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17 シエラと青い目の魔女




――砂時計をひっくり返しても、時間が戻る訳ではない。


 それでも、ずっとあなたに恋をしていた。





「無事で安心したわ、シエラちゃん。魔物に喰われかけたと聞いたから」


 その声を聞いた瞬間に、何故か胸が締め付けられた。

 ジオードが燃やしてしまった手紙は最後まで読めなかった。あの魔物がただの嫉妬でそんな事をする訳がないと、シエラは知っている。

 手紙には『丸坊主にはならなくてすんだよ』と書かれていた。つまり元人間のアザレは別の対価を払ったということだ。人間が魔女に払える対価は、それこそ体の一部か記憶の一部くらいしかないのではないだろうか。


 ……わからない。どうしてこんなに不安になるのか。


 心臓が暴れている。口の中がやたらと乾いた。


 まず、なぜに自分が今また医療棟に戻ってきているのかがわからない。先程までは晶洞の森で凍えそうになっていた。夕食は六時半だと言われたから、柱時計を見上げて時間を確認して……そこまでは覚えている。


 赤い髪のアザレは医療棟のベッドに腰を下ろし、青の騎士の軍服ではなく、紺の三つ揃えのスーツを着ていた。穏やかに微笑む顔はいつも通り優しくて、余計に泣きたくなった。

 真っ白い部屋に赤い髪が映える。その頭上、窓に切り取られているのは今日も明るい青空だ。


「シエラちゃんのおかげで、約束を果たせるわ。……ありがとう」


 視界が涙で歪む。


「シエラちゃんの言う通りだったわ。自分が何者かなんてもうどうでもよかった。彼女の痕跡に出あう度に、少しずつ時間は巻き戻されたの」


 ゆらゆらと滲む赤い色。シエラはツナギの袖で涙を拭う。……なんとなく、こうなるような予感はあった。


「……砂時計の砂は逆に流れた」


 アザレの手のひらの上から、空っぽの砂時計が宙に浮かび上がる。続いて手のひらの中から砂が湧き上がって、ゆるく渦を巻きながら舞い上がり、ガラスの容器を追いかけはじめる。まるで細いオーガンジーリボンが風に揺れているようだ。

 白い砂はガラスを通り抜けて砂時計の下の部分に溜まってゆく。


 やがて砂時計の下の部分が白い砂で満たされ、砂時計がくるりと回転する。

 白い砂が落ちるはじめる。時間が……流れ始める。


 いつしかアザレの膝に頭を乗せて、金色の髪の少女が眠っている。その頭を大きな手がそっと撫ぜると、少女がゆっくりと目を開いた。瞬きを数回。そうして彼女は目を覚ます。

 瞳の色はサファイアを思わせるきれいな青。

 少女は周囲を見渡しながら体を起こすと、軽く首をかしげてアザレに手を差し出した。小さな手を大きな両手が包み込む。

 その途端に、少女はとても……とても幸せそうに微笑んだ。


「ねぇミエレ、今度は、同じ時間を一緒に生きてくれる誰かと幸せになってほしい……僕は僕の時間の中で君と一緒にいられてとても幸せだった」


 アザレの言葉がシエラの胸に突き刺さる。涙がボロボロと頬を流れ落ちる


 ピシっという何かにヒビが入る音。ピシピシっと亀裂が広がってゆく音……宙に浮いている砂時計が崩壊してゆく。シエラは思わず息を飲む。あれは、割れたらもう取り返しがつかないのではなかったか。亀裂から砂が白い床に零れ落ちる。アザレと手を繋ぐ少女の輪郭がぼやけてゆく。


「私は、セラスと一緒がいい」


 そう言って微笑んだ少女の姿は、まるで虹が空に消えるように……空気に溶けた。

 内側から弾けるように、砂時計は粉々に砕け散る。

 床に散らばる白い砂とガラスの破片。


「相変わらず、あなたは頑固だね……」


 赤い髪のアザレは口元に笑みを浮かべて目を閉じる。それから肩越しに振り返って背後の青空を見上げた。


「……彼女はミエレという名前だったの、私がセラスという名前の人間だった頃」


 落ち着いた静かな声でそう言った後、シエラに向き直る。


「もうすぐ私は違うものになってしまうけれど。私のことも覚えていてくれると嬉しいわ。剣のアザレは多分強がりを言うわね。時々話し相手になってやってくれる? 私のことを覚えているのは保安官仲間たちだけになってしまうのに、アザレは結構好き嫌いが激しいから……」


 シエラは子供のように唇を噛みしめながら小さく頷く。拭っても拭ってもどうしても涙が止まらない。

 彼は、彼自身を……セラスとして生きていた頃の記憶と時間を対価に支払ったのだ。

 これでこの人と会えるのは最後だから、その姿を、優しい笑顔を覚えていようと思うのに。視界がブレる。しゃくり上げる度に涙が溢れて、視界はさらに不明瞭になってしまう。


「本当にありがとうシエラちゃん。……彼女を探している間中、ずっと幸せだった。商人だった頃に彼女を必死に探し回ったことを思い出したわ。失ったと思っていたものはまだ私の中に残っていた」


 そんな風に言わないでほしい。シエラは自分の願いを勝手に押し付けただけだ。

 願いを叶えてくれたのはあなたの方だとそう言いたいのに、口を開けば大声で泣き出してしまいそうで、言葉にならない。


「……シエラちゃんの願いがいつか叶いますように」


 それが最後。涙を拭って目を開けるとそこにはもう赤い髪の男性の姿はない。空っぽの部屋、ベッドの上には、空っぽの封筒。床には割れた砂時計と白い砂。


『君が希望を抱けるように。いつかこの日の事を、笑って思い出せるように』


 彼はそう言っていたのに、どうして自分は今泣いているのだろう。彼の願いは叶ったのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。悲しくて涙が止まらないのだろう。


「……もう限界だったんだ。人間には長すぎる時間だった……心が壊れかけていた」


 背後から剣のアザレの声がした。でもシエラは振り返ることもできないで泣き続ける。


 次に会う時、彼はもう覚えていない。

 何故自分が人間であることをやめたのかも、自分が何を失い何を取り戻したのかも。

 それは果たして、記憶を失う前と『同じひと』なのだろうか。


 自分が全然違うものになってしまったと苦しそうに言った男のひと。魔物に魂を売り渡してまで恋人を探し続けた人……

 彼は今度こそ本当に、全く違うものになってしまった。この白い部屋でシエラと話していた、あの日の赤い髪のアザレはもういないのだ。


 きっと、魔物の世界ではそういうことがごく当たり前に、普通に起こっているのだろう。すべては嘘と偽りとごまかしでできている。記憶ですら簡単に消されたり上書きされたり譲られたりしてしまう。


『私のことを覚えているのは保安官仲間たちだけになってしまう』


 その言葉が耳に蘇った瞬間、こみあげてくるものがあった。喉の奥が詰まったような感じがして、息が上手くできない。


「俺たちは……見抜いてしまうからな。それが良い事なのかどうかはわからないが、その能力が必要とされることもある」

 

 ……やっぱり違う。

 納得できない。同じものだとはどうしても認められない。偽物だと言い切ってしまいたい。でもそれは……保安官であるシエラたちにしかわからない。

 スピカにもアーラにもディーにもわからない。

 保安官としての素質を持つ自分たちが圧倒的少数派なのだ。


 ――にがくて苦しくてつらい。こんなこと……知りたくはなかった。


「本人言ってたろ、願いが叶って幸せだったって。全部取り戻せたって。……だからさ、別のものになってしまったあいつを受け入れてやってほしい」


 本当は剣のアザレの方が辛い筈だ。彼はセラスと長い長い時間を共にしてきた。

 しゃくり上げながらシエラは首を横に振る。両手で顔を押さえてしゃがみ込む。自分にはまだしばらく……無理だ。納得なんてとてもできない。受け入れられない。だってシエラにとって赤い髪のアザレは……セラスだったから。

 同じ顔をした別の人を、そう簡単には受け入れられない。


 自分と同じ苦しみの中にいた人の願いが叶ったのに、喜ばなくてはいけないのに、どうしても涙が止まらない。


「シエラだって、別の姿をした同じ奴を受け入れてるだろう。それと同じ……」


「ぜんっぜん違うっ」


 腹の底から声が出た。完全な八つ当たりだ。そんなことはわかっている。剣のアザレの方がよっぽど……


「……冗談だよ。本気で怒るなよ。……こういうのはさ、長く生きてても、慣れないもんだな」


 アザレは弱り果てた声でそう言った。そして、しばらくの沈黙。


「……ふたりは結局ずっと一緒にいたんだな」


 その言葉は、窓の外の青空に向けられているようだった。シエラはどうしても振り返ることができない。きっと剣のアザレも泣いているから。


 空っぽの砂時計の方がミエレに姿を変えたのだから、そういうことなのだろう。魔女(ミエレ)魔物(ノヴァ)から恋人の記憶を守り切ったのもしれないし、魔物(ノヴァ)がセラスに対する嫌がらせで、その場に残したのかもしれない……いかにもあの魔物のやりそうなことではある。

 でも砂時計は割れてしまった。経年劣化に耐えきれなかったというのもあるかもしれないけれど、きっとミエレの最後の言葉通り……


『セラスと一緒がいい』


 それが一最後まで残っていた彼女のほんとうの願いだった。


「『夜と洋灯の森』の魔女の所に行ってくる。あいつが故郷で色々見つけてきてたみたいだから、それをどうするか決めないといけない。……さてさて、どうするかねぇ。全くとんでもない置き土産を残してくれたもんだな」


 呆れたように小さく笑う気配。


 セラスはミエレを元の姿に戻すために自分の記憶を対価として支払った。でも……ミエレはセラスのいない世界に戻ることを拒んだ。


「私が……行きます」


 これは、自分がしたことだから、最後までちゃんとやり遂げる。まだしばらく涙は止まりそうにないけれど。


「扉の魔物。対価を払うから、シエラを『夜と洋灯の森』につないでやってくれ。少し時間がかかるかもしれなから、多めに払う」


「……アザレ、さ……ん、お給料、来月、な……い」


 確か上司がそんな事を言っていた。シエラの分の対価を肩代わりさせるのは申し訳ない。


「俺おこずかい制だったからさ貯金はあるんだよ。あいつ昔商人だったから……金の使い方には、結構……うるさっ……」


 剣のアザレの声が突然大きく震えて、あとは言葉にならない。……静寂に包まれる。白い部屋にはシエラ以外もう誰もいない。


 空っぽの白い部屋。

 空っぽの白いベッド。

 ぽっかりと空いた白い壁の向こうの青い空。

 空っぽの封筒と壊れた砂時計だけが、あの時間を覚えている。


 シエラはぺたんと床に座り込んで泣き崩れる。喉から悲鳴のような声が吐き出される。どこからわいてくるのだろうというくらいの涙が両手を濡らす。

 医療棟では泣いてばかりだなとぼんやりと思う。


「果たして、たったひとつの恋を永遠に近い時間抱き続けられるものなのか」


 のろのろと立ち上がって、顔を上げられないまま、背後の男性にしがみ付く。この魔物の腕の中にいると気持ちが落ち着いてくる。温かくてここは居心地がいい。

 規則正しい心臓の音が聞こえる。彼の前でもシエラは泣いてばかりだ。この姿は久しぶりのようで……ずっと一緒にいたような気もする。  


「……きっと、無理」


 クイズなのか、それとも禅問答なのか。或いは何かの比喩なのか。わからないけど、シエラが用意できる答えはひとつだ。


 時間は流れれば、経験や記憶は増える。ずっと同じものではいられない。

 ひとりの娘が、お母さんになり、おばあちゃんになり、やがてひいおばあちゃんになるように、恋は……ずっと恋という形のままではいられない。時間が流れ、お互いの立場や関係性は変わってゆくだろう。その程度のことは恋愛初心者のシエラにすらわかる。


 それでも……

 ミエレはセラスを選んだのに。彼が何者であっても躊躇いなく手を伸ばしたのに。

 彼女はあんなに幸せそうに笑ったのに。

 どうしてふたりは消えなければならなかったのだろう……


「そういうものなんじゃないのか? 恋ってものは。……実ったり、壊れたり、失ったりした瞬間に形を変える」


 シエラの身体を離すと、ジオードはふわふわのタオルを手渡す。シエラはタオルで顔を押さえた。今回もまた涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。これももう何回目だろう。


 ベッドの前にしゃがみ込んで、ジオードがガラスの破片を拾い始める。手伝おうとしたら「危ないから」と止められた。


 シエラが広げた封筒の中に、砂に埋もれたガラスの破片を集めてゆく。その時に気付いた。白い砂は……ふわっと光ると雪が溶けるように消えてしまう……





 森でキノコを採集をしていると、とても綺麗な赤い髪の幼い少年が泣いているのを見つけたのよ。

 彼の髪と同じ色の飴をあげて道を教えてあげたら泣き止んで、手を振って帰って行ったの。


 親とはぐれて森で泣いていたら。青い目をした可愛らしい女の人が助けてくれたんだ。

 あなたの髪と同じ色ねと言って、ベリーの味のする飴をくれて、帰り道を教えてくれた。たまにここにはきのこ採集に来ると言っていたから、また会えるかなと思って、暇があれば森に通い詰めたんだ。

 次に会った時には森の奥の家に招待してくれて、美味しい料理をご馳走してくれた。いつでも遊びに来ていいわよって言ってくれたことが、すごくうれしかったな。

 そのあとすぐだった。週に一度開かれる市場で彼女が瓶詰を売っているのを見つけた。店の前には常連客がたくさんいて、何だか僕は誇らしいような気持になったんだ。


 人間の男の子ってあっという間に大きくなるのよね。時々森の奥の家に遊びに来ては、お手伝いをしてくれた小さな男の子は、すぐに私の背を追い抜いてしまった。いつの間にか私よりずっと力持ちになっていたの。

 でも、もうその森に住んで十年が経とうとしていた。だから、この土地を離れないといけないなと思ったの。あの子とお別れをするのは……とても寂しいけれど、これは仕方がないって自分に言い聞かせたわ。

 流れている時間が違うから、魔女はあまり長く一所に留まると、人間たちを混乱させてしまうの。


 何年経っても彼女は姿が変わらなくて、ああ、きっと人間ではないんだろうなと思ったのに、恐怖も何も感じなかった。

 いつも彼女は笑顔で僕を迎えてくれて、もう背も僕の方が高いのにいつまでも子ども扱いで、それが悔しかったな。

 商人になると決めたのは、そうすれば少しでも彼女の役に立てるかもしれないと思ったからだ。

 でも、ある日彼女から遠い場所に移り住むと言われて、目の前が真っ暗になった。でもその時の僕には彼女を止める理由も方法もわからなくて、ただどこにいても必ず探して会いに行くからと約束したんだよ。


 新しい村に移り住んで、三年くらいした頃に、またあの男の子が訪ねて来てくれたの。もう男の子ではなくて、見た目は私より年上の青年になっていた。本当にびっくりしたけれど、すごくうれしくて、どうしてかわからないけれど、涙が止まらなくなってしまった。

 商人になっていた彼は私の瓶詰を荷車に乗せて売り歩いてくれるようになったわ。一ヶ月に一度必ず商品を仕入れに来てくれて、私はその日が来るとなんだか朝から落ち着かなくて、そわそわとしてして……何度も外を確かめに行ったりして……ああ、これはちょっと困ったなって思ったの。


 商人になって色んな街に仕入れに行くようになって、どこに行ってもまず瓶詰を売る店がないかを聞いて回った。やっと見つけた彼女は、最初に出会ったのと同じ姿で……でも僕の姿を見てすごく嬉しそうに笑って、それから急に泣き出してしまった。彼女が泣いているのに、僕はすごくうれしかったな。

 それから月に一度彼女の店に商品を仕入れに行くようになって、彼女はいつも僕が来るのを待っていてくれた。でもある日、何も言わずに忽然と姿を消してしまったんだ。嫌われてしまったのかと目の前が真っ暗になってしまったけれど、ああきっと別の場所に移動したんだろうな、とすぐ気が付いた。

 彼女は魔女だから、何か人間と揉めるようなことがあったのかもしれないと。必死にそう自分に言い聞かせたんだ。


 自分の気持ちが大きくなる前に、別の場所に移動したの。何も言わずに逃げるなことをしたのを後でものすごく後悔した。こんなに落ち込むくらいなら最初からやらなければよかったのにと本当に思った。

 でも半年後には彼は市場で瓶詰を売る私を見つけてくれて、無事でよかったと言ってくれたの。色々あるから急にいなくなることがあるかもしれないけれど、必ず会いに来るからと約束してくれて、嬉しくて申し訳なくて、やっぱり泣いてしまった。

 それからは店を持たずに、彼から逃げように各地の市場を転々としたのに、どういう訳かすぐに見つかってしまってね、でもその度に嬉しくて、想いはどんどん大きくなっていったの。


 時間の流れが違う人間を好きになってもお互い苦しいだけだとわかっているのに。

 それでも……私は恋をしてしまったのよ。


 必死で彼女を探して、行く先々で瓶詰を売る女性の情報を集めた。やっと見つけた彼女は、ほっとしたような怯えたような顔をしていて、だから、無事でよかったと伝える事しかできなかった。どこにいても必ず会いに行くからと言ったら、さすがにこれは気味悪がられるかなと思ったのに、彼女は嬉しそうに笑ってそれからまた泣いてしまったんだ。

 それからしばらく追いかけっこが続いた。でも、僕には彼女が逃げる理由がちゃんとわかっていたから、不安になることはなかったな。その頃の僕はもう大人で、彼女が僕を見る瞳の中にある感情が何なのかわかっていたからね。


 彼女よりもずっと早く年老いてゆく僕は、きっといつか彼女を苦しめることになるとは分かっていたのに、それでも……幼いあの日に彼女に恋をしてからずっと、彼女を追いかけ続けていた。


 同じ時間を生きてくれる人と幸せになって欲しいと、心のどこかで思いながらも、

 私は、セラスに恋をしていた。どうしても手を伸ばさずにはいられなかった

 僕は、ミエレに恋をしていた。どうしても追いかけずにはいられなかった。


 姉のように過ごした時間。

 妹のように過ごした時間。

 恋人のように過ごした時間。

 娘のように過ごした時間。


 弟のように過ごした時間。

 兄のように過ごした時間。

 恋人のように過ごした時間。

 父親のように過ごした時間。


 ずっと、あなたに恋をしていた。それはとても幸せな時間だった。





「ひどい顔だね」


 ドアを潜った途端に、そう言われてシエラは苦笑する。それはそうだろう。目も鼻も真っ赤だ。『夜と洋灯の森』は今日もノジュールが嫌いな夜だ。アーラは今日は青いドレスを着ている。ミエレの瞳と同じ色。そして肩に白い鳩を止まらせていた。


「対価を……」


 シエラがやっとそれだけ言うと、


「もうもらったよ。記憶と、色を」


 アーラが部屋の隅に目をやる。ソファーで眠るアザレの髪は黒に変わっていた。それがとても惜しいような気がして、またシエラは泣きそうになってしまう。

 でも、彼はセラスではないのだから、これでいいのかもしれない。

 アーラの手元には小さな丸いガラスのランプが置いてある。セラスの髪の色がそこに移されていた。赤いガラスの中で炎が揺れている。


「……綺麗ですね」


 赤い髪だった頃の彼を思い出す。その記憶は医療棟と繋がっている。

 優しくて穏やかな微笑と柔らかな声。

 また喉の奥から熱いものがせり上がって来る。シエラは大きく息を吸って吐いた。


「どうしてなんでしょうね。ふたりの願いは叶ったのに、セラスさんは私の我が儘を叶えて下さったのに、私はちっとも嬉しくないんです」


 視界が滲むからぐっと目を瞑る。息が熱い。


「……話を聞きたかった。例えばお茶を飲みながら、直接お二人から、二人の馴れ初めなどを聞いてみたかったと思うんですよね」


 そう言ってシエラはテーブルの上に封筒を置く。そこにはジオードが拾い集めてくれたガラスの破片が入っている。古いガラスがキラキラと赤いランプの灯りを反射して輝いていた。


 アーラの目の前には、赤いランプとピクルスの瓶。そして、数枚のメモのようなものが置いてあった。メモは故郷でセラスが見つけて来たミエレの記憶の痕跡だろう。


「名前は決まったかい?」


「その子は、ミエレさんの使い魔ですね? 魔物の記憶で見ました。確か名前は『ルールー』」


 シエラはアーラの肩の上の白い鳩を見ながらそう言う。


「……ならば、コトリ、と」


 シエラがそう言った瞬間、風が吹く。ぱさりと羽音がして、ルールーが姿を変える。

 白い鳩はミエレに姿を変えていた。ゆっくりと彼女は目を開く。その目は青ではなく、赤紫だ。アザレの髪とミエレの瞳の色が混ざった色。大きな瞳が涙で潤み、ボロボロと涙が溢れ出す。


「隣で少し眠るといい……」


 気遣うアーラの声に頷いて、コトリはソファに駆け寄る。眠る男性の横に潜り込んでその体にしがみ付くと、少女は声もなく体を震わせて泣き出した。


 ピクルスの瓶とメモ、そして封筒と砂時計の破片は消え失せていた。赤いランプが空っぽのテーブルの上に、ルビーのような影を落としている。 

 

「落ち着くまで彼女は巻貝の店で預かってもらうことになってる」


 シエラは黙ってひとつ頷いた。頬を一筋涙が流れ落ちた。でも、泣くのはもうこれで最後だ。ふたりの願いはきっと叶ったのだから、外から見ているものがとやかく言うことではない。


「アーラ、何を差し出せば、何を得られますか?」


「では……血をもらおうか」


 アーラが取り出したナイフで指先に傷をつけ、指先をタンブラーに傾ける。流れ出した砂は黄金だ。ジオードによって作り変えられたシエラは、自分の血の価値を理解している。


「ずっと愛している……か。随分と大きな対価を支払ったものだね」


 アーラが苦笑した。シエラはただ静かに微笑む。今はただその言葉を噛みしめている。ひとつの恋の終わりをみたから。

 

 『ずっとずっとあいしてる』


 その言葉を対価としてシエラはジオードの心を自分に縛りつけた。

 だからこれは、どちらかと言えば呪いの言葉だ。


「一生面倒をみてもらう対価としては安いものですよ。あちらはもう飽きることも捨てることもできませんから。でも、そこまでして自分の心を縛ったジオードの気持ちも理解できるんです。カール君のお母さんが何故あんなことをしたのか、ジオードは気付いていたんですね」


 多分、彼女はちょっと戸惑ったのだ。キラキラした恋ではなく、穏やかな家族愛に変わってゆく自分の心に。……そこに魔が入り込んだ。 


「あ、死なない程度に全部抜いて下さい。しばらく外出られないので。動けなくなっても迎えは来ます」


「……開き直ったね」


「もういいんです、環境適応能力ってやつだと思えば。どんなに変わってしまっても……私の願いはいつか必ず叶うので」


 シエラはそう笑って、ソファーで眠る男性を見つめる。彼は忘れてもシエラは覚えている。

 ほんの少しの間共に過ごしただけなのに、兄のような父親のような……母親のような人だった。

 唯一無二の人だ。忘れられる筈がない。それにあんなに綺麗な恋の物語を見せてもらった。


 タンブラーは三つすでに黄金の砂で満たされている。多分脆弱な人間ならもう耐えられない量だ。「もう少し頑張れるかい?」心配そうな目でアーラがシエラを見る。結構きついが後は寝るだけだ。目の前がもう暗いし、ジオードの心に触れた時のように寒い。


「シエラ、魔女の本質は騙すもの。魔物の本質は奪うものだ。そしてどちらも、美しい物語、心惹かれるものを持ち去ってゆく」


「では、アーラ、美しい物語を作って下さいますか? 甘くて優しくて溺れそうな夢の檻を。森の中のお菓子の家を。『彼女』の本質が、騙し、奪うものだというのなら、ひとつを除いて私が持っているものを全部差し上げましょう」


「そういうのは、もっと得意な奴がいるだろうに」


「女性の望みを知るのは、いつだって女性ですよ」


 夢うつつにシエラは呟く。もう頭が重い。かくっと崩れそうになった体を慌てて誰かが支えてくれる。テーブルで額を打ち付けるのはギリギリ回避された。

 ……懐かしい。香を焚きこめた着物の匂いがする。


「アーラ、これ以上はもう無理じゃ。この子の心臓はまだ馴染んでおらぬ。負担が大きすぎる」


 幼女のような老婆のような、不思議な声が耳に届く。


「わかっているさ、でもどうしても、あともう一つ分必要なんだよ」


「わらわは、同郷の出の者が苦しむのを見るのは好かぬ」


「そう言われても、こればかりはどうしようもないからねぇ……」


 弱り切ったアーラの声が近付いたり遠ざかったりする。


「大丈夫です。まだ……。だから、とっておきの夢を……用意して下さい」


 例えば、欲しいものが何もかも自分の手に集まってくるような……

 二度と目覚めたくない、ずっと浸っていたいと願う……甘い甘い夢を。


 ――美しい恋の話のような。

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