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2 シエラと晶洞の森

「お仕事終わったから、帰ろうか」


 書類仕事を終えたシエラは、職員室風の事務所の片隅で、きゃっきゃと機嫌よく遊んでいる幼い魔物に声をかけた。今日は白い髪を両耳の上でお団子にして、真っ白なレースでできた、カボチャ袖のサマードレスを着ている。可愛い。

 対するシエラはいつ山登り命令が出ても大丈夫なように、つなぎの作業服を着ている。シエラの祖父は整備工だった。いつもこの姿で晩酌を楽しんでいた。


「……帰ってしまうのか」


 幼い魔物を自らの膝の上で遊ばせていたフードの魔物の肩ががっくりと落ちた。

 守り石の魔物は、職員室風の事務所の後ろの方に胡坐をかいて座っている。いつもはシエラの二倍以上のサイズ感なのに、今は大人の男性と同じくらいに縮んでいた。

 幼い魔物は膝の上から仰向いて両手を伸ばして、顔にかかっているフードをちょいちょいと触って遊び始める。……その途端、フードの魔物は立ち直った。座ったまま幼い魔物を抱き上げて、高い高いをし始める。だから帰ると言うに。


「……いや、明日も来るから。……守り石の魔物、子守おつかれさま。明日もよろしく。私は定時に帰るよ」


「明日も待っているからな」


 フードの魔物は名残惜しそうに幼い魔物をぎゅっと一回抱きしめてから、つぶらな瞳に向かってそう話しかけた。幼い魔物はぺちぺちフードの魔物の腕を叩いている。ご機嫌である。床には書類だったであろう紙片が、落書きされ、破られ、折り曲げられて散乱していた。スチール本棚の棚横一列分がすべて落書き帳にされていた。……あの書類を作成した者が見たら多分泣く。


 シエラは、足早に守り石の魔物に近付くと、強引にその腕から幼い魔物を取り上げる。顔は見えないが、恨みがましい目で見つめられているのがわかる。だが、そんなことは知ったことではない。仕事は終わった。だから定時で帰るのだ。……早く帰らないと面倒なことになる。


「あら、もう帰っちゃうのねー」


 がらりと扉が開いて、職員室風の事務所に入って来たのは上司だった。今日は女性の声だ。


(……間に合わなかった)


 シエラはがっくりと項垂れた。腕の中の幼い魔物をぎゅっと抱きしめる。


 ――あたたかい。やわらかい。いいにおいがする。


 ああ、ここからが長い……守り石の魔物と上司が、幼い魔物の取り合いを始めるからだ。


「そのドレスも確かに可愛いけれど、こっちも着てもらおうと思って用意したのに」


 上司は、ピンクのフリルがいっぱいついたドレスを持っていた。腕の中の小さな魔物がむずがって体を捻りはじめる。そうか、着たいのか。


 守り石の魔物の肩がビクッと跳ねた。そんなところで対抗心を露わにしないでいただきたい。

 カボチャ袖のドレスは守り石の魔物がフードの下から取り出したものである。出勤してすぐのことであった。白いドレスを着た小さな魔物は、姿見に映る自分の姿を見て、頬に手を当てて目をキラキラさせて喜んだ。可愛かった。

 それを見た上司が、おもむろにブラシを取り出した。そして、幼い魔物を膝にのせて鼻歌を歌いながら髪を結い始めたわけである。始業時間からは嫌々書類仕事を始めたが、定時過ぎればこの通りだ。


 幼い魔物がシエラにくっついて出社するようになって三週間。西の森担当事務所は、託児所と化していた。

 多分明日くらいには、本部からお叱りを受けるだろう。仕事効率が明らかに低下がしている。怒られるのは上司だからシエラの知ったことではない。幼い魔物を事務所に入れる許可は取ってある。


「……何やってるんだ、あれ?」


 隣で呆れたような声がした。ふと見ると、いつの間にか、左右色違いの目を持つ魔物が自分の隣に立っていた。シエラとお揃いのつなぎを着て、長い髪はひとつに結んでいる。


「……なぜに?」


「定時に帰るって言ってたから迎えに来た」


 至極当然というように、彼は言った。


「ジオード、一応聞きますが、盗聴はしていませんよね?」


「……さあ、どうだろう?」


 男はしれっと答えた。


「それよりさ」


 いや、あっさり流さないで頂きたい。そこは突き詰めたいとシエラは思ったが、ジオードの言いたいこともわかるので口をつぐんだ。


「なんであそこ、取っ組み合いしてんの?」


「……さあ?」


 両開きの扉の前で、二体の魔物が何故かお互いのローブを掴みあっていた。それを上空から見下ろしながら、幼い魔物はキャッキャと喜んでいる。ジオードと会話をしていたため、何がどうなってこうなったかはシエラにはわからない。ただ、幼い魔物が楽しそうだからいいやと思った。……保護者ジオード置いて帰ろうかなと一瞬思った。


「いい所に来た。ジオード君、シエラとデート行っといで、デート。ノジュールちゃんのことはみておくから。一時間くらい」


 守り石の魔物の肩辺りを掴んだ上司が言った。


「…………………なぜに?」


 シエラは、力なく尋ねた。


「これから、私の選んだドレスと、コレの選んだドレスで撮影会するから」


「……喧嘩はやめません?」


「相手に膝をつかせた方から先に撮影会」


「……ノール……ノジュール。帰るよ?」


 シエラが呼ぶと、幼い魔物はふるふると首を横に振った。まだここで遊ぶという意思表示らしい。

 ……いつから西の森担当事務所は自宅兼事務所になったのか。本当に怒られるぞあんたたち。


「という訳で、一時間後に迎えに来てね。延長してもいいからね。愛を深めて来てね」


 上司はそう言って、再び真剣勝負に戻って行った。大きなお世話だとシエラは心の底から思った。……両方とも上層部から怒られて減棒されてしまえ。


「……行くか?」


 ジオードがそう言って手を差し出した。


「女性になってくれるなら行きます」


「……なぜに?」


 三度目はジオードが言った。ため息をつきながらも女性姿になってくれる。髪と角が白くなり、衣装も一瞬にして白いドレスに変わる。ジオードは女性になると、ガラの悪さは三割減だ。シエラは差し出された手を取った。きれいな女性なら躊躇わない。


 手を繋いだ瞬間、シエラはジオードの森に帰って来ていた。三週間前から、森の奥にある洋館の一室を間借りして暮らしているので、『帰って来た』という感覚が身に付きつつある。

 手を繋いでいる美女を見上げると、彼女はなんだ? というように首を傾げた。


「どこか行くんですか?」


「……どっか行きたいところ、ある?」


「私、森しか行ったことがないので、わかりません」


 シエラは正直に答えた。この世界に来て何年経ったかよくわからないが、とにかく毎日山登りばかりしていた。それぞれの領域に入れば人間たちは住んでいるが、山に登らなければならないので、ただ街を通り過ぎるだけだ。後は事務所と本部くらいしか知らない。


「ふーん」


 無表情に美女は言った。


「森によって、人里があったりなかったりしますよね」


「そのあたりは統治者の考え方による」


「ジオードの森には、本当に森しかないですよね。植物以外の生き物っているんですか?」


「命が増えると管理がめんどくさい。そういうことはアイツがやればいい」


 ジオードがアイツと呼ぶのは、幼い魔物……ノジュールことだ。


 つまり植物以外の生物はいないということだろうか。一度も動物の姿を見たことも、なき声を聞いたこともない。やはり、鳥も、虫もここにはいないのか。


「先代の頃もそうだったんですか?」


「この領域は、アイツを守るためだけに先代が作った。だからここはアイツのための場所だ。俺はその場しのぎの統治者だな」


 意味が全くわからない。はてなマークを飛ばしているシエラに対し、美女は困ったように笑いかけた。


「保安官のくせに何にも知らないんだな」


「……知識を得ると危険も増えると上司が」


「なるほど」


 それだけ言って、美女は黙り込んでしまう。


「……教えてくれないんですか?」


「……知りたい?」


 まっすぐに見つめられて、シエラはどぎまぎする。


 ふたりの間にしばらく沈黙が落ちる。そういえば、いつもノジュールが頭の上に乗っているため、こうしてジオードとふたりきりで話すのは、あのタガメの件の以来だ。しかもジオードは女性の姿をしている。今が好機かもしれない。

 恥ずかしさを必死に押し殺してシエラは美女に尋ねた。


「……私は、ジオードの配偶者になったんですか?」


 右手をつないだジオードの左手の薬指には黒い指輪がある。強く握りしめたシエラの左手薬指にも同じ指輪。


「何を確かめたい?」


 からかうように美女が言う。シエラはムッと眉間に皺を寄せた。そういう余裕綽々というような態度を取られると面白くない。ああどうせこっちは恋愛初心者だ。


「なんで、そんな意地悪言うんですか」


「こっちの姿で言っても面白くないから」


 ふわりと美女が笑った。時々ジオードはそういう優しい表情をするようになった。言葉遣いも、声も、最初会った時よりもずっと柔らかい。そして、そういう顔でジオードが笑ってくれると、シエラは胸がどきどきする。


「そもそも、配偶者とは何だとあんたは思ってるんだ?」


「……………見合い相手の成れの果て?」


「……………まぁ、間違っちゃいないんだろうがな」


 美女は呆れたように言った。


「では、一応聞いとくが、統治者とは?」


「見合い相手。領域の管理者。神様みたいなもの。訪ねて行ってサインもらう。以上」


 シエラは自分の知っているすべてを羅列した。それだけわかっていれば、仕事には全く支障がなかったもので。


「……うん。そこからか。……………面倒だな」


 そうか。面倒なのか。きっと上司も説明するのが面倒だったんだなとシエラは確信した。

 そのまま、美女は黙ってシエラの手を引いて歩き出す。自分たち以外に生物の気配がない森の中を。


「……教えてくれないんですか?」


「デートだから難しい話はしたくない」


 美女はそう答えた。


「では、デートとは?」


 目の前にある華奢な背中に向かって今度はそう尋ねてみた。この魔物が意味をわかって言っているのか気になったので。


「恋人同士もしくは、お互いに好意を持つふたりが一緒に過ごすこと」


「では、一緒に認識を深めましょう。統治者についての」


「俺が楽しくないから、却下」


 美女が振り返っていたずらっぽく笑う。その瞬間、その姿が男性に変わる。背が高くなり、繋いだ手が大きく、硬くなる。ああ、こんなにも違うものなのかとシエラは初めて気付かされる。


「一緒に過ごすんだろう恋人同士が」


 ジオードが目を細めて笑みを深める。それだけで、シエラは真っ赤になってしまう。うろうろと目を泳がせて、否定もできずに俯いた。

 ……そうなのか、自分たちは恋人同士なのか。デートならもう少しマシな服が良かった。何故自分たちは、つなぎの作業服姿なのだろう。

 そして同じ服を着ているのに、何故向こうは普通にかっこいいのだろう。


「服、気に入らない?」


「読まないで下さい」


 真っ赤になってシエラは抗議した。


「……流れ込んでくるんだよ。着替える?」


「ちょっとそこ詳しくお願いします」


 流れ込んでくるとは聞き捨てならない。ジオードは「大したことじゃない」と平然と答えた。


「あんたがものすごく嫌だと思うことは流れ込んでくるように……」


「今すぐやめて下さい」


 恥ずかしさのあまりその場にしゃがみ込みながらシエラは懇願した。本当に魔物の感覚は理解できない。しかし、間違いなく善意からくる行動であることはここ数週間で理解した。


 ジオードが自分をとても大切にしてくれていることはちゃんとわかっている。でも少しズレているのだ。それが魔物の感覚なのかジオードがズレているのかまではわからないけれど。

 シエラが普段接している魔物は上司と守り石なので……魔物と言うのは本当に理解するのが難しい。


「……で、着替える?」


 あ、これやめる気ないなとシエラは思った。

 ここで交渉するのか、お揃いのつなぎでデート回避を選ぶか。……着替え一択だ。お揃いのつなぎでデートはハードルが高すぎる。


「何がいい?」


「お揃い以外でお願いします」


「今思い描いたのでいい?」


「……お願いですから読まないで下さい。本当にお願いします」 


 シエラは両手で顔を覆った。恥ずかしすぎる。デートに乗り気な自分を晒されることが。


「読まないとわからないから」


「会話と時間が解決します」


「……あまりに違いすぎるから膨大な時間がかかるんだよ。あんた、魚の気持ち理解できる?」


「……私は魚」


 悄然としてシエラは呟いた。ジオードがくすくす笑っている。


「ごめん。例えが悪かった。あんた魚苦手だったな。虫とか?」


「……私は虫」


 夏を越えられるのだろうか自分は。


 でもこれでよくわかった。相互理解には膨大な時間がかかる。誤魔化されている気がしないでもないが。何だろうものすごく落ち込む。


「クラゲ好きだよな?」


 機嫌よさげなジオードの声が頭上から降って来る。クラゲに脳はあるのだろうか。多細胞生物だったと思うがどうだろう。生物はあまり得意ではなかった。……このままゆくと、いずれ行きつくのは単細胞のゾウリムシあたり。この辺りで妥協しよう。


「……そうですね。確かにクラゲは大好きですが、気持ちはわからないですね」


 生態すらよく知らない。でも、水族館でクラゲを見のはとても好きだった。ふわふわ優雅に漂う、美しくて……底知れぬ不気味さを併せ持つ生き物を、ずっとずっと眺め続けていた。


(私はクラゲ)


 きっとそのレベルなのだろう。なんだろうだんだん悲しくなってきた。この魔物と恋愛は無理だ。諦めよう。やはり人間成分が……


「ごめん、からかいすぎたな。……俺はあんたが好きだよ。だから理解したい」


 ものすごく軽い感じで言われた。それなのにまた顔が真っ赤になった。


「ほら立って。裾汚れる」


 目の前に手が差し伸べられる。条件反射でその手を取った。ジオードはいつもの書生風の服で、シエラは大正時代の女学生のような矢絣に海老茶色の袴。足元は編み上げブーツだ。……個人的な嗜好である。好きなのだ。自分に似合う似合わないは別の話。鏡がなくて良かった。


「似合っているけどな。かわいい。俺は好き」


「ほんと読まないで下さい……」


 恥ずかしくていたたまれなくてシエラは俯いた。でもジオードが気に入ったならいいやとも思った、だいぶ頭がおかしくなってきている。





「……そうだな、いい機会だし、見てみるか?」


 ジオードはそう言うと、シエラを抱きしめた。その途端にぐらりっとめまいを感じた。世界がぐるりとひっくり返ったのだ。……遊園地で乗ったことのある前転する遊具のように。

 シエラは思わず目を閉じて、ジオードにしがみつく。


「もう目を開けても大丈夫だ」


 頭の上からそう言われて、恐る恐るシエラは目を開ける。まず地面を確認した。ちゃんと地に足はついている。しかし地面が……白っぽい透明な硬いものに変わっている。ごつごつしていて、少し滑る。例えるなら冬の朝の凍った道路のように。


 ジオードがシエラを体から離して、両肩を持って支えてくれる。シエラは周囲をゆっくり見渡した。


「……きれい」


 思わずそんな言葉が唇から零れ落ちる。


 足元も、天井も、二人の周囲すべてが透明な結晶で覆われていた。氷かと思ったが違う。――多分、水晶だ。水晶は内側からキラキラと輝いて、柔らかな光で閉鎖された空間を満たしている。広さはそんなにない。恐らく十歩も歩けば壁に突き当たる。天井も、手を伸ばせば結晶に触れられるだろう。


(……あ、だからジオード)


 昔、理科室で見せてもらったことがある。半分に割られた水晶の晶洞ジオードを。今、シエラはその中にいる。


「これがこの森の正体」


 シエラが自分の足で立ったのを確認して、ジオードが手を離した。


「だから、晶洞ジオードの森、なんですね」


 シエラはまっすぐに目の前の魔物を見つめる。彼は不思議な笑顔を浮かべている。


「そう。閉鎖された空間だ。だから生物は生きられない。……あんたはどこにも逃げられない」


「ちゃんと毎日職場に行っていますよね」


「そういう意味じゃない」


 ふいっと拗ねたようにジオードが顔を背ける。


「不便は感じてないので大丈夫ですよ?」


 シエラがそう言うと、ジオードが大きく目を見開いた。


「……綺麗ですね。触っても良いですか?」


 しゃがんで、近くの結晶を覗き込む。小人になったような気分だ。


「あんたって時々わからないよな。……触っても大丈夫だが、削るなよ。ここにあるものはすべて、アイツのものだ」


「意味は教えてくれないんですよね」


「……あんたを取られたくないから」


 ぼそりとジオードが言う。驚いて顔を上げたシエラは伸ばしかけた手を止めた。ジオードは怖いくらい真剣な目をしていた。


「じゃあ、触るのはやめておきます。帰りましょう」


 あっさりとシエラはそう言った。ジオードはまた少し驚いたような顔をして、でも次の瞬間優しく微笑んだ。


「……本当にあんたってわかんないよな」


「命の恩人の嫌がることはしません」


「……命の恩人ね」


 そう言って苦笑いしながら肩を竦めて、ジオードはシエラに指輪を嵌めた左手を差し出す。ためらわずにシエラはその手を取った。だんだん感覚が麻痺してきているなと思った。そしてジオードを見上げて――気付いたのだ。


「ジオード、そこの角の所、欠けてません?」


 右の耳の上の辺り、冠のようにぐるりと頭を一周している小さな黒い角の一部が、不自然に欠けている。

 今初めて気が付いた。最初からこうだったろうか。……いや、多分違う。最近までこんな状態ではなかった。だってあまりに不自然だ。

 途端にジオードは気まずそうな顔をして、その部分をシエラから隠すように横を向いた。


「保安官はこれだからな……」


 ぼそっと口の中で呟いたのをシエラは確かに聞いた。保安官には特別な素質があるらしい。しかし、シエラは自分が持っていることは知っているが、具体的にそれが何なのか教えられていない。


「どうしたんですか、それ」


 シエラは焦って、欠けた角の部分を確認するためにジオードの両腕を持って回し、つま先立ちになった。その部分だけ抉れるように欠けているのに気付いて、眉間に皺を寄せる。


 以前、ノジュールが机に白い角をぶつけたことがあった。折れたり欠けたりはしなかったのだが。ものすごく痛かったらしく、昼間は機嫌の良い幼い魔物がわんわん泣き出したのだ。抱きしめてもあやしてもシエラにしがみついて泣き続け、半日仕事にならなかった。だから、多分この角には痛覚がある。


「痛いんですよね、それ」


「……」


 ジオードは答えない。何となく嫌な予感がして、シエラは問い詰めた。


「嘘はつかないで下さいね。どうしたんですか、それ」


 ジオードは諦めたようにため息をついた。


「あんたが襲われた時、俺は他の統治者の森に不法侵入したことになった。その代償だな。話がわかる相手だったから、このくらいで済んだ」


 それを聞いてシエラは真っ青になった。つまりあのタガメの時か。


 あの森の統治者は魔女だった。黒いドレスを着た灰色の髪の妖艶な女性で、人間そっくりな外見をしていたけれど、目の中の瞳孔が羊のように横長だった。けだるげな雰囲気の魔女は保安官に対して友好的だった。だからきっと、話がわかる相手だったというのは嘘ではない。


「俺が勝手にやったことだから、あんたが気にすることじゃ……」


「何で黙ってたんですかっ」


 シエラはジオードの言葉をぶった切って詰め寄った。ジオードはしまったなという顔をする。


「言うと、あんたは気にするし、本当に大したことじゃなかったから」


「嘘ですね」


 シエラは目に力を込める。騙されてなるものか。


「……なぜに?」


 ジオードにはいつしかシエラの口癖がうつってしまっていた。


「だって、ジオードはさっき、ここにある水晶を削るなと言いました。多分それ、角だけど鉱石ですよね」


 勢い込んで言うと、ジオードは虚を突かれた顔をして、それから苦笑した。


「……さすが保安官。降参。何が聞きたい?」


 両手を上げて、目を伏せる。


「ちゃんと全部話して下さい」


「……本当に話がわかる統治者だったんだよ。相手は魔女で、素材として欲しいと言われたから自分で折った。痛いは痛かったな。寿命百年分くらいか。でも、これくらいで済んで本当に良かったんだよ」


「最悪の場合の結果を教えてください」


 怒りと後悔が入り混じった感情が胸の中で暴れていて、心臓がバクバクいっている。シエラはさらにジオードに迫った。もうほとんど体が密着しているのだが、興奮しているシエラは気付かない。


「……統治者の不法侵入は最悪抗争に発展する場合も」


「なんでっ、なんでそんな危険を犯してまで私を助けに来たんですかっ」


「……あんたがアイツを助けてくれたから?」


 困り切った顔をして、ジオードは白状した。


「やっぱり全部私のせいなんじゃないですか」


 シエラは泣きそうな顔でそう叫んでいた。この森を最初に訪れた時、シエラが大声で呼びかけたから、ノジュールは森の奥から出てきてしまったのだ。そのせいで幼い魔物は、魔獣の餌にされそうになって……シエラはただ、自分のしでかしたことの責任を取っただけに過ぎない。


「……そうなるから言いたくなかったんだよ。……戻るぞ。ここで叫ぶと響く」


 ジオードはゆるくシエラを腕の中に閉じ込める。またぐるりと世界が回った。




 シエラはもう怒って良いのか泣いて良いのかわからない。デートでいきなり不機嫌になって泣き出す女は面倒くさいだろうなとも思うのだが、感情が大きく揺れて、うまくコントロールできないのだ。

 ジオードはとんとんとんと幼い子供を落ち着かせるように背中を優しく叩いている。きっとノジュールが泣いている時にいつもこうしているのだろう。


「助けてもらったことは本当に感謝しています。だけど、だけど、私のためにジオードがそんな代償を払うようなことをしたのは、すごく嫌ですっ。何ですか寿命百年分って、私だったら死んでるじゃないですか」


 二人は森の中に戻って来ていた。あの場所が結局何なのかシエラにはわからない。


「……ごめん。もうこんなことはないから」


「なんでジオードが謝るんですかっ」


「あんたが泣くから。……でも、配偶者を守るのは統治者の……うーん、何ていうのか、役割? じゃないな。難しいな。配偶者は心臓みたいなものだから……」


「じゃあ、配偶者やめます」


 シエラははっきり宣言した。「なぜにそうなる」と呟く声が頭上で聞こえた。


「……何で痴話げんかしてんだろうな俺ら」


 ぼんやりとした声で、ジオードが言った。


「デートだからでしょう」


 デートでは喧嘩がつきものだ。……多分。おしゃれなカフェや、遊園地で、恋人同士はよく口喧嘩していたのを見かけたから。


「……ふーん、デートだって認識してるなら、いい。言いたいことがあるなら言って」


 なんだか嬉しそうにジオードが言うから、シエラは余計に腹が立つ。


「だから、なんでそんなに余裕なんですかっ」


「……かわいいから」


「だから何でそうなるんですかっ」


 かわいいわけがないではないか。自分でもわかる、これこそまさにヒステリーを起こした面倒な女だ。もう自分で自分が抑えられない。


「あんたっていつも取り澄ました感じで冷静だし、俺に対して一歩引いてるだろう? 今は俺のために一生懸命怒って泣いてくれてるし……しがみついてくれてるから嬉しい。あんたは異性に対して、簡単にこういうことができるタイプじゃない。恥ずかしがり屋だから」


 頭上でそう言われて、シエラはぴしりと固まった。確かにシエラはジオードの服を握りしめて泣いていた。そのままそっと体を離そうとしてのに、ぎゅっと抱きしめられる。意識してしまうとこれは結構恥ずかしい。


「うん。そのままで聞こうか。ひとつめ。統治者は、配偶者を守るためなら何をしても許される。だから、この先俺があんたを助けるために他の領域に侵入繰り返しても、それは不法ではない。だから安心していい。理解した?」


 シエラは小さく頷いた。つまり、シエラはやっぱりジオードの配偶者なのだ。……心臓とか怖いことを言っていた。これは落ち着いてから確認せねばなるまい。


「ふたつめ。もし俺が助けに入らなくても、あんたは死ななかったと思う。あんたの上司が最悪の場合を想定して多分なんかしてる。だから俺があんたを助けたのは恰好つけたかっただけ」


「嘘ですっ」


 顔を上げて、涙に濡れた目できっとばかりに睨みつたシエラに対して、やれやれというように、ジオードが苦笑した。そのまま背中に回していた背をシエラの両頬に当てる。これでもうシエラは俯くことができない。ジオードはシエラを見下ろして、とても優しく笑っている。何というのか……幸せそうに。でもその奥で、ジオードは何かに常に怯えている気がする。


「みっつ。俺はあんたを助けたことを全く後悔していない。寿命百年分なんて、あんたの命に比べれば大したことない。だから……」


 焦点が合わなくなってジオードの顔がぼやける。思わずシエラはぎゅっと目を閉じる。優しい優しいキス。


「これからも後悔しない。あんたが好きだから」


 恥ずかしがり屋のシエラのために、ジオードはぎゅっと抱きしめてくれた。真っ赤な顔が彼に見えないように。


 結局、ちゃんとしたデートになった。人生初にしては……あ、考えるのやめよう。ジオードの顔が見られなくなるから。ジオードはちゃんと言葉にしてくれるけれど、シエラは恥ずかしくて何も返せない。返せないのにジオードは不機嫌になったりしない。流れ込むのか? ……やめよう、恥ずかしすぎる。


「あんたって、そういうこと、結構顔に出るよ。俺が今日迎えに行った時もすごくうれしそ……」


「やめて下さい。本当にやめて下さい」


 ジオードの胸に頭をこすり付けながらシエラは懇願した。


 シエラが落ち着くのを待って、つなぎ作業服姿で職員室風に事務所に戻る。

 ノジュールはいつもの服を着てデスクの上に置かれたクッションの上で丸くなって眠っていた。とても満足そうな寝顔をしている。きっと楽しかったのだろう。


 上司と守り石の魔物は、競技カルタをするかのように、向き合って正座していた。カルタ札の代わりに、写真が床一面に並べられていた。ものすごく真剣な雰囲気を醸し出していたから、声をかけずにそのままそっとノジュールを抱きかかえて帰ることにした。





 ――自分の部屋に戻って、明日の準備をする。


 ジオードは眠っているノジュールを抱きかかえて寝かしつけに行った。多分ノジュールはまた起きる。ノジュールは実は寝起きの機嫌がものすごく悪い。泣いて怒って暴れるのだ。初めて見た時にはびっくりした。天使が悪魔と化していた。

 昼間機嫌が良かった日は特に豹変する。ノジュールは夜が嫌いなのだ。目が覚めて辺りが暗いと怒る。何か衝撃波のようなものを出すらしく、窓ガラスは割れるし、壁は凹むし、部屋は滅茶苦茶になった。ジオードの張った結界の中で守られながら、シエラはその様子を茫然と見ていた。


 とにかく発散させないとダメなのだとジオードは言っていた。ある程度発散させれば、落ち着きを取り戻す。でも夜が嫌いだから機嫌が悪い。ジオードは気が長いから、空にほおり投げて遊んでやったりしてノジュールが再び眠たくなるまで気長に付き合ってやるのだ。


 シエラはいつ山登り命令が来ても対応できるように、リュックの中身を確認する。テントと水筒と、携帯食と……最近は、野宿をしていると着替えや食べ物がいつの間にか傍らに用意されていたりするから、随分助かっている。泣き言を言うと、温泉の位置が書かれた地図が置いてある。ありがたい。

 ……あ、忘れてはいけないのが洗濯ネットだ。たくさん持っていかなければ。

 汚れたものはいつの間にか回収されている。……肌着も持って行かれる。それは本当にやめてくれと頼んだが、荷物が重くなるからと聞き入れてもらえなかった。

 予め洗濯ネットに入れておいてくれれば、そのまま洗濯機で洗うからとジオードは弁明した。干すんですよねと言ったら目を逸らされた。乾燥機にかけるのは布がいたむからよくないと丁寧に説明された上に「大丈夫中身の方にしか興味ないから」ととても焦ったように言われた。違う。そこじゃない。


 洗濯ものはアイロンをきちんとかけられ、丁寧に畳まれてシエラの元に届く。彼が何を目指しているのかよくわからない。


 洗濯とアイロンがけは好きだが、他の家事は苦手なのだそうだ。でも屋敷内はいつも清潔だし、食事もきちんと用意されている。一体どういう仕組みになっているのだろう。


 外観はレトロな洋館なのに、シエラの部屋はごくごく一般的な家庭の子供部屋という感じだ。小学校入学に合わせて買ってもらった勉強机に洋服掛け。菓子パンのおまけについてきたシールがべたべた貼られた子供用のタンスとカラーボックス。床には毛足の長いラグとビーズクッション。小さい頃兄と使っていた二段ベッド。上の段は荷物置きになっている。


 ……よく覚えている。初めてここに来た日。とても不安そうな顔をしてジオードがこの部屋を見せてくれた。そうしてくれと望んだのはシエラだったのに、心配そうな顔をしてちらちらとこちらの様子を窺って……シエラが嬉しそうな顔をしたらほっとした顔をして。

 ああ、きっと自分は、この魔物のことをすぐに好きになる。そう確信した。


 案外自分たちはちゃんと恋愛をしているのかもしれない。

 寿命百年分の借りはどうやって返して行けば良いのだろう。ジオードは気にするなというけれど、シエラはあの時思ったのだ。


 あんたの命に比べたら大したことないとジオードは言った。ノジュールの命ではなくて。

 本来ならば、それは彼には許されない言葉なのだと思う。


(思ってたよりずっとずっと大切にされている)


 そう思うと胸が苦しくなった。切なくて。


(クラゲだけど)


 ……でも、シエラにとってもジオードはクラゲだからお互い様だ。


 シエラは長く同じ場所にいると、わかるのだ。その地の理のようなものが。

 葉月と呼ばれていた頃、いつ雨が降るのか彼女にはわかった。雷がどこに落ちるかも、もっと大きなことも。誰がいつ、今いる場所から去って行ってしまうのかも……

 間違いなく不気味な子供だったのに、両親も兄も葉月をいつも守ってくれていた。


 葉月として暮らしていた頃が、少し前なのかもう昔のことなのか、シエラには判断できない。ここは時間の流れが安定しないから。


 このままここにいれば、いつかジオードのこともわかるのだろうか。あの人が何に怯えているのかも。そんなことを考えながら左手を目の前に……


「あれ?」


 シエラは指にはめられた指輪を見て違和感を覚える。白い……白?


(違う、最初から白かった? え? あれ?)


 何かがおかしい。世界が塗り替えられた。


「ジオード?」


 名前を呼んで……誰? と、愕然とする。ジオードって、誰?


(クラゲだ)


 そうクラゲ。ジオードはクラゲ。クラゲなのだ。シエラが葉月だった頃に大好きだったクラゲ。水族館でクラゲの水槽の前から動かなくて呆れられた……


 大好きな大好きなクラゲ。


(ジオードはクラゲ、ジオードはクラゲ、ジオードはクラゲ)


 自分に言い聞かせるように繰り返す。呆けている場合ではない。このままだと、多分消される、ジオードの記憶すべて。今の内に自分に刻み込め。ボールペン、確か油性ボールペンがリュックの中に……


「ジオードはクラゲ」


 シエラは声に出して呟いた。……もうそれが何だったかすらわからない。でもクラゲ。大好きなクラゲだ。



 

 ――そして左手の薬指には白い指輪。




「葉月、どうしたの? ぼーっとして、早く夕ご飯食べてしまいなさい」


 母親の声。はっと我に返る。いつものリビング。目の前には煮魚だ。魚は上手く食べられないから苦手だ。


「明日って雨降りそうか?」


 目の前で晩酌をしている祖父が、葉月に尋ねる。少しくたびれた、灰色のつなぎの作業着の袖が目の端に映る。


「明日は多分、降らないよ、おじいちゃん」


 魚の骨を箸先で一生懸命どかしながら、そう答えた。祖父は天気予報より孫の言葉を信用している。

 父親はまだ帰宅していない。テーブルの横のテレビは夕方のニュースを流している。


「明日土曜日だけど部活あるの?」


「あるよ。もうすぐ大会だからね。応援には来ないでね。恥ずかしいから」


 母親が台所で洗い物をしながら尋ねて来る。


「え、なに、聞こえない。お弁当いるの?」


 豪快な水音に混ざって聞こえて来る、母親の大声。


「……洗い物終わってから聞けばいいのに」


 葉月はぼそりと呟いた。そのままご飯茶碗を持って食べ始める。袖を見て気付く。部活のジャージを着ている。……あ、骨が口に入った。


「今聞きたかったんだろう? 母さんせっかちだから」


 背後から兄の声がした。


 葉月は振り返らない。口の中の骨を舌で探す。イライラする。


「ああ、睦月お帰り。夕食食べる? 今日出掛けるとか言ってなかった?」


 タオルで手を拭きながら。暖簾をくぐって母親がリビングに入って来る。


「このまま着替えて出る。夕飯はいらないから」


 ティッシュはどこだ。テーブルの上に手を伸ばすと、気付いた祖父が箱ティッシュを渡してくれた。つなぎの袖にある油染みが気になる。ティッシュを一枚取って口元に。魚は苦手だ。


「お母さん。明日部活終わったら、水族館寄って来る。クラゲが見たい」


 ティッシュを丸めながら、さりげなく確認する。白い指輪を嵌めた左手の親指の付け根。拳を握れば見えなくなる位置に、ちいさく油性のボールペンで書かれた文字。


『ジオードはクラゲ』


 理科で習った。晶洞。晶洞が何故クラゲなのかはわからない。でも、クラゲを探しに行かなくてはならない。


「バイト行くついでに乗っけて行ってやろうか?」


 大学生の兄がそう提案する。葉月はそこではじめて顔を上げた。左手を固く握りしめたまま。


「じゃあ、よろしく」


 ……悪趣味なことをしてくれたものだ。イライラする。でも表には出さない。まず怒りがある。だから泣かずに済んでいる。平静を保て。決して相手にさとられるな。……本当に、本当に悪趣味なことをしてくれたものだ。はらわたが煮えくり返っている。


 椅子に深く座りなおす。後ろポケットに硬いものが入っているのを確認する。


「……部活終わったら連絡するよ」


 自分とは似ても似つかない()に向かって、彼女はそう笑いかけた――

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