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12 シエラと古い約束 その2


「おいあいつら汗かいてるけど大丈夫なのか? 魔物といってもミモザは人間に近いんだろう? 風邪ひいたらどうするんだ。タオルとか着替えはあるのか? ちゃんと水分とらせた方が良いんじゃないのか?」


 ふよふよと宙を飛びながら近寄って来た剣のアザレが、はしゃぐ子供たちを見てそう言った。


「……え、意外と面倒見がいい」


 シエラは目を真ん丸にして驚愕する。風邪をひくという発想は、やはり元人間のアザレと常に一緒にいるせいなのだろうか、


「……あ、丁度この辺り、水の気配がするね」


 剣のアザレを追いかけて来たスピカがしゃがみ込んで地面に触れた。地面に巨大な金色の魔法陣が一瞬浮かび上がると、子供達のすぐ脇に真っ白な大理石でできた芸術的な水飲み場が出現した。それを中心にして、荒れていてた地面が白い石で舗装されてゆく。まるで仕掛け絵本のページを捲ったかのように、巨大な噴水広場が地面から起き上がった。木々が、白い建物が次々と地面から立ち上がる。……シエラは呆気にとられてその様子を見ている。


 配偶者の少年が驚いた顔をしてスピカを見る。スピカはちょっと困ったように眉尻を下げて微笑んだ。そして深々と頭を下げる。


「ほんの少ししか戻すことはできないけど、あたしと妹が迷惑をかけたお詫びに」


「ありがとう」


 少年は嬉しそうな顔で礼儀正しく一礼した。スピカがほっとしているのがわかる。どんな時でも相手に誠実であろうとする彼女の言動は……記憶の中の兄と重なる。睦月は非常に義理堅い性格をしていた。


「スピカおねーちゃんありがとー」


 ミモザが金色の蛇口を捻って勢いよく水を出す。小さな手に当たって水飛沫が飛び散り虹がかかる。「きゃー」とミモザが甲高い声をあげながら空を見上げる。ミモザが水を止めないから全員びしょ濡れだ。カールと配偶者がお互いの姿を見て笑っている。

 子供達の背後で一際大きな水柱が上がる。ミモザが振り返って、水を出しっぱなしにして噴水の方に駆けてゆく。


「こらっ、ここで水浴び始めるなっ。蝶はどうした蝶は! っておい。聞いてないだろう。面倒みてくれる大人は一人もいないのかっ。水遊びする前にタオル用意しろタオル」


「はい、ただいまお持ちいたします」


 四角い建物の中心に開いた真っ暗なアーチ状の出入り口から、召使らしき人たちがぞろぞろ出て来た。タオルを持った人、大きな日よけの傘や、銀色のポットを乗せたお盆を持っている人……全員が黒い髪と目で褐色の肌をしており、裾の長いシャツに足首で絞ったズボンという服装だ。


 カールとミモザは、虫かごを放り出して裸足になって、噴水の中に入って水遊びに夢中になっている。孔雀は水飲み場の一番高い所に飛んで行って、気持ちよさそうに風に吹かれていた。ああしているのを見るとやはり神々しい。

 水の気配に誘われた蝶が集まってきていた。噴水の縁に腰かけた配偶者の少年がのんびりと網で捕まえている。たまにカールやミモザに水をかけたり、かけられたりして、楽しそうに笑っている。その隙に蝶は網から逃げてしまう。

 これはあれだ。ちょっと背景が豪華すぎるが、夏休みに田舎に集まった従兄弟たちだ。まさに夏休みの絵日記の風景――


「スピカのおかげで一部戻ったな。これで多少は過ごしやすくなるだろう」


 近くで守り石の魔物の声がした。眼鏡をかけると姿が見えなくなってしまうのだ。


「え? 本来はこれなの?」


 ミモザたちのいる一角だけだが、まるで時間を巻き戻したかのように、美しい白い庭園に変わっていた。


「孔雀がああなったせいで廃墟になったが、本当ならば庭園の後ろに巨大な白い王宮がある。王様だからな」


 守り石の魔物が、奇妙な事を言った。


「……誰が?」


「孔雀が」


 思わずシエラは青い孔雀をまじまじと見る。確かに冠羽がある。では配偶者の少年はお妃さまなのだろうか。……相変わらず孔雀と少年の関係性がさっぱりわからない。


(孔雀さんが元に戻った姿を見た後で、確認しよう……) 


 それまで謎は謎のままそっとしておくことに決めた。多分混乱するだけだ。 


「大人はお仕事に行きましょうかね。シエラちゃんは眼鏡かけてるわね。スピカちゃんはどうする? ローブ着る?」


「巻貝さんの記憶持ってないといけないから、姿消しとく。お姉ちゃん、あたししばらく透明人間になるから」


 スピカの左手はずっと水ようかんを持ったままだ。ローブを着れば、左手の上の物体の見た目は水ようかんではなくなるかもしれないが、それでも常に何かを持っている状態にはなる。姿を消しておいた方が無難なのだろう。


「じゃあ、シエラちゃんボートに乗って。スピカちゃんと守り石の魔物は、蝶がついて来てないか確認してくれるかしら?」


「一匹、ずっとアザレさんにひっついてるのがいます」


「襟のとこだ」


 シエラの言葉の後を剣の方のアザレが引き継いだ。「ほんとだ!」というスピカの驚いた声が聞こえる。もう彼女の姿はシエラに見えない。


「やっぱりすごいね、保安官って!」


 そうなのだろうか。自分ではよくわからない。ふっと目が引き付けられるのだ。気付いたのは『蛍石の森』から戻った時だ。アザレの右の襟に親指の爪くらいの大きさの本当にちいさな真っ白い蝶が止まっている。まるで刺繍のように馴染んでじっと動かない。


「あらあら、気付かなかったわね。しかも自分じゃ見えないわね」


「その蝶は恐らくアザレの事を何となく覚えているんだろう。無理に離さない方がいい」


 シエラの耳の側で守り石の魔物の声がした。肩のあたりにいるのかもしれない。


「随分弱ってるから、逃げないと思うよ。そこにいたいんだと思う」


 スピカの声は隣から。


「ならこのままにしておきましょうか。色々駆除してきたから、大量に恨みを買ってる自覚はあるのよね。切り刻んだことのある魔物じゃないことを祈っておくわ」


 向かい側に座ってオールを漕いでいるアザレが、怖い事を言いながらも穏やかに微笑んだ。蝶は魔物の怨念だとスピカが言っていた。元に戻った瞬間に襲い掛かってくるのだけは勘弁してもらいたいなとシエラは思った。





 霧に閉ざされていた村は活気が戻っていた。石畳の道の両端に、色とりどりの花で窓辺を飾った家が立ち並んでいる。灰色の石を積んで作られた、絵本の中に出て来るような可愛らしい建物だ。

 路地には人の姿もある。女性たちはロングスカートにブラウスを着て、肩に手編みのショールをかけている。男性はシャツにズボンにベストという服装だ。髪の色は暗めの茶色から黒というのが一般的のようだ。

 『針と迷路の森』のバザールを歩いていた人々とは顔立ちが異なっている。孔雀のいる島にいた配偶者の少年や召使の人たちとも、また違う。


 坂や階段をのぼりながら村の奥へと進む。連れ立って歩くシエラとアザレは当然目立った。シエラの姿は村に馴染んでいると思うのだが、アザレはローブで姿を変えず、そのまま軍服姿で歩いているからだ。

 日陰になる場所に集まって編み物をしていた女性たちが、思わずといった感じでアザレの横顔を目で追っている。前方の路地を曲がって来た男性が驚いた顔で立ち止まり、そのままぽかんと口を開けてアザレを凝視する。

 目の保養になるような外見の人だが、そればかりではないようだ。時折「魔物狩りの騎士だ!」という言葉が聞こえて来る。


 ……青の騎士だ。本物の魔物狩りの騎士だ。


 さざ波のように言葉が寄せては引く。だが誰も直接声を掛けてくる者はいない。遠巻きな視線に込められているのは尊敬と畏怖だろうか。丁寧に頭を下げる老人がいたりすると、アザレも立ち止まってきちんと目礼を返す。


(大変だなー)


 シエラは品行方正の振る舞うアザレを見て感心していた。彼の邪魔をしないように、できる限りシエラも礼儀正しく振る舞う。頭をさげている人に気付けばアザレの袖をそっと引いて伝える。秘書にでもなったような気分だ。

 霧で閉ざされた時よりよっぽど時間をかけて、石を積み上げて作られた小さな村を歩く。細い階段をのぼると、家と家の隙間にある人ひとりがやっと通れるような狭い路地に入り込んだ。数人の村人が覗き込んでくる気配を感じたが、追いかけて来る様子はない。細く薄暗い路地を抜けると、家の裏手に出た。大きく開けた場所に納屋と畑がある。

 開け放たれた裏口の前で老婆が椅子に座って待っていた。


「お待たせして申し訳ございません」


 アザレが丁寧に謝罪すると、女性はおっとりと笑った。


「いえいえ、先程準備が整ったばかりよ。お待たせしなくて済んでよかったわぁ」


「こちらは『硝子と忘却の森』の調査員のアナベルさんです。シエラちゃんもう眼鏡外して良いわよ。スピカちゃんも出て来て大丈夫。アナベルさんは、今日は素敵なご婦人の姿をされておりますが、いつもそうとは限りません」


 茶化したようにアザレが紹介してくれたので、シエラは眼鏡を外して深々と頭を下げた。裸眼で見ても老婦人の姿は変わらない。ということは変装なのだろうか。


「新人保安官のシエラと申します。よろしくお願いいたします」


「あらあら……こんなに小さな人間のお嬢さんが保安官なのねぇ……」


 上品な老婦人が途端に心配そうな顔になった。……そんなに危険な仕事なんですねとシエラは心の中で呟いた。そしてまた小さいと言われた。そこまで自分は背が低いだろうか? 平均身長はあった筈だが……


「妹のスピカと申します」


 魔法で姿を消していたスピカが姿を現す。左手に水ようかんを持ったまま、彼女は老婆にむかって丁寧に一礼した。


「こちらも可愛らしいお嬢さんねぇ。お嬢さんは魔物ね。ふふっ。小さな人間のお嬢さんの妹さんなのねぇ」


 ……ん? とシエラは首を傾げる。


「……お姉ちゃん。小さいは年齢の話。背丈じゃない。あたしはお姉ちゃんよりずっと長く生きてるからそういう意味」


 不思議そうな顔をして肩の高さを見比べているシエラに気付いたスピカが、呆れたようにそう言った。確かに年齢でいけばシエラはこの世界では『小さい』だろう。そういう時間感覚を持っているのならば、このアナベルという可愛らしい老婆は人間ではないのだ。


「では、始めましょうかねぇ。より記憶が染み込んでいると思ってキッチンの方に準備したの。ここから直接入れるわ。私は毎月この裏口から本部に納品する瓶詰を受け取っていたから、巻貝とは顔なじみなの」


 アナベルはそう言って慣れた様子でドアを開けて家の中に入ってゆく。

 入ってすぐの床に白い魔法陣が描かれていた。中心部に高さ三十センチくらいの小さなつむじ風がくるくると回っている。


(……あれ?)


 キッチンの様子を見てシエラは違和感に首を傾げる。しかし、すぐにアナベルに声を掛けられて、慌てて魔法陣の方に視線を戻した。


「ああやって、この部屋に染み込んだ巻貝の記憶を集めているの。では、砂時計と巻貝の記憶を魔法陣の中心部に置いてね。丁度つむじ風の下になるわねぇ。それから、巻貝を見た事がある方は、魔法陣に手をかざしてくれる? どんな僅かでも記憶をかき集めたいの」


 守り石の魔物が砂時計を、スピカが水ようかんをつむじ風の下に置く。すると渦を巻く風がシエラの目の高さまで一気に伸び上がる。つむじ風に手をかざす。毎日食べていたあのひねた匂いのする瓶詰のスパイスカレーの味が思い起こされた。心の底から申し訳ないが、やっぱり美味しく感じられない……


「あら、シエラちゃんは巻貝の作った瓶詰を食べていたのね。結構長い間食べてたのねぇ。髪を少しもらってもいいかしら? 根本から切るから目立たない所がいいわねぇ。しゃがんでくれる?」


 シエラがしゃがむと、アナベルはポケットから取り出したナイフでシエラの横髪をひと房根本から切った。それを風の中で放つ。黒い髪がバラバラになりながら風の流れに合わせて回り出す。


「人間の体って食べたものでできてるからね。シエラちゃんは毎日三食そればかり食べてた時期があったんだねぇ……これでギリギリいけそうな感じだけど……」


 つむじ風が伸び上がってシエラの身長くらいまで高くなって……ふっと消え失せる。


 ――魔法陣の上にぺたんと座っていたのは。長いこげ茶色の髪をお下げにした女性だった。


 彼女は恐る恐る周囲を見回し、アナベルに気付く。女性の顔がくしゃくしゃになり、茶色の瞳から一気に涙が溢れ出した。アナベルが駆け寄りぎゅっとその体を抱きしめると、彼女は老婆にしがみ付いて大声で泣き始める。


(……え?)


 シエラはその姿を見て硬直する。そして改めてキッチンを見回す。眼鏡をかけて再び女の人とキッチンを見て……顔色を失う。


「……お姉ちゃん?」


 スピカも動揺したようにシエラの腕を引っ張る。スピカはシエラの記憶を三倍速で見たと言っていた。だから彼女も気付いたのかもしれない。


「スピカ……これ、どういう……」


「……うん。あたしもちょっと混乱して」


 おろおろと二人で周囲を見渡す。


「シエラちゃんとスピカちゃん、ちょっとこっちいらっしゃい」


 心配そうな顔をしたアザレがシエラとスピカの肩を押して店の方へ連れ出してくれる。シエラは大混乱に陥りながら、店内を確認して、眼鏡を外してまた店内を確認して……意味がわからなくなる。スピカが慌ててキッチンに繋がる扉を閉めた。


「……ちがう。ちがうんですっ。ここじゃないっ。それに、私が見た巻貝さんは彼女じゃない」


 シエラは掴みかからんばかりにアザレに詰め寄る。アザレが大きく目を見開く。


「でも、書類に書いてある特徴は一致してるのよ。外見年齢は二十代半ばくらいで茶色の髪に茶色の瞳って……」


 アザレが困惑した顔でシエラを見る。そんな事が書いてあった気もする。霧の村に入った辺りから恐怖でいっぱいいっぱいで……失念していた。


「ちがう。わたしが見た巻貝さんは違う。もうちょっと小柄で、高校生くらい……だから十七歳くらいで、スピカみたいにふわっふわっとした金色の髪で、長さは顎の下くらい。目の色は……しっかり見えなかったけど、多分茶色じゃなかった。一瞬しか見てないけど絶対に違う。あの人じゃなかった」


 白い煙に守られて泣いていたのは、もっとなんというのかこう庇護欲を刺激する感じの……


(そうだ、セリアナさんにちょっと似てた!)


 俗世にまみれた自分が触れてはいけないような……はかなげな雰囲気の小柄な少女だった。


「あの人が巻貝さんなら、じゃあ、私、何を見たんだろう。もっと古い感じのキッチンだった。竈は真っ黒でピカピカに磨いてあった。お店はカウンターがあって、後ろと片側の壁が棚になってた」


 そう言った途端に、アザレは痛みを堪えるような顔をして心臓の辺りを右手で押さえた。よろめくように数歩後ろに下がる。しかし、混乱状態のシエラはアザレの様子がおかしいことに気付かない。


「あたしはお姉ちゃんと同化してた時に、ほんの一瞬見ただけだから顔までは覚えてない。でも、確かに、店の感じは違う。大きさが全然違う……もっとこじんまりとした店だったのは確か……」


 スピカが店内を大きく見回した。

 そうだ、まず広すぎる。ここはケーキ屋さんのような感じだ。大きなガラスのショーケースがあって、両側にワゴンが置いてある。掃除が行き届いていてきれいだし、何より……ショーケースの中のもワゴンの上にも商品がびっしり並んでいる。


「店は空っぽで、もうずっと営業されてない感じで、床に埃が溜まってた。ちがう、ぜったいちがう。なんでなんで……」


「お姉ちゃんそこで一旦止めて。人間って記憶捏造しちゃうから。目閉じて頭空っぽにして。ってか羊でも数えてて。アザレさん、ここって魔法つかっても大丈夫?」


 焦った様子のスピカに命令されて、シエラは訳も分からず慌てて羊を数え始める。

 

 ……羊が一匹……羊が二匹……羊が三匹。


「許可は取ってある。あまり大掛かりなものでなければ大丈夫だ」


 答えたのは、キッチンに続く扉をすり抜けて来た守り石の魔物だった。アザレは心ここにあらずという様子で胸を押さえたまま茫然と立ち尽くしている。


「とにかく曖昧になる前に一旦投影してみるよ」


 スピカが床に手を付くと、そこに金色の魔法陣が出現する。


「いいよ。お姉ちゃん思い出して。お姉ちゃんが見た巻貝さんどんな人だったの? 羊はもういいから」


 改めて尋ねられて、シエラは改めて思い出す。ほんの一瞬だったが、必死だったから印象に残っている。とにかく可愛らしい人だった!

 床に金色の魔法陣が光る。最初、もこもこの羊が十三匹現れたが、すぐに消え失せ、その次にぼんやりとしたノイズ交じりの人物が浮かび上がる。シエラのいた位置から遠かったからその姿はとても小さい。目の色は確認できない。白い煙に守られた魔女は、金の髪で童顔でどことなく寂し気な少女だ。彼女が弾かれたように顔を上げて小さく微笑んで……前に向かって手を伸ばして……魔法陣ごとふっとその姿が掻き消える。そうだ。ここで眼鏡が戻ってしまったのだ。


(でも手を掴んだ)


 自分が掴んだ手は……一体誰の手だった? キッチンでアナベルに抱きしめられていた。あの巻貝という女の人の手だったのだろうか。わからない。


 でも、そうだ。入れ違いにキッチンに駆け込んだ時、視界を掠めたのは金色の髪だった! 

 それから……守り石の魔物に巻貝さんを隠すように頼んで振り返ったのだ。

 そうしたら、何もかもが消えていた――


 立ち尽くしているシエラの横を誰かがふらふらと通り過ぎる。

 手を伸ばしたアザレがまるで糸が切れた操り人形のように、魔法陣があった場所に両ひざをつく。俯いているため表情は見えない。


「……え? アザレさん、どう……」


 そのままアザレは彫像にでもなってしまったかのように動かない。


「……アザレはしばらくは使い物にならない。心が壊れる前に無理矢理意識を遮断した」


 静かな声でそう答えたのは剣の方のアザレだ。膝をついて項垂れている元人間アザレの隣に大剣が出現している。


「一旦本部に戻す。ふたりはここで待ってろ。ったく世話が焼ける」


 そう言って剣のレリーフが目を閉じる。ゴンっという音と共に大剣が床に倒れた。すると、ふっとアザレが目を開けて立ち上がる。先程までと目の色が違う。茶色かった瞳が、鮮やかな緑色に変わっている。あと……


「うわぁ……眼つき悪っ」


 感心したようにスピカが言った。


「うっさいぞスピカ」


「うわぁ……ガラ悪っ」


 同じく感心したようにシエラが言った。


「ほっとけ。失礼だな」


 声まで違って聞こえるから不思議だ。


「同じ顔でここまで変わるんだね。おもしろい」


 スピカは半笑いになっている。


「おまえらだけには言われたくない」


 憮然としてアザレはそう言った。まぁそれはそうだろう。


「あたしたちここまでではないよ。……なんかアザレさん可哀想」


「だからおれがアザレなんだよ。こいつ付属品」


「スピカ、アザレさんあんなに紳士な感じだったのに、今はジオード並みにガラ悪い。すごいね!」


 興奮気味にシエラが捲し立てると、スピカはものすごく微妙な顔になった。


「お姉ちゃん的には褒めてるつもりだろうけど、それどっちに対してもかなり失礼」


「……え?」


 意味がわからずに首を傾げると。スピカが呆れたようにため息をついた。そして床に倒れた剣を拾い上げてよろめく。


「うわっ、やっぱり意識ないと重いっ。引きずると床傷つけちゃう。ねぇ、本体どうするの?」


「お、スピカ気が利くな」


 にやっと笑って、アザレがスピカから剣を受け取ると、軽々片手で持ち上げた。レリーフの目は閉じたままだ。


「どうするの? それ」


「ロープで縛って背負う」


「……ものすごく普通だった」


 スピカが拍子抜けしたように言った。


「という訳でロープ出せるか? こっちの体に入ると魔法使えないんだよな」


「あ……やっぱり使えないんだ」


 スピカが床に触れると、金色の魔法陣が現れて中からロープが出現する。


「……スピカおまえ便利だな」


 ロープを刀身に巻きながら、アザレが心底感心した声を出した。「うれしくないなぁ」と言いながらも、スピカはアザレを手伝っている。ロープを弛ませた後、柄の部分にも結んで調整して完成のようだ。


「守り石の魔物。ローブ出してくれ、ローブ。ややこしいな」


「準備してから入れ替われ」


 守り石の魔物が冷静な声で言いながらも、フードの下からローブを出してアザレに手渡す。アザレは悪びれる様子もなく笑った。


「こいつにもいつも言われる」


 手早くローブを着ると、大剣を斜めに背負う。フードを被れば怪しい大男の完成だ。眼鏡をかけて確認すると、村人が着ていたのと同じようなよれよれの服を着た、印象の薄い中年男性に姿が変わっている。こうなるともうアザレとは似ても似つかない。


「門までの道、わかるのか? アザレ」


 中年男性は曖昧な笑みを浮かべて、視線を彷徨わせた。


「……あー。うん。まぁ何とかな……」


「ならん」


「ならない」


「なりません」


 アザレ以外の意見は一致していた。


「アナベルに地図を書かせる。シエラ、こいつが勝手に出て行かないように見張っとけ」


 眼鏡をかけていると守り石の魔物の姿は見えなくなってしまう。不便なので眼鏡は外す。キッチンに続く扉をすり抜けてゆくテルテル坊主のような後ろ姿が見えた。それを見送ってから、シエラはアザレに向き直る。


「……あの女性、アザレさんのお知り合い、だったんですか?」


 恐る恐るシエラが尋ねると「……どうなんだろうな?」とアザレは曖昧に濁した。


「あいつさ、恋人を目の前で魔物に取られたんだよ。でも、あいつはその恋人の名前も顔も覚えていない」


「え……?」


 言葉の意味がわからなくて、シエラは思わず固まった。


「相手の事を何ひとつ覚えていないのに、あいつは何かに突き動かされるみたいに、ずっと奪われた恋人を探し続けている。もう喰われて跡形もないかもしれない。それでも『約束が残っているから』って。約束の内容も覚えてないくせにさ……。どのくらいになるかなぁ……人間にしては長すぎる時間だ。心が擦り切れてもおかしくないんだが、すごい精神力というか執着心というか………ちょっと怖いんだよなー。愛が重すぎて」


 フードを外してアザレが窓の外に目をやる。


「これで実は片想いだったとかだったりしたら笑えんだろうとか、振られた相手への未練だったりしたら手に負えないよな、とかさ、ずっとからかってたんだよ……」


 そう言ってアザレは自嘲するような笑みを口元に浮かべた。


「覚えていなくても、何かが残っているんだろうな。……わかるもんなんだな」


 彼は自分のものではない手を光に透かす。魔法陣の中の少女に向かって伸ばされた手……


「心が壊れそうなくらい絶叫してた。だから、そうなんだろうな。……シエラが見たというのは、あいつの恋人なんだろうよ。えらい可愛らしい魔女だったな」


 アザレが力なく呟く。「あれじゃあ、並んでも親子にしか見えんだろうな」と続けた声は暗く沈んでいた。様々な感情がそこに含まれえているのだろう。


「時間の流れ方が違うからね」


 スピカも寂しそうに微笑んだ。シエラの胸がずきりと痛んだ。

 しばらく沈黙が落ちた。それぞれが今さっき目の前で起こったことを心の中で思い起こして整理している。アザレとスピカは自分がわかる範囲で何が起きたのか推理しているのだろう。


「……どうして……何で……見えたんだろう」


 ぽつりとシエラは呟いた。何故、巻貝ではなくアザレの恋人だという魔女の姿が見えたのか。まずそこがわからない。


「まぁ見えたから見えたんだろうなー。保安官の目は隠された物を暴く」


 アザレは非常に魔物らしいことを言った。シエラはそのままスピカに視線を移す。スピカは思いきり嫌そうな顔になった。つまり何が起こったか予想はついているが、シエラに説明するのが難しいのだろう。

 それでもじっと見つめ続けると、スピカは小さく息を吐いて目を閉じた。しばらく考え込んでいたが、ふむ、とばかりに頷いて顔を上げる。説明してくれるらしい。面倒見の良い妹だ。


「アザレさんの恋人さんを奪ったのは、私とミモザが姿を変えられてた魔物の本体なんだと思う。……どうしてその人が見えたのかという答えは、もうお姉ちゃんしかわからない。あたしとスピカは姿が変わってしまったし、黒蝶と使い魔は蝶になってしまった」


 スピカの言葉に、シエラははっきりと顔を顰めた。


「あの、青年の姿をした魔物? やっぱりモデルがいるの?」


 さっぱり意味がわからないので、疑問に思ったところから確認してゆくしかないだろう。まず一番気になった部分をシエラに尋ねる。


「モデルというか、本体だね。……お姉ちゃん、配偶者の男の子が、あの聞き取れない名前押し付けられた途端に姿が変わったの見たよね?」


 孔雀の島でシエラが人質に取られていた時の事だろう。黒蝶が名前を与えると言って、あの妙な聞き取れない音を口にした途端に、少年の姿は例の白いシャツと黒いズボンの魔物に姿が変わった。だけどその名前を少年が拒絶したから、姿はすぐに戻ったのだ。


「うん見た。名前を上書きされると姿が変わるってこと?」


「そう。それがわかってれば理解できると思う。あの聞き取れない名前は、青年姿の魔物が昔使ってた『字』なんだよ。力ある魔物はね、複数の『字』を持っているのが普通なの。『字』毎に違う姿を持ってる。お姉ちゃんの恋人さんは二つの姿をお姉ちゃんに見せてるよね?」


「男性の時と女性の時があるね。でもどちらもジオードだよ」


 黒髪でちょっとガラが悪い感じの青年姿と、白い長い髪の女性の姿。


「それは統治者としての名前というか……うん。まぁいいや。本当は男性の時の『字』と女性の時の『字』が別にある。興味があったら聞いてみたり……はしないよね」


「ジオードはジオードだよ」


 シエラがきっぱりと言い切ると スピカは半笑いになった。


「うん。それでいいよお姉ちゃんは。……多分それ、お姉ちゃんのための名前なんだろうから」


 何だろう、なにやら意味ありげにアザレもにやにや笑っていて居心地が悪い。


「スピカは他にあるの?」


「丸呑みされるまでは持ってた。でも今は真名と『スピカ』って字だけ。もう増やすつもりもない。この姿すごく気に入ってるから」


 スピカはワンピースのスカートを広げて、満足そうな顔になった。


「でね、名前ってそれを名乗っていた間の記憶とセットになってる。あたしとミモザと使い魔の魔物が、青年の姿になってた時、見た目だけじゃなくて、性格とか喋り方とか行動とかもそっくりだったよね? それはあたしたちが全員同じ記憶を持ってたからなんだ」


「そうだね、本当に見分けがつかなかった」


 三匹の魔物の姿を思い出す。顔も髪型も服装も喋り方も同じだった……


(ミモザだけは、シャツの裾を外に出していたなぁ……)


 そのせいで、夜の草原に立っていた魔物だけは、白っぽい大き目の服を着ているように見えた。そこだけが違った……


「だから、あの妙な名前を押し付けられた瞬間から、あたしは姿も記憶も完全にあの魔物になり切っていたんだ。乗っ取られていたって感じかな。ここまで大丈夫?」


 シエラは小さく頷く。


「あたしはアザレさんにざくざく切られて戻ったけど、ミモザの場合はお姉ちゃんに魔物の記憶を消化されたことで元の姿に戻った。……あたしとミモザは双子みたいなものだから、実は全く同じ姿だったんだよ。今もそんなようなものだけどね」


 スピカがちょっと笑った。シエラの脳裏にポニーテールをした可愛らしい魔物の姿が浮かんだ。彼女は脳裏で「くそばばぁ」と悪態をついた。きっと……一生忘れない。


「ミモザは私のお腹の中で元に戻ったの?」


「そういうこと。……言っとくけど、そうしなかったら戻れなかった。だから気にしちゃダメだよ。あたしとミモザが今この年齢差になってるのは、例のイカサマゲームのせいだ。お姉ちゃんのせいじゃないからね」


 スピカが厳しい表情でもう一度「お姉ちゃんのせいじゃない」と言い切った。


「おれなんかスピカ追い回して切り刻んだよな」


 アザレが半笑いで告げる。


「元の姿に戻っても容赦なく追い回したよね。女性でしかも子供だよ? それってどうなの」


 スピカもまるで気にしていない様子で、アザレに軽口を叩いた。きっと本当に……それしか戻る方法はなかったのだ。

 スピカは寿命二百年支配が及んでいたと言っていた。つまり、ミモザの寿命二百年分を……シエラは消化したことになる。

 暗い顔をしているシエラを見て、スピカとアザレは顔を見合わせて、やれやれというようにため息をついた。このふたりはどうやら大変気が合うようだ。


「あのね、寿命はもう名前を押し付けられた時にうしなわれたようなものなの! そこはもういいから。とにかく、お姉ちゃんはその魔物の記憶を今持っている筈なんだ。……実際、影響は出てきてる。ここの村の人の言葉をお姉ちゃん普通に理解できたよね。もうどこの領域に行っても普通に会話することができるよ。それは、魔物の記憶のせい」


「……あ」


 言われてみれば、普通に村の人の言葉が理解できた。『針と迷路の森』では人々の話す言葉は全完全な異国の言葉だったのに。


(それで『もう必要がない』って……)


 孔雀の模様を剥がす時に配偶者の少年が告げた言葉はそういう意味だったのか。


「……その消化した記憶を、私は見ることができるの?」


 シエラは何となく胃の辺りをさすりながら。スピカに尋ねる。もう消化してしまったものは仕方がない。何とか有効活用する方法を探した方が建設的だろう。


「お姉ちゃんは人間だからなぁ……。負担が大きすぎると思う。絶対に覗こうとしないでね。……もしかしたら夢に見るかもね。夢日記とかつけてみるといいかも」


 スピカが少し考え込んでからそう提案した。


「……今夜から枕元にペンとノートを置いて寝ることにするよ」


 それで色々なことがわかるのかもしれない。シエラはちらっと今は緑色の目に変わっているアザレを見る。……でも、もし自分の中に答えがあるのなら、何とかして取り出したいと思う。


(もし、見ることができたら……)


 その瞬間、頭が叩き割られるような酷い頭痛に襲われた。膝から崩れ落ち、吐き気を覚えて口を押える。


「だからお姉ちゃんダメだって!」


「バカっ、シエラおまえ、指輪なかったら危なかったぞ今」


 悲鳴のような声をあげたスピカとアザレが慌てて駆け寄って来る。スピカが手の中からバケツを取り出し、アザレがシエラの背中を撫ぜた。バケツの中に胃の中のものを全部吐いてしまう。


「水もらってきてやる。水なら飲めるんだな?」


「水なら大丈夫。お茶は無理だからねっ」


 頭痛は少しずつおさまってくるが、吐き気がすごい。背中をさすっていたアザレ立ち上がってキッチンに駆け込んでゆく。代わりにスピカが背中をさすってくれる。


『……少し目を離すとすぐこうなるな』


 呆れた声が耳に届いた。誰かの指先が額に触れる。冷たい風が体の中を通り抜けた気がした。吐き気が消える。


「ほら、シエラ口濯げ」


 戻って来たアザレがガラスのコップを唇に当ててくれる。言われた通り口を濯いで、バケツに吐く。それを何度か繰り返して、スピカが差し出してくれたタオルで口元を拭いた。


「一度片付けてくるよ。新しいバケツ置いとくから」


「新しい水もらってきてやるから、ちょっと待ってろ!」


 スピカがバケツを持って走り去って行く。アザレが店の窓を開けるとコップを持ってスピカを追いかけていった。タオルで口を押さえながらも、シエラには何が起こったのかわからない。


『……その記憶は俺が引き取る。危険すぎる』


 頭の中によく知っている声が響く。


「それはダメ。……多分私にしか見えないことがあるから」


 タオルを当てているから、声はくぐもる。


『……あんたそういう所は強情なんだよな。じゃあ約束してくれ、もう絶対にそれを覗こうとするな』


 とても辛そうな……心配そうな声だ。


「……こうなるとわかったから、もうしない」


 涙が溢れて止まらなくなる。誰かが優しく頭を撫ぜてくれる。それが誰の手かは考えない。考えたら泣き崩れてしまいそうだから。


『自分で決めたんだろう? 最後までやり遂げな。……ちゃんと見ててやるから』


 それを最後に声が消える。シエラはぐっと奥歯を噛みしめる。……そう、自分で決めた。だからやり遂げる。目を固く瞑って無理矢理涙を止める。


「お姉ちゃん大丈夫?」


 店に戻って来たスピカが、また背中を撫ぜてくれる。


「ごめん。あたしが余計なことを言ったから……」


「ほら、水飲め。ゆっくりだぞ。……指輪が干渉しているな。もう少しで落ち着く。今は何も考えるなよ」


 一緒に戻って来たアザレがシエラの額を確認しながら、コップを差し出してくれる。言われた通りにゆっくりと一口水を飲む。喉の奥を冷たいものが落ちてゆく。吐き気はもうない。


「……すみません。ありがとうございます……もう、だいじょうぶ」


「……言いたかないがな、おまえ今日だけで何回死にかけるんだよ。指輪が肩代わりしてるが、このままいくとあっという間に指輪の寿命分全部使い切るぞ」


 はあああああっ、としゃがみ込んだアザレが大仰にため息をついた。ぞっとしてシエラは左手薬指の指輪を見る。そして説明してくれそうなスピカがを見上げた。スピカは蒼白な顔をしている。


「……お姉ちゃんの性格からして、しばらく立ち直れないくらい恥ずかしい思いをすることになるけど、今聞く?」


 無表情のまま淡々とスピカが告げた。


「いい、遠慮しとく。……ごめんスピカ、これでわかった。もう絶対しない」


 スピカがへなへなとその場に座り込んだ。 


「……そこまでしたお姉ちゃんの恋人さんの気持ちがよくわかった。最初見た時は正直ここまで執着するってどうなんだと思ったけど、これ、絶対に必要な措置だったんだね」


「そうだな、ここまでやってもこれだもんな……」


 スピカとアザレがぼそぼそと何かよくわからない事を言っている。わからないから気にしない。

 シエラは何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。


「ええと……それでね、ちょっと見えたんだけど……」


 ほんの少しだけど見えたのだ、あの魔物の記憶が……


「もう二度としないでね! 絶対しないでね!!」


 がしっとシエラの肩を掴んで、スピカが必死の形相で言った。あまりの勢いに、シエラの持っていたコップから水が零れた。


「おまえ、本当にわかってるな? 二度とやるなよ。絶対にやるなよ」


 アザレも真剣な表情で詰め寄って来た。……どうやら相当危険な状況だったようだ。


「すみませんっ。軽率でした!」


 シエラはコップを床に置くと、正座をして三つ指つき頭を下げた。


「ほんとになっ」


「ほんとだよっ」


 心配は怒りに切り替わったらしい。顔を上げるとスピカとアザレの目は吊り上がっていた。

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