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21 シエラと恋の話 その2


 どうやって辿り着いたのかわからない。気付けば森の中を彷徨っていた。意味がわからない。怖い。自分の呼吸音が耳の中に響いている。他に何の音もしない。耳が外界の音を拾うことを拒否している。まるで悪夢の中を彷徨っているかのよう。うまく前に進めない。


 夢だった方が何倍もマシ。


「ああ、やっぱり迷子だね。門が開いてしまったのか」


 突然背後から声をかけられた。何の気配もしなかったのに。

 ばっと振り向いた先には、ランタンを持った初老の男性が立っていた。見るからに優し気な雰囲気だ。まるで絵本に出て来る善良なおじいさんのように。

 素直に助かった……と思った。このひとは大丈夫、と。


「たまにそういうことがあるんだよ。災難だったね。……一応確認しておくけれど、君は誰だい?」


 ランタンの火に目が惹きつけられる。赤い炎をみている内に、心が落ち着きを取り戻してゆく。……まるで催眠術にでもかかったかのように勝手に口が開く。


「わたし……私は……」


 喉を押さえて愕然とする。わからない。自分が誰なのか。今まで何をしていたのか。記憶がとても遠い。思い出すのに時間がかかる。自分の名前もぱっと出てこない。


「かわいそうに……世界を飛び越えた衝撃で記憶が壊れかけているね」


 気の毒そうな顔をして、男はそう言ってから、少し目を伏せて考え込んだ。


「そのままでは不便だろうから、私の持っている『字』をひとつあげよう。ここで生きていくためにはどうしても必要なものだからね。おいで『シエラ』。記憶が定着するのに少し時間がかかる。眠る場所を用意するよ。目覚めた時にはこの世界のだいたいのことは理解できているはずだ」


 心臓がどきんと大きく鳴った気がした。……何かが書き換えられた。わからないけれどそう思った。急速に睡魔に襲われる。それなのに、足は勝手に男に向かって進み始めた。

 ランタンを持った男性は踵を返すと、暗い森の中を灯りで照らしながら歩き始める。意識は朦朧としているのに足は勝手に前に進んでゆく。操られているとわかっている。でも、怖くはない。頭の中に霧がかかったようにぼーっとしている。


 このまま魔女の住むお菓子の家に連れ込まれても、きっと訳の分からないまま食べられて人生を終えるのだろう。ふとそんな事を思った。





 目を開けた時、自分が自分でないような気がした。頭の中が別の記憶に浸食されている。知らないのに知っている。昨日会った初老の男は、この『化石と塩の森』の統治者ナーヴィスで、ここは彼の配偶者である魔女『ペルナ』の店の屋根裏部屋だ。

 独り立ちをした十二番目の弟子が半年前まで暮らしていたから、彼女が残した服がまだ数枚残っている。クローゼットを勝手に開けて、着られそうな服を探す。すとんとしたワンピースに着替えて一階におりて行くと、魔女が朝食の支度をしていた。


「ああ、起きたのか」


「おはようございます。お世話になっています」


 初対面なのに、初対面という感じがしない。記憶があるからだ。そのままごく自然に四人掛けのテーブルの定位置に座る。弟子はここに座ると決まっているのだ。


「気持ち悪いだろ?」


 にやっと魔女は笑った。真っ白な髪を顎の辺りで切りそろえた、三十代くらいのとても綺麗な女性だが、実際は何百年も生きている。シエラの前には、ペルナの手によって見たことがないが知っている料理がどんどん並べられてゆく。浅く大きな皿に注がれる魚のスープ。目の前の籠には揚げたパン。


「はい……どんどん適応してゆくのがわかって、それが気持ち悪いですね」


「それがわかるのなら、おまえは魔女としての適性がある。……気にしても始まらない。さっさと食べて仕事にかかろう。どうしたってここで生きて行くしかないからな」


「元になっているのは誰の記憶なんですか? それだけがはっきりしなくて」


 魔女は一度手を止めて、目を伏せて少し寂しそうに笑った。


「へまをして魔物に喰われた、一番弟子の記憶。私があんまり泣くから、ナーヴィスが取り戻してくれたんだ。だから最近のものはナーヴィスの記憶とも言える。……どうやらうまく定着したみたいだね。相性が良かったのかもしれない」


 定着、とペルナは言ったが、長い長い小説を読み終えて、小説の主人公になり切っているという感覚に近い。

 

 これが『捕食』というものなのだ。魔物や魔女は、誰かから与えられたり奪ったりして、記憶と共に経験や知識を手に入れる。


 新しい記憶の奥には、壊れかけた自分自身の記憶が沈んでいた。名前ももう思い出せない。家族がいたのかもわからない。ぼんやりと元の世界の風景が思い浮かぶだけ。


 ――だから、ここで魔女として生きて行くことに、全く抵抗を感じなかった。





「ふーん、あんた、めずらしいものだね」


 魔物が現れた! そんな言葉が頭に浮かぶ。流れたのはおなじみのゲーム音楽だ。

 ローブで全身を隠した怪しすぎる人物が、すぐ目の前に立ってシエラを見ている。一瞬前までそこには誰もいなかった。

 魔物がフードを外す。黒い髪に暗緑色の目をしたとてもきれいな男性だ。でもシエラの口からはひいっという悲痛な声が漏れる。慣れた頃が一番危ないといというのは本当だった。魔女の弟子になって三か月。……ごめんなさい、何の恩返しも出来ずに喰われることを許してと心の中で師に詫びた。


 そろそろ使い魔を、という話になり、一人で領域の外の草原を歩いていたのだ。ナーヴィスによって幾重にも守りの魔法をかけられ、師匠からはお守りやら何やらじゃらじゃら持たされた。

 弱い魔物を探し出して、使い魔になってもらえるように頼み込むつもりだったのに……とても扱い切れないものが出た。これは守りの魔法でもお守りでも対処しきれない。終わった。


「魔女のくせに諦め早いなぁ」


 そりゃそうでしょうよ。だって、魔女になってまだ三月だみつき。と心の中で呟く。……どうせ筒抜けだけれど、声に出す勇気はない。

 そしてこれから魔物の腹の中だ。そう思った途端ちくりと胸が痛んだ。弟子二人が魔物に喰われたとなれば……ペルナはとても悲しむ。強い言葉を使うけれど心はとても繊細で傷付きやすい魔女だ。


 でも……どうにもならない。何もできない。だって魔女になってまだ三か月だから!


「……長生きできないよ? 潔すぎ。魔女ならもう少し頭使ったら?」


 魔物が呆れ果てたような顔になった。そうして、すいっと顔を近付けると、シエラの瞳を覗き込む。


「……あんた珍しい記憶を持っているよね。別の世界から来たのか。ちょっと興味あるなぁ。欲しいなぁそれ」


 魔物の目がキラキラと輝き始める。面白い玩具を見つけた子供のように。

 しかしそこに純真さは欠片もない。例えるならばイカサマを仕掛けようとする賭博師の目だ。


「すぐにぽっくりいきそうだから、暇つぶしに遊んであげる。あんたがどうやってここで生きて行くのかすごく興味がある」


 鼻先が触れそうな程綺麗な顔が近付く。


「いらん」


 反射的に言い返して、どんっと突き飛ばしていた。途端に魔物は腹を抱えて爆笑しはじめた。


「まぁそう言わず。喰われるのか、使い魔として飼うのか選んでよ。どっちがいい? 俺、結構役に立つよ?」


 とてもいい笑顔で脅迫された。拒否権などこちらにある訳がない。いかにも渋々という面持ちでシエラは頷いた。今ここで喰われるのは遠慮したい。


「今日からよろしくお願いします」


 この瞬間、使い魔に絶対に頭が上がらない魔女シエラが誕生した。

 この魔物を連れて帰るの嫌だなと思ったが、黒猫に姿を変えた魔物は、ペルナとナーヴィスに対しては、とても礼儀正しく振る舞った。


「なんでだっ。何を企んでいる!」


 シエラが詰め寄ると、黒猫姿の魔物は可哀想なものを見る目を向けてきた。


「あのな、領域の管理者はあんたが思ってるよりずっと偉いの。覚えとけバーカ」


 ――こんな口の悪い使い魔いらん。と、心の底から思った。





「何を差し出せば何を得られますか」


 カウンターを挟んで魔女シエラの前に立った少女は、緊張した面持ちでお決まりのフレーズを口にした。

 昔話が『むかしむかし』から始まるように、魔女の店に入ったらまず『何を差し出せば何を得られますか?』と尋ねて魔女の力量を測るのだ。力ある魔女ならば何も言わなくとも依頼者の願いを言い当てることができる。

 でも、出来損ないの魔女にはわからない。彼女が何を望んでいるのかなんて。全然まったくさっぱりわからない。


「美容液とみせかけて、おじいちゃんのぎっくり腰に効く薬」


 顔を隠す黒いフードの下でダラダラ汗をかいていると、シエラの肩に乗っている真っ黒な猫が、そっと耳元で囁いた。


「ええ、ええっと、あなたのその指輪を対価にして、おじいちゃんのためのぎっくり腰の薬……で。どうでしょうか?」


 いかにも恐る恐るといった様子で提案する魔女の耳元で「もっときっぱり言い切れ、なめられるぞ」と黒猫が怒っているが、無理なものは無理。お客様は神様です。


「……すごい! そうです。そうなんですっ。ぎっくり腰の薬が欲しくて!」


 ぱあっと少女の顔が輝き、尊敬の眼差しが向けられる。罪悪感でまともに相手の顔が見られない。少女はさっさと指輪を外してカウンターの上に置いた。シエラは背後の棚から緑色のとろりとした液体が入った瓶を取り出す。


「寝る前に縫っておけば朝には少し楽になっているはずです。服に色がつくと落ちないので、汚れてもいい服を着るか、布を巻いて保護して下さいね。あと結構匂いもあります。一晩で劇的に良くなることはありません。三日くらい様子を見て下さい。効かないようなら別のものをお渡しします。効果があるようならそのまま使い続けて下さい」


 少女は薬を受け取ると、「ありがとうございます」と満面の笑みを浮かべて、店から出て行った。


「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


 立ち上がって丁寧に一礼する。記憶は曖昧だが体に染みついた習慣というのはなかなか消えないもののようだ。ドアが完全に閉まってから、安堵のため息をついて椅子に座り、背もたれに体を預ける。

 今回は命を削られなかった。対価不足で命を削られるのは、本当に痛い……


 ペルナのもとから独り立ちして、町外れにちいさな薬屋を開いて一ヶ月。シエラは何とか細々と食いつないでいる。ぎりぎりの生活であることは否定しない。


「自分を安売りしすぎなんだよバーカ」


「今回は大丈夫だったのに、なんで怒るかなぁ」


 黒猫はいつもの男性姿に戻り、行儀悪くカウンターに座っている。どうしてこういつも毎日四六時中小言を言われねばならんのだろうか。この小姑め!


「バカって言う方がバカなんだ!」


「……いや、俺より確実にあんたの方がバカだよな」


 今日もまた憐みの目と共に言い返されて言葉を失う。その通りだ。もう泣きたい。

 出来損ないの魔女は、この使い魔がいなければもうとっくに対価を得られずに消滅している筈だ。何しろ、シエラは薬を作る事しかできない。それに、捕食をすることにも抵抗がある。故に……叶えられる願いの種類が限られているのだ。こういう魔女は長生きできない。

 魔女が生きるためには常に対価を得る必要がある。取りすぎる分には問題ないが、足りないと命を削られるのだ。


 シエラはお客が置いて行った指輪を手のひらにのせる。指輪はぼうっと光って消えた。


「ひとつの事を突き詰めたい魔女は沢山いるけどな。そういうのは長く生きられない。結局躊躇いなく捕食して知識を増やして、どんな願いでも叶えられるぼったくり魔女の店の方が繁盛する。今日も客少ないなー」


 やれやれとばかりに魔物は肩を竦めてみせた。


「ほっとけ。長く生きるつもりなどさらさらない。人間五十年だ五十年」


「それ、あんたが生まれるずっと前の時代の話だよな」


 フードの上から頭突きをされて、シエラは痛みで涙目になりながら布の影から魔物を見上げた。何で突然怒るのかな。意味がわからない。


「もう少し暇つぶしに付き合ってもらわないと困る」


 にーこり笑っているが、目は怒っている。


「そろそろ飽きようよ」


「あんた俺いないと何にもできないよな。炊事掃除洗濯何ひとつまともにできないよなぁ」


 ずいっと顔を近付けられて、その圧にのけ反りながら顔を背ける。まさにその通りだ。衣食住すべてこの魔物がいないと成り立たない。扶養されている。非常に立場が弱いのだ。逆らってはいけない。


「おっしゃる通りです。でも文明の利器に頼り切っていたんだから仕方がないじゃないかぁ。かまどなんて絶対無理っ」


 何だか無性に腹が立って、頭突きし返す。目の前に星が飛んだ。痛いのは自分だった。バカなことをした。額を押さえてカウンターに突っ伏す。


「捕食するつもりがないんなら、ここでの生活に慣れる努力をしろ努力を」


 家事能力が欠如しているのは、この記憶の前の持ち主である『シエラ』が炊事洗濯掃除を苦手としていたからだ。自分のせいばかりじゃない……たぶん。


「……無理。ぱっと電子レンジとか出せないものなの?」


「自分の記憶の中にあるものなら出せるが他人の記憶の中のものは出せない。あんたその僅かに残った記憶、手放すつもりないだろ」


 魔物が呆れたようにため息をつく。ぐいっと頭を両手で挟まれて無理矢理顔を上げさせられた。


「赤くなってるな。……つくづくバカだよな」


 魔物はシエラのフードを外すと、赤くなっている額を見てこれみよがしにため息をついた。


「不公平だっ。この石頭っ」


 涙目で不平不満を申し立てる。


「はいはい。いたいのいたいのとんでけー」


 やる気のなさそうな声でそんな事を言ってから、魔物は黒猫に姿を変えた。猫はシエラの額にそっとキスをする。それだけで痛みは嘘のように消えてしまった。


「店閉めな。俺、別の仕事が入ったから行ってくる。明日の朝には戻って来るから、それまで大人しく裏で薬作ってろ。ナーヴィスたち以外は相手にするなよ」


「朝帰りとは優雅だなぁ」


「……あんたさ、ほんとバカなの?」


 黒猫から憐れむような目を向けられると、男性姿の時よりへこむ。






 店にやってきたペルナは、新しい弟子を取らされたんだと、少し疲れたようにそう言って自分の背後を振り返った。そこには黒い髪に黒い目をしたとても綺麗な女の子が立っていた。同じ色を持っていても民族が違えばこうも違う。何となく物悲しい気持ちになっていると、黒猫が耳元であからさまに侮蔑のため息をつき、シエラの肩からおりて店の奥の部屋に引っ込んでしまった。


「きれいな黒猫ですね! この方の使い魔ですか?」


 弟子は黒猫の姿が見えなくなるまでじっと見送ると、シエラに向き直り、胸の前で手を組んで上目遣いで微笑んだ。


「私に、私に譲ってはいただけませんか?」


 この子、何を言い出した? シエラは顔を隠すフードの下で目を瞬く。譲れ? 初対面で? 挨拶もまだなのに?


 確かにこの容姿でこの性格となると、魔女にでもならなきゃ生き辛いだろうなとシエラは納得した。こういう男を手玉に取るのを得意とするタイプは、ペルナの弟子に向いていないと思うのだが……どこかの魔女が持て余して押し付けてきたんだろうか。


「何を対価に支払いましょうか? 髪? それとも血ですか?」


「やめなさい。それは禁忌だ。それ以上は許されない」


 勢いこんでカウンターに身を乗り出した弟子を、慌ててペルナが窘める。


「魔女は、他の魔女の使い魔を自分のものにすることはできない。対価を支払って手に入れたり、奪い取ったりするのは大罪だ。罪人の烙印を押されるぞ」


「では、では、どうしたら手に入るのですか?」


 ひどく傷付いたような顔をして、弟子はペルナを見上げる。男だったら傅いてどんな願いも叶えましょうとか言い出すだろうなと、シエラはぼんやりと思った。何事も諦めないことは大切だが、ここは大人しく引き下がって欲しかった。


「方法はないね」


「解約した後とか、魔女が死んだあとなら……ぐっ」


 弟子が心臓を押さえて床に崩れ落ちる。命を削られたのだ。体を二つ折りにして荒い呼吸を繰り返す弟子を見下ろして、ペルナがため息をつく。


「これでわかったろう? 禁忌なんだよ。言葉にしただけで、これだけの罰を受ける。……使い魔は自分で探すことだ」


 弟子は唇が切れる程噛みしめて、血走った目でシエラを睨みつけた。それは完全な逆恨みですね。シエラはすいっとフードの下の視線を逸らした。


「私の方が似合うのに。絶対私に相応しいのに……あれがいい。他のはいらない」


 口の中でぶつぶつ呟く声が聞こえる。

 ……もういいから連れて帰ってくれないだろうか。そんな気持ちを込めてペルナを見上げた。新しい弟子が非常に魔女向きの性格をしているということはよくわかった。自分とは違ってそれはそれは優秀な魔女になることだろう。


 確かに彼は特別だ。こんなところで出来損ないの魔女に使役されるような存在ではない。……訂正する。使役されてはいない。

 そして、それを一目で見抜いた彼女も特別な魔女だ。だから彼女は特別な使い魔が似合う。


 要するに……うちの黒猫は彼女の自尊心を傷つけたのか。


 これほど才能に溢れた美しく傲慢な魔女だ。彼女のもとには、使い魔になりたい魔物が誘蛾灯に引き寄せられるように集まってきているに違いない。彼女はきっと、今まで自分に興味を抱かない存在に出会ったことがなかったのだ。

 本物の宝石を見た後に玩具の指輪を見ても、安っぽく感じるだけだ。彼女はもう絶対に玩具の指輪では妥協しない。

 面倒なことになったなとシエラはため息をついた。


 もうちょっと愛想よくできなかったのかあの魔物……そんな風に思ってしまうのも結局逆恨み。





 石の門の前には地平の彼方まで草原が続いている。何もない空間から草原に猫が一匹降り立つのが見えた。


「****」

 

 手を振って名前を呼ぶと、黒猫から男性の姿に戻って不思議そうな顔をする。美形がきょとんとしているというのは何となく間抜けだな、なんて思って笑いが込み上げた。人間が生きるには長すぎる時間を一緒に過ごしてきたけれど、彼のこんな顔は相当貴重だ。


「珍しいな。迎えに来るなんて」


 たまに彼はふらっと『仕事』だといってどこかに出かけて行く。どこで何をしているのかは知らない。シエラがかまどでの料理に慣れ、元の世界よりこちらの世界での生活が長くなるにつれ、彼は『仕事』だと言ってそばを離れることが多くなった。


「たまにはね」


 悪戯っぽく笑って、彼に向かってまっすぐに手を伸ばす。

 この世界に迷い込んで最初にシエラという『字』をもらってから、どのくらいの時間が経過したのだろう。元の世界で生きてきた時間の何倍もの時間をこの世界で魔女として生きた。店はいつも閑古鳥が鳴いていたけれど、どこに行ってもそれなりに常連客はついた。

 魔女はひとつの場所に長く留まれないから、十年すると別の場所に移動してそこでまた薬屋を開く。そのくり返し。

 出来損ないの魔女がここまで生きながらえることができたのは、使い魔になってくれた目の前の魔物のおかげだ。気まぐれで強い魔物。別の仕事とやらに出掛けて行くことはあったけれど、それでもできる限りそばにいてくれた。


 全部彼のおかげだと……本当はわかっている。でも、こうなったのも彼のせい。


 彼女が歪んだ笑みを浮かべながら目の前に立った時、心のどこかで、ああやっぱりなと思ったのだ。

 そこまでして、特別な使い魔を手に入れたかったのか。

 罪人の烙印を押されることになっても。それでも手を伸ばさずにはいられなかったのか。


「どうか自由に」


「バカを言うな。俺は認めない」


 魔物が目が吊り上がる。本気で怒らせても怖くない。それくらい長い間一緒に暮らしていた。魔女と使い魔は記憶を一部共有するから、当初の目的通り彼にとってもいい暇つぶしにはなったのではないだろうか。別の世界の記憶を興味深そうに探っていた。


「今までありがとう」


「何で俺がフられたみたいになるんだ」


 魔物の顔に焦燥感が浮かぶ。ちゃんと笑えているだろうか。あまり自信はない。


「……ごめん。やっぱり私、一人じゃ何もできない、出来損ないの魔女だった」


 指先からほどけてゆく。まるで編み物をほどくように糸になって空気に溶けてゆく。昔、好きな人のために編み始めた手編みのマフラーをどうしても完成させられなくて、そんなこんなの内に恋が終わって悔し紛れに解いた記憶が蘇る。遠い遠い昔の記憶。


「何で最後に別の男のことを思い出すんだろうな」


 茫然とした顔をして、彼はほどけてゆくシエラを見つめている。


「……君の方がずっとずっといい男だったよ?」


 もう顔の半分が解けたのに、どうして喋れるのだろうか。不思議だなと思う。そして、本当に面倒見のいい魔物だ全く。暇つぶしと言ったくせに律儀に最後まで付き合ってくれた。


「当たり前だバカ」


 長く長く生きる彼にとっては、簡単に捨て去れるくらいの時間なのに、どうして、そんな顔をするのだろう。いつかはこんな日がくるとわかっていただろうに。

 最後なんだから、笑ってくれればいいのに、と。そんな事を思いながら、残った左目に彼の姿を焼き付ける。


 でも、そうか……最後に残るから、後悔なのか。


「……私はね、君がとても好きだよ」


 いつだって伝えられた筈なのに。ずっと先延ばしにしてきた。別れは唐突に訪れるものなのに……どうして自分達には当てはまらないなんて思っていたのだろう。

 彼は魔物だから、きっとすぐにこの記憶も手放す。だからこれは自分に聞かせるために言葉だ。


 お願い。そんな茫然としていないで、いつもみたいにバカにするように……笑って?

 君のおかげで、私は知らない世界でも、こうやって笑って暮らせたんだ。

 ああでも、こんなことになるのなら、最初に君に食べられてあげておけばよかったかな。そうしたら、君の知らない世界を沢山見せてあげることができたかもしれない。

 元の世界のことも、人間だった頃のことも忘れてしまうくらい、本当に長い長い時間君と一緒にいたのに……

 最後の作り目が解けて、マフラーはすっかり糸に戻って、編んでいた時の記憶もすっかり解放されて。届かない想いは届かないまま消えて……それでおしまい?


「……んな訳あるかバカ。まぁ、俺が戻って来るまで耐えたことだけは褒めてやる」



 



 シエラは、ゆっくりと目を開ける。見渡す限り薄青い水の色だ。水クラゲがふわりふわりと浮かんでいる。ここはクラゲの水槽の中。

 何度見ても、すっきりしない終わり方だ。これが映画だったら酷評の嵐だろう。


 『魔女シエラ』は葉月と同郷の人間だった。彼女は葉月と同じようにある日突然この世界に迷い込んだのだ。

 葉月がディーに拾われたように、彼女は『化石と塩の森』の統治者に拾われた。そこで『シエラ』という字と記憶を与えられて……魔女になった。

 彼女は名前すら思い出せない、帰る場所もわからないという状態だったから、魔物に喰われた弟子だという『シエラ』の記憶をすんなり受け入れたのかもしれない。


 ――そこが葉月との一番大きな違いだろう。葉月は絶対に帰ると心に決めていた。この世界を拒絶していた。


 人間がどうやって魔女になるのかまではわからない。それは魔女の秘匿だから。

 そして最後に彼女がどうなったのかもはっきりしない。

 続編に期待したいが、続きがどこにあるのかわからない。少なくともシエラは持っていない。


 葉月に『シエラ』という字を与えたのは上司だった。同じ境遇だから、受け入れやすいとでも思ったのかもしれない。しかし、葉月は『字』は受け入れても『魔女シエラ』の記憶を頑なに受け入れなかった。この世界の食べ物を拒絶していたのと同じように。

 いつでも開いて読むことができたのに、他人の日記を読むことを厭うような潔癖さで、『魔女シエラ』の記憶に鍵をかけて心の奥底深く深く沈み込ませていた。


 『魔女シエラ』だった彼女は、一体今どこで何をしているのだろう。

  

 『化石と塩の森』は山の中にあるようだったから西の担当だ。でも、西には今その名前の森は存在しない。シエラは自分の担当地域も含め、西事務所の管轄の森の名前は全部言える。統治者か管理者が代わって、別の名前の森になっているか……抗争に負けて飲み込まれたのかもしれない。だから、これはかなり古い記憶なのだ。


 もし、彼女がまだ生きているのならば、別の『字』で生きているということになる。何にでもなれる魔物より、魔女は脆弱な人間に近い。だから、捕食しても、完全に別のものに変わることはできない。

 魔女シエラの声には聞き覚えがあった。どこかで聞いたことがある。一体どこでだろうか。


 わからないことだらけで頭が痛くなりそうだが、一つだけ確信していることがある。


「あなたは他人の恋路を邪魔するのが趣味なんですかねぇ」

 

「じゃあ、君は僕に喰われてくれるのかな」


 その瞬間世界が変わる。クラゲたちが自由勝手気ままに漂っている青い世界から、夜の草原へ。

 白いテーブルセットに座って白いシャツを着た青年姿の魔物が優雅に紅茶を飲んでいる。

 ノヴァとシエラが名前をつけた魔物の残像と同じ姿だが……これは偽物だ。スピカやミモザと同じ、字を上書きされた魔物。

 

「砂時計をひっくり返しても、時間が戻る訳ではない……か。あの青い目の魔女の言う通りだと思ったよ。恋の物語はいつも美しい。美しいものは美しいままで取っておきたいよね」


 砂時計を手の中で弄びながら、ノヴァと同じ顔をした魔物は笑う。

 何でいきなり詩を暗唱しはじめるかなこの魔物。シエラは白けきった目を向けた。


「……ねえ、君は、最後に僕を選んでくれる?」


 魔物はうっとりと恋をする瞳をシエラに向ける。自己陶酔が気持ち悪いな本当に。


「でも私は彼女じゃない」


 寒気を感じて二の腕をさすりながら、シエラは断言した。


「本当にそうだろうか? 君の持つ元の世界の記憶は本当に君のものなのかな。実はすべて『魔女シエラ』のものだったかもしれないよね」


「違う。人間は、他人の記憶を完全に自分のものにはできない」


 冷静にシエラはそう言い返した。騙されるものか。あの頃の葉月はまだ正真正銘の人間だった。だから、『魔女シエラ』が自分の記憶と『シエラ』の記憶を混同していなかったように、完全に他人の記憶を自分のものにすることはできなかったはず。


 ――だから、葉月の記憶は間違いなく葉月本人のものだ。


「なら、僕に返してくれないかな? 『魔女シエラ』の記憶を」


「返すという意味がわからない。魔女シエラの使い魔だった魔物はあなたじゃない。さらに言えば、あなたはその『字』とともに記憶を引き継いだだけの、彼女となーんにも接点がない別の魔物だ」


「……今この記憶と字を持っているのは僕なんだけどな。保安官というのは厄介なものだね」


 魔物は一瞬言葉に詰まり、悔しそうに顔を顰めた。


「私は保安官じゃないけど、それが必要とされるのがこういう時なのだと、今はっきりと理解したよ。そして、あなたも保安官の素質はないね。あたしがお姉ちゃんじゃないと見抜けないんだから!」


 目を細めて挑発的に笑ってやる。目の前の魔物は表情を失い、砂時計を揺らしていた手を止めた。


「……やっと見つけたのにな。でも僕がダメでも他がいる。それを手に入れるまで、僕はクラゲのように増殖し続ける」


 自嘲するように薄く笑った瞳の中に見えたのは二枚貝だ。相手が自分より弱い魔女や魔物なら、目の中を覗き込めば相手の正体を見抜くことができる。


「また『貝』か。なるほどね。類は友を呼ぶとはよく言ったものだね。つまり、あの魔女は『黒蝶』ではなく『黒蝶貝』だった訳なんだ。ありがとう。あなたはもう用済み」


 魔物の足元に金色の魔法陣が現れて強い光を放つ。光が消えた時、魔物の姿はもうそこにはない。プラスチックの虫かごが草の中に落ちている。捕らえられているのは紫色の小さな蝶だ。

 シエラが虫かごを拾い上げると再び世界は変わる。一度クラゲの水槽に戻り、そして緑の森へ。風が屋根のない部屋を通り抜けて行く。


「すでにナンバリングされたのは姿が変わらない筈だけど……まだ大量に残ってたんだよなぁ。お姉ちゃん嫌々ながらもがんばったんだけどねぇ」


「がんばったんだけどねぇ」


 ミモザが両手を差し出すから、虫かごを渡そうとして、ひょいっと別の手に奪い取られる。スピカとミモザは中途半端に浮いている虫かごを揃って見上げた。灰色のカソック風の服を着た男性が、厳しい表情で二人を見下ろしている。


「危ないからダメだ。スピカもそんなに無防備に拾い上げるんじゃない」


「……ねえ、自分が相当なシスコンだって自覚ある?」


「おにーちゃま、かほごー」虫かごを受け取れなかったミモザは不満そうにぴょんぴょん跳びはねている


「騙されて喰われかけただろう。ミモザが気付いたから間に合ったが、本当に危なかったんだぞ」


 振り返ったフリュオリネに痛い所を突かれて、スピカは言葉に詰まった。

 スピカとミモザは元々ふたつでひとつの存在だから、お互いに何かがあると悪寒という形で伝わる。魔女に喰われかけたスピカは、間一髪フリュオリネに救出されたけれど、記憶はごっそり奪われてしまった。


「……その辺の記憶はもう取られて残ってないんだよ。大きな剣振り回してて気持ちが大きくなっちゃったんだと思う。お姉ちゃんにも迷惑かけちゃった。記憶さっさと取り戻して、お姉ちゃんに返さないとなぁ」


 今スピカが持っているのは、シエラから借りている記憶だ。しかし、晶洞の森の統治者に関する部分だけはごっそり抜け落ちている。

 彼は、閉じた世界に、自分のことだけしか覚えていない恋人を閉じ込めた。

 執着心の強い魔物に目をつけられてしまったら、もうどうしても逃れられないものなのかもしれない。

 そんな風にはなりたくないなぁ。魔物怖いなー。他人ごとの気楽さでスピカはそんな事を考えながら、後ろ手に手を組んで、フリュオリネの後をついてゆく。


 本棚の上に無尽蔵に置かれた標本や図鑑、蔦が絡まる天秤や望遠鏡を眺めながら歩く。ちらちらと木漏れ日が揺れている。部屋の片隅に置かれた棚には、蝶が入った虫かごが並べられていた。蓋が開かないように細かい字がびっしり書かれたラベルによって封印されている。


「百六十五番」


 フリュオリネがそう言った途端に、蝶の翅に百六十五という番号が浮かび上がる。

 百六十五番。紫に白の縁取り。体長十五センチ……

 ラベルに黒い文字が浮かび上がってゆく。紫の蝶が入った虫かごは、百六十四番の虫かごの隣に収められた。


「まだまだたくさんいるんだよねぇ。あたしもミモザも一時期あの顔だった訳だけど、まだこの先もずっと同じ顔がやって来ると思うとうんざりする。はやく終わらないかなぁ……」


 憂鬱そうな顔でスピカがため息をつく。


「あれみたいだね。実は飛ぶくろいむしー」


「一匹見たらたくさんいると思えって? ……やだやだ」


 スピカは顔を顰めて首を振った。あの虫の事は思い出すのも嫌なのだ。その時、パン! 風船が割れるような大きな音がした。びっくりしたミモザが涙目でフリュオリネにしがみつく。

 百六十五番の虫かごが割れていた。宙に浮いた蝶の紫の翅から数字が剥がれ落ちる。


「……え……拒絶した?」


 フリュオリネがスピカとミモザを背中に庇う。紫の蝶は弱々しく翅を震わせると力尽きたように床に落ちた。どうしても百六十五番という仮の『字』を受け入れたくないようだ。蝶はよたよたと床を歩き始める。何かを目指して。


「何だろう。多分貝に関するもの。……この辺に何かある?」


 スピカは周囲を大きく見回した。ここは物が多すぎる。図鑑と標本だらけだ。左側の本棚の上に並んでいるのは卵の標本だし、その横には開かれたままのキノコ図鑑。その横には名前も知らない打楽器のようなものが置いてあるし、その隣は、螺鈿細工の小箱……


「これか!」


 小箱を持ち上げて蝶の前に置いてやる。最後の力を振り絞るようにして蝶は羽ばたき、虹色の光沢を持つ白い貝に触れた。紫の蝶が姿を変える。床には茶色い髪を三つ編みにした少女が固く目を閉じた状態で横たわっていた。フリュオリネが慌てて顔を背ける。彼女は素っ裸だったのだ。


「スピカ、布!」


「え……巻貝さん? なんで?」


「いいから、まず布!」


 焦った声でせっつかれ、スピカは手のひらに出現させた魔法陣の中から、花柄のタオルケットを取り出した。大きく広げて巻貝の体がすっぽり覆い隠す。肩が少し上下しているから息はしているようだ。


「もう大丈夫だよ。……でも何で巻貝さん? この子魔物だよね」


「……恐らく使い魔だな。魔女と記憶を一部共有しているはずだから、この姿は主の記憶に引きずられたんだろう」


 タオルケットをかけてあっても直視できないらしく、顔を背けたままフリュオリネは答えた。


「ひょっとして、黒蝶がどうしても消し去りたかった過去って、これ……?」


 スピカは床に倒れている茶色の髪の少女の横に膝をついた。

 もし、目の前に倒れているのが本当に巻貝の使い魔なら、黒蝶は巻貝の使い魔を食べたということになる。他の魔女の使い魔を奪い取るのは禁忌だと魔女シエラの記憶の中でペルナが言っていた。罪人の烙印を押されるのだと。


「巻貝さんを消し去って自分の罪を忘れても、一度押された烙印は消えないのに。身に覚えのない罪を抱えて生きる方が、苦しいと思うんだけど……」


「魔女巻貝を消し去って罪をなかったことにすれば、罪人の烙印は消えると……騙されたのかもしれないな」


 ぽつりとフリュオリネが呟いた。


「何それ、そんな都合のいい話あるわけないよ」


 露骨に呆れ顔になったスピカを諭すように、フリュオリネは真剣な目で告げた。


「それを信じ込ませるのが、魔女だ。長く生きた魔女は、それだけ誰かの願いを叶え続けてきたか、或いは騙し続けてきたかのどちらかだ。……現にスピカも騙されたから、記憶を失うことになったんだろう?」

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