14 シエラと古い約束 その4
さらっとですが流血するシーンがあります。苦手な方はご注意ください。
一階にある、外に突き出した多角形の部屋が食堂だった。
チューリップの花の形をしたシャンデリアの柔らかい光が室内を照らしている。縦に長細い背の高い窓から見える外はもうすっかり夜だった。部屋の中心に象牙色のクロスがかけられた丸いテーブルが置いてあって、可愛らしい花が飾られている。
そこは、古い洋館をレストランに改築しましたという雰囲気で……
何故こんなお洒落な部屋で自分はつなぎを着て座っているのだろうかと頭を抱えたくなった。
シエラの斜め向かい側には子供用椅子に座った小さな魔物が、機嫌良さそうに手に持ったスプーンを振り回している。ジオードは書生風の衣装で、お盆に夕食を乗せて運んでいた。
「手伝いますよ……?」
おずおずと申し出るが、
「いいから座ってろ」
目も上げずにそう返された。言葉は乱暴だが、声は優しい。
シエラの目の前に、ジオードは丁寧な手つきで夕食を並べてゆく。可愛らしい陶器の茶碗に入った豆ご飯と、茶碗蒸し。茄子の煮物に、揚げ出し豆腐。全部シエラの好きな食べ物。
とうとう和食が恋しくて幻まで見るようになってしまったかと思った。でも、ちゃんと香りもする。これで香り付きの食品サンプルだったりしたら、立ち直れない。
「誰が作ったのですか?」
「お手伝いさん?」
ちょっと首を傾げてジオードが答える。
「なぜに疑問形?」
「そういうことにしといて。料理苦手なんだよ」
「ものすごく雑な誤魔化し方ですね……」
彼はちいさく笑ったが、それ以上教えてくれる気はないようだった。
「食べられるか?」
そうだ、あの時ジオードはとても不安そうだった。
「とても美味しそうです。嬉しいです」
久々の和食は、本当に心の底から嬉しくて……泣きそうになった。これで味があのスパイスカレーと同じだったらどうしようかともちょっと思った。
「ジオードもノジュールも食べるのですか?」
「ひとりで食べるの嫌いだろう?」
ノジュールの前に茶碗蒸しを置きながら、ジオードが答える。小さな魔物は物珍しそうに茶碗蒸しを見つめている。かわいい。ノジュールの前に置かれたのは具の入っていない素蒸しで、しかもしっかり冷ましてある。
「魔物は頻繁に食事を摂らないのものかと」
「もっと効率がいい方法があるからな」
「具体的には」
「捕食」
何とも不穏な答えが返ってくる。捕食とは獲物を捕らえて食べることではなかったか……何を? この魔物は何を捕まえて何をどうやって食べるのか。そんな疑問が頭を中を通り過ぎて行った。
「……深く追求するのはやめます」
「そうして」
ジオードは一言そう返して、ノジュールの隣に座る。
「あの……無理に私に合わせてくれなくても……」
全部が全部シエラのために用意してくれたのは明白だった。どういう手段を使ったのかはまるで分らなかったけれど。
「いいから食べな」
優しい声でそう言われて、頬が赤く染まる。いただきますと言ってから箸を取る。可愛らしいガラスの箸置きに置かれた真新しい赤い漆塗りの箸。
ノジュールは慣れた様子で茶碗蒸しをちいさなスプーンで食べている。ちゃんとこぼさずに。気に入ったのか目をきらきらさせている。やっぱりかわいい。
「……箸、使えるんですか?」
「使える」
そう言いながら、ジオードも慣れた様子で箸を使っている。食べ方が丁寧で綺麗だなと思う。
「なぜに?」
「そういうものだから。……冷めるぞ」
そう言われて豆ごはんを口に運ぶ。懐かしいお米の味を噛みしめる。家庭の味ではなくて、お店で出されるような上品な味付けだ。一口食べて、胸が苦しくなって、やっぱりシエラは泣いた。
「食べられないなら、無理に食べなくても……」
落ち込んだ声でそう告げたジオードの言葉を慌てて遮る。
「とても、美味しいですよ」
その時彼は嬉しそうというよりは、心の底から安堵していた様子だった……
そこで目が覚める。体を起こして、枕元に置いてあるノートとペンを眺める。これは夢日記に書くべき案件ではないなとシエラはぼんやりと思う。明らかに自分の記憶だこれ。
『晶洞の森』で暮らすことが決まって、初めてみんなで食事をした日。
(ジオードとノジュール……どうしてるんだろう)
シエラがいなくても彼らは何の問題もなく毎日過ごして……あ、落ち込むからやめよう。
ランプに火をつける。ふわっと室内が明るくなる。
宿泊棟である『夜と洋灯の森』は今日も夜だ。ノジュールがいたら激怒していることだろう。時計を確認する。起床時間には少し早いけれど、ツナギに着替えて円錐型の天幕から外に出る。夜の森に色とりどりのランプの光が浮かんでいる。
この光景を見ると、いつも夏祭りの夜を思い出す。
浴衣を着て兄と手を繋いで……屋台の迷路を歩いた。綿あめの匂い、リンゴ飴の匂い、醤油の焦げる匂い。色々な匂いが次から次へと流れてきて、前方果てしなく続く屋台はみんなオレンジ色にぼやけて見えた。
兄は金魚の入った三角のビニール袋と水風船を二人分持っていた。小さな葉月は綿あめの袋を握りしめていた。
(りんご飴は食べきれないからって、買ってもらえなかったんだよな……)
赤いランプの光を見つめながらぼんやりと思い出す。
浮かれ歩く人の波の中を流されてゆきながら、世界の果てまで夏祭りは続いているのだと思っていた……
「さて、お仕事行きますかねぇ」
声に出して夢の残滓を払う。まだジオードやノジュールと離れて半月くらいだ。
なんだか密度の濃い毎日を送っている気がする。
恐怖の昼休み。明け方にあんな夢を見てしまったから余計に辛い。
シエラは今日も泣きながら巻貝の作った瓶詰を食べていた。上司のデスクの横にある応接セットに、スピカと向かい合って座っている。
保安官のアザレと同行しているスピカは、シエラが一人で食事をするのが嫌いだと知っているため、昼休みになるとできる限り事務所に戻って来てくれていた。彼女もシエラと同じ瓶詰を食べている。非常に美味しいらしい。しかも味が違うものが何種類かあるのだという。……シエラには全部同じに感じられるのだが。
そういえば、瓶の蓋の色は何種類かあった。自分の味覚の問題なのに、ものすごく損している気分になるのは何故だろうか。余計に泣けてくる。
「……なんであんなに色々瓶詰あったのに、いつもコレなんだろう」
巻貝のお店には本当にたくさんの種類の瓶詰が並んでいた。ワゴンに入っていたフルーツポンチだったら絶対美味しいと思うのに。
「あそこにあった瓶詰、お姉ちゃん食べても美味しく感じないよ。この世界の食べ物を心が拒絶してるから」
固いパンで瓶の中のスパイスカレーもどきをかき混ぜながらスピカがそう言った。
「見慣れてた食べ物が、全く違う味だったらショックが大きい。きっと、お姉ちゃんはもう何も食べられなくなってたんじゃないかな。……だから、気を使って何かよくわからないものにしてるんだと思んだよね」
そう言って、スピカが上司の方を振り返る。上司は書き物の手を止めて「さすがだねぇ」と笑った。シエラは言葉を失って茫然とスピカを見つめる。
「だって水は普通に飲めるでしょう? でもお茶はダメだよね。お姉ちゃんはね、お姉ちゃんが信頼している誰かが、お姉ちゃんのためにわざわざ用意したと認識している食事しか受け付けない。……だから、『晶洞の森』の統治者さんや『夜と洋灯の森』の統治者さんが用意した食事なら食べられる。自分の事を信じていないから自分で作ったものも食べられない」
スピカは額を指差して意味ありげに笑った。
「『晶洞の森』の統治者さんは、実は相当怖かったと思うんだよね。お姉ちゃんがこの先、人間の食べ物を一生口にできなくなる可能性もあったから」
シエラは思わず額を押さえる。心臓がバクバクと走り始めた。なんでスピカが夢の事を知っているのだろう。彼女はシエラが嫌がるのを知っているから絶対に心を読まないのに。
「……それ食べながら『揚げ出し豆腐と茄子の煮物が食べたい……』ってぶつぶつ言ってたけど無意識だったんだね」
スピカが苦笑した。
「和食の夢を見たんだよ」とシエラがため息をつくと、「恋人さんの夢を見たの間違いですねぇ」とわざわざ訂正してくれた。
「豆ごはんに揚げ出し豆腐、茶碗蒸しに茄子の煮物だったっけ。見事にお姉ちゃんの好きな物ばっかだったよねぇ。それで不味かったりしたらお姉ちゃん絶対立ち直れなかった。自信があるって感じでもなかったなぁ。すごく不安そうだったよねぇ。受け入れてもらえないかもしれないと分かってても、それでも用意してくれたんでしょ? 何でだろうね?」
「三倍速って言ったのに……」
恨みがましい目でスピカを見ると、いたずらっぽく笑って、彼女は肩を竦めた。
「三倍速でも、印象に残るシーンはあるでしょう? お姉ちゃんの記憶ってさ、元の世界の記憶の方が鮮明なんだよ。この世界に来たばかりの頃は本当にモノクロでノイズだらけで。見てて本当に胸が苦しくなったんだ。だけど、『晶洞の森』で豆ごはんを一口食べたあの瞬間からカラーに戻ってほっとした。心が大きく揺さぶられて世界が一瞬にして変わった。こうやって人間は恋に落ちるんだねぇ」
「……胃袋を掴まれた瞬間だよね」
シエラが頬を染めてふいっと横を向く。
「ノロケているようにしか聞こえませんねぇ」
「本当だねぇー」
スピカが上司と顔を見合わせて、にやにや笑っている。
「これすごくおいしいんだけどなぁ……。でもまぁしょうがないよね。特に今は意地になってるからね」
スピカはそう言って、食べ終わった瓶の蓋を閉めた。シエラも覚悟を決めて一気に食べ進めて、水でお腹に流し込む。本当に心の底から巻貝には申し訳なく思う。手を合わせて最大限の感謝の気持ちを込めて「ごちそうさまでした」と頭を下げた。
スピカとミモザと出会って早一週間が経過している。
巻貝は自分の店に戻ることができた。元人間のアザレは休暇中だ。
ミモザは『蛍石の森』でお世話になることになった。ああ見えて実はミモザも力のある魔物だから、沼への牽制にはなったのかもしれない。今、一時的に『蛍石の森』への侵攻は止まっている。
その間にカールの母親を見つけなければならないと思うのだが、シエラは本部待機を命じられてしまっていた。孔雀の件で、内部資料の流出が明るみに出たせいだ。この状況下で脆弱な人間の保安官が外をふらふらしているのは危険だと判断された。
カールの母親の探索は同じ西担当の保安官のサフィータが引き継いでくれている。電話で話した事はあるが直接に合った事はない。非常に色っぽいお声のお姉さまだ。彼女との電話はいつもダラダラと長電話になってしまう。
「洗って一緒にディーに返しておくよ。もう戻る?」
時計を確認して立ち上がったスピカにシエラは尋ねた。
「あんまり長い時間ひとりにしとくとアザレさんどっか行っちゃうんだよね。勝手に動かないようにはお願いしといたけど、じっとしていられないの。あっちのアザレさん本当に大変だったと思う……」
剣のアザレはスピカが一緒にいると便利だ便利だとご満悦らしい。便利ってどうなんだろうとは思うがスピカは気にしていない様子だ。
「南との境目で魔物が自己崩壊起こして野良が大量にばら撒かれたんだ。南は相変わらずのんびりしてて何の手も打たないから、しばらくアザレとスピカちゃんは忙しい……あ、誰か来たみたいだね。ちょっと見て来るよ」
「……その去り方すごく嫌なんですけど」
男性の声の上司が書き物をしていた手を止めて立ち上がると、そのままガラガラと引き戸を開けて廊下に出て行った。
「スピカ、自己崩壊って何?」
……便利便利と言っているアザレと大差ないな自分。と気付いたシエラは少し落ち込んだ。
「ものすごく簡単に言うと、魔物が『真名』を失った状態のことだね。字を大量に持ちすぎた時なんかに起きるんだよ。『真名』を失うと魔物は自分の姿を維持できない。持っていた字の数だけ魔獣や魔物がばら撒かれる。魔女黒蝶の体が蝶に変わったみたいにね。それが所謂、野良ってやつ」
シエラは黒蝶の体がすべて蝶に変わり、一斉に舞い上がった瞬間の事を思い出す。あんな風に魔獣がばら撒かれるとしたら、それはとても……
「……迷惑だね」
「滅茶苦茶迷惑なんだよね。それを駆除するのがアザレさんの仕事なんだよ。さて、それを踏まえて、あの時お姉ちゃんの恋人さんが言った『捕食』という言葉について考えてみましょう。それは宿題」
どうしてもそっちに話を持っていきたいようだ。「三倍速って言ったのに……」とシエラは気まずそうに呟く。とても大切にされていたということは痛い程理解したから、もうそろそろ本当にやめて欲しい。寂しくなってしまうから。
「遠距離恋愛は切ないねぇ……あ、そうそう、戻ってきたら大事な話があるんだ。じゃあ行ってくるね」
明るい笑顔でそう言って、スピカも事務所から出て行った。
「いや、その去り方もちょっとかなり嫌……」
後ろ姿を見送りながら思わず呟く。
「ねえ守り石の魔物、ふたりが二度と戻ってこないような気がするのは何故だろう……」
「現実逃避してないで仕事しろ」
ツナギの後ろポケットからそんな声が返って来た。
「つい先日までのあなたと上司に同じ言葉を返したい」
シエラは深くため息をついた。食べ終わった瓶を洗ってから、自分のデスクに戻る。
散乱する書類の横に小さなプラスチックの虫かごが置かれ、中に一匹の蝶が入っている。
まず、スピカが用意してくれたポラロイドカメラで、ちいさな虫かごに入っている蝶の写真を撮る。黄色の羽根に、三か所緑の目の模様が入った蝶だ。写真の余白に金属製のナンバーリングで数字を刻印する。ガシャンという音が響き渡る。写真を書類に貼る。同じ番号を書類にも打つ。虫かごの外から定規で蝶の大体の大きさを測る。
「あなたは百三十五番さんです。ご協力ありがとうございました」
シエラがそう告げると、蝶の翅にまるでナンバーリングで刻印したかのような数字が浮かび上がる。この百三十五番というのが『字』となるのだそうだ。これでしばらく蝶の姿で安定するらしい。
掃除ロッカーの隣の温室は二つに増えている。書類作成前の蝶が大量に入っている温室と、作成後の蝶が入っている温室である。百三十五番の蝶は、作成済みの温室に移動させる。
そして、まだ大量の蝶が飛んでいる隣の温室から蝶を一匹網ですくって……網ですくって……すくえない。
(なぜに逃げる……)
金魚をすくうような小さな網で温室の中の蝶を捕まえようとするが、じっと動かなかったくせに、網が近付くと逃げる。書類の作成はそこまで時間がかからないのだが、この蝶を一匹ずつすくう作業に時間を取られている。全体数を早く確認したいのに、蝶たちは非協力的なのだ。
「すみません協力して下さい。このままじゃ消えちゃうかもしれません。痛い事はしません。絶対に食べません。書類作るだけです信じて下さい。本当に食べませんから。元の姿に戻れるようにお手伝いしますから。ほら、あなたをずっと待ってる方がいるかもしれません。協力して下さいお願いします」
温室の中の蝶に話しかけながら、小さな網を延々と温室の中で動かす。五分ほどかき混ぜていると、底の方止まっていた茶色い蝶が一匹ふわりと浮かび上がり、仕方なさそうに網に入ってくれた。スープをかき混ぜるように行ったり来たりする網が鬱陶しかったのかもしれない。
「ありがとうございます」
安堵のあまり情けない声を出して、温室から網を取り出し、蝶にはちいさな虫かごの方に移動してもらう。そして写真を撮って……と、一連の作業が繰り返されるのだ。ナンバーリングの数字を繰り上げて、写真と書類に刻印する。
「あなたは百三十六番さんです。ご協力ありがとうございます」
翅に百三十六という数字が浮かび上がった蝶を、調査済みの温室に戻し終えた時だ。
「シエラ、本部襲撃されてるから退避! ディーが図書館で待ってるから合流して。守り石の魔物、シエラを図書館へ飛ばして事務所を封鎖! 食堂へ避難する」
引き戸がぶつかって大きな音を立てる。上司が切羽詰まった声で告げた途端目の前が真っ暗になった。
気付けばシエラは茫然と図書館に立っていた。図書館は円形の塔だ。吹き抜けになっていて、壁は全部書架になっている。
「シエラこっちだ!」
手を掴まれ引っ張られる。目の前にアオザイっぽい服を着た黒いネコ科の何かの背中がある。ディーは図書館のドアを蹴破るように開けた。訳も分からず扉が立ち並ぶ市松模様の廊下を走る。
何かが飛んでくる。何だろう矢みたいに見えるが気にしたら負けな気がする。ディーが片手で持っている剣ですべて弾き返している。柱の影に見えるのは青い軍服だ。アザレが着ていたのと同じ。
両端に並ぶ扉が次々と消えてただの白い壁に変わってゆく。息が切れる。だから人間は脆弱なのだ。ディーが足を止める。シエラは肩で息をしている。目の前に立ちはだかったのは、クロスボウを構えた男だった、綻びの目出つ青い軍服を着ている。
「ったく、内部抗争は他所でやれってんだよ」
平然とした顔でディーがぼやく。
「おまえたちは魔物ではないな。魔物はどこだ」
「職員は全員食堂だよ。行ってみればいいさ。脆弱な人間にはかなり厳しい場所だがな。先日同僚が新鮮な馬肉を大量に持って帰って来てくれたから、今は匂いがすごい。すぐに遠い世界に旅立てる」
その言葉を聞いた瞬間シエラは理解する。シエラが食堂に入れないからディーが迎えに来たのだと。
「ここにいるのは制約に縛られた魔物たちだ。人間に危害を加えることはできない。無抵抗な魔物を一方的に狩るのが青の騎士の仕事かねぇ。創立者の嘆く顔が目に浮かぶな」
「魔物は無抵抗な人間を踏みつぶす。一匹残らず狩らねばならない」
「そんな崇高な行動理念じゃないだろうが。合法的な殺戮を好むだけのおまえらなんざ、野良の魔獣以下だよ!」
ディーが獰猛に笑う。何人いる? 目の前にクロスボウを構えた青い服の男。その奥の柱の陰にクロスボウを構えた男が五人。シエラの背後には一人だ。彼は武器を持っていない。しかし、廊下を走っている間に、柱の陰に何人か青い軍服の男たちが潜んでいるのを見た。非常によろしくない状況だ。
「シエラ……悪いな。もうちょっと我慢しろよ」
「ごめんなさいディー。こうなったのって私のせいですよね。私が食堂に入れないから……」
間近で金属がぶつかり合う音がする。発射された矢をディーは易々と弾き返す。青い軍服の男性は顔を顰めてディーと距離を取った。
「そんな飛び道具じゃ、野良の魔獣一匹狩れないな。本物たちがどんな覚悟で剣を持ったのかも理解できんクズどもが。目障りなんだよ」
いやいや、そこで煽るのってどうだろうなとシエラは思った瞬間、視界からディーの背中が消える。次の瞬間には青い軍服の男が殴り飛ばされていた。クロスボウが床に転がる。剣どこ行った? と、思ったら宙から落ちて来た。その柄をディーは片手で受け止める。背中から怒気が噴き出しているように見えた。
「確かに森保の魔物は、基本人間に対して無抵抗だがな、守衛の俺は魔物じゃないんでその制約は受けない。次はどいつだ?」
(守衛さんなんだ)
守衛ならば毎日本部にいる訳だ。やはり事務員ではなかった。
「因みに、俺の後ろの可愛らしいお嬢さんには手を出さない方がいい。……強力な守りの魔法がかかってる」
威嚇のようにシエラに向かって飛んできた長い矢は、突風に跳ね返されて、元の方角へ戻って行った。硬質な音がしたのは壁にでもぶつかったせいだろう。シエラは蒼白な顔になる。
(矢一本くらいどうってことないなと思った私って、人間としてどうなんだ……)
一本なら大丈夫だなとか思った自分が怖い。寒気がして思わず両腕をさする。跳ね返った矢が誰かに刺さる可能性もあったのに、そこまで気が回らなかった。危機感も感じない訳ではないが、冷静に周囲を観察する余裕はある。先日あまりに非現実な目に遭ったからだ。
シエラの肩を押してそっと壁に凭れかからせると、ディーが走り出す。目で追うと見なくてもいいものを見ることになる気がするので、汚れひとつない真っ白な壁を見つめる。
……足が震える。その震えが全身にうつってゆきそうになるから、自分の体を抱きしめる。
シエラは魔物や魔女がどういった存在か知っている。だからこそ人間の脆弱さを身をもって知っていた。ディーのことは何も心配いらない。森保の職員は基本的にシエラよりずっと強い。
ただ、ディーはシエラのせいで……剣を使えない。相手は脆弱な人間だ。傷つければ血が流れる。ディーはそれをシエラに見せたくないと思っている。確実にシエラは彼の足を引っ張っている。もしここに守衛のディーが一人なら、容易く彼等を片付けることができる筈だ。
どうしてあの青い軍服を着た人間たちは、森林保安協会に襲撃などかけたのだろう。ディーの言った通り魔物たちは人間に無抵抗かもしれない。でも、ここには魔物以外の職員もいるのだ。
視線を感じてふと横を見る。眉間に深い深い皺を寄せた青年がじーっと怯えるシエラを見ていた。悪意も敵意も感じられないが、あまりに無表情すぎて相手が何を考えているのか全くわからない。
青年がふっと目を上げて、手から何かを投げた。目の前を飛んで行くそれを、何気なく……本当に何気なく目で追ってしまう。視線の先でくぐもった悲鳴が上がる。
「シエラ見るなっ」
振り返ってディーが叫ぶ。見てはいけない。わかっているのに目が引き付けられる。青い軍服の肩に何かが刺さっている。そこから茶色い染みが広がってゆく。自分の喉から何か塊が吐き出される。その途端、誰かの手がシエラの目を塞いだ。視界は真っ暗だ。
「ジオード、血が……人が……ナイフが……」
『あんたは何も見てない』
それを遮るように強く否定される。何も見ていない? 本当に?
「あんなに血が出たら……人は……にんげんは……」
『何も見てない。一度眠れ。色々ありすぎて心が疲弊してる。これ以上は負担が大きすぎる』
足から力が抜けてしまう。宙に放り出されたような感覚と共に、意識が急速に闇に飲み込まれそうになった途端、
「てめぇら、ふざけんじゃねぇ!」
怒声が響き渡り、シエラの意識は現実に引き戻された。剣の方のアザレの声だ。誰かが目を塞いでいるせいで何も見えないが……何やら聞いてはいけない音がし始めた気がする。
「え……いや、アザレさんちょっと待って。死人出るからやめて。……え? 制約は? ねえ制約は?」
焦ったようなスピカの声が近付いてくる。
「いや、アザレ待て。キレるな。おまえちょっと待て。寿命が減るっ」
「さすがに命までは取らねぇけどな、てめぇらぶっ飛ばせるなら、寿命の百年や二百年くらい捨ててやる。スピカはシエラの側で座ってろ。絶対に手ぇ出すなよ」
ものすごくガラの悪い方が叫んでいる。
「いやいやいやいやいやいや、待って、それくらいじゃ済まないからっ」
「本当にやめとけっ、なんでおまえはいつもそうなんだよっ。おまえに殴り飛ばされたら、人間はちょっと……あれなんだよあれ」
多分ディーはシエラに配慮した。あれってなんだ。
「とにかく止まれ。今すぐ止まれ。今ならまだ大丈夫だ。落ち着け。クロスボウだけにしとけクロスボウだけーっ」
「アザレさんストーップ! 威嚇までにして。殴るのはやめてっ。相手は人間だーかーらっ」
スピカとディーが必死に懇願する声が響き渡る。悲鳴と怒声も響き渡る。建物の解体をしているような、重いものが崩れ落ちる音がしている。……大丈夫なのだろうか。
「アザレ、やめろ。その柱破壊するな。天井がっ、天井が崩れ落ちる」
自分の周囲でも守りの魔法が何やら色々吹き飛ばしている気配はする。何となく矢ではない気がする。パラパラと細かい石が固い物に当たっているような音。砂埃の匂い。
「……相変わらずおバカだな」
ぼそりと耳元で知らない声が呟いた。何の感情もこもっていない声だ。それで気付いた。シエラは隣に座る誰かの肩に凭れかかるようにして床に座っていた。後頭部から腕を回してその人は片手でシエラの目を塞いでいる。大きな手だ。
「アザレっ! あんたそれ以上やるなら廊下の修繕費給料から差っ引くわよ。来月の給料ゼロよゼローっ」
次に廊下に響き渡ったのは女性版上司の声だった。その途端に静寂が舞い降りた。あちこちからうめき声のようなものが聞こえていた。
地図を頼りに歩く。剣のアザレと離れて一人で旅をするのは随分久しぶりだ。いや、一人と一匹か。白い蝶は襟にくっついてついて来てしまったから。
ローブを着ているから人目を気にする必要もない。自分の速度で気ままに歩く。
故郷の森は砂漠が広がっている。この領域の管理者はこのまま何もかもを砂に埋めてゆくつもりなのかもしれない。そしてここはしばらく眠りにつくのかもしれない。
そんな風に考えてしまうのは、もう長い間森林保安協会に所属しているからだろう。ここの住人だったら、絶対に天を恨む。
砂埃のせいだろうか。それとも緑が少ないせいなのか。何もかもが白っぽく見える。
この辺りかと目星を付けて、カードに火をつける。赤い煙がふわりと立ち上った。
不思議な匂いがする。甘くて悲しくて寂しい。焦燥感に駆られるような、胸をざわめかせる匂いだ。
不意に昔のことを思い出す。荷車を引いて露天商として旅をしていた頃のことを。
砂に埋もれた石の街は、記憶の中の風景と何もかもが違う。
それでも、懐かしい言葉。懐かしい服。懐かしい顔立ちの人々……
手の中のカードは一瞬にして燃え尽きる。風に逆らうように赤い煙は進み始める。その後を追うように歩く。
干上がった川にかかる石の橋の上には、露店が立ち並び人々が行き交っている。
煙が露店の前でふっと掻き消える。店番をしているのは老人だ。地面に並べられたのは欠けた食器や、壊れたネックレス、片方だけのイヤリング。表紙の取れかけた本、ボロボロのノート。
「全部とても古いものだ。歴史的価値がある」
足を止めると、老人が厳かな声でそう言った。確かにそうだろう。自分が人として生きていた時代のものだ。懐かしさに息が詰まった。
目の前を白い蝶が舞う。蝶はひきつけられたようにボロボロのノートの表紙に止まった。
「ではこれを」
躊躇いなく銀貨を数枚支払って、夢の中を歩くようなふわふわとした現実味のない世界を歩く。
干上がった川におりて橋脚に凭れて座りながら、今にもバラバラになってしまいそうなノートをそっと捲る。切り抜き帳のようだ。料理のレシピが貼ってある。雑誌から切り取ったものや、広告のようなもの。あとは走り書きやメモ……
ゆっくりと捲ってゆくと、そこだけ時間が止まっているような不自然なページがあった。
茶色い油染みができている三枚のメモには柔らかく可愛らしい文字が残っている。人間だった頃にはわからなかったことが、今はわかる。指先が古い古い魔法の気配を感じる。メモに触れる爪先に白いちいさな蝶が止まる。
消えないように、なくならないように……いつか見つけてもらえますように。
『野菜と鶏肉の煮込み』……二グロス分。
『ルールーのための豆のサラダ』
『セラスのためのキノコペースト』
そうタイトルがつけられた三枚のレシピだ。材料と簡単な作り方が書いてある。
震える指先が文字をなぞる。
「だからさ……キノコはキライなんだよ……」
視界が滲む。頬にあたたかいものが流れ落ちる。泣いたのなんていつ以来だろう。自分が泣くことが出来るなんてことさえも忘れていた。
空っぽの記憶。
空っぽの心。
それでも幽霊のように彷徨い続ける。
魔物に魂を売って、かつての自分とは全く別のものになってしまっても。
あのひとは許してくれるだろうか……全く別のものに変わってしまった自分を。
「探しに行かないと……待っているから」
掠れた声で呟いて、空を仰ぐ。どれだけ時間が流れても、その色は変わらない。
「あのひとはさみしがり屋だからね、ルールー」
蝶がふわりと舞い上がる。パサリと羽音がして、青い空に白い羽が舞い上がる。
人間だった頃に暮らした世界が砂の中に埋もれてゆく。
それでもこのメモはきっと消えずに残っただろう。……それが彼女の願いだから。
――昔、誰かと約束をした。
この足が動く限り、この命がある限り、どこにいても必ず会いに行くと。




