11 シエラと古い約束 その1
「ご主人様、本当はわかってるんですよね?」
ルールーがそう言って悲しそうな顔をする。
「どうして……どうして答えないんですか。このままだと本当に消えてしまう。私もあなたの事を忘れてしまいます」
「答えはわかっているの。でも、言葉がわからない。きっともう失われた古い言語なのだと思う。……だから、最初から勝ち目はなかった」
愕然とした顔つきになったルールーの目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
魔女は厨房内を大きく見渡す。もう大方片付けは終わっている。壁に貼ってあったレシピはすべて外したし、鍋も食器も調理道具もすべて売り払った。竈も磨き上げた。床を磨いて、窓も拭いて……どうしても思い入れのある厨房ばかり掃除していたから、お店の方は埃だらけになっているけれど……もう時間がなかったから仕方ない。
あとは自分がここを去るだけ。
「これはきっと、私の願いを叶えるための対価なんだと思う……」
魔女は小さく笑って、調理台の上に置かれた油染みで変色したメモを指でなぞる。ずっと覚えていたけれど、忘れてしまった記憶。それでも、紙に書かれたものは残った。これだけはどうしても自分で始末できないから、ルールーに頼まないといけない。そんな事を考えていると、大きく開け放たれた窓から夜風が入ってきてちいさな紙片を吹き飛ばす。慌てて拾い集めながら、そんな自分の行動がおかしくて……目の端に涙が浮かんだ。
何もかも手放す覚悟など、やはりできないものらしい。
それでももう決めたら、窓から外に向かってメモを飛ばす。木の葉のように蝶のように、ちいさな紙片は風に巻き上げられて……夜の闇に紛れてすぐに見えなくなってしまう。
……ああ、これで本当に全部おしまい。
解放感と寂しさが交互にやって来てめまいがした。
村はもう深い眠りの中だ。
得体の知れない魔女を受け入れてくれた村の人たちには本当に感謝している。ずっと……ずっとここにいたかったけれど。違う時間の流れの中にいる自分は、人間の中で長く暮らせない。
住人たちの負担にならないように、ひとつの場所には十年以上留まらないと決めていた。でもこの村は居心地が良くて、みんなとても優しくて、気付けば二十年……少し長く留まりすぎた。村の人々はいつまでもここにいていいと言ってくれるだろうけど。きっとこれ以上はもう自分の心が耐えられない。
「ごめんねルールー。私は弱い魔女だから、もう無理なんです。……どうしても見つかるんですよねぇ。どれだけ離れても必ず見つかるのは何故なんでしょうね。瓶詰の食品なんていくらでもあるのに。どうしてわかったんでしょうね?」
「食べればわかるんですよ。私だって、一口食べればこれは魔女さんが作ったものだってきっとわかる気がします。だからずっと食べてきたあのひとがわからないはずがないんです」
「見つけてくれた時には……すごく嬉しくて幸せで、そんな自分が一番救いようがなかったなぁ……」
最初会った時は魔女よりずっと背が低かった少年は、あっという間に魔女の背を追い越してしまった。いつでもそう。変わらないのは自分だけ。だから長い時間を共に生きてくれる使い魔が欲しかった。
ルールーが来た時、彼はとても喜んでいた。自分がいなくなっても魔女の側にいてくれる存在ができたことにとても安堵していた。
魔女が黙って姿を消しても、必ず探し出して会いに来る。この村に来てからは、商品代金を先払いするという手段に出た。魔女が黙っていなくならないように。
約束なんて破ってしまえば良いのにどうしてもできなくて、もう二十年ここにいる。次は断らないといけない。次こそは断らないといけない。そう思っているのに言い出せない。
昔みたいに黙って逃げてしまえばいいのに、次に会える約束が嬉しくて……苦しくて。
その心の隙に、魔物が忍び込んだ……
「だからもう終わりにしないと。あの子には人間の時間の中で幸せになって欲しいんです。いつの間にかあの子という年齢ではなくなってしまって、さらにお兄さんというよりは……な年齢になりつつあるので、困りましたねぇ。そろそろ結婚とか真剣に考えた方が良いと思うのですが、やっぱり私に遠慮しているのでしょうね……」
「だからって、何も残さないなんてあんまりです。私は魔物だけど、それでもわかる。魔女さんはすごく残酷な事をしようとしているんです。私だってこんな形で魔女さんとお別れするのは絶対嫌ですっ」
「ごめんね、ルールー」
「私だって忘れたくない。私は対価として魔女さんの使い魔になったけど、それでも今はもっと一緒にいたいと思う。魔女さんの記憶は失くしたくない。私の記憶は私のものです。お願いですから私から奪わないで下さい」
ルールーが泣き崩れる。魔女と使い魔のルールーは一部の記憶を共有している。彼女も人間に近付きすぎてしまった。落ちこぼれの魔女の使い魔なんかになってしまったから。可哀想なことをしてしまったと思う。
魔女は調理台の上にぽつんと置かれた砂時計をひっくり返す。砂が流れ落ちてゆく。時間が流れ落ちてゆく。この砂が落ち切ってひっくり返しても時間が戻る訳ではない。時間は一定方向にしか流れない。
どうしてかな。心はどんどん人間に近付いて行くのなら、時間の流れも同じになってくれれば良かったのに。
「幸せになって欲しいけど、魔女の私はきっと幸せになるあの人の姿を見ていたら、相手の女性に変な魔法をかけてしまったりするかもしれないから。……悪い魔女はここで消えないと」
「ご主人様がそんな意地悪する訳がないじゃないですかっ」
ルールーはそう言って怒ってくれるけれど、これは本当にわからない。だって魔女は人間を騙して意地悪をする存在なのだから。
「ルールー、今まで本当にありがとう。だいすきよ。だから、これは命令。自由に好きな場所へ」
ルールーが茫然した顔を上げて、大きくしゃくりあげる。その姿が白い鳩に変わる。鳩は厨房内を何度も……何度も旋回する。自分がいたいのはここだと訴えるように。魔女が微笑んで首を横に振ると、白い鳩は窓から外へ。何かを振り切るように。
魔女はちいさな笑みを浮かべて、満月に向かってゆく白い鳩を見送る。
これでいい。ルールーには結局なにもあげられなかったのが心残りだけど、忘れる前に自由にしてあげることができて良かった。
「さて、魔女さんはじめようか。今夜が最後」
がらんとした厨房に声が響く。魔女の願いを叶える魔物の声が。
砂が流れ落ちてゆく。残り僅かな記憶がどんどん失われてゆく。
姉のように過ごした時間。
妹のように過ごした時間。
恋人のように過ごした時間。
娘のように過ごした時間。
最後に見たのは赤い髪。……迷子の少年にあげた飴玉と同じ色。
自分に向かって伸ばされた手を見て、思わず手を伸ばしてしまう。
でもほら、やっぱり届かない……
暗闇の中に落ちてゆきながら、祈る。
どうかあのひとが、卑怯で嘘つきな魔女のことなど忘れて……同じ時間を生きてくれる人と幸せになってくれますように。
――あなたは黒蝶さんですよね?
シエラがそう言った瞬間、魔女の身体は蝶に変わって一斉に空へと飛び立った。黒い蝶だけがその場から動けないようで、必死に翅を動かしていた。
地面に膝を付き荒い呼吸を繰り返しながら、配偶者の少年は指先で宙に何か文字のような物を描く。
黒い小さな蝶は蓋つきのガラス瓶の中に閉じ込められていた。驚いたように飛び回るが当然瓶の中からは出られない。やがて力尽きたように瓶の底に舞い降りた。
魔女黒蝶は瓶の中。
巻貝は守り石の魔物のフードの中。
野良の魔物二匹はシエラのお腹の(?)中。
野良の魔物は駆除され、巻貝は発見された。『硝子と忘却の森』でのお仕事はこれでひとまず終了である。
だが、本当に大変だったのはそこからだった。
シエラに丸呑みされた魔物は……やはり困ったことになっていた。
「取り出せたは取り出せたんだけど、だいぶ消化というか同化が進んでいてね……」
『蛍石の森』は相変わらずどこか寂し気で……すべての物の色が灰色がかって見えた。それでも、フリュオリネ(父)によって案内された家は、シエラにとってはまさに魔法使いの住処だった。壁はあるのに天井がない。室内なのに木が生えており、あらゆる場所に蔦が絡まっている。棚や机の上には図鑑や標本が雑然と置かれていた。蔦が絡まる書架にはびっしりと本が詰め込まれている。
非常に開放感溢れる部屋だ。雨が降ったらどうなるのだろう……
「……うん。見ての通りなんだけどね……」
フリュオリネ(父)の隣に立っていたのは、幼稚園児と手を繋いだ女子中学生だった。男の子のように短く切った黒髪に黒い目をした中学生は、紺色のセーラー服を着ていた。……頭痛がした。
「なぜに?」
シエラは中学生の頃の葉月に尋ねた。
「居心地が良かったんだ。ものすごく大切にされてきたんだね。みんな優しかったんだ。だから、温かくて気持ちよくて、もうこのまま同化してもいいかなってついつい思っちゃった……ごめん」
いたって軽い感じで中学生は言った。ああ、自分の声って外から聞くとこんな感じなのかとシエラはちょっと遠い目をした。
「ぽかぽかだったよーたのしかったー」
その隣の幼女は両手をあげて嬉しそうに笑った。シエラの幼少期はこういう姿だったのだろう。何となく見覚えのある水色のスモックを着ていた。赤いチューリップの名札も懐かしい。そこには丸っこいひらがなで『はづき』と書かれていた。
「この子たちはシエラさんと同化していたから、見た目の年齢までの記憶を複写して持っている。妹だと思ってもらえば良いかもしれないね。同じ家族で同じ時間を過ごしていても、性格が違うから受け取り方が違う」
とても怖い事を言われた気がして、シエラは顔を引きつらせた。記憶を複写……複写?
「お姉ちゃんの記憶をすべて三倍速の映画見た感じかなぁ。その上で、あたしは中学三年生までの記憶を複写して持ってる」
「さようでございますか」
シエラはやっとそれだけ言った。意味がよくわからないし、他に言葉が見つからない。三倍速で映画を観た感じなら……まぁいいかと思ってしまった自分は、きっとこの世界に順応しつつあるのだろう。
「固定化するために仮の名前を付けておいたけど、気に入らないなら変えることもできるからね」
「あのね、ミモザなのー。かわいいからかえないー」
「あたしはスピカ。気に入ってるから変えない」
園児と中学生はシエラに向かって宣言した。フリュオリネは何となく嬉しそうだ。きっとふたりに似合う名前を、短い時間の中で一生懸命探し出してくれたのだろう。彼にとっては古い古い記憶の筈だ。この世界にはない星の名前……
「本人たち気に入ってるので……名前はそのままにします」
(無事取り出せたならよかった……うん)
シエラは遠くを見つめながらそう結論付けた。
二人を連れて、『硝子と忘却の森』の孔雀のいる島に戻る。
元人間の方のアザレと配偶者の少年は、折れた柱に座って、書類を捲りながら真剣な顔をして話し合っている。少し離れた場所で、剣のアザレが瓶の中に閉じ込められた黒い蝶を見張っていた。
孔雀はちゃんと息を吹き返していたが、嘴は開けられないように細いリボンで結ばれていた。黒蝶と対峙した際に一言も発しなかったのはこのせいだったのかとシエラは納得した。
あまりにも悲し気な目で訴えかけてくるので、もう外してやっても良いかと配偶者の少年に尋ねてみたところ、「蝶を食べてしまうといけないから、外さないでね」といい笑顔で言われた。うるさいから外さないで欲しいという意図が透けて見えた。危機が去ったせいなのか、孔雀の扱いがぞんざいになっていた。
「チョウチョいっぱいだねぇ」
カールとミモザが、金属製の虫かごを覗き込んでいる。
大きく枝を広げた木を模した金色の支柱の枝の先に、蔓薔薇のが巻き付いた球形のかごが鎖でつり下げられている。虫かごのイメージがこれだというのだから、配偶者の少年は一体どんな調度品の中で暮らしていたのだろうか。
球形のかごの中では沢山の蝶たちが飛び回っている。すべてカールとミモザが捕まえたものだ。
ふたりは透明なプラスチック製の虫かごを斜め掛けして、大きな虫取り網を持っている。こちらの庶民的な虫取り道具一式はスピカが用意した。彼女は確かにシエラと同じ記憶を持っていた。
カールとミモザは小さな虫かごがいっぱいになると戻って来て、大きな虫かごに蝶を移すということを繰り返している。
「もう一回行く? もう少し休憩する?」
「いくー」
目の前に伸ばされた小さな手を恐る恐るという感じで握ったカールは、子供の体温の高さにびっくりした顔になった。そのままミモザに引っ張られて走り出す。お揃いのつなぎを着た幼女と少年が虫かごと虫取り網を持って駆け回る。その後ろを青い孔雀が追いかける。
虫取り網を持って元気いっぱい走っているミモザの髪と瞳は、シエラより明るい茶色だ。せめて目と髪の色だけは変えてくれとシエラが懇願したためだ。
スピカの方は、金色の髪に青い瞳に変えた。ふわふわっとした柔らかそうな髪も肩甲骨の下くらいまでの長さがある。彼女は中学生の葉月だったら断固拒否したであろうチャコールグレーのお嬢さま風ワンピースを着ていた。白い襟と黒い包みボタンがクラシカルな印象だ。スピカにはとても良く似合っているが、同じものを当時の葉月が着たら……絶対に似合わなかった。
同じ顔でも性格が違えば雰囲気がここまで変わるのか。スピカは物静かで上品な優等生といった感じだ。
「……どうしよう。見事に最低限しか残ってない。これで戻るのかな。結構微妙な所かも……どうしよう……」
そのスピカは手のひらの上の丸い水ようかんを眺めながらずっとため息をついた。「どうしよう」と口にする度に落ち込んでゆく。彼女が大切そうに手に持っている、祖父の大好物の水ようかんが、ミモザの中に残っていた巻貝の記憶だ。シエラにも見覚えがある。お盆の頃にお供え物でもらう、丸いカップに入った水ようかん。
「微妙なところだな……」
砂時計を抱えた守り石の魔物が水ようかんを見下ろしながらぼそりと言う。スピカと守り石の魔物は顔を見合わせてため息をついた。
手の平サイズの守り石の魔物が大切そうに抱えている、同じくらいの背の高さの砂時計。それが巻貝の現在の姿だ。記憶を奪われてしまった彼女は自分の姿を見失い、最後に見たものの姿を取っている。
丸呑みされたりして、一定量の記憶を失ってしまうと、魔女も魔物も自分の姿を保つことができなくなってしまう。そうなると近くにあるものの影響を受けてしまうのだそうだ。スピカとミモザはシエラと同化が進んでしまったせいで、全員同じ顔になってしまった……
島内を自由に飛び回っている蝶たちも、かつて黒蝶が丸呑みした魔物たちなのだ。黒蝶に記憶を奪われてしまった彼らもまた、かつて自分が何であったのかすら思い出せない状態になっていた。
「スピカのせいじゃないよ……確実に私のせい……」
巻貝の記憶を奪って砂時計にしてしまったのは、黒蝶に支配されていた頃のミモザだ。
そのミモザを丸呑みにして記憶を消化してしまったのはシエラだ。
つまり、ミモザが奪った巻貝の記憶は、シエラがほとんど『食べて』しまっていた……
スピカがゆっくりと首を横に振って、頬にかかった金の髪を指先ではらう。仕草までがあまりに違うため、もう自分だという感じが全くしない。
「ちがう。お姉ちゃんは巻き込まれただけだって。お姉ちゃんは悪くない……」
いつの間にかおねーさんからお姉ちゃんに呼び方が変わっていた。喋り方も頭の中で聞いていた時と少し違っている。
お姉ちゃんと呼ばれることに対して、不快感は全くない。妹というよりは、長期休暇の時いつも遊びに来る遠くに住む従姉妹のような感じだ。
「どっちのせいでもない。調査員が彼女のことを覚えているし、店や本部に残っている瓶詰からも少しは記憶を取り出せる。多分何とかなる。ふたりともそこまで悲観するな……」
砂時計を抱えた守り石の魔物がそう言ってふたりを慰めた。砂時計も水ようかんも大変不安定な状態で、魔力で出し入れしない方がいいらしい。だからこうやってずっと手で持っていないといけないのだ。割れたり潰れたりしたら取り返しがつかない。
「もしこれで戻らなかったら、あたし巻貝さんのこと覚えてるひとを探して回る。記憶をかき集めて、何年かかっても絶対元に戻れるようにするから……」
スピカがぐっと手を握り顔を上げて空に向かって宣言した。魔物だった頃も面倒見の良さを感じられたのだが、そこにシエラの記憶が加わったことにより、彼女は責任感が強く大変生真面目な性格の少女となったようだった。
「……巻貝の方は何とかなっても、あの黒蝶とかいう魔女は無理かもしれんな」
倒れた柱に座っているシエラとスピカから少し離れた場所で、巻貝がこうなった原因を作った黒い蝶が瓶に閉じ込められている。蝶は瓶底に止まって動かない。
「自業自得だよ。やりたい放題やったんだから」
冷たい目でスピカが黒い蝶を睨みつけた。
シエラはレースの目隠しをしていた黒い魔女の姿を思い出そうとしてみるが、不思議なことにもう思い出せない。散々悪口を言ったせいなのか、もう怒りも何も感じない。……あ、別の意味で落ち込んできた。
「お姉ちゃん……顔がまた強張ってる。やめて、あたしもまた落ち込んじゃうから」
ようやく前向きな気持ちを取り戻していたスピカが、シエラを見て情けない顔になった。
「いや、私、あんなひどい事ばっかりよく言えたなって……」
そう言った途端に、「ごめん。ちがうからっ」と、慌ててスピカが言った。
「あれ、あたしが言わせてたの。お姉ちゃんだけだったら『ばーかばーか』くらいしか出て来なかったからね」
ふたりは顔を見合わせる。スピカの顔は真剣そのものだった。
「そういえば、あの頃のスピカは結構口が悪かったね……」
可愛らしい少女の口から出た『くそばばぁ』はなかなか衝撃的だった。「ものすごく腹が立っていたんだよ!」とスピカは気まずそうに目を泳がせる。
「でもばーかばーかも、かなりバカっぽい」
もう何を聞いても落ち込む。スピカもため息をついた。だんだんふたりの顔から生気が失われてゆく。
「……そうだよね。どうしたって落ち込む時ってあるよね」
「もうやめろふたりとも」
守り石の魔物がうんざりした声で言った。そして強引に話題を変えた。
「今本部で確認しているんだが、巻貝が持っていた鍵な、あれはあの魔女がカールの母親から奪った『クレイス』という名前のようだ。まだカールには言うな。確認が取れていない」
(やっぱり関係あるのか)
シエラは島内を見渡してカールの姿を探す。島の中心付近で、カールはミモザと一緒になって、その場でくるくる回りながら虫取り網を大きく振っていた。孔雀が蝶を追い立てて、カールとミモザが捕まるという作戦のようだ。明るい笑い声が聞こえて来る。楽し気な様子を眺めながら、シエラはぽつりと尋ねた。
「カール君のお母さんからたましいを奪ったのは黒蝶なのかな?」
「あの魔女にはそこまでの力はない。関わってはいただろうが、『クレイス』という名前だけを何らかの対価として受け取ったと考えるのが自然だな。うまく馴染まず同化しきれなかった部分が『鍵』として残っていたんだろう。……どうやって巻貝がその名前を手に入れたのかまではわからんがな」
また意味がわからないぞと思わずシエラは顔を顰める。
「『クレイス』という名前が、あたしとミモザだと思えばいいよ。魔女は『クレイス』という名前を丸呑みしたんだ。でも『クレイス』はあたちたちと違って魔女の中で激しく抵抗してた。で、何かのきっかけで、鍵という姿になって、外に逃げ出したんだと思う」
スピカが守り石の魔物の後を引き継いで補足説明をしてくれる。だいぶわかりやすくなった……気がする。
「それでも一部は消化され同化していたから、鍵を奪われても、黒蝶はクレイスの力をまだ使うことができたんだ。……例えるならあの魔女は『クレイス』って名前の女王様の仮面を被っていたって感じかな。黒蝶って呼ばれると女王様の仮面が剥がれ落ちてしまう。それをいちいち拾って付け直さないといけない。うっとうしいでしょ。イライラするよね? だから彼女は『黒蝶』って名前で呼ばれたくない。……さぁどうすると思う?」
シエラの記憶を持っているせいで、スピカのたとえ話はイメージしやすい。確かに名前を呼ばれる度に仮面が落ちればそれは腹も立つだろう。そして、イライラしながら考える。仮面を剥がれないようにするにはどうすればいいのか。
嫌な予感をひしひしと感じながらも、シエラは暗い顔で答えた。
「『黒蝶』って名前を知っているひとを全員消す……」
ミステリーでは定番だ。名前を変えて新しく生き直すために、過去の自分を知っている人間をどんどん……あ、思考が怖い方に寄って行く。
顔色を失ったシエラに気付いたスピカが、「ごめん。余計なこと言った。対象者の命までは取ってないから安心していいよ」と、弱々しく微笑んだ。……しかし、何故だろうその言葉では不安が消えない。
「単純に記憶だけを奪っていったんだ。青年の姿に変えた魔物たちに『ゲーム』を持ち掛けさせてね」
青年姿に変えられていたミモザがシエラに持ちかけてきた『ゲーム』のことだろう。そういえば、願いを叶える云々の時点でシエラは激高してしまったため、ゲームの内容まで聞いていない。
「……ねぇ、あのゲームって、参加してたらどうなったの?」
シエラが尋ねると、スピカが一瞬迷ったように目を泳がせた。あまり楽しい話ではなさそうだった。
「……願いを叶える対価として巻貝さんと鍵を引き渡すように言って来たんじゃないかな。あれ、絶対に魔物が勝つようになっているから、後出しじゃんけんででも、お姉ちゃん勝てて良かったんだよ。……実際やってみた方が早いか」
スピカが居住まいを正してシエラに向き直る。彼女は真面目な顔をしてシエラに言った。
「あたしの正体を当てて下さい。もし当てられたらお姉ちゃんの願いをひとつ何でも叶えてあげます。その代わり、不正解だった場合はお姉ちゃんの記憶をひとつもらいます」
「……え? ちょっと待って、正体ってわかるものなの?」
「力ある魔女とか魔物とかは目の中覗き込めばわかる。だから、相手は力試しくらいの軽い気持ちで参加する。でも実は参加する時点で対価を支払わされてるんだ。例えば魔物の正体が『リンゴ』だったとするよね。その場合、参加する対価として『リンゴ』という記憶を相手から先に奪っちゃう。だから目の中を覗き込んでリンゴが見えたとしても、リンゴの記憶がないから形が似てる『梨』って自信満々に答える。で、不正解。『黒蝶』の記憶を取られる」
「思いっきり詐欺だよねそれ」
シエラが呆れた声で言うと。スピカの顔が曇った。そして、少し離れた場所にある虫かごに視線を流す。
「魔女が考えたイカサマだよ。魔物が使う魔法には制約が多いから、こういう詐欺まがいの契約をすると自分の命が削られてしまう。でも、魔女に名前を上書きされた魔物たちは彼女に逆らえないから、命令通りこのイカサマゲームを被害者に持ち掛けて回った。そうやってどんどん命を削られていって、やがて使い物にならなくなると魔女に丸呑みされるんだ。あたしもミモザも、いずれ魔女に丸呑みされることが決まっていた。……でもきっと、消滅するその瞬間まで魔女を恨んで抵抗し続けたと思う」
スピカが心臓の辺りに手を当てて目を伏せる。ひとつ大きく呼吸をして空を仰ぐ。
「あの蝶たちは魔女が丸呑みしていた魔物たちの慣れの果てだけど……ほとんどが怨念なんだ」
シエラは息を飲んだ。スピカは虫かごの中の蝶たちに自分を重ねているのか、とても悲しそうな目をしている。あれだけの蝶を……あれだけの魔物を、黒蝶は使い捨てにして『食べて』いた。もしかしたらもう消化されて消えてしまった魔物もいるのかもしれない。ということはもっとたくさんの魔物を……そう思うとぞっとした。
「自分が消えるその最後の一瞬に抱えているのが怨念って……あたしはすごく、嫌だ」
スピカは静かな声でそう言ってシエラに視線を戻す。
「だから、あたしとミモザは、お姉ちゃんたちにすごく感謝してる。助けてくれてありがとう」
スピカは泣きそうな顔をしていた。胸が苦しくて、「……助けてもらったのはこっちだよ」とシエラは返すのが精一杯だ。
「……ただ、あの魔女はどれだけ手間と時間かけてでも、巻貝さんの存在だけは完全に抹消しようとしてた。余程の因縁があったんだろうね」
スピカが手の中の水ようかんに視線を落とした。ふたりの間に何があったのか尋ねようにも巻貝は砂時計だし、黒蝶は黒い蝶だ。巻貝が無事元の姿に戻れるかどうかは、正直わからない。シエラとスピカがふたたび項垂れかけた時、頭上から穏やかな声が降って来た。
「……はい。ふたりとも落ち込まないの。巻貝さんを戻せるように手を尽くしましょうね」
ふと気付くと、アザレが背後に立っていた。配偶者の少年との話は終わったようだ。シエラは驚いて思わず肩を震わせたが、スピカは気付いていたようで、アザレを見上げて小さく頷いている。スピカの『ありがとう』はアザレにも向けられてたのだろう。
「でも、その前にスピカちゃんに確認ね。孔雀を食べようとしていたのは、あの魔女なのよね? 他の魔物や魔女は関わっていない? ここの孔雀が繁殖期にたまにこうなるって情報が外に漏れてるというのは大問題でね。話を聞きつけてああいう困ったお客さんがやってくるとなると、対策考えないといけないのよね……何しろ今は本当にただの孔雀だから。でも無駄に栄養価が高いのよ」
アザレがやれやれという顔をしている。領域の管理者が何の抵抗もできないおしゃべりな孔雀になってしまっているなんて当然極秘事項だろう。今回のように魔物の襲撃されればすぐに食べられてしまうし、他の森との抗争になればあっさり負けてしまう。
「ごめんそこはわからない、でも、魔女はしばらく孔雀があの姿のままだと知っていた。一度孔雀に戻ってしまうと、どうやったって繁殖期が終わるまで元に戻らないって」
「……相当まずいなそれは。本部でも知ってる者は極わずかだぞ」
守り石の魔物が重々しく呟いた。
「多分誰かに唆されたんじゃないかなぁ。あの魔女は孔雀を食べれば、『クレイス』という名前を完全に自分のものにすることができると信じ込んでたから。ゆっくり巻貝さんをいたぶって消した後で、孔雀を食べるつもりだったんだ。……それなのに、自分よりも格上の魔女が干渉してきたから焦ったんだよ。まずは赤い煙が纏わりつてきて、次に白い煙が巻貝さんを守り始めた」
それは魔女アーラの魔法だ。あの時彼女が言っていた『大当たり』とはこのことだったのか。
「それで管理者や調査員にバレるのを覚悟の上で、強硬手段に出た。別の領域にいたあたしを、急遽この領域に召喚したんだ。あたしだったら、あの配偶者の男の子とギリギリ相打ちくらいには持って行けたと思う。魔女は森保が保安官を派遣してくる前に、今日一日ですべて片付けるつもりだった」
アザレが歩きはじめるのに合わせて、シエラとスピカも立ち上がる。剣のアザレが見張っている瓶に閉じ込められた蝶の元へと向かう。
「自己過信が過ぎたわね……確かに南とかはのんびりしてて、一年くらい平気で放置したりするけど、西は対応が早いのよ。ああ見えて私たちの上司優秀なのよ?」
「嘘ですね」
据わった目でシエラは答えた。ここ一ヶ月の上司のダメっぷりを是非アザレに見てもらいたい。
「……即答ね。でも嘘じゃないの。保安官の数はとても少ない。だから、派遣に時間がかかるというのがこの世界の常識。それに、領域に干渉すると対価が発生するから、そこの交渉が結構難しいの。今も結構時間かかったてたでしょう。お待たせしてしまって申し訳なかったけど、これでも正直早い方。管理者や統治者さんが非協力的だともう拗れに拗れるのよね。シエラちゃんも経験あるんじゃない? サインしたくないってゴネる統治者いたでしょ」
シエラは「あー」と言いながら頷く。『森』の数に対して保安官の数が少なすぎる。それはいつも感じていた。一生かかっても全部の森回り切れないよなと地図を見る度に思うのだ。
訪問先の統治者から歓迎されていない空気をひしひしと感じることもあった。そういう場合はとにかく頭を下げて下げて拝み倒してサインをもらった。毎回最終的には土下座する覚悟で行っている。まだしたことないけれど。
アザレは黒蝶が閉じ込められた瓶の前で立ち止まると、地面に置いてあった瓶を持ち上げた。黒い蝶は微動だにしない。アザレがほれぼれするような笑顔を浮かべた。
「西以外だったらあなたの企みは成功してたわ。選んだ場所が悪かったわね。お気の毒様」
「ざまぁみろ」とスピカが怒りを押し殺した低い声で告げる。
「……さて、どんな感じ?」
剣の方のアザレが、宙に浮かび上がり、レリーフの目を開く。
「ダメだな。ほとんど記憶を失ってる。取れる情報は取ったが大したものは残ってない。あれとの関係性も、『クレイス』ともうひとつの名前をどうやって手に入れたのかもわからん……」
「……そう。仕方ないわね。そうなるともう元の姿には戻れないわね」
その言葉にはどこか哀れむような響きがあった。「私のせいですか?」と恐る恐る尋ねたシエラに対して、「違うわよ」とアザレは優しく笑いかける。
「この魔女は『黒蝶』だった頃の記憶を消しすぎたんだよ。魔女や魔物はね……忘れたり、忘れられてしまうと、消えてしまう。長く生きるけど人間よりずっと不安定な存在なんだ。今黒蝶は、あの蝶たちの怨念だけで存在を支えられてる……」
補足説明してくれたのはやはりスピカだった。シエラは思わず蝶の入っている虫かごを振り返る。恨みだけで留まっている存在と、留められている存在。すべての蝶が怨念の籠った目をこちらに向けているような気がして背筋が寒くなった。
「……で、対価はどうなった? 空飛んだり、空中で魔法使いまくったり結構派手に色々やったぞおまえたち。……上限こえてないんだろうな? ただ働きは絶対に嫌だぞ」
剣のアザレが唐突に話を変える。しかも結構シビアな話だ。シエラの顔が強張った。
領域内で魔法を使うと対価が発生する。守り石の魔物を石から出し入れするだけでも対価は発生するのだ。だから使用の上限が決められている。上限をこえるとシエラの場合は反省文を書かされるが、アザレたちの場合はそんな優しいものではないだろう。今回カールもシエラを守るために魔法を使っていたし、ジオードの守りの魔法は何度も発動していたし、スピカも網やら虫かごやら出していたし……大丈夫だったのだろうか。
「正直ギリギリね。ここの領域は今日をもう一回繰り返して住人の記憶を上書きすることになったわ。それは森保の方でやる。だから、時空間に大きな歪みを生じさせるようなものでなければ魔法使用も許可されました。この魔女も蝶も巻貝さんもこちらで預かっていいって。……守り石の魔物、これ先に本部に送ってくれる? シエラちゃんの書類も出して」
シエラがリュックからフィルを取り出すと、アザレは手に持っていた書類をファイル挟み、黒いレースを取り出した。レースを見た途端に今まで大人しかった黒い蝶が暴れはじめる。あちこちに翅をぶつけながらも瓶の中を激しく飛び回る。
「非常にわかりやすいわね。スピカちゃん。これをしまえるようなものを出せるかしら?」
アザレがレースのリボンを丁寧に折り畳みながらスピカに尋ねた。スピカは右手の手の平を開いて、その上に小さな魔法陣を出現させる。金色に光る魔法陣の中から出現したのは、鍵付きの可愛らしい宝石箱だ。……これも見覚えがある。母が鏡台の中に大切にしまっていたものだ。幼い頃、こっそり鏡台を開けて取り出しては、中身を想像しながらうっとりと眺めていた……
アザレは宝石箱を手に取って、黒いレースのリボンをしまって蓋を閉め鍵をかける。力尽きたように蝶は瓶の底に降りた。
ファイルの上に瓶と宝石箱を置いて、アザレが守り石の魔物のフードの前に差し出す。
砂時計を抱えた守り石の魔物が吸引力の素晴らしい掃除機のように、ファイルと瓶をフードの下の闇の中に飲み込んだ。彼は大変便利な魔物である。
「スピカちゃんありがとう。これでひとつ終了。次は巻貝さんの方ね。お店の方に向かうわよ。それは徒歩。本部へ移動する以外の大掛かりな転送魔法は使えません。さて、あの子たちはここでもうちょっとがんばってもらいましょうか」
アザレが虫取り網を持って走り回っている少年たちと幼女と孔雀を眩しそうな目で眺めた。
いつの間にか配偶者の少年も笑顔で蝶を捕まえるのに参加している。慣れない様子で虫取り網を振って、それでも数匹の蝶が入ったのだろう。カールとミモザが笑顔で拍手をしていた。でも、網に入った蝶を今度は虫かごに入れようとして失敗して……蝶は再び空に舞い上がってしまう。全員がそれを目で追って、またその蝶を追いかけて走り出す。孔雀の嘴のリボンも外されたようだ、明るい笑い声が風に乗ってここまで聞こえて来る。
シエラの視線に気付いた少年が、カールに網を返してこちらに歩いて来るのが見えた。シエラは慌て彼に駆け寄る。
「お体の方は大丈夫ですか?」
「ありがとう大丈夫だよ。あの魔女に名前を上書きされそうになった時、あの魔除けの紋が出す音が聞こえていたから、何とか正気を保つことができた。あなたにはとても感謝してる。手を出してもらってもいい?」
おっとりと笑った少年が手を差し出す。シエラは孔雀の紋が浮かび上がった手を乗せた。
「これはもうあなたには必要ないから……」
そう言って指先でそっとシールを剥がすような仕草をする。シエラの手から浮き上がった孔雀の模様は風に飛ばされるように消え失せた。
「この模様のおかげで、最後まで保安官だと気付かれずにすみました。ありがとうございました」
「お役に立てたならよかった」
少年がきちんと折りたたまれたローブをシエラに差し出す。どこから出て来たのかはさっぱりわからない。考えてもわからないことは考えない。
「本当にすごく心強かったんだ。ありがとう」
「お役に立てたなら良かったです」
シエラが同じ言葉を返すと、少年はくすくすと楽しそうに笑う。張り詰めた気配が消えて、今はとても穏やかな表情をしている。
「奥さん奥さんー。蝶がいたよー」
「いたよーはやくはやくー」
「逃げちゃうよー」
背後で孔雀が飛び上がりながら。少年を呼んでいる。ミモザとカールが大きく網を振っていた。目の前の少年は確実に育ちがいい。網を持って駆け回るようなタイプには見えないから、無理矢理付き合わされているのではないかとシエラは心配になる。
少年は孔雀たちをちょっと振り返って、とても嬉しそうな顔になる。
「こうやって蝶を自分で捕まえるのは初めてなんだ。……近い年齢の子と遊ぶこともあんまりなかったから、すごく楽しい」
「では、カール君とミモザちゃんのことはお任せしても良いですか?」
「うん。ちゃんと蝶も捕まえておくから」
カールとミモザが孔雀の真似をして飛び跳ねながら手招きしている。
大きく片手を振ってから、少年はそちらに向かって走り出した。
「……今はこんな風になってしまっているから、寂しかったでしょうね」
背後からアザレの声がした。完全に吹きっさらしの遺跡しかない寂れた島に孔雀とふたり。いくら孔雀がおしゃべりでも、あれは……話し相手にはならなかっただろうなと思う。
シエラの視線の先で、カールが大きく網を振っている。高い場所を飛んでいる蝶にはあと少し届かなくて、自分より背の高い少年に網を渡している。ミモザが元気に飛び跳ねて応援するのに合わせて、孔雀がバサバサ羽根を揺らしている……
本当にここはもう大丈夫なんだ……ようやくそう実感できて、シエラは大きく深呼吸した。さぁ、次を片付けないと。
きちんと畳まれていたローブを着て、眼鏡をかけてフードも被る。
「こちらはお任せしても良いみたいですから、行きますか?」
リュックも背負って準備万端だ。
「……そうね。行かないといけないわね」
呟くようにそう言ったアザレは微笑んでいるのに、どこか苦しそうに見えた。
とうとう「その1」がついてしまいました。申し訳ございません……




