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雪の夜の物語


 店内は華やかなオレンジの香りで満たされていました。


 美しく飾り付けられたツリーを取り囲むように、二人掛けのテーブルが並べられています。テーブルの上に置かれたキャンドルの柔らかい光が、顔を寄せあって愛を語り合う恋人たちを照らしていました。


 紺色のドレスを着た若い娘がピアノを弾いています。しかし、彼女が奏でる切なくも甘い旋律に耳を傾けている者は誰もいません。


 夜が更けるにつれて恋人たちは一組、また一組と腕を組んで店を去ってゆきました。ドアが開く度にオレンジの香りは薄れてゆきます。

 最後のお客が会計を終えて店を出て行き、囁くようなピアノの音が、店内に僅かに残っていた浮ついた空気を落ち着かせてゆきました。

 最後の和音の余韻が消えて、店に残っていたスタッフが拍手をして……娘はほっとした顔で立ち上がって彼等に向かって一礼しました。




 ……甘い匂いで彼女はふと目を覚ましました。

 片付けが終わるまで少し待っているように言われたのに、疲れていたせいか、テーブルに突っ伏して眠ってしまっていたようです。


 はっとするくらい鮮烈なオレンジの香りが立ち昇りました。うたた寝をしていたテーブルの前にはワゴンが置かれ、黒いベストにクロスタイを合わせたウィエイターの青年があたたかいデザートを仕上げています。

 オレンジのソースで煮込まれたクレープに、青い火がついた洋酒が注がれるのを、娘はぼんやりとした目で眺めていました。


 キャンドルの金色の炎とリキュールの燃える青い炎を見比べて不思議そうな顔をする彼女に、残り物で申し訳ないけれど、と、彼は穏やかに笑ってそう言いました。


 窓の外には雪が降っています。音もなく舞い降りる雪はいつの間にか道路を真っ白く覆い始めていました。他のスタッフたちは電車が動いている内に帰りますと、挨拶もそこそこに慌しく去ってゆきました。


 白いお皿に取り分けられたあたたかいクレープを食べながらも、娘の表情はどことなく物憂げです。約束をすっぽかされてここで一人食事をしているような、そんな寂しさを感じていたのです。


 ぼんやりと雪を眺めていると、おつかれさまという言葉と共に、目の前に紅茶が置かれました。

 どこかまだ夢の中にいるような気分で一口飲んで、それからミルクを注ぎました。自分は一体ここで何をしているのだろうなとぼんやりと考えながら、濁ってゆく紅茶を見つめています。

 電車が止まったら自分も帰れない。でも、せっかく出してもらった紅茶は飲まなければいけない気がして、席を立つことができないのです。


 きっと電車が止まるほど雪は積もらないだろう。もし止まってしまっても、始発まで駅にいればいい。


 考え事をしていたせいでミルクを入れすぎた紅茶はすっかりぬるくなっていました。


 半分ほど飲んだ所で、真っ白なカップについた赤い色に気付いて、娘は思わず顔を顰めました。店内が暗くなるからと、普段は絶対に選ばない艶のある真っ赤な口紅をつけていたのです。その大人びた色が自分には全く似合っていなかったことを思い出して、再び気持ちが沈み込んでゆきました。

 もう少女とは言えない。でも大人でもない……


 どうしたの? と、尋ねる声が思いがけず近くて彼女は肩を震わせました。


 紅茶がこぼれてしまう! と、思った時には、大きな手がカップを支えてくれていました。そのままテーブルクロスを汚すことなく、カップは無事にソーサーの上に戻されます。ほっとして顔を上げた途端、鼻先が触れそうな距離で青年と目が合ったことに驚いて、彼女は椅子ごと後ろにひっくり返りそうになってしまいました。

 咄嗟に背もたれを掴んで椅子を止めた青年は、小さく息をつくと、壊れ物を扱うように彼女の体をそっと抱きしめました。


 ふわりと体を包み込んだ熱と、服に染みついたオレンジのリキュールの香りに頭がくらりとして……


 ――好きです。


 自分の口から零れた落ちた言葉に自分自身で驚いて、娘は大きく目を見開きます。しかし、すぐに目の前にある襟に微かについてしまった赤い色に気付き、口元を押さえて顔色を変えました。

 糊のきいた清潔なシャツについた赤い色はほんの僅かなのに禍々しくて、もう取り返しのつかない失敗をしたように思われたのです。


 ごめんなさい。すぐに落とさないと。どうしよう……


 腕の中に閉じ込められた娘は、半泣きになっておろおろと謝り続けていました。自分を見下ろしている優しい眼差しにも気付かないままで……

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