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23 シエラと恋の話 その4

 

 鏡の中には。紺色のドレスを着た少女が映し出されている。

 窓の外には雪が降っていた。物憂げな表情で紅茶を飲んでいる彼女の傍らに立っているウェイターは、『鏡と仮面の森』の統治者だ。先程とは目の色が違うけれど、あれは間違いなく()だ。


 うっかり指先を紙で切ってしまった時のような不快感を感じて、スピカは顔を顰めた。

 恋人ではない。しかし、ただの顔見知りという訳でもない。

 二人の間に流れるそんなどっちつかずの距離感が、余計にスピカを苛立たせる。

 この感覚には覚えがあった。……遠い昔、フードを目深に被った魔女の肩に乗っていた美しい黒猫を見た時と同じだ。


 自分より若くも美しくない彼女には、あんな特別で素敵な使い魔は絶対に相応しくない。そう思った。


 キャンドルの炎が金色に輝いている雪の夜に、『彼』に抱きしめられているのは、彼女であってはならない。

 あの場所は、あの少女よりずっと美しい、自分にこそ相応しい。


 鏡に触れた手に力が籠る。その途端に鏡の中の雪が黒く変わった。

 童話の中で、頭からコールタールをかぶった娘のように、少女の髪に、ドレスに、顔に、黒い汚れがべっとりとはりついてゆく。

 それを見ていると、少しだけ気持ちがすっとした。それなのに……

 彼はとても愛おしそうに、みすぼらしい姿の少女を見つめ続けるのだ。そして、縋りついた少女に優しくキスをする……

 

 ゆるせない!


 頭にかっと血が上った。がんっと鏡を叩こうとした勢いのまま、スピカの体は鏡の中に落ちて行った。





 棚の中で合わせ鏡状態だった卓上ミラーは、今はふたつとも床の上に置かれていた。そこに映し出される無音のショートムービーを、正座をしたスピカとミモザが身を乗り出すようにして見ていた。


「お、お姉ちゃんがんばったー」


「がんばったねー」


 スピカは目の端に涙を溜めながら拍手をしていた。ミモザも立ち上がってぴょんぴょん飛び上がりながら頭の上で手を叩いている。これは、応援している選手がオリンピックで金メダルを取った時のような感動だ!

 ロマンチックだった。とても良かった。最後の最後まではらはらさせられた。最後のキスシーンで涙腺が崩壊した。

 お祭り騒ぎをしている姉妹に、後方から呆れ果てた声がかかる。


「その反応はどうなんだろうか」


 ……そこは否定しない。

 でも、あの姉が、恥ずかしがり屋の姉が、ちゃんと恋愛をしていた。……音がないから本当の所はわからないけれど。

 映像だけ見ていれば完璧に恋の物語だった。……シチュエーションに助けられてはいたけど。

 自分からせまっていた! ……ように見えた。


 内情がどうであったにせよ、甘く切ない物語は、大きく相手の心に揺さぶりをかけることに成功した。いちゃつく二人を見せつけられてイラっとしたらしく、相手の化けの皮が一瞬剥がれかけていた。

 

「終わったなら鏡を合わせて、棚に戻せ」


 まるで、さっさとテレビ消して宿題やりなさい! と告げる母親のようだなと思う。スピカとミモザは興奮冷めやらぬまま、鏡を合わせ鏡状態にして棚に戻す。

 恋愛モノを妹たちと一緒に見るのは気恥ずかしかったらしいフリュオリネは、少し離れた場所で一人静かに本を読んでいた。

 衝立てを挟んだ隣にあるベッドで、巻貝の使い魔が眠り続けている。どう寝返りを打っても絶対にはだけないように、ベットに対して大きすぎるタオルケットが三枚くらいかけられていた。


 ……役得とでも思えばいいのにと思うのだが、そういう訳にはいかないらしい。


「巻貝という魔女に対しても失礼だろう?」


 静かな声でそう諭されて、スピカはさすがに反省した。


「……ごめん。そこまで考えてるとは思ってなかった」


 姉の中での彼の評価が低いので……つい。

 これは声に出さない。どうせ読まれているけれど。

 でも、考えてみれば、彼は人格者のフリュオリネ(父)の息子で、王子様なカールの兄だ。

 あの時のフリュオリネは、統治者としてこの『蛍石の森』と家族を守るために必死だった。それに、息子としては、母親の昔の恋人になど絶対に頼りたくなかったに違いない。


 ――フリュオリネは、あの時、『晶洞の森』の統治者に一体何をさせたかったのだろう?


 彼は平然と本を読み続けているが、スピカとミモザに心を読ませないように、自らの記憶のその部分に鍵をかけた。

 ……まぁいいや。とスピカはゆるく首を振った。今説明されてもスピカは理解できない。姉の恋人の記憶を持っていないから。

 スピカとミモザはもともと二人でひとつのものだから、記憶を共有することができる。だから、そのひとの顔と、どうやって姉と出会ったかくらいのことはわかる。しかし、この幼稚園児は、姉の恋人という存在にまるで興味がなかった。


 ミモザはほとんど会った事のない姉の恋人より、フリュオリネの方が好きなのだ。


「出会い方が違ったら、また違ったんだろうけどね……」


 姉はフリュオリネを一生許さない……ことはないだろう。あっちはあっちで罪悪感持っているし、相当なお人好しだ。でも……それでも、なかったことにするのは無理だとお互いわかっている。


「……うん、残念だったね。でも面倒くさいライバル多いし」


「……何が」


 しみじみした声でスピカが告げると、苦々しい声が返ってきた。


「ミモザとスピカおねーちゃんがいるから、おにーちゃまはシエラおねーちゃんにきらわれてても、へいきだよね?」


 ととととっとフリュオリネに駆け寄ったミモザが、可愛らしく首を傾げる。おにーちゃんではなく、おにーちゃまと呼ぶときは甘えたい時だ。慰めているつもりらしいが、傷口に塩を塗り込んでいる気がしなくもない。

 ミモザは読みかけの本をフリュオリネから奪い取ると、そのまま膝の上に座ってえへへっと笑って彼を見上げた。……そうだった。小さい頃の葉月は『お兄ちゃん大好きっ子』だった。兄の睦月も相当なシスコンだった。


 ――いつかって、いつだよ。

 ――いつかはいつか。


 突然そんな会話が頭の中に流れ込んでくる。

 それと同時に感じたのは……

 胸が張り裂けそうなほどの悲しみと後悔だった。……これほどのものを抱えていたのかと、スピカは言葉を失う。


 フリュオリネは、葉月を記憶の檻に閉じ込めた時、睦月の目を通して彼女を見ていた。

 後で落ち着いて自分のやった事を顧みた時に、きっと彼は睦月の立場であの夏の日の記憶を思い返したのではないだろうか。

 

 いつかはもう、訪れない。彼はずっと待ち続けているのだろうか……


 うわぁっという泣き声があがる。胸にしがみついて泣きじゃくるミモザを抱きしめたフリュオリネは、息をするのも苦しそうな顔をしていた。

 スピカは固く目を閉じて、強く拳を握りしめる。そうしないと、自分までもがみっともなく泣き崩れてしまいそうだったからだ。

 

 誰が悪いかと言えば、……フリュオリネが悪い。それは彼が一番よくわかっている。

 でも、スピカもミモザ同様、彼のことが好きなのだ。

 彼は、睦月に少し似ているところがある。義理堅くて、照れ屋で……優しい。


「……全部あの魔女が悪い」


 スピカは俯いたまま震える声を絞り出した。ぎゅっと拳を握りしめて、悲しみを怒りに変換する。

 体がぶるぶると震え出す。頭に血が上り目の前がチカチカした。

 八つ当たりだとはわかっている。でも、あの魔女が、フリュオリネの母親を騙したりしなかったら、こんなことにはならなかった。

 怒りの感情に身を任せて、心の中で魔女を散々罵倒する。……でも、怒りの感情は長くは持続しない。やがて、すうっと怒りの波が引いて行く。反動で妙に冷静になる。


 ふと思ったのだ。


 あの魔女は、フリュオリネの母親のたましいを、一体どこに隠したのだろうか……と。

 姉が旅立った目的はそれだったはずだ。

 まずはシンプルにそれだけを考えるべきなのかもしれない。


 アーラの占いで出てきた『金の額縁』と『人魚』というキーワードが『鏡と仮面の森』を指していることは間違いない。

 そして、彼女のたましいは黒い鳥に変えられて金の鎖で繋がれている。


 フリュオリネの母親を騙したのは『未熟な魔女』で間違いないだろう。その魔女は今、保安官シエラの血で『夜と洋灯の森の大魔女』アーラが作り上げた鏡の檻の中に閉じ込められている。


 魔女は自分が鏡の檻の中に閉じ込められていると気付いている。

 でも、彼女には鏡の中の世界を楽しむ心の余裕があるのだ。

 彼女は、もうしばらく遊んでいてもいいと思っている。自分に都合がいい世界が楽しすぎて、居心地が良すぎて、まだこの甘い夢に浸っていたいと考えている……

 例えるなら、『夢の中でこれが夢であると気付きながらも、夢の中が楽しくてまだ目覚めたくないと思っている状態』ということだ。


 そこはまさに姉の狙い通りだ。

 当初の計画では、彼女が楽しく鏡の中で遊んでいる隙に、『鏡と仮面の森』の中をくまなく探して『金の鎖で繋がれた黒い鳥』を見つけ出すつもりだった。今も調査員と保安官サフィータが必死に駆けずり回っている。

 ……でも手掛かりすら見つからない。


 アーラの占いが外れるとは思えない。

 ならば、あの占いが指しているのは『場所』ではなく、取り戻せる『時間』或いは『タイミング』なのではないだろうか? そう考えると、『金の鎖で繋がれた黒い鳥』は『鏡と仮面の森』にいるとは限らない、ということになる。


「他の場所を探せということよね……でも、どこを?」


 ……考えろ。今がその『タイミング』なら、何か他にヒントがあるはずだ。

 最近起こった事。今起こった事。その中で特に印象に残っている事。それは、巻貝の使い魔が見つかったことだ。


「つかいま……使い魔?」


 今、一瞬何かが心に引っかかった。使い魔。そう、使い魔だ!

 スピカは思わず眠っている巻貝の使い魔を凝視する。


「魔女が使い魔を持つのは、そうしないと昔のことを思い出せなくなってしまうから」

 

 確認するために、声に出して自分の耳に聞かせる。それに、スピカが筋の通らないことを言い出せば、フリュオリネが訂正してくれるだろう。 


 魔女は、人間と同じで古い記憶からどんどん忘れていってしまう。だから、記憶の保存庫として『忘れることが出来ない』魔物を利用している。


「長く生きる魔女にとって使い魔というのは絶対に必要な存在だ。……だから、いない訳がないんだ」


 いくら黒猫に強い執着心を抱いているとはいえ、長く長く生きている『未熟な魔女』に、使い魔がいないとは考えにくい。古い使い魔を新しい使い魔に捕食させて、記憶を受け継がせてゆくことは可能だからだ。考えるのも気分が悪いが、黒猫が手に入った時点で今いる使い魔を捕食させればいい。


 では、『未熟な魔女』と記憶を共有している使い魔は、今どんな姿をしていて、どこに潜んでいるのだろう? 

 スピカは、姉がカールと一緒に旅立ってから関わり合った者たちの顔を、順番に思い浮かべてゆく。とにかくシンプルに考える。違うと確信できれば、候補から外してゆく。


「……あたし、鏡の中の剣のアザレさんに会いに行ってくる。……あとよろしく」


「…………は? ちょっと待てスピカ、って、ミモザちょっと離してくれ」


 フリュオリネが焦ったような声を出すが、ミモザは彼の胸元に顔を擦りつけるようにして首を横に振り、絶対に離すものかというようにさらに灰色の服を握りしめた。


「大丈夫。さすがにもう油断しない。約束する。……剣のアザレさんってディーと入れ替わってるんだよね?」


 凄みのある笑顔を浮かべたスピカを見て、フリュオリネは止めても無駄だと悟ったらしく、諦めたようにため息をついた。


「ああ、だから、本部にいるだろうな。……鏡の中に入るのなら、父上にこちらの状況を報告しておいてくれ」


 フリュオリネ(父)は鏡の中の世界で上司の中に入っている。だから彼は本部の西担当事務所にいるはずだ。

 森林保安協会としても、本部に侵入を繰り返し重要機密を盗みまくったあの魔女を、この機会に何としても捕らえたい。

 保安官シエラの血を使って『夜と洋灯の森の大魔女』が作り上げた夢の檻。鏡の世界の中に登場する人物たちは、実在する者たちが演じている。

 

 ――ただし、本人が本人を演じているとは限らない。


 そうやって、森保の関係者や力ある魔物たちが、魔女が逃げ出さないように鏡の中で常に監視している。

 しかし、彼等だって、いつまでも領域を留守にするわけにはいかない。だから……


「剣の中にディーが入っているなら何の問題ないよね。あのひと強いし、あの剣ってぶん殴るだけでも殺傷能力あるし。……ほんの少しの間なら、剣のアザレさんに、こっちに戻ってきてもらうことができるかもしれない」


「スピカ、何をしようとしているっ」


 フリュオリネが顔を引きつらせて立ち上がろうとしているが、泣いているミモザがしがみついて、いやいやと激しく首を横に振るので、浮かした腰を戻して頭を撫ぜて慰め始める。

 ごめん。とスピカは心を読まれないように壁を作ってから、心の中でフリュオリネに詫びた。……ミモザはスピカに協力してくれているだけで、あれはすでに嘘泣きです。


「どうして、魔女シエラの記憶をお姉ちゃんが持ってるって、『未熟な魔女』は気付いたんだろう? どうして、蝶の入った温室は『晶洞の森』に移動されたはずなのに、ノヴァの顔をした魔物がどこからともなく湧いて出てくるんだろう? その辺りをもう少し突き詰めて考えれば、簡単にわかることだったんだ」


 同じ『字』だからというだけでは少し根拠が弱いし、『晶洞の森』の統治者が蝶を逃がすようなミスをするとも考えられない。


 消去法でいけば……残るのはひとり。


「だから、保安官である剣のアザレさんに確かめてもらわないといけない。あたしではわからない」


 落ち着き払った声でそう言って、スピカはまっすぐにフリュオリネを見つめた。

保安官は嘘をつかせない魔法が使える。だから、うまくいけば、『金の鎖に繋がれた黒い鳥』の居場所がわかるかもしれない。





 目の前に広がるのは、奇妙に歪んだ空間だった。

 足は地面をはっきりと感じているのに、スピカは宙に浮いている。

 空から様々な『物』が地上に向かって落ちて行っている。まるで雪が降るように。

 家具、ぬいぐるみ、楽器、書物、文房具、洋服、アクセサリー……その他用途のよくわからないもの……


 ここは重力がとても弱いのかもしれない。すべての物が、大きさに関わらず同じ速度を保ちながらゆっくりゆっくり落下しているのだ。

 スピカが手を伸ばせば触れられそうな範囲だけでも、ソファー、赤鉛筆。アンティーク風の照明、ガスコンロ、やかんが、落下していっている。それらが、視界の中で急に大きくなったり小さくなったり、遠ざかったりしているのだ。まるで魚眼レンズを通して見た世界だ。空間が安定していないのか、遠近感が滅茶苦茶だ。悪酔いしそうになる。


 遥か下に見える地上部分は、ゴミの埋め立て地のようだった。見渡す限りどこまでもどこまでもゴミの山が続いている。それがスピカの視界の中で、脈動しているかのように蠢いたり、歪んだり、ぼんやりと滲んだりする。……気持ち悪い。


 時折地上付近で竜巻のようなものが巻き起こった。すると、地上に堆積していた『物』が、コップの底で溶け残った砂糖のように、渦を描きながら宙に浮かび上がる。それらはしばらく宙に留まると、またゆっくりと地上に向かって落下し始めるのだった。


「……『沼』だ」


 スピカは吐き気を押さえるように口を押さえて呟く。


「へえ、よく知っているね」


 スピカは声の主を探して大きく周囲を見渡す。蝙蝠傘を差した男が、ゆらゆらと漂い降りて来るのが見える。二人の距離は三メートルくらいだろうか。彼の持つ傘の上には黒猫がお行儀よく座っていた。


「収集癖の成れの果て。忘れられたものの墓場。魔物の記憶も、視覚化すればこんなものかもしれないな。必要な時に必要なものを探し出せない」


 赤い目の統治者は機嫌よくそう言うと、すいっとスピカの背後を指差した。


「君がこっそり、彼女の膝の上の布端に切れ込みをいれておいたから、重さに耐えきれなくなって布は裂けてしまった」


 スピカが体ごと振り返ると、美しい刺繍が施された白いドレスが落下してゆくのが見えた。あれはセリアナが着ていた婚礼衣装だ。


「結界が壊れて、管理者は『沼の森』に喰われてしまった。残された金の獣は、自らが統治者となってこの先も彼女の森を守り続けるつもりだろうけどね。やがては新たな配偶者を迎えるだろう。あんなに愛していた彼女の事を忘れて」


 赤い目を細めて、彼はスピカに向かって手を伸ばす。再び心臓を鷲頭掴みにされたような痛みが全身に走った。スピカは崩れ落ちるように蹲る。


「これで満足した? 幸せな二人を引き裂くことができて。だってそうだよね、そのためにあんな仕掛けを施したんだから」


 あまりの痛みに言葉を返すどころか息をすることもできない。

 何もかも見透かされていることに恐怖を感じる。


「でも、僕は、他人の不幸を喜ぶ素直なあなたが好きだよ。自分より幸せそう笑っているひと全員、絶望に突き落としてやりたいんだよね? その気持ちはよくわかるんだ」


 それでも優しく声をかけられる度に心は甘くうずくのだ。

 ……うそつき。そう声に出さずに呟く。だってあなたは別のひとにキスをしていた。


 視界が陰る。はっとして天を仰ぐと、金枠の姿見がスピカの頭の上に落ちてきていた。波打つ鏡面に頭のてっぺんから飲み込まれてゆく……

 

 鏡を抜けた先は、薄暗く狭い山小屋の中だった。壁は剥き出しの丸太で、床には古びた絨毯が敷かれている。明かり取りの窓の下に丁寧に折り畳まれた毛布が置いてあった。

 室内は凍えそうに冷え切っている。肩がほとんど剥き出しになっているスピカには寒すぎる。がたがたと体が震え出した。


「あれ、スピカさん?」 


 背後のドアから顔を覗かせたのは、葡萄色の目をしたコトリだった。キャメル色のダッフルコートを着ている。肩には白い鳩がとまっていた。


「ちょっと待っていて下さい、今あたたかい飲み物とラムボールを持って来ますから。良かったらそこにある毛布も使って下さいね」


 外に出て行ったコトリは、マグカップとちいさなチョコレート菓子が乗った木のトレイを持って戻って来ると、毛布にくるまって床に座っているスピカの前に直接トレイを置いた。ここにはテーブルも椅子もないのだ。

 スピカは湯気の上がるマグカップに手を伸ばし、中を覗き込む。匂いはしないけれど恐らく紅茶だろう。口に入れてもやはり、匂いも味もしない。でも、暖を取ることはできる。


 三口飲んでから、ほうっと一息つく。体の中に熱が落ちて行き、胃の辺りがぽっと温かくなった。小皿の上に置かれた一口大のラムボールにも手を伸ばす。本来ならラム酒の香りがする筈なのに、こちらも無味無臭だ。時折歯に当たるのは刻んで混ぜ込まれたナッツとドライフルーツだろうか。

 食べてしまってから、これはもしかしたら店から持って来たコトリの非常食だったのかもしれないと、スピカは気付いた。竃も暖炉もないから、煮炊きは外で行っているのだろう。こんな場所でお菓子が作れるとはとても思えない。


「よくここがわかりましたね?」


 コトリが不思議そうな顔でスピカに尋ねる。スピカは寒さに震えながら青い顔で曖昧に笑うことしかできない。


 声が出ないのは寒いからばかりではない。息を潜めて待っている。これから起こる何かを。


「ここにいることは、アザレさんたちには内緒にしておいて下さい。……心配を、かけたくないので、どうか、お願いします」


 それは絞り出すような声だった。コトリは空になった小皿を見つめながら、苦しそうに微笑んだ。

 その時だ。ふと焦げ臭いにおいが風によって運ばれてきた。


「え……? 私、火の始末はちゃんとして……」


 コトリが大急ぎで立ち上がってドアに向かって駆け出す。スピカはマグカップを床に置くと、ゆっくりと彼女の後ろを追いかけはじめた。


「あ……」


 入り口で立ち止まったコトリが茫然と目を見開いている。少し離れた場所の空が真っ黒な煙で覆われようとしていた。付近で山火事が起こったのだ。今はまだ火は見えないけれど、いずれここにも炎は迫って来るだろう。


 驚き固まっているコトリの姿が目の前から急速に遠ざかる。視界の端に金の枠が出現する。


 いつしか鏡はオレンジ色に輝く炎を映している。暖炉の火をじっと見つめているような気分に浸りながら、スピカの口角は自然と上がっていった。……しかし次の瞬間覚えのある痛みに襲われて床に崩れ落ちる。真っ青な顔で床に両手をついて、息をつめて痛みをやり過ごす。体の震えが止まらない。背中にびっしょりと汗をかいていた。


 大丈夫。このくらいならまたすぐ補填できる。固く目を瞑りながら、そう自らに言い聞かせる。


「アザレは行方のわからなくなった少女を探し続けるだろう。彼女はもういないのに、ずっと、ずーっと……バカみたいだね」


 背後で赤い目をした統治者が、楽しくて仕方がないというように声をあげて笑っていた。


「僕は好きだな。……あなたが望む、悲劇的な物語の終わり方」


 スピカが方頬だけを上げるような奇妙な笑顔を浮かべて地面に両手をついて振り返る。顔の右半分と左半分がそれぞれ別々の感情を浮かべている状態だ。

 男が両手を伸ばすと、鏡は吸い寄せられるように胸の中におさまった。彼はオレンジ色に輝く鏡面をスピカの方に向ける。鏡の中から黒猫が飛び出して、スピカに向かって駆け寄ってくると、挑発するようにわざわざ頭上を飛び越えて走り去っていった。

 しかし、スピカは『鏡と仮面の森』の統治者から目が離せないのだ。恋焦がれるように求め続けた黒猫よりも、今はもう……


「もう少し時間はあるから、じっくり考えて選ぶといいよ。自分の存在が誰かを幸せにしてゆく物語と、自分以外の誰かが不幸になってゆく物語。ひっくり返せば、結局はどちらも同じことだけどね」


 まだ体がしびれて動けなないスピカに向かって歩いて来た男は、悪い事など何も知りませんというような無垢な笑顔を作ってみせた。


「あなたは結局、自分以外が全員不幸になればいいって思ってるんだよ。それは僕も同じだ。だから、僕たちは結構うまくやっていけるような気がするんだけどな?」


 まるで恋を初めて知った少女のように、スピカの頬が赤く染まり、どんどん心拍数が上がってゆく。


「ねえ、最後には僕を選んで?」


 最後に甘く囁くようにそう告げて、男は抱えていた鏡にスピカの姿を映した。

 鏡は一瞬真っ白になり、男の姿は煙のように消え失せた。後は宙に鏡が浮いているだけだ。

 そこに映っているのは、ミントグリーンのドレスを着た美しい少女ではない。

 金の枠の鏡の中、黒猫を膝に乗せた紺色のドレスの少女が、もの言いたげな目でじっとスピカを見つめ……悲し気に目を伏せた。


 ……やっぱり、彼女より、ずっとずっと自分の方が美しい。


「そう。いつもこうやって選ばれるのは、あたし」

 

 気分がいい。すごく気分がいい。鏡に手をついてスピカはにっこりと勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。そして、声が届かない鏡の向こうにいる彼女に読み取れるように、大きく唇を動かす。


「ご・め・ん・な・さ・い・ねぇ」


 そうすれば、鏡の中の少女は、恨みと怨念の籠った目でこちらを睨みつけてくる。そして、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、今にも噛みつこうとするような歯をむき出しにした醜悪な形相を見せてくれる……筈だった。


 いつもそう。……いつも、最後に選ばれるのは若く美しい女の方だった。


 女性としての魅力で彼女に負けた者たちは、泣き叫び、口汚く罵り、髪を逆立てて掴みかかってきた。そして、愛していた女性が、目を覆いたくなるような醜い姿に変貌してゆく様を目の当たりにした男たちは、どうしてこんな醜いものに自分が恋焦がれていたのだろうかと、後悔の念に捕らわれ、静かに目を背けた。

 

 醜い女を、美しい自分が高い位置から見下しせせら笑う。

 その瞬間に感じる優越感と達成感こそ、生きている糧だ。


 天井を向いて高らかに笑う。


「そろそろ準備はできた? さぁ、どんな醜い姿を見せてくれるのかしら?」


 期待を込めて鏡に目を向けた時だ。なんの前触れもなく鏡が傾き、重力に負けたように落下し始めた。鏡はスピカの頭の上に向かって落ちて来る。ぶつかる! そう思った瞬間に、心臓が握りつぶされるかのような、今まで経験したこともない激痛に体が硬直した。視界が真っ黒に染まる。バタンと床に倒れた魔女は、雷に打たれたかのように体を痙攣させた。


 ぼんやりと最初に見えたものは、誰とも知れない年老いた女の顔だった。ご丁寧に表を向けて、すぐ目の前の床に金枠の鏡が置かれていたのだ。慌てて鏡をひっくり返すと、恐る恐る自ら腕を確認する。しみが目立つたるんだ皮膚と浮き出した血管……

 か細い悲鳴が喉の奥からほとばしり、彼女は再びその場に倒れ伏した。


「取り返されてしまったようだね」


 鏡の奥に灰色の靴の爪先が現れた。体が全く言うことを聞かない。ゆっくりと目だけを上げる。灰色のドレスを着た美しい魔女が、気だるげに微笑んでいた。

 床に置かれた鏡を挟んで、老婆と羊の目をした魔女が向かい合う。


「はじめまして、だけど、挨拶は省略させてもらうよ。慢心は身を滅ぼすというのは本当らしい」


 夜と洋灯の魔女は艶やかに笑う。その傍らに立っているのは鏡像だろうか。左右反転した魔女が並んでいる。その肩には緑色の目をした黒猫が乗っていた。黒猫は退屈そうにひとつ欠伸をすると、あの時と同じように侮蔑に満ちた目をこちらに向けた。


 しかし、魔女にはもう黒猫を気に掛けるだけの心の余裕がない。皺に埋もれた濁った眼を精一杯見開いて、ふたりのアーラを交互に見つめている。


 そんな訳はない。彼女がここにいる訳がない。完璧に騙せたはずだ。

 あの日アーラに対価として差し出した、『孔雀の羽根』と『金の獣の毛束』と『巻貝の店の瓶詰』の中には、みっつが体内で混ざり合うことによって完成する『呪い』を仕込んでおいた。今頃はもう身動き取れなくなっているはずで……


「私は人を騙すのは得意ではないんだよ。だから、今回は知り合いに手伝ってもらったんだ。真正面からぶつかれば、私に勝ち目はないからね」


 羊の目をした魔女は、思わせぶりに笑う。


「紅茶と、赤いジャムを乗せたビスケットと、ラム酒漬けのドライフルーツ。……もう忘れてしまっていたのかい?」


 もう一人のアーラが、謎かけのようにそう言った。老婆はちいさく肩を震わせる。

 忘れる訳がない。師であるペルナの姿に身を変えて、その三つを姉弟子の魔女シエラの元に届けた。

 それらを食べた彼女の中で呪いは完成し、ゆっくりと魔女シエラの体を内側から蝕んでいった。


「さすがに二度も同じ手は喰わないよ? 言っただろう、『耐性がつく』と。嘘をついて騙すのは私も得意ではないからね。本当のことしか言っていない」


 ――さて、騙される側に立った気分はどうだい? 


 ふたりのアーラは、ミントグリーンのドレスに埋もれるようにして地に伏している老婆に向かって、美しく笑いかけた。


 老婆はその言葉を聞いていなかった。喉に深く指を突っ込むが、えずくだけで吐き出せない。

 木苺のジャムの時は、まだ警戒心が働いていた。しかし、山小屋の時は、あまりの寒さに暖を取ることを優先してしまった。


 紅茶と、ラムボール。


 ラムボールのレシピは色々ある。だが、基本となる材料は、細かく砕いたスポンジかビスケットと、チョコレート。そして風味付けのラム酒だ。


 老婆は胃の中のものを吐き出すのを諦め、焦点の合わない目でぼんやりと宙を見つめた。


 長い長い時間の果てに、呪いは返されたのだ――

17話と18話を入れ替えてみました……

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