25 シエラと同じ名前の魔女
『別れは唐突に訪れるものなのに……どうして自分達には当てはまらないなんて思っていたのだろう』
黒い鳥はひとまず、保安協会の本部の医療棟に入院が決まった。今はフリュオリネ(父)が付き添っているらしい。……感動の再会になったかどうかは恐ろしくて聞けなかった。
いつもの通りの職員室風の事務所。スピカは保安官シエラのデスクに座って、報告書を書いている。剣のアザレは上司と一緒にどこかに行ってしまった。恐らく上に報告に行ったのだろう。
剣はペンを持てない。だから報告書はスピカが書くしかない。しかし、何が起こっていたのか一切説明されていない魔物が書いた報告書は、会話を羅列しただけの台本のようなものになっていた。
引き戸が開いて、一人で戻ってきた上司はいつも通り黒板の前のデスクに座った。肘置きつきの椅子がちょっと羨ましい。相変わらず目深にフードを被っているから、どんな姿をしているのか、男か女か、全くわからない。
「お疲れさまスピカちゃん」
上司は今は男性の声だ。魔女シエラにバカだバカだと散々言っていた使い魔と同じ魔物とは思えない。外面というのもあるだろうけれど……長い長い時間が経過したというのもあるのだろう。
落ち着いて考えてもみれば、「何ですぐに気付かなかったかな」レベルの話だ。
変な魔法でもかけてあったのかもしれない。
「葉月は平行移動だったんだけどね、『彼女』は空間と一緒に時間まで飛び越えてしまったせいで、元の世界の記憶が壊れていたんだ。恐らく『彼女』にとって葉月は母親の世代だ」
唐突に上司は話し始めた。てっきりはぐらかされるものだとばかり思っていたので驚いた。
「後で全部回収するから」
上司は悪びれる様子もなくそう言って笑った。
黒猫に執着しているあの魔女はまだ捕まっていない。魔女シエラの身の安全のためにも彼女の事を知っている人間は少なければ少ない方がいい。
忘れ去られると存在ごと消滅してしまうこの世界で、それでも、彼女は絶対に消えたりしない。
執着心の強い魔物に捕まってしまったら、もうどうしたって逃げられない。
絶対にそんな風にはなりたくないなー。魔物怖いなー。とスピカは心の中で呟いた。
まぁそれはいい。……所詮他人事だし。
ちいさく息をついてから、職員室風の事務所を見回す。例えば蛍光灯のスイッチの形や、ファイルの材質や、電話の受話器の重さ……
「お姉ちゃんの記憶にある洗濯機って、脱水する時、洗濯物を隣の脱水層に手動で移し替えないといけないんだ。でも事務所の洗濯機ってボタン押せば全部やってくれるよね。他にもね、ここにあるものは、お姉ちゃんの記憶の中のものより、新しい感じがする。……お姉ちゃんはあんまり気にしてなかったけどね」
「そこだけは、私も使うから便利な方がいいと思ってね。『彼女』は、そういうことは覚えているくせに、家族とか自分のルーツに関することは全然覚えていなかった。それはそれで諦めがついて楽だったらしい。元々家族とは縁が薄かったんだろうね。……だからこそ余計に、家族の元に帰りたいと泣き続ける葉月の事が不憫で仕方がなかったみたいだ。そして『彼女』は、帰れなかった自分の存在が彼女を絶望させてしまうだろうとも考えていた」
ふうっと上司は重苦しいため息をついた。
「この世界で生きて行くためには『字』が必要で、字には記憶がセットになっている。でも、葉月は、この世界の『字』と『記憶』を頑なに受け入れなかった。最初の頃は食べ物どころか、水すら体が受け付けなくてね。『夜と洋灯の魔女』にも協力してもらって色々手を尽くしたんだけど、もう一刻の猶予もないって状況になってしまった。最後の手段として、私が『彼女』から預かって持っていた『シエラ』という字を与えたんだ。本当に賭けだった。例えその『字』を受け入れたとしても、『帰れなかった同郷の人間』の記憶が彼女の心を壊してしまうかもしれなかったから」
そうしないとここでは生きられないとはいえ、新しい『字』を受け入れるというのは、今までの自分とは『違うもの』になるということだ。どうしても受け入れようとしなかった姉の気持ちが理解できるスピカは、かたく目を閉じた。
かえりたい。おねがいかえして。
悲鳴のような声が、耳の奥で聞こえる。ぎゅっと拳を握って、その声が大きくならないように、抑え込む。そうやって毎日生きている。
「同じ匂いがしたのかな。『シエラ』という『字』だけは素直に受け入れてくれた。でも、記憶は拒絶した。『彼女』が同じ時間軸の存在だったら受けれたかもしれないんだけどね。未来の人間ということで、葉月にとっては異質だったんだろう。『字』だけを受け取って、魔女シエラの記憶には鍵をかけて心の底に沈めてしまった。それはもしかしたら、心を守るための行動だったのかもしれないね」
唇から出た途端に地面に落ちて、どこまでも沈み込んでゆくような声だ。
「……正直に言えば、私にとって葉月は『彼女』の記憶を隠しておくのに丁度いい入れ物だった。でも、受け入れて欲しいとも思っていた。『魔女シエラ』の記憶を受け入れてさえくれれば、葉月はこの世界の食べ物を食べられるようになる。毎日目の前で泣きながら食事をされるのは……やっぱり見ていて辛かったからね」
「……うん、それはなんとなく、わかる気がする」
スピカは掠れた声で、やっとそれだけ返す。
……帰りたい。会いたい。今は無理でも。いつか必ず。
そのためには生きていなければならない。
生きるためには……食べなければならない。体は空腹を訴えるのに、心はこの世界の食べ物を拒絶し続ける。
上司のデスクからは、シエラが泣きながらカレーっぽい見た目の料理を無理矢理口に詰め込む様子がよく見えたことだろう。スピカも経験しているが、あれは本当に見ていて心が痛い。
それでも、上司たちは目を逸らさずに葉月を見守り続けた。生きるために、必死に食べ続ける彼女を。
「……いつか、葉月に返さないといけないものがあってね」
そう言って、上司が手を指を振ると、宙からスピカの手の中に学生鞄が落ちてきた。懐かしい匂いがする。スピカの中の姉の記憶が反応して涙が一筋頬を流れた。
「申し訳ないとは思ったけど、開けない訳にはいかなくて、一度だけ『彼女』に開けてもらった。中に家庭科の教科書が入っていたから助かったよ。『彼女』は和食の作り方なんてもう全然覚えていなかった……というか、絶対に作ったことないなあれは。巻末のレシピ集に載っていた茄子の煮物の作り方読みながら、『落し蓋って何だったけ?』とか言って頭抱えてたし。ジオード君、家庭科の教科書読みながら一生懸命料理練習してた。だから葉月も受け入れたのかなぁ……愛だねぇ」
頬杖をついて、上司は窓の外に視線を投げる。とういことは、時間を逆行してこの世界に迷い込んで、魔女となった一人の女性は、今もどこかで存在しているのだ。でも、上司は絶対にどこにいるかは教えてくれない。彼は『彼女』を独り占めしたいから。
執着心の強い魔物に目をつけられてしまうと……以下同文。
『使い魔にするか、喰われるか』魔女シエラに提示されたのはその二択だった。
使い魔でなくなった彼は、最初の契約の通り魔女を食べてしまった。
最初からこうなることは決まっていたのだ。
だから、彼の魔女は、ずっとずっと彼だけのもの。
きっと、魔女シエラと元使い魔の関係は、シエラとスピカの関係と同じなのだ。
スピカが葉月の記憶を複写して持っているように、彼も『魔女シエラ』の記憶を複写して持っている。だから、『魔女シエラ』に姿を変えることができる。
スピカは立ち上がり鞄を持って上司のデスクに歩み寄ると、開けることなくそのまま返す。これは姉のものだ。スピカに開ける権利はない。
スピカと姉は、同じ記憶を持っているけれど『違うもの』だ。
「ま、タイミングを見て本人には返すよ」
相変わらず書類やファイルがうず高く積み上げられていて置き場所がない。
淡く笑って上司は指を振った。煙のように鞄は消え失せて、この話はこれでおしまい。
「……で、スピカちゃんにはこっちを渡さないといけない。剣の方のアザレの承諾は得ている。スピカちゃんが引き継ぐならいいって」
引き出しの中から上司が取り出して、スピカに差し出したのは『調査員用マニュアル』と表紙に書かれた青色のファイルだった。それがアナベルの記憶が形を変えたものだと、スピカにはすぐにわかった。
アナベルという魔物はもういない。だけど、記憶と姿を引き継ぎ、別の魔物が『調査員アナベル』に成り代わることはできる。……魔物はクラゲだから。
同じ姿、同じ記憶を持った、違うもの。
まだ頬は乾いていないのに、新しい涙が溢れてくる。どうしてもファイルに手を伸ばせない。
『一番最後に会うのがおふたりだったらいいなと、そんな風に思ってしまったのかもしれませんねぇ』
彼女のおっとりとした声が耳に蘇る。
全部あの魔女に騙されたせいだと思うのに、彼女は一度も魔女のことを口にしなかった。まるですべて自分で決めて、ひとりで行動したかのような口ぶりだった。
「あの魔女はね、自分の命が消えかかった時には、契約を結んでいた使い魔から補填することにしていた。丸呑みだと消化に時間がかかるから、真名を奪い取り直接命を流れ込ませる。それはアナベルに対してだけではなくて、昔からずっとそうしていたんだ。でも、彼女はアナベルと使い魔の契約を結んだ後、万が一に備えて非常食を用意した。使い魔より先にそっちを捕食して、命を繋げるように。……それがあの黒い鳥だった。でも、それに気付いたアナベルは、その黒い鳥を魔女に内緒で隠してしまった。それで魔女は新しい非常食を用意する必要に迫られて、青い孔雀を狙ったんだ。でもそんなことはアナベルが絶対に許さない。それで、別の手下に非常食を捕まえて持ってくるよう命令したんだよ」
その『非常食を捕まえてこい』と命令されたのが黒蝶ということなのだろう。
でも、その話を聞いているとまるで……使い魔アナベルと主の魔女は対立していたとも取れる。
「そう、彼女たちは、魔女と使い魔という関係ではあったけれど、対等だったんだ。彼女たちはちょっとした『勝負』をしていた。でもアナベルは勝敗に興味はなくて、友達に気付いてほしかったみたいだ。幸せの形はほかにもあるって」
上司はふと窓の外に視線を逃がして、そのまま少し間を置いた。
「『私はすでに彼女の一部だから、彼女の罪は私の罪。どんな結果になっても、自責の念にはとらわれないで欲しい』それが、このファイルと一緒に届けられた『調査員アナベル』から私ヘの最後のメッセージ。いかにも彼女らしいなと思ったよ。あの『孔雀』に一目置かれるくらい、強い心を持った美しいひとだった」
上司は引き出しを開けて今度は箱ティッシュ取り出すとスピカに差し出す。一枚では足りなくて、二枚三枚とむしり取って目に当てる。
「剣のアザレの気持ちを考えると、やり切れないんだけど、どうしても調査員は必要なんだ。アナベルも、きっとそんな風に泣いてくれるスピカちゃんになら、安心して引き継げると思っているんじゃないかな? ……だから、一週間後に、答えを聞かせて欲しい」
上司ティッシュで目を押さえているスピカに向かってそう告げた。
すっきりしない気持ちを抱きながら、扉の魔物に対価を払って『蛍石の森』へと繋いでもらう。
ドアを開けると、ミモザと手を繋いだフリュオリネ(兄)に出迎えられた。「おかえり」という声を聞いた瞬間に、必死になって押さえ込んでいた何かが決壊して……スピカはフリュオリネにしがみついて大声を上げて泣いた。優しく抱き留められると安心してさらに涙が出た。
上司の言った通り、剣のアザレの気持ちを考えると、やり切れなかった。どうしてこんなことになってしまったんだろう。なんで、どうして。そればかりが頭の中で渦巻く。
剣のアザレは、同じ姿をしていても違うものになってしまった友人たちに囲まれて生きてゆくことになる。彼だけが変わらないままで。
自分達は魔物なんだから、そんなのは当たり前だ。生きるために当たり前のように捕食してきたし、記憶も簡単に捨ててきた。保安官の目を持っていない自分には相手が違うものになっても見抜くことはできない。……でも、それは本当だろうか?
今までは気にすることもなかった。この姿と記憶をもらうまでは。
でも、もう今までのようにはいかない。
その悲しみが、フリュオリネの中の苦い後悔と共鳴して、ますます心が苦しくなる。
痛くて痛くて仕方がない。でも背中に腕を回すようにしてしがみついたまま、離れることができない。彼は魔物だけれど、その心は人間に近いから、スピカの悲しみを理解してくれるのだと知っている。
もし、目の前のフリュオリネが別のものに変わってしまったら? ミモザが、姉が、カールが、剣のアザレが変わってしまったら? 自分は平気でいられるだろうか。
――そんなこと考えたくもない!
でも……それでも、別れは唐突に訪れるものなのだ。
『それがわかっているあなたになら、安心して私の記憶を預けられる』
宥めるような優しい声がして、誰かが頭をそっと撫でてくれたような気がした。
いつか呪いを返そうなんて、彼の魔女……正確には元魔女、は、考えたこともなかったようだった。『やられたらやり返すとまたやり返されるので、極力関わらない!』それが彼女のモットーだから。
「自分の若さと容姿にしか自信がない子って、若くも美人でもない人間が評価されると、プライドが傷付くらしいんだ。嫌味言われたり足引っ張られたりした……気がするなぁ。あんまり覚えてないけど」
そう言って、あっけらかんと笑っていた。
彼女の中に残っていた記憶は、仕事に関するものと、あとは、家事を楽にする最新家電情報……
大変役には立っているが、他に覚えておきたいものはなかったのかと、真顔で問い詰めたくはなる。
その日の仕事内容によって、どちらが表に出るか決める。葉月が事務所にいる時は、彼女に出てもらっていることが多い。『字』のように自由に入れ替わることもできる。
そんなこんなで夫婦共働きではあるので、家事は少しでも楽になるように最新家電を揃えた。
その結果わかったことは、いくらすばらしい文明の利器に囲まれても、本人に使う気がなければ宝の持ち腐れだということだった。
何で、喜々として薬は作るくせに料理を作る気がないのか……謎。
どうして、仕事は片付けられるのに、部屋は片付けられないのか……本当に謎。
それを本人が言うというのが……最大の謎。
「……まだ泣くか」
着替えを取りに帰宅して、寝室に行くとベッド上にはティッシュの山ができていた。彼の魔女は朝と同じように、枕に突っ伏して泣いていた。その左手の薬指には緑色の指輪が輝いている。
「うっさいバカ。ほっとけバカ。勝手に入って来るな! あっちいけバーカ!」
……子供か!
くぐもった涙声で八つ当たり気味に罵倒されても、まるでダメージはくらわない。
「バカバカ言う方がバカなんだろ?」
出会った頃はここまで口は悪くなかった気がする。クローゼットを開けて必要なものを取り出すと、ベッドの端に座って頭に手を伸ばす。黒髪に触れる前にバシッと手で払われた。顔を上げないのは、泣き腫らした顔を見られたくないからだ。
「ひとが真面目に仕事に行ってるのに、一日中パジャマってどうなんだろうな」
「モラハラ発言だ。一日中家にいるからといって妻が暇だと思うなーっ」
そこまで言うなら、今日一日泣く以外に何やってたか言ってみろと思うが、結婚して妻であるという自覚はあったのかと正直驚いた。
「あんたって、いまだに炊事洗濯掃除俺に頼り切ってるよなぁ。文明の利器揃えたのに」
共働きで片方にすべての家事負担がいっていることの方が、よっぽど問題ではなかろうか。
「いつでも離婚には応じる」
……なんでそうなる。
「シャワー浴びて一度ちゃんと顔洗え。そのパジャマ今から洗うから、ネットに入れてから洗濯機。十秒以内に動かないと……引っ剥がす」
低い声でそう脅した瞬間、がばっと起き上がって顔を隠した状態で部屋を飛び出していった。ため息をついて、ベッドの上のティッシュの山をゴミ箱に放り込む。
手が触れた瞬間に念のため確認したが、彼の魔女の中に残っていた呪いは、すっかり消え失せていた。
『魔女シエラ』にかけられた最初の呪いと、『鏡の檻』の中で新しくかけられた同じ呪い。そのふたつともが、欠片も残さずきれいに返されていた。
もともと薬作りに関しては優秀な魔女だったから、呪いはすでに解析され半ば封印された状態だった。長い時間で耐性もついていた。免疫のようなものができていたから、新たな呪いがかけられても、彼の魔女には全く効果がなかった。……だが、返された側はそういう訳にはいかなかったようだ。
呪いを相手に返した事で、同僚の命が失われた。『自責の念にはとらわれないで欲しい』と言われても、そう簡単に割り切れる訳がない。
その時、キッチンの方からごはんが炊けたことを知らせる曲が流れてきた。他に何の匂いもしないから、ごはんを炊いただけだ。それでも、ちゃんと食べて明日に備えようとしているのだと安堵した。
明日にはきっと、平気な顔を作って仕事をするのだろう。赤い髪のアザレの時もそうだったから。
さて、今の内に夕食でも作ろうと廊下に出たところで、洗面所の方から、無理矢理作ったとすぐにわかる妙に明るい声がした。
「あ、そうだそうだ忘れてた。おかえりー。お仕事おつかれさまー。ご飯だけは炊いといた。……だからバスタオル乾燥機から取って、あと着替えもおねが……」
「一日家にいたなら、乾燥機から出して畳むくらいはやっとけっ。着替えは自分で取りに行け!」
使い魔だった頃と同じように、いいように使役されている。おかげでこちらは感傷に浸る暇もない。それでも胸が引き裂かれそうに痛むのは、彼女の気持ちが流れ込んできているからだ。
「着替えたら、酒買いに外に出るぞ。どうせ今日は一歩も外に出ていないだろう?」
バスタオルを乾燥機から取り出しながら、浴室に向かって声をかける。にゅっとドアの隙間から出てきた手にバスタオルを握らせると、今度こそ夕食を作るためにキッチンに向かう。
シャワーを浴びながらまた泣いているようだが、剣のアザレはもっと酷い状態だ。バカな事をやらないようにディーに見張ってもらっているが、不安になってきた。あちらこちらで保安官に喧嘩吹っ掛けていたら……早めに戻ろう。
リビングは朝掃除をして出たままだ。キッチンも朝のまま。本当に一日中、ずっとベッドで泣いていたらしい。やはり、剣のアザレの様子を早めに確認した方がいい。海に沈みに行かれるのはもっと困る
頭からタオルを被って床に雫を落としながら、彼の魔女がキッチンに入ってくる。
「ちゃんと髪を乾かせ」
ああもう本当に世話が焼ける。速足で歩み寄ってタオルを奪い取り、リビングのソファーに座らせて髪を拭く。半分程乾いて、ドライヤーを持ってこようと手を離したところで彼女はふと目を上げた。目も鼻も真っ赤だ。視線が絡んだ瞬間に、その姿が消え失せる。濡れたバスタオルが空っぽのソファーの上に落ちるから、慌てて拾い上げた。
目の前にちいさな羽虫が飛んでいる。赤い着物を着た日本人形のような少女の背中に、カゲロウの翅がついている。身長は自由に変えられるが、今は人差し指程度だ。
「羽虫とは失礼じゃの!」
怒り出した羽虫の体からふわりと甘い香りが立つ。彼女が大切にしていた匂い袋。どうやら男にもらったものらしい。イラっとして軽く爪先で弾くと、くるくる回りながら飛んで行った。
「何をするのじゃ!」
戻って来た羽虫が顔を真っ赤にして怒っている。思いきり眉間を蹴られた。腹が立ったので翅をつまんで捕まえる。
「その姿は好きじゃない」
『夜と洋灯の魔女』に匂い袋を対価として支払い手に入れた、蜻蛉という『字』を彼女は大変気に入っているのだ。自由に飛べるから。
「だから、わらわの方がフられたと言っておろうに。わらわはこの匂いが気に入っておるのじゃ。男の顔も覚えとらんわ!」
「……今夜は天ぷらにしよう」
そう言うと、さあっと羽虫の顔から血の気が引いた。
こちらの嫉妬心を煽るような真似をするから悪い。
森保の同僚たちは、彼の魔女のことを彼の『字』のひとつ……たましいのない記憶だけの存在だと思っている。上にもそう虚偽報告してある。嘘はついていない。本当の事を言っていないだけだ。自分が保安官だから、彼等の目に対してどう誤魔化せばいいかはわかっている。
ついでに言えば、本部の許可なく勝手に使い魔の契約をしたのも実は服務規程違反だ。
それでも、一目見た瞬間にどうしても彼女が欲しくてたまらなくなった。
非常にスリリングな二重生活を送っていたと自分でも思う。何しろ少しでも目を離すと、彼の魔女は対価不足で命を削られ消滅しかけるのだ。自ずと効率よく仕事をする術も身についた。ちょっと離れただけで彼の大切な魔女は消えかける。できるだけ側にいるためには、さっさと仕事を終わらせるしかない。
自分が離れている間に、絶対に彼女が消えてしまわないように、大量の保険をかけておいた。結果的にそれが役に立った訳だ。
――それらはジオードに受け継がれ、今は葉月の命を守っている。
そういう訳で、アナベルは、友達の魔女が探し続けている黒猫が、自分の後輩であったという事実に、シエラの髪に触れるまで全く気付いていなかった。
彼女は『黒い鳥』と一緒に、『彼の魔女の秘密』を最後の最後まで守り通した。
それは多分、森林保安官調査員としての矜持と……可愛がっていた後輩への餞別だ。
『勝手に使い魔になるという服務規程違反を犯したのは私も同じだからね。でも最後まで隠し通せるなんて、妙な自信を持たないこと。いつかバレた時のために、言い訳ちゃんと考えときなさいよ!』
きっと彼女がここにいたら、そう言って悪戯っぽく笑うだろう。その姿が見えるようだ。
長く長く同じ職場で働いていた親しいひとたち。
保安官になりたての頃、アザレたちや、アナベルに仕事を教えてもらった。だから今でも頭が上がらない部分はある。
同じ姿をした別のものが当たり前に存在するこの世界で、同じものに拘るなど意味がないのかもしれない。
それでも、心はまだ受け入れることを拒否している。どこか麻痺しているような感覚だ。
彼の魔女は、一年に一度花を飾って、今はもういない親しいひとたちの写真を眺め……お酒を飲みながら、思い出を語る日を作っている。
ナーヴィスやペルナを偲んで、わあわあ泣きながら浴びるように酒を飲んでテーブルに突っ伏しそのまま寝る。そして翌日二日酔いというお約束。
休みまで取ってかいがいしく介抱している自分は本当にバカだと心の底から思う。
「とりあえず、この羽虫を天ぷらにしてから、酒を買いに行く」
「……ひとりでいると、かなしいのじゃ」
目の前にぶらーんとぶら下がった羽虫は、悄然としている。騙されてはいけない。二日酔いになった時に、水やらお粥やら用意してくれる相手がいないのが嫌なだけだ。
「何で行かないでって、素直に言えないんだろうな……」
「いかないで。どこにもいかないで」
哀れっぽく言うのかと思ったら、掠れた声で呟いて泣き出してしまった。これではこちらがいじめているみたいではないか。やれやれ、と思いながら翅を離してやる。肩に正座した蜻蛉はこてんと首に凭れかかった。だからその匂いが不快だ。
「剣のアザレの様子だけは見に行くからな……戻っては来るが」
イライラしながら冷蔵庫を開けて舌打ちする。やはり用意しておいた昼食は手つかずのままだ。オムレツなら食べられるとか言ったくせに。
「これ食べて待ってろ。ご飯は炊きたての方食べろ。レンジくらい自分でかけられるだろう? ……酒買ってきてやるから」
「いっしょにいくのじゃ」
「すきっ腹に酒入れようとするな。これ食べてここで待ってろ」
結局冷蔵庫から出して、レンジで温め、あたたかいスープとお茶を用意するところまでやった自分は本当にバカだと思う。
でも、彼の魔女は蜻蛉の姿になってまでまた泣いているから仕方がない。
「ひとりはいやじゃ。いっしょにいく」
彼女が首を振って髪を揺らすと香りが立つ。イライラする。
「だからその姿は嫌いだって言ってるだろう!」
思わず声が尖る。
「だって、あっちだと顔がひどいのじゃ」
拗ねたように言い返す羽虫の顔もすでに真っ赤だ。
「こっちももう涙と鼻水でぐちゃぐちゃだろうが。襟で拭くな! ああもう、わかった。食べ終わるまではいるから。あたたかい内にさっさと食べろ」
ディーから連絡がないということは、剣のアザレはまだ暴れていないし海に沈んでもいないのだ。羽虫は情緒不安定だし剣はどうなっているのかわからないしきらいな匂いはするしイライラする。赤い髪のアザレがいてくれたらなと……ふと思った。
「あ……」
頬に水が流れる。テーブルについた手の上に雫が落ちる。どんっと体に何かぶつかってきて抱きしめられる。
「酒に頼らなくても、大人だって泣きたいときは泣けばいいんだバーカ」
胸の辺りからくぐもった声がした。
赤い髪のアザレとアナベルを失った西担当事務所は、今まで通り業務を回せるかわからない。ふたりが抜けた穴はあまりにも大きい。ベテランの二人は西担当の保安官たちの精神的な支えだった。
それでも、誰が抜けてもどうにかこうにか仕事は回る。そういう風にできている。
そうしてやがて、いなくなったひとのことを忘れて……いないことが当たり前になって……
「よけいなこと考えないで、『悲しい』でいいんだよ。仕事とは関係ないんだ」
「はは……」
どうしてか、疲れたような笑いが口から零れ落ちて、素直に悲しいと泣ける彼女を少し羨ましく思った。腕の中のぬくもりをぎゅっと抱きしめて、まだ湿っている髪に頬をつける。
「あのひとたちが、もういないんだ……」
ため息にまぎれるようなかすかな声。それ以上は言葉にならない。
……ただ、悲しい。
彼女に出会う前からの、知り合いで、仕事仲間で、ずっと憧れていたひとたちだった。
――もう少しでいいから、ここにいてほしかった。
お土産が『匂い袋』だったことで彼氏の浮気に気付いたという……
次はシエラと赤い目の魔物の話です。