の草むしりを自主的に申し出ておいた。


「普通にしゃがんでるとバレるぞ。せめて膝ついときな。……何があったか知らんが元気出せ」


 気配が遠ざかる。地面に膝をつく。……ダメだ泣きそうだ。唇を噛んで必死にこらえる。

 もう直接耳にすることはないのだろうと思うたびに涙が止まらなかった懐かしい声だ……いつも葉月のことを一番に考えてくれていた親友。……ああ、もう本当に嫌になる。懐かしんで泣くことも許されないなんてふざけるな!


 ――ゴロゴロ……


 突然雷の音。


 ……え? と立ち上がって空を見上げると、一天俄かにかき曇り……大粒の雨が……というかシャワーのような豪雨が……

 一瞬にして葉月はずぶ濡れになる。世界は灰色になった。グラウンドの至る所で悲鳴があがる。散り散りになって走ってゆく生徒たちを葉月は茫然と見ている。


「すぐに建物の中に入れ!」

 

 顧問が叫んでいる。空が光る。遠くで轟音が響く。


(……ねえ、泣けってこと?)


 葉月はここにはいない誰かに尋ねる。きっとそうだ。こうなってしまえば、もう泣いているのか雨で濡れているのかわからない。空を見上げて雨を浴びながら、葉月はずぶ濡れで涙を流す。足元で砂交じりの泥水が跳ねる。靴も靴下もびしょ濡れだ。ジャージも髪も張り付いてきて気持ち悪い。


「葉月、あんた何やってんのっ」


 傘を持って、こちらに走って迎えに来る人影。


「足が痛い」


「ばかものー。せめて歩けっ」


 タオルを持って来た彼女は、傘を差し出して葉月の頭にタオルを被せた。懐かしい柔軟剤の匂い。ふはははっ、と、いきない笑い出した葉月に驚きながらも、つられて彼女も笑い出す。雨の中、ひとつの傘の中で体を曲げて大笑いする。何が楽しいのかなんてわからない。でも、あの頃はこうして一緒にいるだけで、バカみたいに笑えたのだ。


 もう、戻らない時間。もう会えない人。大笑いして涙を流す。


「そこ何やってる! 危ないから早くこっちに来なさい」


「はーい」


 あの雷は絶対にここには落ちないよ先生。葉月は心の中で呟く。笑いながら肩を寄せ合って親友と二人で走り出す。お互いに体をぶつけ合って、傘の外に追い出そうとしながら。……迎えに来た彼女ももうびしょ濡れだ。


「葉月あんた着替えあるの?」


「体操服はあるよ。でもさすがに下着はないな。こういう時、誰かが魔法でも使って届けてくれたらいいのに」


「夢見る乙女だな。でも要求しているのは下着な時点で残念だ。タオルと着替えもセットで頼めよ」


 顔を見合わせて二人で噴き出す。確かにそうだ。下着を魔法で届けてもらうくらいなら、着替え一式用意してもらったほうが現実的だ。ついでに大きなバスタオルも数枚お願いしたい。


 ――結局、部活は突然の豪雨のために中止になった。葉月はびしょ濡れのジャージ姿で帰宅し、母親によって風呂場に追い立てられた。お弁当せっかく作ったのにと母親はぶつぶつ言っていた。





「すごい雨だったな」


「すごい雨だったねぇ」


 助手席でワイパーの動きを目で追いながら、葉月は適当に相槌を打つ。雨はだいぶ弱くなっている。結局お弁当は母親が食べるとういことで奪い取られた。時刻は十時を少し回った辺り。葉月は兄に水族館まで送ってもらっている。

  

 フロントガラスの向こうには雨に濡れる見慣れた街並み。前の車に続いて右に曲がる。もうすぐ海が見えてくる。


「あっ!」


「何だよ。突然大声出すなよ。びっくりするだろう?」


 兄が焦ったような声を出す。


「今、信号無視しましたね」


 にやにや笑いながら葉月が言うと、運転席から怒ったような声がした。


「矢印信号まだ出てました。ふざけんな。降りろ」


 葉月は悪びれることなく笑う。


「ごめんごめん。今日第三土曜日だから、メロンパンの特売日だ」


「……ああ、あそこのパン屋か。俺も食べたいから買って来てやるよ」


「中にクリーム入ってるヤツがいい。ふたつ」


「……残ってたらな。太るぞ」


 成程、やはり性格は兄そのものだ。つまり、あの男は兄の中に隠れて、葉月の行動を監視しているのだろう。何がしたいのかはさっぱりわからないが。


「もうすぐ着くね。時間あるなら一緒にクラゲ見る? 妹とデートなんて楽しくもないかもしれないが、ペアだとかなりお得だよ」


「……入館料俺に払わせるつもりだろ」


 兄の声が低くなった。


「財布忘れた」


「ふざけんな」


 車は左折して水族館の駐車場に入る。休日なので結構埋まっている。空いている場所を探して車を止める。


「……財布本当にないな。部活に持って行ったからあっちのカバンだな。……お金貸して」


 葉月がカバンを漁りながら言うと、相変わらずホラー映画のような状態の兄は呆れ果てたという声を出した。


「借りたものは返……」


「じゃあ、ちょうだい」


 車内に沈黙が落ちた。


「ああもうわかったよ。後で返せよ」


 面倒臭くなったらしき兄は、シートベルトを外してさっさと車を降りた。葉月も車から降りると二人でチケット販売所に向かって雨の中を走った。


「じゃあ、私クラゲに会いに行ってくるよ。後はご自由に。帰りはバスで帰る」


 無事入館料を兄からせしめるのに成功した葉月は、あっさりと言った。


「……最低だな。知ってたけどな。バス代あるのか?」


「ないからちょうだい」


 何の躊躇いもなく右手を出した妹に千円札を渡しながら、兄はため息をついた。葉月はお札を折り畳んで手帳に挟む。


「絶対返せよ」

 

 目的地に向かって一直線という感じで、脇目もふらずに進む。

 館内は土曜日だけあって、開館直後なのに人が多い。ちいさな子供たち薄青い空間の中を楽しそうに走り回り、恋人たちは肩を寄せ合って歩き、兄は小走りで妹を追いかけている。

 色とりどりの魚が泳ぐ大水槽。ふり返って確認すると、背後を追いかけて来る兄はまだ映像状態だ。はっきりと見えるのは、ほとんど無表情の短髪の男性。髪の色は暗いグレーで、右耳の上に辺り、八面体で青翠色の角のようなものがある。興味なさげな角と同色の瞳。


「あ……カメ」


「どうぞごゆっくり」


「歩くの早っ」


 人の間を縫うように、泳ぐように館内を移動する。暗いトンネルを抜けると、明かりを落とした室内の中心に、クラゲの水槽が立ち並んでいた。急に立ち止まった葉月に兄がぶつかる。


「急に立ち止まるなよ」


 文句を言う兄に、葉月はにっこり笑いかけた。


「目的地に到着いたしました」


「へーえ、結構綺麗なもんだな。昔はこんなもん見て何が面白いかって思ってたけどさ」


 ライトアップされた円柱形の水槽の中をふわりふわりと漂う小さなクラゲの大軍。恋人たちの隙間から水槽を覗きながら、兄が感心したような声を出す。


(ダメだ、わからん……)


 絶対にここだ。しかし、葉月は見つけることができない。目の前の二人連れが隣の水槽に移動したので、兄と二人で前に出る。水槽のガラスにうっすらと兄の顔が映る。よく見知った兄の顔……それは何故? 何故無表情な男ではなく兄だけが映るのか。……ダメだ、本当にわからない。


「ねぇ、喉乾かない? 確かここの売店に青いソーダ水があってね……」


 耳がはっきりとその声を拾った。恐らく背後を歩いて行った女性達のグループの内の一人が発した言葉。ざわついている館内で、それだけが葉月の耳に意味のある言葉として届いた。


「……なんかすごく喉乾いた。今すぐ売店に行く」


 葉月はクラゲの水槽の前からあっさりと離れて、順路と書かれた矢印の通りに歩き出す。


「……おまえなぁ。クラゲはもういいのかよ」


「飲んだら戻る」


 兄が追いかけて来る。売店は確か二階だった筈だ。クラゲの展示スペースを出ると、次は深海魚のコーナーだ。見向きもしないでどんどん進む。深海魚には申し訳ないが、今は彼らを愛でている場合ではない。


「ああっカニ」


 兄がどことなく嬉しそうな声を出す。そういえば彼はカニが好きだった。剥くのが面倒だからカニカマで良いじゃないかと言ったら、この男は本気で説教してきた。


「それは食べられないので、売店で食べられるものを買おう」


「おまえ、これがデートだったら、相手怒って帰るぞ」


 兄は全くの正論を言った。まったくもってその通りだと葉月は思った。デートというものは相互理解を深めるためのものだ。どちらかが自由勝手気ままに振る舞っては成立しないものであろう。


「これはデートではないから問題はないよね。さあ、売店が待っている。急ごう」


 薄暗いトンネルを抜けると、巨大な天井窓から外光を取り入れた、広くて明るい休憩スペースに出る。目の前に階段とエスカレーターとエレベーターが一並んでいる。葉月は迷わず階段を選択した。エスカレーターは混んでいたので。


「待てよ。金払うの俺だよな。今の段階でいくら借金してるかわかってんのか?」


「だからいつか返すって」


「……いつかっていつだよ」


 葉月は無理矢理口角を上げた。いつかは来ない。そんなことはわかっている。でも……きっといつか。


「いつかはいつか。ほら売店に着いた」


 階段を上り切ると、目の前にはガラスの壁と扉。その向こうはイルカのショーが行われるプールだ。右手側の奥まったところに売店がある。ここで飲み物や食べ物を買って、イルカのショーを見ながら食べる。ショーの時間にはまだしばらくあるから、売店には数人が並んでいるだけだ。


「限定品のソーダかな」


「金渡すから買ってこい。俺はアイスティー」


 兄は財布を出して、千円札を葉月に渡した。


「因みにミルクとお砂糖はいかがなさいますか? ご一緒にホットドックもいかがでしょう?」


「両方いらん」


「女性に買いに行かせるなんて、デートだったら相手怒って帰るよね」


 葉月はガラスの壁にうっすら映る兄に向かって悪態をついてみる。兄の眉間に深い皺が寄った。


「今すぐ金返せ」


 葉月は笑いながら走って売店の行列に並んだ。すぐに順番が来て、葉月は透明なプラスチックカップに入った飲み物を両手に持って兄の元に戻る。兄に扉を開けてもらって、二人はイルカが泳ぐプールの前に並んだベンチに腰を下ろした。


 巨大なスクリーンが、ショーの案内映像を流している。


「こうして一緒に出掛けるのは久しぶりだねぇ……」


 見るともなしに画面を見ながら、葉月は隣でアイスティーを飲んでいる兄に言う。潮風の匂いがする。懐かしい。


「映画館行って以来か?」


「一緒に行ってくれるはずだった彼女がねぇ……」


「……それ以上言うなよ?」


「はいはい。でも今日は付き合ってくれてありがとね」


「……いきなり気持ち悪いな」


 兄が戸惑ったような声を出す。ふふふっと葉月は声を出して笑った。まだ口をつけていないプラスチックカップを目の高さまで持ち上げる。底に青いシロップを入れてから透明なソーダ水を注いであるから、青色から透明に移り変わるきれいなグラデーションができている。ちいさな気泡がとても涼し気だ。オレンジのストローにもびっしり気泡がついている。


「飲んだら、クラゲのところに戻るよ。カニに見に行く?」


「やっぱり、食える方がいいよな」


「まぁ正論だよね」


 しばらく二人黙って、自由気ままに泳ぐイルカたちを眺めながら飲み物を飲む。もうすぐ梅雨が来て……そして夏だ。葉月が迎えられなかった夏。このままここにいれば、その先に行けるのだろうか。


(……そんな訳はない)


 ここは過去だ。葉月は自分の記憶を見せられているだけ。……もう行かなくては。


「ほら、ゴミちょうだい。捨ててくるよ。クラゲ見に行くけどどうする?」


「おまえのせいでほとんど見られなかったから一緒に戻る」


「では一緒に参りましょう」


 飲み終わったコップを引き取って、ゴミ箱に捨ててから館内に戻る。階段を下り、カニのいる水槽の前を素通りし……クラゲの元へ。

 クラゲの水槽の前は周囲は相変わらず混んでいる。ようやく前が空いたので、葉月は水槽のすぐ前に立つといきなりしゃがみ込んだ。


「何やってんだお前」


 兄が呆れた声を出す。


「あのさ、さっき青いソーダを飲んだ時に、カップに刺さったストローが、水の中ではズレて見えたんだよね」


「……屈折率だろう?」


「……そう。水とかガラスとかで屈折するんだよね。光ってさ。理科で習った」


 しゃがんで水槽を見上げる。高さを変えたり、体を揺らしたりして、クラゲの水槽の水面を確認する。


「その時にさ……全反射って習ったのを思い出して。詳しい理屈は忘れたんだけど……覚えてるのは、教科書に載っていた写真。水面が鏡になって、水槽の中の金魚の上に、逆さまの金魚が見えるんだっけ? 全反射する角度さえみつけられれば……見えるはずなんだよ」


 側面にも映るのだろうが、多分上の方が綺麗に見えるだろう。


「逆さまのクラゲがね……」


 水面に映ったのは、まっすぐに葉月を見て満足気に微笑んでいる逆さまの男。彼が手を伸ばすから葉月も手を伸ばす。左手を、上へ。


「ほら……見えた」


 誰かが強く自分の腕を引っ張るのを感じる。酷いめまいがして、目を閉じる。


「シエラ」


 優しい声が耳元で聞こえる。






 ……ここで昔の恋人と一緒にいるといい。嬉しいだろう?


 そう言って、その男は消え失せた。目の前には……巨大な透明の柱。中にはジオードの良く知っている一人の女性が閉じ込められている……違う。自ら閉じこもった。


 彼女は目を閉じ満足気に微笑んでいる。……腹立たしい。


「全く嬉しくないな」


 ため息をついてその場に胡坐をかいて座り、柱状結晶の中の女に語り掛ける。ジオードはシエラが好む書生風の服のままだ。実は結構気に入っている。


「なぁ……どうしてそんなことをした? おまえがあいつを選んだんだろう?」


 当然答えはない。ジオードはやれやれと首を横に振る。


 目を閉じて意識を集中させると、ジオードの頭の中には配偶者の気持ちが流れ込んでくる。

 悲しみを、怒りで必死に抑え込んでいる。そして、不安と……心配。うっとりするくらい綺麗な旋律だ。少し悲し気な和音の中で……苛立ちを表すような激しい低音が時々鳴り響く。


 初めて彼女に会った時、これはノジュールが我を忘れて捕まえに行っても仕方がなかったなと思った。彼女は……聞いたこともないくらい綺麗な音を沢山持っていたから。

 ジオードも一目で欲しくなった。だから印をつけた。絶対にうしなわれないように。

 

 魔物に襲われていた彼女を助けた時、ジオードは本当に後先を考えていなかった。不法侵入を咎められて抗争になるならそれでも良かった。負ける気がしないから。

 言われるままに対価を払ったのは……あの魔女がシエラをとても気に入っていて、「協力してあげましょう」と言ったからだ。……魔女はジオードの命を核にして、シエラのためにあの指輪を作った。


 ――ジオードの命で作った黒い指輪。


 シエラはとても落ち着いている。……冷静になれないのは自分の方だ。ものすごく腹が立っている。暴れてすべてを破壊しつくしたい衝動に駆られている。


 でも、それこそがあの男の目的だろうから……。


 ジオードはここから動かない。

 待っていれば彼女は絶対に自分を見つけるだろう。多少の干渉はできるようだから、少しならば手助けしてやることもできる。 

 

 シエラは人間だが、保安官だ。あの男は保安官というものを侮りすぎている。……でも、それは自分も同じか。ジオードはシエラに会って初めて、保安官というものの恐ろしさを知った。


 ――嘘をつかないで下さいね


 その一言だけで、簡単に相手を縛ってしまう。

 その言葉を口にする時、まっすぐに彼女はジオードの目を見る。涼やかで綺麗な音が鳴る。その時の彼女の真摯な表情が、ジオードはとても好きなのだ。


 恥ずかしがり屋の彼女の心の中は、いつも大きく揺らいでいる。音が大きくなったり小さくなったり……いつまで聞いていても飽きない。嬉しい時はキラキラとした明るい音楽。落ち込んだ時は音域が下がる。嫌だと感じた時の不協和音でさえ美しい。

 何よりも、彼女がジオードの事を想う時に鳴る澄んだ音が好きだ。その音を聞く度に、ジオードの鼓動は勝手に走り出す。心臓が痛痒いような不思議な感覚。それは不快感の一歩手前のような……ギリギリの心地よさ。

 おかしくなっているのは自分の方だ。誰にも渡したくない。そして……今の自分の気持ちをうしないたくない。


「ああ、なるほど。こういう気持ちだったんだな」


 目の前の女性に向かって話しかける。声が届いているのかどうかはわからない。腹が立つから、もう嫌味しか出て来ない。

 果たして、たったひとつの恋を永遠に近い時間抱き続けるられるものなのか。……まあ無理だろうなとは思う。恋とは刹那的なものだから。


「飽きられるのは我慢できるが、自分が飽きるのは嫌だった訳だ。でも、それはちょっと我が儘なんじゃないのか? だって、お前があいつの所に配偶者にしろと押しかけたんだろう? あっさりと恋人を捨てて」


 ジオードの唇が孤を描く。捨てられたのは自分だ。傷付いたかと聞かれるとそうでもない。どうでも良かったからだ。どうせすぐに飽きられるだろうなとは思っていた。魔物なんてものは……いつでも時間を持て余している。だから残酷なくらい気まぐれなのだ。

 そして、心を大きく揺らめかせるようなものを見つけると何もかも捨てて執着する。……飽きるまでは。

 人間とは何もかもが違う。『ジオードはクラゲ』とはよく言ったものだ。


 シエラが近付いてくるのがわかる。彼女の目はいつだって嘘を見抜いてしまうから。


「見えるはずなんだよ。逆さまのクラゲがね……」


 簡単に彼女は見つけてしまった。ジオードは満足げに微笑む。空に向かって手を伸ばす。空間は繋がったから、届くはずだ。


「ほら……見えた」


 指先が触れるから、さらに手を伸ばして柔らかい手を掴む。

 

(ほら……捕まえた)


 軽く引き寄せるだけで、ジオードの配偶者は彼の胸の中に戻る。抱きしめて耳元で囁く。


「シエラ」 


 ああ、本当に気分が良い。彼女の左手を取って口元に引き寄せる。機嫌よく微笑みながら指輪にキスをひとつ落とす。

 白かった指輪は黒に。一瞬にしてシエラの頬が真っ赤に染まる。服はこの間のデートの時と同じものにした。よく似合っていたから。


「……な……なに……なにを……」


 恐らく何をするんだと言いたいようだが言葉になっていない。ああ本当に可愛いなと思う。

 そのままぎゅうぎゅう抱きしめる。綺麗な音楽が聞こえる。しかし、突然音楽が乱れる。


「く……くるしっ……」


 ああそうかと思って腕を緩めた。でも彼女はちゃんと胸にひっついていてくれる。綺麗な音が鳴っている。心臓がどきどきと走り始める。ああ本当に……気分が良い。


「残念だったな」


 顔色を失っている男に、嫌味ったらしく笑いかけてやる。あの灰色の服はシエラによると、カソックという服に似ているらしい。


「何故……」


 茫然と呟かれる言葉。


「ねぇ、シエラ。なぜに?」


 自分でも驚く程声が甘い。シエラの頬に両手を当てて、一瞬にして警戒した様子の彼女の顔を、優しく仰向かせる。目と目が合った瞬間に彼女は顔を引きつらせ、そして焦ったように言った。


「……いや、なんでそんな悪い顔してるんですかね、ジオード?」


「あれが、どうしてわかったか、知りたいって」


「……一応確認しておきますが、何を言わせたいんですかね?」


 こんな時でも彼女はやっぱり冷静だ。笑いがこみあげる。


「キスしてもいい?」


「絶対嫌ですね。ご機嫌ですね。浮かれてますね」


 真顔で拒否された。……つまらない。


「とりあえず、そちらの方にご挨拶したいので、離してくれませんかね」


 ああ面白いなと思って、彼女を解放してやる。シエラは何の未練もなさげにジオードから体を離すと、初対面の男に向かってそれは見事な営業用スマイルを向けた。


「初めまして。西の森担当の森林保安官をしておりますシエラと申します。大したことない女ですが、以後お見知りおきを?」


 ジオードは笑いが止まらない。シエラと向き合って立つ男は苦虫を嚙み潰したような顔をしている。


「さて……守り石の魔物。出て来なくていいからお願い聞いて下さいますか?」


 袖の中から守り石を取り出したシエラが呼びかける。


「なんだシエラ?」


 石から声だけが聞こえてくる。


「ここの書類を下さいな」


 シエラがそう言った瞬間に、彼女の目の高さに黒い表紙の二つ折りファイルが出現する。危なげなく受け取ると、


「準備がいいですね」


 ふふふっと笑った。怒りのせいで口調が変わっている。彼女はファイルを開いて、もう一度にっこりと目の前の男に微笑んだ。


「蛍石の森。統治者は代々フリュオリネと名乗る。大変長ったらしいお名前で。都合の良いことに、うちの担当地区ですね……前回担当者したのは……ああ、この方ですか。さて、どうしてくれましょうね?」 


「好きに成敗していいとおまえの上司が言っていたぞ」


 成敗ときた。彼女の上司も腹に据えかねたらしい。


「ありがたいですね。確か、統治者が保安官に危害を加えた場合の罰則があったはずですよね。罰は私が決めてもいいと。なーるほど? 私、今心にかなりのダメージを負っております……一応聞きますが、ジオード、こちらの男性とはお友達ですか?」


「いいや? だから、あんたの好きにすればいい」


 肩を震わせて笑いながらジオードは答える。


「だ、そうです。では、長ったらしくて名前呼ぶのも面倒な方、弁明があればどうぞ――ただし」


 すうっと目を細めて、彼女は笑みを深める。


「嘘はつかないで下さいね」


 フリュオリネの顔からさっと血の気が引く。ああ、縛られたか、とジオードは思う。

 シエラのあの表情を目の当たりにしたあの男が妬ましい。だから、彼女を背中から抱きしめる。


「ねぇ、俺以外の男誘惑して楽しい?」


「あなたの戯言に付き合っている気分じゃないです」


 シエラは仰向きながら、歌うように言う。きっとこれがお仕事モードというヤツなんだろう。小太鼓が静かにリズムを刻んでいるだけ。


「ふーん?」


「ジオードにも後でお話がありますから、しばらく大人しくしていて下さいね」


「こうしていてもいいなら」


「邪魔しないなら良いですよ」


 涼やかな顔で返された。余裕がありすぎて面白くない。でもきっとこれ以上は怒られる。

 柔らかな音で同じメロディーが繰り返されている。装ったシエラの心が奏でるのは誰かに作られた音楽。


「成程……確かに保安官か」


 フリュオリネが嘲笑するように言う。しかしシエラの心は全く動じない。顔を戻して、まっすぐに相手を見据える。

 一定のリズムがズレることなく繰り返される。同じメロディーが編成を変えて繰り返される。


「ええ、ですから、何か言いたいことがあれば、ご自由にどうぞ?」


「では、貴女はあの結晶を壊せるんだな?」


「あちらはあなたの配偶者の方ですね。ならば、やろうと思えばできるでしょうね。今のこの状態が領域の健全な運営に支障があるとおっしゃるならば、壊しますが?」


「あれは、ジオードの昔の恋人だと言っても粉々に砕くのか?」


「それがどうしたと言うのです? それ、ここの領域の運営に関係あります?」


 不思議そうな顔をして、首を傾げる。シエラは全く動じなかった……動じてくれなかった。さすがに面白くなかったから、肩を抱く腕に力を込める。

 フリュオリネが鼻白む。予定外の反応なのだろう。


「貴女にとって、その男はその程度の存在という事か」


 攻撃の矛先をジオードに変える。その言葉にジオードが反応する前に、シエラがおかしそうに笑い声を立てた。様々な楽器が重なり曲はどんどん華やかに。腹の底に響くようなリズム。音量も上がり高揚感に包まれる。


「その程度がどの程度かはわかりませんが、ジオード、重婚状態だったり、二股かけたりし……」


「どっちもない」


 最後まで言わせずに速攻否定した。


「なら私的には問題ないですね。女性の肌着を洗って干すのに抵抗のない男性ですよ? 離婚歴が十回くらいあって、孫もいるだろうなくらいの覚悟はしてました」


「……一回も結婚してないし、孫もいないから」


 がっくりとジオードは肩を落とした。拗ねたようにシエラの頭に顎を乗せる。図らずも全く信用されていないことが発覚した。


「そうなんですね、それは良かったです。……という訳で、こちらの問題は解決いたしましたが、他に何か?」


 今わかった。シエラは絶対に怒らせてはいけない。打楽器は打ち鳴らされ、シンバルは華やかに。楽器たちは高らかに歌う。


「ここの領域運営に支障をきたすのであれば、今すぐ壊しますよ。中の方の無事は保証できませんが、どうします?」


 シエラは笑顔で畳みかける。フリュオリネの顔がはっきりと歪んだ。

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