13 シエラと古い約束 その3
すみません。長くなりすぎたので分割します……
『ミモザが巻貝から記憶を奪ったせいで、巻貝は砂時計になってしまった』
そうスピカから聞いていた。
その具体的な方法などは知らなかった。あの魔物の記憶を覗くまでは。
今はわかる。ミモザが巻貝に何をしたのか。どうやってその記憶を奪ったのか。
……ゲームをしよう。魔女さん。
力ある魔物や魔女なら、目を覗き込めば相手の正体がわかるとスピカは言っていた。だから、本来ならこのゲームの勝敗は一瞬でつくのだろう。
でも、もし、わからなかったら? ゲームの参加者は当てずっぽうで答えを言いながら、正解を探してゆくことになる。不正解の度に記憶を奪われる。忘れてゆくことは……忘れられてゆくことだ。
記憶が完全になくなるまでこのゲームが続くのだとしたら。
答えを言う度に自分が誰かに忘れ去られるのだとわかっていて、それでも答えないといけないのだとしたら。それはどれ程の恐怖だろう。
どんどん記憶を奪われて、何もかも忘れて誰からも忘れられて……
――最後に残るのは目の前で笑う魔物。
気に入った獲物を見つけては、魔物はゲームを持ち掛ける。
お気に入りの玩具を独り占めするかのように。
アザレは剣を床におろし、店の壁に凭れて腕組みをしている。その隣でシエラが膝を抱えて体育座りをしていた。反省していますという意思表示だ。
シエラがうっかり魔物の記憶を覗いて、スピカとアザレが水だバケツだなんだとバタバタ走り回ったため、泣いているばかりではっきりしていなかった巻貝の意識が現実に戻って来たのだそうだ。もう少し落ち着くのを待って、アザレが一緒に本部に連れて行くことになった。
記憶はまだ曖昧のようだ。本人も自分が何を忘れているのかわからないから、この店に一人で置いておくわけにもいかない。
「ミモザは……あのイカサマゲームを続けていって、巻貝さんからどんどん記憶を奪っていったんだね」
あのゲームでは、巻貝が誰かの事を忘れると、相手も巻貝さんのことを忘れるようになっている。自分が忘れると相手も忘れる。魔物や魔女は記憶がないと存在できない。ゲームを続けていけば、巻貝は最終的に誰からも忘れられて消えてしまう筈だった。黒蝶の記憶にすら残らなかった。
一体何故そこまでする必要があったのだろうか……
ワゴンの前に立っているスピカが、白ブドウの入った瓶詰を持ち上げて光に透かした。次はオレンジの瓶詰、その次はパイナップルの瓶詰。スピカは次々持ち上げてはまた元の場所に戻すことを繰り返している。
「……あ、これきれい」
そう言ってスピカが持ち上げたのはフルーツポンチの瓶詰だ。イチゴにオレンジ、ブドウにパイナップル。色とりどりの果物がシロップの中に沈んでいる。目にも鮮やかで美味しそうだ。それをワゴンに戻すと、今度はショーケースの前に移動する。しゃがみ込んで、中の瓶詰を眺めている。こちらにはお惣菜の瓶詰が並んでいた。ハーブと一緒に瓶に入れられた肉や魚。スープにシチューにピクルス。ゆで卵の瓶詰まである。
「その瓶の中には、それを作った時の巻貝さんの記憶が閉じ込められてるんだね」
シエラが呟くと、スピカが「そういうことになるんだろうね」と頷いた。
「……私が見えた魔物の記憶はほんの少し」
その言葉にスピカがびくっと肩を震わせて振り返る。同時にアザレの視線がこちらに向くのを感じる。ふたりとも……とても怒っている。今日初対面の相手をここまで怒らせる自分ってどうなんだろうとシエラは項垂れた。
「ごめんなさい……もう絶対しません」
「もう怒ってないから」
スピカがため息と共に言った。
「……呆れてるだけだ」
頭の上から低い声が降って来た。
まだ怒ってるじゃないかとシエラは心の中で呟く。でも、ここで怯んでいては話が進まない。
「……巻貝さんと、アザレさんの恋人さんは共通点が多かったんです。彼女も人間の中で生きてる魔女で、保存食を売る店をやってた。……だから、ミモザ……というかあの魔物は、巻貝さんから記憶を奪いながら、彼女のことを思い出したんだと思います。ミモザが姿を変えた魔物だけが、シャツの裾をズボンから出してた。それはきっと、その時の記憶に引きずられたから。あの魔物は巻貝さんにアザレさんの恋人を重ねて見ていた。だから、私には巻貝さんではなくて、彼女が見えた。私が掴んだのは彼女の手だったんだと思う」
スピカは人間は記憶を捏造すると言っていたけれど……すれ違った時にちらっと見えたのは金の髪だった気がしてならない。
「……ちょっと待て。シエラ、おまえ見たんだよな。それで、掴んだのか?」
アザレが突然大声を上げた。驚いてシエラはアザレを見上げて小さく頷く。
「お姉ちゃん掴んだの? 間違いなく?」
駆け寄て来たスピカがシエラの前でしゃがみ込んで、再び肩をがしっと掴む。目が怖いくらいに真剣だった。
「うん掴んだ。それで、えっと金色の髪の毛を見た……気がする。でも消えちゃった……」
アザレが壁から背中を外すと、焦った顔で店内を見回しながら歩き始める。
「どれだ何だわからんぞおいっ」
「目線高さからするとやっぱり瓶詰? えっと、どれっ」
スピカはシエラの肩から手を離すと、キッチンに繋がるドアの前まで走り、その場で立ったり座ったりしてアザレと同じように店内を見回している。
「不自然に落ちてるものとかないのか」
「ないんだよね。ちょっと……どうしよう。さっき魔法使っちゃったから、気配が消えてる。お姉ちゃんもうちょっと早く気付いてよっ。魔物の記憶覗いてうっかりさよならしようとしてる場合じゃない」
また怒られた。でも理由がわからない。きょとんとしているシエラを無視して、スピカとアザレは慌ただしく店内を動き回っている。何かを探しているようだ。
「……そうだ、アナベルだ! シエラが出た後この店入ってる」
アザレがまるで天啓を得たかのように、勢いよくスピカを振り返った。
「そっか、不自然なものが落ちてたら気付くよね。ちょっと待って、今聞いて来るからっ」
「ねぇ、スピカどうし……」
遠慮がちにシエラが尋ねると、ああもうっと癇癪を起したようにスピカが叫んだ。
「巻貝さんと同じ。ものすごく不安定なの。壊れたらもう取り返しがつかないのっ」
「……へ?」
「水族館の時と同じっ。クラゲだよっ」
そう言い捨てて、スピカの姿はキッチンに消える。その後をアザレが追ってゆく。キッチンの方からアザレとスピカが何やら大声で捲し立てている声が聞こえる。
はて、と完全に置いて行かれているシエラは体育座りのまま首を傾げた。
スピカは水族館の時と同じと言った。クラゲの水槽の前で、水面に逆さまに映っているジオードを見つけて……手を伸ばして……
(見つけて、手を伸ばして?)
「ん?」
手を伸ばしたらジオードに引っ張られた。
「ああ、そういうことなのねぇ……」
のんびりとした声がして、アナベルがキッチンから店にやってくると、ショーケースを開けて、ピクルスの瓶詰を会計用のテーブルの上に置いた。ニンジンにキュウリに、白いのは大根だろうか、それとも蕪?
「一緒にしなくて良かったわ。ひとつだけ床に落ちていたの。割れてるかと思って後ろの方に分けておいたのよ」
アナベルの後ろを追いかけて来たスピカが、へなへなとその場に座り込む。アザレも気が抜けたように壁に凭れてそのままずるずると座り込んだ。籐の籠を持って来た巻貝が、柔らかそうな布でピクルスの瓶を大切そうに包んで、籠の中に入れる。
「これで大丈夫です……」
魂が抜けたようになっているアザレとスピカを見て、泣き腫らした目をした巻貝はおろおろしている。次から次へと大騒動が巻き起こったためゆっくり泣いてもいられないようだった。……非常に申し訳ない。
「……とりあえず、一度ここにいる全員で本部に戻るぞ。子供たちは後で迎えに行く」
最後にキッチンから出て来た守り石の魔物の言葉に、全員がばらばらに頷いた。一番の被害者だった巻貝が店の窓をしめて戸締りをしている間、シエラとスピカとアザレは、籠に入ったピクルスの瓶を茫然と眺めていた。
「……どうやって元に戻すんだよ、あれ」
アザレが誰に言うともなく呟いた。
西担当の事務所に戻るや否や、アザレとアナベルと巻貝は医療棟へ移動し、スピカは口元に満面笑みを浮かべた上司によってどこかに連れて行かれてしまった。そして、三十分くらいで戻って来ると、
「採用だって。じゃ、ミモザとカール君迎えに行ってくる」
シャワールーム前に置かれた洗濯機にタオルを放り込んでいたシエラは、頭の上で手を彷徨わせたまま、茫然とした。
「行ってくるねー」
スピカはそのまま大剣を軽々片手に持って去って行った。剣のアザレの意識があると、ほとんど重さを感じないのかもしれない。きっと、ノジュールと同じなのだろう。事務所に戻って来ると、どうしてもノジュールの事を思い出してしまう。いないとわかっているのに、頭の上に手をやってしまうのだ。
「スピカちゃんはアルバイトとして即日採用されました。しばらくアザレのお世話係です。面倒みてくれる人がもうひとり見つかって良かったわー」
扉の前までスピカを見送ったシエラに、上司がそう説明した。
保安官のアザレはあの通り剣なので一人で行動させる訳にはいかない。必ず同行者が必要となる。人間のアザレが同行できない場合、別の者が付き添うことになるのだが、それが難しいのだと上司は言った。
「アザレは結構好き嫌いが激しいのよ。……スピカちゃんはものすごく気に入られたみたいねぇ」
事務所に戻ってきたら上司は女性になっていた。きっと男性の時と『字』が違うのだ。どちらにしても上司は上司だからあまり関係ないのだけれど。
シエラは「そうですか……」と呟いて、洗濯機の前に戻って蓋を閉めた。展開が早すぎてついてゆけない。
洗濯機が止まるのを待つ間、ひたすら報告書を書く。元人間のアザレが意識を失っているため、報告書を作成できるのはシエラだけだ。剣はペンが持てない。
何が起こっているのかさっぱりわからない人間が作成した報告書は、あらすじを書き連ねた読書感想文のようなものになってしまった。本当に何もわからないので、目の前で起きたことを箇条書きにはしておいた。
洗濯物を干していると電話が鳴った。慌てて自分の机まで戻ろうとするが、いきなり出現した豪華な虫かごに行く手を阻まれてしまう。枝のような支柱に阻まれ身動きが取れない。
廃墟の中にあった時は退廃的な雰囲気にぴったり合っていたアンティーク風の虫かごは、職員室には馴染まなかった。そして外で見るよりずっと巨大だった。
「あーうん。子供たち寝ちゃったのね。ふたりも今夜はそっちでお世話になるのね」
上司が取った電話はスピカからだった。カールもミモザも配偶者の少年も遊び疲れて眠ってしまっているため、アザレとスピカもこのまま『硝子と忘却の森』で一泊するという連絡だった。
受話器を持ったまま上司が指を振ると、荘厳な虫かごはプラスチックの温室に変わり、掃除ロッカーの隣に鎮座した。中には夥しい数の蝶が飛んでいる。
受話器を置いた途端に再び電話が鳴る。今度は内線電話の音だ。短いやり取りの後「わかりました」と上司は丁寧に受話器を置いた。そのまま振り返って、黒板の上にかけられているアナログ時計を見上げる。
「シエラは帰る準備して待機ね。五分後にディーが迎えに来る。一緒に『夜と洋灯の森』に向かって頂戴。お届け物があるのよ。シエラ一人じゃ持ちきれないから荷物持ちとしてディーが同行する。……アザレと巻貝さんは医療棟で預かることになったわ。アザレは眠りっぱなし」
上司は頬杖をついてちらっと窓の外に目をやった。夕暮れ時だ。大きな窓からは赤と紺が交じり合った空しか見えない。窓は鏡のように蛍光灯がついた事務所内を映している。
「巻貝さんは日が暮れ始めたら急に怖くなってしまったみたいなのよ。今もアナベルが付き添ってる」
シエラたちが大騒ぎしていたせいで、それに巻き込まれるような形で魔女巻貝は自我を取り戻した。確認の意味も兼ねてアナベルが色々質問をしたが、すべて問題なくすらすらと答えられていた。そのことに一番安堵したのは巻貝自身だったろう。
『門』へと向かうために外に出ると、巻貝は率先して道案内を申し出てくれた。すれ違う村人たちに声をかけられると相手の名前を呼んで笑顔で返事を返す。真っ赤な目は、玉ねぎが染みたせいなのだと笑って誤魔化していた。
店のキッチンに残っていた記憶をかき集めたため、店を開いてからの記憶はしっかりしているのだ。「でも、過去に関しては、何を忘れているのか自分でもわからないんです」と、落ち着いた様子で言っていたのだが…
「毎晩夢に魔物が出て来て記憶を取られてたんじゃ、無理もないわね」
上司の言葉にシエラは胸が苦しくなった。ミモザにあんなことをさせた魔女がどうしても許せない。
「どうして黒蝶は、巻貝さんにあそこまでのことしたんでしょうか……」
「……黒蝶は目を隠していたのよね。もしかしたらそれは、罪人の烙印を隠すためかもしれないわ」
「罪人、ですか?」
「魔女には犯してはならない禁忌がいくつかある。でもそれは秘匿されているから、私たちには知りようがない。……彼女が本当に消し去りたかったのは、何だったのかしらね」
上司の言葉にシエラはふと黒いレースを思い出す。あれを見た途端、蝶は瓶の中で暴れ出した。取り返したいのではなくて、もしかしたら……
(……見たくなかったのかもしれない)
重苦しい気持ちを抱えながら、シエラはデスクの上を片付けて、温室の中の蝶をぼんやり眺める。これだけの数の魔物を使い捨てながら、黒蝶は自分の過去を消していったのだ。
過去を全部捨て去って新しい自分に生まれ変わろうとしたかのようにも感じられる。
(……やめよう)
考えたってどうせわからない。上司でもわからないことがシエラにわかる筈もない。
そうだ、ノジュールがこの温室を見たら喜ぶかなと、無理矢理そんな風に考えて意識を逸らす。ガラガラと扉が開いてディーが顔を覗かせた。
「シエラ行けるか?」
ディーが手に持っていた籠の中には、黒い蝶が入ったガラス瓶と、宝石箱が入っていた。
「『夜と洋灯の森』の魔女も今回の件には関わっているから話を聞きに行く必要があるのよ。何も話してくれないことはわかり切ってるんだけどね……。万が一のことがあるかもしれないから、運ぶのは魔物じゃない方が良いだろうって事でディーになりました」
「魔物だとあの妙な名前を押し付けられるかもしれないからですね」
「そういうことね。どうせすぐに終わるわ。シエラはディーに立ち会わなくていいから、さっさと今日は寝なさい。魔物丸呑みしたならお腹は空いてないわよね」
「……やっぱりそういう話なんですね」
シエラはげんなりした顔になった。胃の中のものを全部吐いたのに、全くお腹が空かない。
「その瓶も持って行きなさいね。それはシエラの私物という扱いにしておいて。あなたが個人的に頼むのなら『夜と洋灯の魔女』はきっと手を貸してくれるわ。今日は本当にお疲れさま。よくがんばりましたの花丸」
「なんですかそれは。でもありがとうございます。お先に失礼します」
ちょっとだけ笑って立ち上がると、シエラはディーの待つ廊下に出た。
市松模様の床に白い壁。果てしなく続く正方形の窓と、プレートが下がったドアの列。
「扉の魔物、対価を払うので宿泊棟の『夜と洋灯の森』へ繋いで下さい」
ずらりと並ぶ扉の前で、シエラはそう言って銅貨を六枚放り投げる。
「シエラっ、だからそれ対価として多すぎる」
ディーの情けない声が廊下に響き渡った。ネコ科の何かである彼の漆黒の毛並は今日も艶やかだ。
「人数は関係ないんだよ。ああっ」
空中で銅貨は消えて。目の前のドアが水面のように大きく揺れる。「まぁ銀貨四枚よりはマシか……」ディーは扉を見つめながら諦めたように言った。吹き替え映画のようだった口の動きと言葉のズレは解消されている。
「ディー、私、今気付いたんですけど……」
シエラが首を傾げると、ディーは胡乱気な目でシエラを見た。
「……扉の魔物って前払いですよね? 何でですか?」
確か、魔物は願いを叶えてからしか対価を受け取れないと言っていたのに、扉の魔物は前払いだ。これはどういうことなのだろう。「はあ?」っとばかりにディーは金色の目を細めた。
「……あのな、今言ってるのはそこじゃないよな。いいか、全員が同じ場所に行くなら対価は基本銅貨二枚だ。もう本当に頼むから金銭感覚身に付けろっ」
なんか今日は怒られてばっかりな気がする。しかも質問に答えてもらえなかった。シエラがしゅんとしていると、ディーが大仰にため息をつく。
「前払いなのは、警備の関係だ。投げたコインは一旦別の場所に保管される。扉の魔物が受け取れるのは俺たちがドアを潜った後。だから実際は後払い」
「……へー、あー、ありがとうございます」
わかったようなわからないような気持で、ディーにお礼を言うと、シエラは目の前のドアをノックする。
「お入り」
ドアの中からアーラの声がする。その声を聞いた途端に安心したのか、一気に疲労感が全身に圧し掛かって来た。
襟足がスース―する。シエラは首の後ろに手をやった。ショートボブにしたのは久しぶりだ。寝癖で毛先がはねている。
ドアを開けると、病院を彷彿とさせる白い部屋に繋がっていた。色のない部屋に白いベッドが置かれているだけ。窓からは空しか見えない。
――医療棟。
シエラもずっとお世話になっていた場所。……空を見上げながら毎日ここでずっと泣いていた。
「シエラちゃん……随分思い切ってばっさり切ったね」
ベッドの上できちんと体を起こして出迎えてくれたアザレは、シエラを見て驚いた顔になった。言葉使いが乱れる程衝撃的だったらしい。
丸坊主は回避されたから、別にいいけど。髪も随分傷んでいたし、別にいいんだけど……
「……似合っているよ。少し幼く見えるね」
穏やかに笑うアザレはやっぱり大人の男の人だ。こちらが赤面してしまうようなことをさらりと言ってくれる。
入院患者であるアザレが着ているのは、シエラにも馴染のあるゆったりとした白い服だ。
「……対価に支払ったの?」
「まぁそんな感じです。髪はほっといてもまた伸びるからいいんですよ。有益な情報も得られましたしね。それより、アザレさんは大丈夫ですか?」
アザレは申し訳なさそうな顔でひとつ頷いた。胸元に目が引き寄せられる。アザレがペンダントのように首から下げているのは砂時計だった。砂が入っていない空っぽの砂時計。
白い小さな蝶がガラスの部分に止まっていた。
「……それって」
「私が探している人の手がかりみたいなもの……なんだと思う。魔物に取られてしまったことは覚えているのだけどね、その他のことは何も覚えていないんだよ。ずっと探しているけれどまだ見つけられない」
アザレは微笑んでいるのに奇妙な違和感がある。まるでその表情に無理やり固定されているような……
「……私は本体の方のアザレによって感情の揺れを抑えられている。そうでなければもう正気を保っていられない。人間の心には耐えきれないくらい長い時間を生きてしまったからね。アザレでいる時は大丈夫なんだけど、素の自分に戻るとどうもうまくいかない」
『時間を止めるために呪いの剣に魂を売り渡したの』
アザレはそう言っていた。シエラは革ひもで結ばれた砂時計をじっと見る。とても古いものだ。きっと、気が遠くなるくらいの長い時間をこの人は……
「今は剣の方のアザレが私の精神を支配しているから冷静でいられるのだけれど、正直自分でも今自分がどういう精神状態なのかわからないんだ。アザレは魔物だから人間の気持ちは理解できないし、私も人間の寿命よりはるかに長い時間生きてしまったから、もう自分の感覚が人間のものか自信がない。自分の心が一番信じられない」
アザレはシエラをまっすぐに見て、とても苦しそうな顔をした。
「私は、人間だった頃の自分と全然違うものになってしまった」
苦い物を飲み込み続けるような顔をして、アザレは言葉を続ける。
「もう彼女の顔も名前も思い出せない。彼女と過ごした時間の何倍もの年月が通り過ぎて行った筈だ。人間である事をやめた自分の選択は正しかったのだろうかって、そんな風に考えると気が狂いそうになるんだよ」
シエラは大きく目を見開く。何年後かの自分がそこにいる気がして、自分でもそうする意味がわからないまま何度も首を横に振る。
「……霧の中で、シエラちゃんの叫び声が聞こえた時にね。自分と重なることが多くて驚いた。私も大昔にアザレに同じことを言ったんだ。『おまえに何がわかる。願いを叶えられる筈なんてない』ってね」
霧の中で姿を変えられたミモザに対して叫んでいた時のことだろう。今その時の記憶は、それこそ霧がかかったかのようにはっきりしない。忘れてろとジオードが言ったからきっと、指輪の力で忘れさせられている。
「……違ったらごめん。その髪、私のために?」
「そうです」
嘘をついても仕方がないのでシエラは頷くと、つなぎの胸ポケットから赤いカードを取り出した。シエラの血と髪で作られた赤いカードが五枚。奇しくもアザレの髪の色とよく似ている。
ピクルスの瓶は、アーラの所で保管してもらっている。
……そのことは、彼にはまだ言えない。
「この地図に書かれた場所にアザレさんの探している方の手がかりがあるのだそうです。五か所です。近くに行ったらこのカードを燃やして下さい。赤い煙が導いてくれるはずです。それは、アザレさんにしか見つけられないって『夜と洋灯の森』の魔女は言っていました。……見つけたものはそのままの形ですべて持ち帰って来て下さい。それが次の手がかりになるから」
「……シエラちゃん、何を対価に支払ったのか聞いても?」
アザレの表情が厳しいものになる。
「私の個人的な願いだったので、対価はそれ程高くはありませんよ。人間の私が払える程度です。血と、足りない分は髪を。さっき言ってくれた似合ってるって言葉は嘘じゃないですよね? 次はアザレさんが払うことになる。丸坊主になるくらいの覚悟はしておいて下さい」
心配かけまいとして茶化してみるが、アザレはさらに苦し気な表情になってしまう。シエラは早口で後を続けた。
「剣のアザレさんの方にはしばらくスピカが同行するので大丈夫です。通行証はこちらに。しばらくは休暇扱いになります……受け取っていただけますか?」
「……ありがとうシエラちゃん」
白い通行証と赤い五枚のカードを受け取ってくれたその手が、小刻みに震えていることには気付かないふりをした。
すべての感情を押し殺して無理矢理微笑むアザレを見て、やっぱりこの人は大人なんだなとシエラは思う。
(私だったら、このカードを受け取れるだろうか……)
自分の感情を押し付けているという自覚はある。アザレの気持ちも考えずに勝手に行動した。激怒されても文句は言えないようなことをシエラはしているのだ。
小さく息をついて、窓の外の空に視線を移す。
「……霧の中で叫びながら、私も思ったんです。『私は全然違うものになってしまった』って」
ここにいた頃は、まだ葉月だった。あれからどれくらいの時間が流れたのかはわからない。
「もしあの魔物が本当に願いを叶えられたとして、何の迷いもなく家族の元に帰れるだろうか。今しかないと言われたら……全部捨てられるだろうかって。迷う自分が許せない気持ちもあるんです。……でもやっぱり迷う。怖いから」
元の世界は自分を受け入れてくれるだろうか。すべては元通りになるのだろうか。
ジオードやノジュールに何も言わないで帰れるの? すべてを中途半端に投げ出して、カールのお母さんのこともそのままにして、何も言わずに帰っていいの? きっともう二度と会えないのに……
シエラは右手で顔半分を覆いながら、曖昧な笑顔を浮かべる。怖くて左手の指輪を見ることが出来ない。
「願いが叶う日の事を考えようとすると、心がどこかに逃げる。考えることを拒否する……その時にならないとわからないんだから、その時に考えれば良いって。でもそれを許せないと思う自分もいる。きっと時間が経てば経つほど怖くなる」
ほら、たとえ話でもこんなに苦しい。
これがこの世界に来た直後だったら、この白い部屋で泣いていた頃ならば、何の迷いもなく帰った。今でも、心が壊れそうなくらい苦しい時や辛い目に遭った時には絶対に、心の底から帰りたいと思うに違いない。
でも、この先過ごした時間の長さが逆転した時は……どうなるのだろう。
自分でも支離滅裂な事を言っていると自覚している。ただ、心に浮かんだ言葉を並べているだけだ。シエラは瞳を揺らして、自分の腕をぎゅっと握る。
アザレも今、同じ気持ちを抱えているのだろうか。アザレも怖いのだろうか。
「受け入れてもらえなかったらどうしよう。こんな姿になった自分を許してもらえるのだろうか。だって私は……あの頃の自分とは全然違うものになってしまった」
目を閉じて深呼吸をひとつ。
ぐっとお腹の底に力を入れて、シエラは目を開ける。
この部屋を出ると決めた日のように。
「元気だよ。泣いてないよって伝えなきゃいけないって思ったんです。その方法を探すために、ここを出た。その結果、私は全然違うものになってしまったけれど、まだ後悔はしていません」
――元気だよ。泣いてないよ。
何とかしてそれを伝えないといけない。ある日、不意にそう思った。その想いが日に日に強くなっていった。何としてもその方法を探さなければならないと思った。
どんなに食事が口に合わなくてもお腹は空く。体は生き続けようとしている。
泣いていても時間は容赦なく流れ続ける。葉月だった頃はどんどん遠ざかる。
それでも――
「会った瞬間には、今ぐちゃぐちゃ思っていたことなんて全部吹き飛ぶんだろううなって思うんです。……でも、私の気持ちを無理矢理アザレさんに押し付けているって、本当はわかってるんです」
ちゃんと笑えているだろうか。自分の顔は自分では見えないからわからない。涙でもうアザレの顔が見えない。
「…………ごめん。こんな姿を見せるなんて、大人としては失格だね」
それは、小さな子供を慰めようとするような優しい声だった。シエラは目を擦りながら、首を横に振った。
いつか……いつか遠い未来で、この白い部屋でアザレと交わした会話を思い出すのだろうと思った。その時自分は、もう人間だったころの自分を思い出せないのだと泣いている……
そう思ったら怖くてたまらなくなった。
「待っていて、取り戻すから。このままだと、大人としてあまりに情けない。思い続けていればいつか願いはいつか叶うってことを、証明してみせるから」
その言葉にシエラはのろのろと顔を上げる。涙で歪む視界の中でアザレが優しく笑っていた。
「君が希望を胸に抱けるように。いつかこの日の事を、笑って思い出せるように」
シエラは胸に手を当てる。風穴があいたかのように空虚だった心が、あたたかいもので満たされてゆく。
「丸坊主かぁ。まぁ、それも良いかもしれないね」
柔らかな笑い声を聞きながら、シエラは大きくしゃくり上げた。
続きは……今日中にはちょっと難しいかもしれないので、明日……
申し訳ございません。