19 シエラと閉じ込められた者
「きぶんわるい……」
うめくと頭に響く。体の感覚が全くない。もう立っているのか座っているのか横たわっているのか固体なのか液体なのかもわからない。
「……だろうな」
声の主にしがみ付く。恥じらいというものはきっと、健常者の持つ感覚なのだ。体が相手に触れている部分だけ感覚が戻る。しがみつくと少しだけ眩暈が楽になる。楽になるためならもう何だってする。辛い、気持ち悪い、めまいがする。……血が足りない。全く足りない。誰か血をよこせ。目の前にあるはだけたシャツから覗く首筋に噛みつきたくなる衝動に抗う。
多分、吸血鬼やゾンビもこんな気持なのだ。楽になりたいのだ。だから彷徨い歩いて獲物を見つけたら噛みつく。でも自分は吸血鬼でもゾンビでもない……はずだ。
「ちがたりない」
「……だろうな」
呆れ果てた声がそう答える。人工呼吸のように深い口づけが繰り返される。頭のネジがぶっ飛んでいるのでもう何をされても、このどうしようもない倦怠感から逃れられるためならもう何でもいいやと思ってしまう自分が辛い。我に返ったら羞恥に悶えるのだろうが、後のことは後で考えよう。
「……ジオード、つらい」
「血が足りてないからな」
そんなことはわかっている。自分でやったのだし。そしてジオードにも迷惑をかけている自覚はある。でもつらい。体が自分のものではないみたいだ。全身が重くしびれている。血が足りない。相手に触れている感覚すらない
自分の体の状態を見るのが怖い。恐らく人間の姿は留められていない。上半身はギリギリまだ残っているようだが下半身の感覚がない。
「これ以上感覚を失うなよ。自分の形を忘れると戻れなくなる」
そうなるとアメーバ状になるのだろうか。もうそれもいいかもしれない。それか、プラナリアみたいに切られると増えとか。割れると増えるのはビスケットか。ポケットを叩くのだ。懐かしい童謡は相手の口の中に消える。
「一度崩れると新しい字が必要になる。俺の字を与えてもいいが、あんたは自分の姿が変わるのは嫌だろう?」
色違いの瞳がすぐ目の前にある。自分が自分でなくなるのはすごく嫌だ。ルールーがコトリになったように、誰かの記憶を移植して新しい姿を手に入れる。別のひとに成り代わる。そうやって別の誰かの時間と記憶を手に入れて、そのまま自分のものにして……
いらない物は、どんどん捨ててゆく。
別の姿をした同じ存在。……魔物なんてみんなクラゲなんだ。もうみんなクラゲだクラゲでいい。
「本当にクラゲになるぞ」
「……それはすごく嫌だ……あ、指先に感覚戻ってきた気がする」
指輪をしている指から戻ってゆく。液体から固体へ。恐る恐る自分の体を確認してすぐに後悔した。
腹から下が鉱石と同化している。これはもう人間ではないな。このままいくとクラゲではなく石になる。……さようなら人間だったかつての自分。
重い腕を無理矢理動かしてジオードの指先に触れる。大きさが違うけれど同じ手だ。指を絡ませる。体温を感じて皮膚がピリピリした。ああ感覚が戻って来たのだと気付く。何度も触れる唇があたたかいと感じる。繰り返される度に体温が馴染んで同じ温度に近付く。
ようやく周囲を横目で見渡せる程度の余裕ができる。晶洞の中だ。結晶がほの白く発光しているから周囲は薄暗い。
「……自分の名前とジオードのことしか思い出せないけどなんで?」
何もかもが曖昧だ。自分の名前も何者かも。……私は何だっけ?
「俺はあんたがずっとこのままの方がいいけど、あいつは嫌がるだろうな」
「あいつって誰だっけ。私なんでこんなことになってるんだっけ? 私って何?」
「……少し黙ってろ」
再び唇を塞がれる。甘い雰囲気など微塵もない。人工呼吸のようなものだ。多分こうしないとシエラは体の形を留められない。
「しえら。わたしのなまえ? ……あれ? シエラ? 本当に?」
脆弱な人間の保安官で……目の前の魔物の配偶者で……でも血を失ったからそれ以上のことは何も覚えていない。記憶の中は空っぽだ。自分と目の前の魔物以外に誰もいない。
だんだん混乱してくる。何も……何も誰も覚えていない。また気分が悪くなる。血が足りなくて気持ちが悪い。頭痛も酷い。視界にキラキラとした金色の粉のようなものが舞うから固く目を瞑る。何度目かの口づけが落ちる。
「……あんたが残したのがそっちだったからだろ」
「ジオードはどうして機嫌がいいの?」
目を閉じた闇の中から尋ねる。こちらは最悪な気分なのに目の前の魔物が楽しそうなのが気に入らない。
「あんたが俺以外のすべてを何の躊躇いもなく捨てたから。……ずっとこのままでいればいい。あんたの中には俺の記憶しか残ってない。すごく気分がいい」
「……何でそんなことしたんだろう。少なくともジオードのためでなかったことだけはわかる」
この台詞はもう完全な八つ当たりだ。我ながら可愛げがない事だなと思う。
「……さあな? でも今のあんたは俺だけのものだ。ずっとこのままでいればいい」
口づけの意味が合いが変わる。ああ甘いなとぼんやりと思う。
「こうして見ると、結構日に焼けてるよな。喉から下は白い……」
指先が首元を擽る。非常によろしくない状況であるということは今はっきりと認識した。とりあえず上半身だけでも服を着せて頂きたい。見てもそんなに楽しいものではないだろう。いっそ美容師が練習に使う首から上だけのマネキンのようになれば……やっぱりそれもすごく嫌だ。
「……今更だけどな」
「持ち悪いと思うので見ないで下さい」
「……いや全く」
真顔で返された。嬉しくなかった。
「是非とも気持ち悪いと思っていただきたい。というか服下さい」
「足先まで戻らないと無理だな。服と同化したくないだろう?」
返って来たのは絶望的な答えだった。
「嘘だ!」
「……残念ながら嘘じゃない」
何だろうその究極の二択。せめてバスタオルくらいかけてくれてもいいじゃないか。
「同化するんだ。内包物って聞いたことあるだろう? それはそれで綺麗だとは思うが、人間の姿からは少し外れるな」
内包物ってあれか。インクルージョンってやつか。やっぱりもう完全に人間じゃないじゃないかとシエラは泣きたくなる。いつからだ。あの角飲まされた時からだな。やっぱり飲むんじゃなかった!
「全部うそだー!」
もう一度涙目で叫ぶ。誰か本当に嘘だと言って欲しい。人間でなくなるのは百歩譲ってもう受け入れるとしても、このまま素っ裸は本当に嫌だ。……やっぱり人間でなくなるのもいや。
「……嘘じゃないのはわかるよな? ……泣くのか」
感情の振り幅が大きい。ボロボロと泣き出したシエラを見て、ジオードはやれやれという顔をした。そのまま強く抱きしめられる。
「こうしていれば見えない」
「なんか違う。なんか絶対に違う」
自分はなんでこんな事になっているんだろう? こういう状態になるのがわかっていたら絶対にやらなかったのに。
「俺は楽しい。ずっとずっとこのままがいい」
だからそれは嫌だと言っている。でも、触れている部分から流れ込んでくるジオードの気持ちは春の日差しのように穏やかで満ち足りていて……幸せそうで何よりだ。
(……まぁいいか。ジオードが幸せならしばらくはこの状態でも。色々迷惑かけてるし)
唐突にシエラはすべて諦めた。後頭部がずきずき脈打つように痛む。顔を顰めた途端に、少し体を離したジオードがまたキスをするのを素直に受け入れる。慣れというものは恐ろしい。
そして不意に思ったのだ。今ここにない『……』の記憶は、どこで誰のものになったのだろうかと……
やっぱりよくない。流されてはいけない!
「ジオード、記憶、戻ってきたら返してね、隠さないでね。嘘ついてもわかるからね」
「このままがいい」
見たことがない程幸せそうな笑顔を向けられる。……嫌がらせか。嫌がらせなんだな。腹が立つ。
「私は、トーテムポール状態は嫌だ。ついでに服も着たい」
「ずっとこのままでいい」
……ダメだこの魔物。
薄暗い晶洞で恋人と二人きり。随分ロマンチックだ。きっとこれはロマンチックなのだ。……シエラは小学校の体育館裏に突っ立っていた卒業記念品のトーテムポールみたいになっているけれど。
結局記憶がないと逃避も出来ない。断片的な風景は思い浮かぶがそれが何にも繋がらないのだ。それを誰と一緒に見たのか。とか、いつ見たのか。と、いうことはわらない。本当に目の前のこの魔物の記憶しか残っていない。考えることがない。ふたりでしりとりでもしていれば良いのだろうか。
「だから眠るといい」
片方はロマンチックに浸っているが、こちらにそんな心の余裕はない。
「素っ裸で寝る習慣はない!」
記憶はないが裸族ではなかったことは確かだ。習慣のようなものは感覚として残っている。
「愛でも語ってやろうか」
「遠慮しとく。だから離れないで。服着てないから心細い。何か寒い。服くれないなら服になって!」
体を少し離されて思わせぶりに顔を覗き込まれた途端に、空いた隙間に冷えた空気が通る。思わずシエラは肩を震わせて自ら目の前に魔物の首にしがみ付いた。
「……やっぱり、ずっとこのままがいい」
甘ったるい声が耳に吹き込まれる。脳髄が溶けそうだ。わたあめとりんごあめとベビーカステラとチョコバナナの匂いが混ざり合っている。
「キノコみたいに生えている状態はいやだーっ」
「……引き抜こうか?」
そういう問題ではない!
しがみついている肩が愉快そうに揺れている。晶洞の中で魔物とふたりきり。多分頭の中を空っぽにして恋人との甘い時間に浸るべきなのだ。恥ずかしがっていても仕方がない。これが、この先延々と続くのだ。魔物は願いを叶えてからしか対価を受け取れない。だからジオードはシエラの願いを叶え続ける。『ずっとずっとあいしてる』だなんて、誰だそんな呪いの言葉を口にしたのは!
もう絶対に逃げられないじゃないか。時間が戻せるなら取り消したい。
「……時間を巻き戻すのは俺でも無理だな」
喉の奥で笑っているのだから確信犯だろう。騙された! あのブリザードに騙されたっ!
「ずっとあいしてる。どこにもいかない。それがあんたの願いだから」
……何か、塩気が欲しい。フライドポテトとか、たこ焼きとか。
――まだホラー映画の方がマシだった。
ごぼり……と空気が吐き出される。ダメだ抗っても沈んでゆく。水面がどんどん遠ざかる。
水中に高層ビルが立ち並んでいる。縦にショーウィンドウが積み上げられている。確かこれはそういう名前だったはずだ……記憶が急速に消えてゆくのがわかる。奪われてゆく。……喰われている。
物語の中で穴に落ちている少女のように、体は水底へ引き寄せられていく。
すぐ目の前にあるショーウインドウの中には裸のトルソーが置いてある。トルソーの足元に置かれたプレートには、呪いの婚礼衣装とある。
『このドレスを着た娘は、恋に破れ気がふれてしまう』
金色の文字でそう記されている。
体が沈む。その一階下のウィーウインドウには空っぽの木棚が置いてある。プレートには、悪意の瓶詰と書かれている。
『この瓶詰を食べた男性は、心変わりしてしまう』
体が沈んでゆく。そのさらに一階下のガラスの向こうには側には重厚な木製のテーブルが置いてある。バテンレースの上に乗せられた空っぽの宝石箱。プレートには、支配の指輪。
『この指輪をはめた者は、自分を失ってしまう』
その下は鳥籠。足に金の鎖をつけられた黒い鳥が、曇りひとつないガラスの向こう側から悲し気な目でこちらを見つめている。逃げ出した鳥。
『逃げ出した鳥は鎖で繋がれた』
ごぼっと口から息が吐き出される。苦しい……奪われてゆく。ゆらゆらと揺れる水面が遠ざかり、気泡は上へ上へとあがってゆく。遠ざかる水面に伸ばした手は何もつかめない。
黒い鳥の悲し気な瞳が沈みゆく自分を見送っている。
記憶を全部奪われたら、全部消えるのだろうか。そう思った途端に深い悲しみを覚えた。
今まで捕食なんて当たり前にやってきたことだし、記憶も簡単に捨てて来た。
――魔物は『忘れる』ということができない。
魔物は人間よりずっとずっと長く生きる。古びた記憶が溜まり続ける。記憶が増えすぎると体が重くて仕方がなくなるのだ。
『字』が衣装ケースならば、『記憶』はそこに畳んで詰められてゆく洋服だ。そして、魔物は……洋服は決して捨てることができない。
字を沢山持つということは、自分という『部屋』に大量の衣装ケースを積み上げている状態ということだ。それぞれの衣装ケースに洋服は溜まり続ける。やがて服の重さに耐えられなくて部屋の床が抜けてしまう……これが自己崩壊。だから、床が抜けそうなる前に、衣装ケースを減らさなければならない。
方法は二つある。主流なのは自分より弱い魔物に衣装ケースごと洋服を押し付けるという方法だ。つまり、『字』ごと記憶を押し付ける訳だ。
もうひとつの方法は、衣装ケースが小さい場合にしか使えない。対価を支払って魔女に引き取ってもらう。だが、魔女を相手にする以上、騙されるかもしれないという覚悟も必要だ。
そのどちらもできない場合は道端に不法投棄するしかない。捨て去られた字は野良の魔物となるため、森保にバレると処罰されてしまう……
部屋がいっぱいになってしまったら、それがどんなにお気に入りの洋服であっても衣装ケースごと手放さなければならない。でも大きすぎるものは正直引き取り手がないのだ。
……誰かに押し付けるなら当然衣装ケースは小さく洋服は少ない方がいい。
記憶は繋がりを持って初めて成立するものだから、洋服一枚だけ残すということは意味がない。
結局、記憶を絶対に手放したくないのであれば、無意味に増やさないためにどこかに閉じこもるしかないのだ。……どうしたって忘れることができないのだから。
鳥が飾られたそのさらに下の階。いかにも非現実的に整えられたリビングが再現された部屋で、白いシャツの魔物がソファーに座って優雅に紅茶を飲んでいる。プレートには、失われたもの。
『時間に取り残されたもの。最初からなかったものだから、もう何も失わない』
その横には、古いオルガンに似た楽器が置いてある。木箱の中には、鍵盤の代わりにガラスの器を積み上げて横に倒したようなものが入っている。
濡らした指で音を鳴らす楽器だ。
名前は、アルモニカ。プレートには、悪魔の楽器。
『美しい音は聞いた者の心を狂わせます』
「それは恋に似ていると思わないか?」
魔物がカップを持ったまま優雅に微笑む。
……とりあえずおまえは黙れと思うのは誰の影響だろう。
グラスハープに興味を持った『兄』は、図書館で色々調べていく内にその楽器に辿り着いた。それで、家にあるそうめんつゆの器を重ねて自家製アルモニカを作ろうとして……落として全部割ってしまったのだ。当然母は激怒した。
そんなことがあったから、妹は知っていた。名前がハーモニカに似ているなというくらいの認識で。
――だから、あの森は『硝子と忘却の森』なのか。
さらにその一階下。床に散らばる蛍石と切符。
『いずれ失われてしまうもの』『思い出の品という名の忘れ去られたもの』
いやだ失いたくない……誰にも渡したくない。
そう思うのに、ゆっくりと体は水底に向かって沈んでゆく。
言葉の代わりに気泡が吐き出される。奪われてゆく。何もかもが。
いやだ。いやだいやだいやだ。大切なのだ。誰にも渡したくない。だって記憶というのは、自分が自分である証のようなものでしょう?
失ってしまったら、自分が自分でなくなってしまう。
「一番最後まで残る記憶は何だろうね。ずっとずっと知りたいと思ったんだ。でも……いざ自分が消える時になっても、結局わからなかったな」
遥か上の方で誰かが何か言っている……
ふざけるな! そんなことのためにあんな事を繰り返していたのか! 浮かんだ言葉が、息と共に吐き出される。
「まぁ、心を読まれるようなことはないから、それだけは安心していい。いくらでも悪態をつくといいよ……心の中でね」
思わせぶりな声が耳に届く。要するに相手は魔物ではなく魔女だと言いたいのだろう。
魔物は相手の心を完全に読むことができるけれど、魔女にはできない。
「あんのくそばばぁ……」
大きな泡が口から吐き出される。
「女の子がそんな言葉遣いをしてはダメでしょう?」
すぐ隣のショーウィンドウから声がする。そこに立っている灰色のワンピースを着た少女の姿を見てイラっとした。
彼女の背後には、壁が全部金色の枠の鏡になっている不気味なドールハウスが設置されている。壁がおかしなことになっている以外は、まるでおとぎ話に出て来る宮殿のような雰囲気だ。各部屋の天井からシャンデリアがつり下がり、床にはふかふかの絨毯が敷かれている。家具はすべて繊細な装飾を施された美しいものばかりだ。ベッドには天蓋とカーテンまでついている。
一階の絢爛豪華な広い部屋はダンスホールだろうか。吹き抜けのホールには巨大な振り子時計と、赤い絨毯が敷かれた大きな階段がある。
ドールハウスの外を、ゼンマイ仕掛けの人形が勝手気ままな方向に歩いている。仮面をつけた人形たちはみんな、どこか見たことがあるような姿をしているのだが、少しずつ何かがおかしい。違和感があって気持ち悪い。
そう、気持ち悪いのだ。本物を知っていれば絶対に見ていて気分が悪くなる筈だ。でも、知らなければわからない。
ははっ……
ちいさな泡が口元から洩れる。そうか、記憶をズラしたのか。
誰が誰に移動したのか……
選択肢が限られる者もいただろうに。泣きたいような気分になりながら、青い軍服を着たゼンマイ仕掛けの人形を探し出す。朗らかに笑うリューカなど想像がつかない。
もう少し彼とは話してみたかった。何がどうなってああなったのかを解析したかった……
視界の端で、頭からすっぽりフードを被った怪しげな人形が、こちらに向かってトコトコと歩いて来るのが見える。
やっぱりなと笑ってしまう。
――ドールハウスの窓からあべこべな世界を覗き込んで、腹を抱えて笑ってやりたかった。
「それは恋に似ている」
また遠くから声がする。確かに恋をすると、相手の嫌な所には目を瞑りがちになるかもしれない。都合よく解釈して、何もかもがすべて上手くいっているかのように勘違いして舞い上がる。
……作られた鏡の世界の中でせいぜい踊ればいいよ。
今のこれは負け惜しみでしかない。でも、少しだけ気持が楽になる。
体はどんどん沈んで行ってしまう。水に涙が溶ける。目の前をすいっとちいさなクラゲが通り過ぎた。
ガラスの向こう側はすでにショーウィンドウではない。
薄暗く青い世界から、誰かがクラゲの水槽を覗き込んでいる。
仲の良さそうな二人組。よく似た顔立ちの兄と妹。
もう名前も覚えていない。でも、そこに向かって必死に手を伸ばす。
「ねーねー、スピカ。お腹空いたねぇ。今日のご飯、何だろう」
可愛らしく首を傾げなら、無邪気にカールがスピカのスカートに纏わりつく。
壁には、金色の枠にはめ込まれた鏡が何枚もかけられていた。それらが合わせ鏡となって、同じ部屋が永遠に繰り返されている……絢爛豪華な、童話に出て来るお姫様が暮らすような部屋だ。キラキラと光を零すシャンデリアに猫足の家具。天蓋付きのベッドには透けるカーテン。
部屋の窓は外に向かって大きく開け放たれていた。海の中に太陽は沈んで、夕焼は水平線の辺りに僅かに残るだけ。石の橋の上に並ぶガス灯が、バースデーケーキの上のキャンドルのように、金色の光を放っている。
海風が窓から入って来る。もうすぐ人魚たちの歌が始まる時間だ。
「守り石の魔物、ねえ、ここって、統治者はどこにいるの?」
スピカは守り石に金色のワイヤーを巻き付けて、ペンダントとして首から下げている。そこから何の温度もない声が返って来た。
「……自分で探せ」
相変わらず愛想のあの字もない。スピカはやれやれというように天井を見上げた。天使を描いた美しい天井画が目に映る。
「ねぇっ、早く食堂に行こう! 明日になったら街にも行ってみたいなぁ。ホテルの中も探検してもいーい?」
甘えたようにそう言って、くるくるとその場で回りながらカールが楽し気に笑う。ちいさな執事のように燕尾服に身を包んでいる少年は。大変可愛らしい。
「仮面を忘れないようにね」
「あ、そうだった! 忘れてた」
そう言って、慌ててテーブルの上に置いてあった青色の仮面を手に取り顔に当てた。少年の目許を覆うのは孔雀の仮面だ。シャンデリアの光を弾いてビーズとスパンコールの刺繍がキラキラと輝いている。
この森は、魔物と人間が共存している。だからここの住人は常に仮面を被っている。
「毎晩毎晩、仮面舞踏会をやっているんだね」
カールに手を引かれて立ち上がる。肩が大きく開いた淡いペパーミントグリーンのドレス。目許には白い猫の仮面。手には扇とちいさなアクセサリーバッグ。鏡に映る金の髪の少女はまるで童話に出て来るお姫様だ。
壁に掛けられている鏡の枠はすべて金色だった。この部屋もとなりの部屋も、恐らくこのホテルも隣のホテルも、民家も、どこもかしこも金の枠の鏡が壁に掛けられているはずだ。
統治者の元に繋がっている、正解の鏡はひとつだけ。
スピカはそれを一刻も早く探し出さねばならない。『鏡と仮面の森』の統治者に会うために。
「鏡を確認しながら、ご飯を食べに行こっか。あちこちきょろきょろして階段から落ちないようにね」
「うんっ。気を付けるよっ」
青い仮面をつけたカールは幼く笑いながらぴょんぴょん飛び跳ねている。
少年の背後の鏡の中を誰かが通り過ぎて行ったような気がして、スピカは鏡の中に目を凝らした。自分の後頭部と仮面をつけた顔が金の枠の中に延々繰り返されている。
気のせいか、と目を離したその時、海風と共に、聞く者を眠りに誘うような声が聞こえて来た。




