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16 シエラと忘れられた者



「気分が悪いな」


 ガラの悪さは三割減の筈だが、目を吊り上げている美女というものは非常に迫力があった。


「他の男のために髪は切るし、他の男を篭絡するし、他の男に篭絡されそうになるし。大人しく帰宅を待ってやってるのに、何でそうなる」


 最初のひとつは自覚があるが後の二つについては意味がわからない。


「わかってやってたら、許さない」


 色違いの瞳でギロッと睨まれた。体が竦み上がるくらい怖かった。シエラとジオードの周囲には暴風がごうごうと音を立てて吹き荒れている。その向こう側がどうなっているのかさっぱりわからない。


「ごめんなさい」


 ものすごく怖かったので速攻謝っておく。最近本当に良く怒られるなぁとぼんやり思う。でも、ジオードは時忘れの香……


(そうか。効いてないのか)


 時忘れの香を本当に相手に効かせたいのならば、シエラはジオードのこともノジュールのことも頻繁に思い出してはいけなかったのかもしれない。そんな気がした。


 シエラは外にいる時はジオードの事を、事務所に戻った時にはノジュールの事を、暇さえあればずっと考えていた。それこそ一緒にいる時よりもずっと強く相手のことを想っていた。


「あんたの心は俺とあいつの事でいっぱいだった。だから我慢できた」


 そうだろうか……そうかもしれない。会いたくて泣くくらいには恋しかった……という状態も筒抜けだった訳だ。辛い。


 美女は自分の頭に手を何の躊躇いもなく白い角をパキンと折る。これで不自然に欠けた部分は二か所だ。シエラの喉のが大きく上下した。あれは……相当痛い筈なのだがジオードは顔色一つ変えない。


「飲んで」


 拒絶を許さない顔でジオードが告げる。凶悪なまでに機嫌の悪さを前面に押し出した美女は、指先で摘まんだ白い角の欠片をシエラの唇に押し当てた。大きさは親指の爪くらいだ。ガラスのように冷たく硬い触感に体が震える。

 今のジオードはとても怖いが、彼はシエラが嫌がることを無意味に強要したりはしない。それはわかる。わかるのだが、これは……人間で言う爪とか骨とかそういうものではなかろうか。そういう風に考えるからダメなのだろうか。


「心臓に直接入れるのは相当痛いけど、どうする?」


 問われて首を横に振る。冷たい感触が唇から離れる。


「……そっちでお願いします」


「その言葉遣い他人行儀で気に入らない」


「今すぐ直す。痛くても我慢する。飲み込むのは喉の奥とか切りそうで怖くて無理っ」


 色違いの目をまっすぐに見つめながら、早口でそう捲し立てた。女性でここまで怖いのだから、男性姿だったら三割増し程度では済まない。でも、ここまでジオードを怒らせたのは間違いなくシエラだ。


「ふうん……」


 そう言ってジオードは目を合わせたままシエラの身体をぐっと引き寄せた。風に煽られた白い髪が檻のようにシエラを取り囲む。固い物がツナギの上から心臓の位置に当てられる。これをこのまま胸に押し込まれたら脆弱な人間の心臓は壊れるのではなかろうか……でも飲み込んだら食道が傷だらけになるか、喉に詰まって窒息だ。何だろうこの究極の選択。

 どちらを選択してもこの世界とも目の前の美女ともさようならだ。きっとそんなことにはならないのだろうが、人間の感覚ではそうなのだ。何でわからないのだ魔物だからか。あ……恐怖で意識が落ち……る訳がない。シエラの心はジオードに支配されている。


「……ああそうか。『怖い』というのはそういうことか」


 そう言ってジオードは白い角を自らの口の中に入れた。ガリっという固い物が砕ける音がする。歯で角を割り砕いたのだ。


(いやそれでも無理です)


 顔を引きつらせてシエラは首を横に振り後ずさろうとするが、女性姿の筈なのにジオードの体はびくともしない。

 多少小さくなったからと言って、心臓に刺さった場合の痛みが減る訳でもないだろう。ジオードの手の上にある角の欠片は三つ。すべて錠剤程度の大きさだ。シエラは覚悟を決めた。口の中がカラカラに干上がっている。


「……飲む。飲みます。水、水下さい、多めに」


 そう言った瞬間水の入ったコップを目の前に突きつけられる。それを受け取り、角を受け取り。心を空っぽにしてシエラはひとつ目を舌の上に乗せると水で流し込み、間髪入れずにもうひとつ、さらにもうひとつと連続で飲み込む。そして一気にコップの水を全部飲み干した。体の中に硬く冷たいものが落ちてゆく。丁度心臓の辺りに来た時に、どくんっと一際大きく心臓が鳴った。


 真っ青な顔をして大きく体を震わせたシエラを満足げに見下ろして、ジオードは体を離す。


「そいつの記憶はもう要らないだろう」


 え、ちょっとまだそれは困るかもと思ったが、ここで拒絶すれば……さらに恐ろしいことになりそうだ。シエラは従順に頷いた。きっとシエラが今回こういう目に遭ったのもその記憶のせいだ。ならばやはり持っていては危険だ。うん。要らない。


「それに、こんな怖い目にあったんだから、もう二度と捕食なんてしないよな」


 とても美しい顔がすぐ目の前に迫る。眼力の強さに顔が押されている感じさえする。怒った美女というのはこれ程までに迫力があるものなのか。本当に目って吊り上がるんだとシエラはどうでも良い事を考えて誤魔化そうとしたが、相手が許すはずもない。


(怖い怖い怖い怖い……怖いから。般若の面みたいになっているから)


「うん要らない。絶対要らない。ごめんなさいもう二度としません」


 その言葉にようやくジオードはシエラから体を離す。

 心臓が冷たい。何かがシエラの心臓を浸食して作り変えてゆく。これが捕食というものなら、これのどこがエレガントでスマートなのか上司を問い詰めたい。やっぱり魔物の感覚は理解できない。もう二度としたくない。

 ジオードがもう一度シエラの心臓の辺りに手を当てる。胸から黒い柄のようなものが突き出してきている。ホラーだ。もう本当に泣きたい。


「怖いなら目、閉じて」


 逆らう気にもならない。痛みはないがとにかく気持ちが悪い。体を固くして未知の感覚に耐える。ずるりと心臓から何かが引き出される。


「もう開けていい」


 目を開けるとジオードは黒い短剣を持っていた。まず間違いなくシエラの心臓から取り出したものだろう。周辺をごうごうと吹き荒れていた風がぴたりと止む。ジオードは手に持っていた短剣を少し離れた場所に立つ魔物に投げつける。相手は自分に向かって飛んできた刃を躊躇いなく握って受け取った。赤い血が流れ落ちるのをシエラは茫然と眺めている。恐怖で心が完全に麻痺していた。


 見渡す限り何もない灰色の空間にシエラとジオードは立っていた。向かい合って立つ魔物のシャツの袖口を汚す血の色がやたらと鮮やかで、どうしても目が惹きつけられてしまう。シエラはぐっと奥歯を噛みしめると、無理矢理赤色から目を背けた。


「もう要らないとさ」


 ジオードは相手にそう言ってから、隣に立つシエラを睨みつけて来る。


「いらないのでお返ししますっ」


 自棄になってシエラは叫んだ。

 魔物の手のひらからぽたぽたと赤い血が落ちている。地面はないのに、足元に落ちると粒子状の霧のようなものになって広がる。


「ねえお姫様、君は……この血の色を忘れないよね。自分のせいで血を流した人のことを絶対に忘れない。ずっと罪悪感を抱き続ける。君は僕を忘れない。君は赤い血を見る度に僕を思い出す」


 うっとりとした顔で魔物がそんな事を言っている。なぜにいきなり詩を暗唱しはじめたこの魔物。


「と、申されておりますよジオード」


 シエラは横に立つ白いドレス姿の美女を困惑気味に見つめた。


「自分に向けられた言葉ではないと本気で思ってるよなあんた」


「お姫様はツナギ着てないし、怪我させたのも私ではない」


「ふーん……まぁ別にいいけど。あんたってそういう所あるよな」


「いいなぁ、やっぱり……欲しい」


 とても楽し気げに声をあげて笑った魔物を、ジオードが睨みつける。……魔物は笑いながら姿を消した。


 後には赤い血の跡が残っている。ああ、まるで星雲のようだとシエラは思う。それは……あの魔物の目を覗き込んでしまったからだろうか。


(もううしなわれてしまったもの。二度と戻らないもの……)


 例えば、絶滅してしまった動物。消えてしまった言葉。失われた信仰。

 もう誰にも読めない文字。意味が失われてしまった絵。

 或いは、今はもう、どこにも存在していないものに付けられていた名前。

 ただの音や模様になってしまったもの。

 もう誰も覚えていない、誰の記憶の残っていない。

 遥か昔に存在して……そして忘れ去られてしまったもの……


「……あんたさ、そんなにあいつのこと気になるの?」


 地獄の底から響く声というのはこういうものを言うのだろうか。シエラは大きく体を震わせた。


「今すぐ忘れる。忘れた。うんきれいさっぱり忘れました」


 背中に冷や汗をかきながらシエラは笑顔で答えた。そうか、男性姿でこれをやられたらシエラの心臓はもたなかった。女性姿はジオードなりの優しさなのだ……多分。

 もうシエラは十分怖い目に遭った。もう終わろう。そろそろエンドロールが流れてもいい頃合いだ。もうホラー映画は沢山だ。エンディング曲が終わった後にいきなり敵が復活してバットエンドというのもなしでお願いしたい。続編もいらない。


 隣に立つ白い美女に向き直る。彼女は相変わらず機嫌の悪さを隠そうともしない。ここで台詞を間違えたら、また恐怖の時間に逆戻りだ。慎重に言葉を探す。


「ジオードと一緒に帰りたい」


 ――その瞬間に、世界は変わる



 



 目を開けた瞬間あまりに眩しくて驚いた。シエラは慌てて目を閉じて、さらに両腕を顔の上で交差させる。


「もういい……これ以上貴女が危険な目に遭う必要はない」


 最初に聞こえたのは疲れ果てた青年の声だ。


「シエラ、もう本当にいいよ。見てるこっちが辛い。だから、お願いだからもう無理しないで」


 カールの声がする。弱々しく掠れていて、いつもの快活さがない。


 ああ……戻って来たのか、とシエラは思った。

 ふたりには悪いが、魔物に喰われそうになった恐怖はもうすっかり記憶の彼方だ。今改めて思えば電車に乗って彷徨うくらい大したことではなかった。


 まだ大丈夫だ。まだやれる! 

 でも、もうこんな風に、誰かに迷惑をかけないようにしなければ。


「自分で決めたんです。取り戻すって。……おふたりが助けて下さったんですね。ありがとうございます。疲れていらっしゃいますよね。休んで下さい。私、結構長いこと寝てたんでしょう……」


「わかってるのか、魔物に喰われそうになったんだぞ!」


 激高した声がシエラの言葉を遮る。本当に最近怒られてばかりだ。


「……酷い事言ってごめんなさい」


 こういうのは狡いなと思うけれど、相手の負担になるとわかっているけれど、このくらいの意趣返しは許して欲しい。


「そう思うなら、もう本当にやめろっ」


 悲痛な叫びと、ガタンと椅子が倒れる音。そして乱暴に扉が閉まる音。ああやっぱり怒らせてしまったなとシエラはちいさく笑う。きっと彼の心も人間に近いのだろうと思う。もうどうしようもない。一度掛け違えた糸はもう元には戻らない。


「カール君もごめんね」


「……わかってるんだよ。兄上も僕も、シエラは売り言葉に買い言葉であんな事言ったけど、絶対に母上を壊したりしなかったって。あそこまでシエラを追いつめた兄上が悪い。どう考えたって誰が見たって兄上の方が悪い。でも、シエラは自分の放った一言が自分で許せないんだ」


 その言葉でさすがにシエラにもわかってしまった。カールは……無茶をしようとしているシエラを守るためについて来てくれていたのだ。シエラが抱えている罪悪感も何もかも、すべてを理解した上で。


 全員きっと……シエラの気の済むようにやらせてやろうという気持ちだったに違いない。


 いくら保安官とはいえ脆弱な人間のシエラに、彼等の母親を取り戻すことなどできる筈がない。そんな簡単に取り戻すことができるものなら、フリュオリネたちやカールがとっくに取り返している。


「……うん。それもあるけど、それだけじゃないんだ。フリュオリネさんやカール君にはすごくお世話になってるからね、自分のできる範囲でお手伝いがしたいんだ。もう無茶はしないから……約束する」


 シエラがカールに対して敬語だったのは無意識だったけれど、やっぱり負い目があったからなのかもしれない。きっとカールには負担だった……

 目の上から腕を外す。ゆっくり瞼を開けると医療棟の白い天井が見える。視線を横にずらすがそこにはもうカールの姿はない。


「ごめんね。心配すると思うから、今の僕の姿をシエラに見せたくない。兄上もそうだと思うんだ。……シエラ、あの金の鍵は母上に繋がってる。シエラのおかげで見つけることができたんだよ。だから少し休んで? それで元気になったら、一緒に母上を迎えに行こうね」


 扉が開いてカールが出てゆく。入れ違いに誰かが部屋の中に入って来る気配がして……そして静かに扉が閉まる音。

 シエラはのろのろと体を起こす。どこも痛くないし違和感もない。左手を見るとちゃんと黒い指輪がある。


 気のすむようにさせてやろうと考えていたのは、きっとこの魔物も同じなのだ。


「帰るぞ。あいつも待ってる。……夕食は茄子の煮物と揚げ出し豆腐」


 白い髪の美女は夢の中と同じ不機嫌そうな声でそう言うと、ぼんやりと指輪を見ているシエラの手を取る。シエラの服は一瞬にしていつものツナギに変わる。


「メロンパン食べたい。クリームが入ってるのがいい」


 五色の短冊はないので直接ジオードにお願いする。


「それはまた今度な」


 手伝ってもらって体を起こし、ベッドから降りるとそこはもう晶洞の森だ。空気でわかる。

 足元には柔らかい草。前方の森の中から何かが飛んできて顔に張り付く。


「わぷ」


 あたたかい。やわらかい。いいにおいがする。


 シエラの顔から離れたノジュールはご機嫌だ。頭の上に乗ってぺちぺちシエラの額を叩いている。不機嫌な時とは叩き方が違うからわかる。


「ただいまノール」


 頭の上に手をやってノジュールの頭を撫ぜながらシエラが言う。それから、傍らに立つ白い髪の美女に向き直る。


「ただいま、ジオード」


 笑顔で言ったのに、白いドレスの美女は仏頂面だ。まだ怒っている。


「おかえり」


「まだ怒ってるんだね?」


「……さあな?」


 そっけなくそう答えて、それでも手を離そうとはしない。ジオードと手を繋いでノジュールを頭に乗せて、森の奥の洋館に向かって歩き始める。


「あれ……?」


 頬が濡れている気がして、空いている手で触れる。ジオードの手を離して、頭の上のノジュールを両手で持つとぎゅうっと胸に抱きしめる。きょとんとした顔で小さな魔物がシエラを見上げる。紅葉のような手が濡れているシエラの頬をぺちぺち叩いた。


「っ……淋しかった。ノールがいなくて淋しかったっ」


「あのな……」


 疲れたような声が隣から聞こえてくるが気にしない。だいたいそもそもこのふたりとシエラとでは時間に対する感覚が違うのだ。どうせ彼等にとって長くて一週間。下手したら三日くらいの感覚なのだ。不公平だ!


「だってジオードの気配はいつも感じるんだけど、ノールとは本当に離れ離れだったから」


 キラキラした目でシエラを見ていたノジュールはしばらく大人しく抱っこされていたのだが、やがてむずがるように体を捻り始めた。飽きたのだ。シエラが腕を緩めるとふわふわと飛んで、お気に入りの頭の上に戻ってしまう。短くなった髪を面白そうに引っ張っている。


「とりあえず顔拭いとくか?」


 差し出されたタオルはやはりふわふわだった。そのまま肩を押されて歩き始める。


 食堂に連れて行かれると、ジオードがマグカップにロイヤルミルクティーを淹れて持ってきてくれた。水以外の飲み物は久しぶりだ。ノジュールは頭の上でシエラの髪の毛をぐちゃぐちゃにして遊んでいる。シエラの髪の毛はモジャモジャの鳥の巣のようになっている。


「すごいことになってるぞ」


「ノールに気に入ってもらえたなら切った甲斐がありましたね」


「その言葉遣いが……」


 声がまた凄むように低くなる。……これ、まだ続くのかとシエラはげんなりとした。


「ジオードは一体誰と張り合ってるのかなぁ。髪の毛は傷んでたから丁度よかったんだよ。その内また伸びるから。でも気に障ったならごめん」


 アザレは似合ってるって言ってくれたのになぁと余計な事を考えた途端に、ぎろっと色違いの目で睨みつけられた。さすがに今のはまずかったなとシエラは反省する。そうか張り合っている相手はアザレか。剣の方ではないな間違いなく。


 その時――


 りりりーん……りりりーん……

 と、電話が鳴った。


 ジオードがシエラを見る。出ろということのようだ。

 ノジュールを頭に乗せたまま、食堂の入り口付近に置かれた電話台に歩み寄り、黒電話の受話器を取る。


「もしもし?」


「もしもーし、お姉ちゃん? 多分大丈夫だろうとは思ってたけど、無事で良かったよ。あたしも一緒にいたかったんだけど、仕事が入っちゃってね。今ちょっと忙しいんだ。そういえば、カール君とお兄さんが食事も喉通らないような感じになってたけど会えた?」 


 スピカの明るい声が聞こえて来る。


「うん、会えたけど、顔見せてはくれなかった」


「あーだいぶ憔悴してたみたいだからね。心配かけまいとしたんじゃない? お姉ちゃんはしばらくおうちでゆっくりしてね。お仕事終わったらまた連絡するよ。恋人さんにもよろしく伝えといてね。一応忠告しておくけど、可愛げのない態度取らないようにねー! 今回は全面的にお姉ちゃんが悪いから、そこちゃんと自覚しといてね。じゃあね」


 一方的に電話が切れる。シエラが受話器を置いた途端、また電話が鳴るので受話器から手を離すことなく持ち上げる。


「もしもしー。シエラおねーちゃんだいじょーぶ?」


 今度はミモザだ。電話の向こうの可愛らしい声はうきうきと弾んでいる。


「大丈夫だよ、ミモザ。心配してくれたんだね、ありがとう」


「おにーちゃんたちも帰ってきたよー。つかれてたからすぐに寝ちゃった。おねーちゃんが無事でよかったって言ってたよ。元気になったら遊びに来てね! ミモザもぱぱと一緒にがんばってたたかってるから。今度おねーちゃんが来た時にはお花でいーぱいにしとくからねー」


「……はい?」


 がちゃんと電話が切れる。ツーツーという音がするので、シエラものろのろと受話器を置く。黒電話の受話器は結構重いのだ。たたかってる? 戦ってる? ……何と? ぱぱって誰? そんな疑問が頭の中で渦を巻いていると、リン! とまた電話が鳴るので条件反射で受話器を持ち上げて耳に当てる。


「もしもし」


「あーシエラ? 無事で良かったわ。しばらく在宅で仕事になると思うから、荷物送っといた。で、ノジュールちゃんそこにいるなら代わって……」


 無言でシエラは受話器を置く。そしてすたすたと元の席に戻って、マグカップのミルクティーを飲んだ。そして一息つくと、顔を上げて白い美女をまっすぐに見つめる。


「ジオード、ミモザは誰と一緒に何と戦ってるのかな?」


「蛍石と一緒に沼と戦ってるんだろう? ……また来たか。ったく本当に鬱陶しいな」


 ジオードが不機嫌そうに顔をしかめて窓の外に目をやる。

 つられるように窓の外を見たシエラは顔を引きつらせた。空が黒い魔法陣で埋め尽くされている。ひょっとしてあの魔法陣すべてから魔獣やら魔物やらが出てくるのだろうか。


「ジオード……あれって」


 さりげなくジオードが窓際に歩み寄ると勢いよくカーテンを閉めた。天井にあるチューリップ型の照明が点灯する。


「うちいま沼との抗争中。蛍石の方は攻勢に転じた。あんたにとっては悪い話ではないんじゃないか? しばらく外には出してやれないけど」


「大丈夫なの?」


「……何が?」


 ドスの効いた声だった。「おまえ誰に向かってものを言っているんだ、あぁ?」という言葉が聞こえた気がした。


「うん。大丈夫なんだね……ごめん余計なこと言った。で、在宅の仕事ってひょっとして……」


「大量に蝶が入った温室が隣の部屋に置いてある」


「……やっぱりそれなんだね」


 がっくりとシエラは肩を落とす。蝶を捕まえてナンバリングするだけの簡単なお仕事だ。


「あと、手紙を預かった」


 ものすごく嫌そうな顔でジオードがシエラに手渡したのは、砂で汚れた白い封筒だった。宛名は本部の西事務所宛てになっている。読めない文字の筈なのにちゃんと読めるのは……ジオードの角を飲み込んだせいだ。あの角はシエラの心臓の中に浸透していって、シエラの心臓を作り変えてしまった……


「これでもうあんたはどこにも逃げられない」


 どこか愉悦を感じさせるようなジオードの声にぞくりとしたが、それには気付かないふりをして手紙を広げる。

 急いで書いたのか、とても短い手紙だ。シエラの体調を気遣う文章の後に『丸坊主にはならずに済んだよ』と続いている。ふふっと笑った瞬間手紙が……燃えた。


「ジオード! なんてことす……」


 まだ読み終わってない。誰がやったかなんて明白だ。咎める声はすぐに勢いを失った。


「要らないよな」


 白い美女は真顔だった。リューカ並みに何の表情も浮かべていなかった。もう泣きたい。誰かこの魔物を何とかしてください。


 まるで地震のように、縦揺れが起こった。何もかもが数センチ宙に浮き上がり……そのまま静止した。床にゆっくりとおろされる。

 ピクっと頭の上のノジュールの体が揺れた。怖かったのかなと思って膝に乗せると、いつも機嫌のいい幼い魔物が不機嫌そうな顔つきになっている。


「……ノール?」


 むうっと、眉間に皺を寄せたノジュールを見て、シエラはカーテンを閉められた窓の方に目をやった。窓の外は……何が起きているのかわからないが、真っ暗だ。

 ノジュールは……夜が嫌いだ。夜になると、天使は悪魔に豹変する。

 ひょいっとジオードがノジュールを片腕に抱えると、


「あんたは仕事してな。さすがに鬱陶しいから片付けて来る。外には出るなよ。窓も開けるな。蝶が逃げると困るんだろう?」


 そう言い置いてふたりは食堂から出て行った。慌ててシエラは窓に駆け寄りカーテンを少し開ける。


「……え?」


 窓の外は、いつかジオードが見せてくれた晶洞に変わっていた。洋館が晶洞の中に閉じ込められている。


「へえ、結構いい所に住んでいるね。好きだなこういう雰囲気」


 その声に、はっとしてシエラは顔を上げる。窓の外が暗いせいで鏡のようになった窓。電話台の側の壁に凭れるようにして、夢の中で会った白いシャツの魔物が立っている。振り返ってもそこには誰もいない。


「お帰りはあちらです。右手に曲がってまっすぐ進むと玄関ホールがありますので。……ああ、鏡の中だと逆になりますかね?」


 間髪入れずに、鏡の中の魔物に対してシエラはそう返した。


「随分他人行儀だね」


 鏡の中の魔物が、鏡の中のシエラの背後に歩み寄る。


「他人ですからね。ところで、何か私にご用ですか?」


「随分饒舌だね。魔物に出会ったら沈黙するのではなかったの?」


「……あなたは、もう何もできませんよ。亡霊のようなものだから。……新星(ノヴァ)という言葉は不思議ですよね。実際は最後の光なのに」


「見えたんだね。……じゃあ、ノヴァでいいや。素敵な名前をありがとう」


「別に対価はいらないのでそのままお帰り下さい」


 目を伏せてそっけなくシエラはそう伝える。魔物は鏡の中のシエラのすぐ背後にまで迫っている。それでも危機感を感じないのは……本当にもう彼には何もできないのだとシエラにはわかっているからだ。


「そういう訳にもいかないのが魔物同士の契約の厄介な所だね」


「私は魔物では……」


 青年の魔物は微笑んで鏡像のシエラの唇に人差し指を当てる。そして、シエラを魔物は背中からそっと抱きしめて頭の上に顎を乗せた。その瞳は鏡の外のシエラに向けられている。


「君は道にカバンが落ちていたら、持ち主探すタイプだよね。でも怖いもの知らずの未熟な魔女は、飛び散った僕の字をたまたま拾った時に、何の躊躇いもなく自分のものにしてしまった。でも、大きすぎる力は結局本人を不幸にする。調子に乗った彼女はたくさんの罪を犯したけれど、最初の罪が最大の罪だ。今となってはもう誰も覚えていないけどね」


 鏡の中の魔物は思わせぶりに微笑む。


「でも、そうだな、君が落ちていたら僕も自分のものにするし、今もどうしたらここから君を連れ去れるかと考えているから、あの未熟な魔女の気持ちもわからなくもない。……ねえ、どうしたら君は僕のものになってくれるんだろう?」


 鏡の中で抱きしめられているシエラは非常に不愉快そうな顔をしている。


「私は私のものであって誰のものでもないですね」


「そういう返し方好きだなぁ。まぁいいや。時間はいくらでもある。君が名前をくれたお陰で僕はまだ当分消えなくてすみそうだ。……飽きられて捨てられそうになったらおいで」


 甘く女性を誘惑する瞳は、シエラには何の効果ももたらさない。


「飽きられて捨てられる前に寿命が尽きるから何の問題も……」


「あんたは楽には死ねないと思っておいて」


 女性の声がシエラの言葉を遮る。それは悪役の台詞ですねとシエラは思った。鏡の外のシエラは背中から白い美女に抱きしめられる。鏡の中から魔物の姿は消え失せていた。


「ノールは?」


 身長差は男性の時ほどではない。女性のジオードの顔は丁度シエラの耳の横辺りにある。「外で暴れてる」と簡潔に返された。

 目の前の鏡の中のシエラを抱きしめているのも、女性のジオードだ。シエラの眉間の皺も消えている。


「そうやって同情するから、心の隙に付け入られる」


「自己崩壊ってああいうことを言うんだね……」


 目を伏せて小さくため息をついたシエラを見て、


「……あれは単に寿命だ。自己崩壊とは少し違う」


 ジオードは面倒くさそうにそう答えた。


「ジオードもいつかああなるの?」


「ちゃんとあんたは道連れにするから何の心配もいらない」


 ジオードは据わった目できっぱりと言い切った。機嫌は直るどころか下降しっぱなしだった。

 この場合、可愛げのある態度というのはどういうものなのだろうか。「嬉しいわ! ずっと一緒ね!」とか感激して目を輝かせれば良いのだろうか? 


「楽に死ねない上に道連れですか……ははは。ところで、ねえジオードなんか寒くない?」


 空笑いしていたシエラは、ぶるっと体を震わせた。なんか急速に室温が下がっている気がする。気が付いてしまうとどんどん寒くなってゆく。まさに急速冷凍だ。ジオードに触れている背中だけが温かい。


「ジオード、さ……さむっ寒い。すごく寒い」


 ガタガタ震えながらシエラはまだ怒っている美女に訴える。できれば上着が欲しい。毛布でも良いと思ったら、頭の上から毛布が降って来た。体に巻き付ける。背中にはジオードがひっついているので、二人で毛布にくるまっている状態になる。


「ありがと」


「あんたって、ずっと、飽きられて捨てられると思ってるよな……」


「勘違いでした、海より深く反省してますごめんなさい」


 シエラは毛布の端を持って体に巻き付けながら即答した。カチカチ歯が鳴るくらい寒い。羽毛布団が欲しい。そう思った途端羽毛布団が降って来た。それも体に巻く。それでもまだ寒いというのはどういう事だろう。


 そう疑問に思った時、シエラは気付いてしまった。


 これは……ジオードの心だ。


 背中に触れているせいだろうか。ジオードの気持ちがシエラに流れ込んできている。ジオードの心が今このブリザード状態なのだ。こんな相互理解はすごく嫌だ。

 このままだと凍えてしまう! シエラは自分の中にある可愛げというものを必死に搔き集めはじめた。


「うん。ごめん。大切にしてもらってたってちゃんとわかった。助けに来てくれてありがとう。すごく会いたかったです。だから機嫌直してっ。病める時も健やかなるときも? よくわからないけどとりあえず死が二人をわかつまで? だっけ? ごめんうち仏壇がある家だから、誓いの言葉ってよくわかんない。と……とにかく一緒にいることを誓うから」


「……死んだら、別れるんだ?」


 これでもまだダメか!


「わかった。死んでも別れません。魂だけになっても一緒にいます……」


「一緒にいるだけで、愛してはくれないんだな……」


 要求多いな! シエラはイラっとしたが、『可愛げのない態度を取らないようにね』というスピカの忠告を思い出して、ぐっと堪えた。


 多分気温はマイナスに近付きつつある。外気に触れている顔が痛い。吐く息が白い。これはすでに脅迫ではないだろうか。こういう風に他人に対して自分の要求を無理矢理通そうとするのはよくないのでは……あ、寒い。

 そうだ。愛には色んな形がある。友愛、親愛、家族愛に自己愛に人間愛。世界は愛に溢れている……だからきっと何とかなる。


「ずっとずっとあいしてる」


 なぜにこんな恋愛ドラマのようなセリフを自分は言わされているのだろうか。


「ならいい。……夕食の支度してくる。仕事するならしといて。外も片付いた」


 ぎゅっと一度強く抱きしめられて、体を離された。布団と毛布が消え失せ、凍えるような寒さは一瞬にして消え失せた。


「夕食六時半だから」


 ジオードが柱時計を目で指してからあっさり部屋を出てゆく。 

 シエラは窓の前で茫然と立ち尽くしていた。

 ガラスの向こうには森が広がっていた。

 

 ……やはり魔物の感覚はよくわからない。

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