9 シエラと砂時計
「ゲームをしよう、魔女さん。簡単なゲームだよ。僕の後ろにある砂時計の砂が全部下に落ち切る前に、僕の正体をあなたが見破ればあなたの勝ち。僕があなたの使い魔になってあげる。見破れなければあなたの負け。あなたが不正解する度に、記憶をひとつもらうよ」
半年ほど前、巻貝の夢の中に現れた魔物はそう言って笑った。
満天の星空。いつまでたっても月がのぼらない夜の草原。巻貝は地面に両膝をつけて座り込んでいる。
「ねぇ、魔女さん。もうすぐ時間切れだね」
白い丸テーブルに頬杖をつく魔物の背後に、大きな砂時計がある。椅子に座った魔物の頭の位置がくびれの真ん中くらいだ。残りの砂はもう僅か。
つい昨夜までその砂時計は今よりずっと大きかった。まさに聳え立っているという感じだった。……まだまだ時間は残されている筈だった。
「もう少し遊んであげるつもりだったけど、こういう邪魔が入るならもうやめた。怯えるあなたを見ているのはとても……とても楽しかったんだけどねぇ」
真っ白い服を着た青年の姿をした魔物は、それは楽し気に目を眇めて、片手で賽子を投げる。
「五だね」
そう言って魔物は立ち上がり、巻貝の近くまで歩み寄りしゃがむ。見下ろされている訳でもないのに、心臓が握られるような恐怖に体が硬直する。いつの間にか白いテーブルセットは草原から消え、砂時計だけがぽつんと立っていた。
「ああ、本当に鬱陶しいな」
巻貝はキラキラと輝く白い煙に守られている。繭のように巻貝を包み込んでゆっくりと回転している煙が、頬に向かって伸ばされた魔物の手を押し戻す。
魔物の顔が不快そうに歪んだ。この煙のせいで魔物は巻貝に決して触れられない。
力ある魔女の魔法だ。……ずっとずっと、こういう魔法を使える魔女になりたいと思っていた。
「もう少し小さくしてしまおうか。ねえ答えて。僕の正体は何? まずは二つ」
「ワイン」
答えたくないのに、口は勝手に言葉を吐き出す。
「違う」
「蒸留酒」
「違うね」
答えを間違える度に砂時計は縮んでいってしまう。
真っ青な顔をして震えている巻貝を、魔物はいたぶって遊んでいる。
「この砂時計の砂が落ち切る前に、あなたが僕の正体を答えられれば、あなたの勝ち。僕はあなたの使い魔になる。でも、答えられなければあなたの負け。あと三つ答えて」
その言葉に巻貝の顔が引きつる。いくら煙が守っていてくれても、砂時計の砂が落ち切ってしまえばこのゲームは魔物の勝ち。巻貝は消える。
「日記帳」
「違う」
「オーブン」
「いいや」
「ミルクパン」
「残念。ねえ僕は何だろう。いつもあなたが目にしているものだ。簡単だろう?」
毎晩夢の中で問いかけられた質問。この半年間、ありとあらゆるものの名前を答えていた。動物の名前に花の名前、果物の名前……道具の名前。
それらすべてが「違うよ」と意地悪な笑顔で否定された。……あと言っていない名前は何があるのだろう? 思い浮かばない。砂時計がどんどん小さくなってゆく。すでにしゃがんだ魔物と同じくらいの高さだ。
残された時間はあと何分? 頭の中はもうそれだけ。
こうやって砂時計の大きさを変えられてしまうのなら……最初から勝ち目などなかった。
どうしてこんな魔物に騙されてしまったんだろう。やっぱり自分は出来損ないだ。
巻貝は目に涙を溜めて星空を仰ぐ。
赤い尾を引いて星が流れた。それが巻貝に向かって落ちて来る。
ちがう。……星ではなく、赤い煙に巻き付かれた黒い蝶だ。
「本当に鬱陶しい」
巻貝の目の前で、黒い蝶は女性に姿を変える。纏わりつく赤い煙を散らそうと、彼女は手に持った黒いレースの扇で忙しなく自分をあおぎはじめた。赤い煙は風に吹き飛ばされるがすぐに舞い戻って来て、彼女の体に再び纏わりつく。そのくり返し。
「黒蝶」
巻貝が茫然とその名を呼ぶ。女は目の前の魔物とそっくりな、意地の悪い笑みを浮かべた。
「あら、懐かしい名前で呼んでくれるのねぇ? でも独り立ちした時にもうその名前は捨てたの。でも、あんたは相変わらず、時間に取り残された巻貝のまま。ふふっ。本当に似合いの名前よね」
高慢で美しい魔女だ。一時期同じ師についていた才能あふれる若い魔女。膝下まである豊かな黒髪。真っ黒なドレスに身を包んで、黒いレースで目隠しをしている。青白い顔の中で、真っ赤に塗られた唇が一際目を引いた。
「……この煙の材料、酷い匂い。一体何なのよ? 全くわからない。わからないからはらえない」
休みなく自らをあおぎながら、黒蝶はイライラと足を踏み鳴らす。
「さっさとその出来損ないを食べてしまって。そうしたら望み通りにおまえを私の使い魔にしてあげる」
その言葉で巻貝はようやく気付いた。最初からこの魔物は巻貝の使い魔になる気などなかったのだと。
この魔物は、黒蝶の使い魔になるために巻貝を謀ったのだ。
美しく才能あふれる黒蝶には、使い魔にして欲しいと向こうから魔物がどんどん寄ってくる。だから黒蝶は使い魔を次々と変えた。
飽きられた使い魔は黒蝶に丸呑みにされてしまっていた。残忍で……でもそれ故に急速に強い力を手に入れていった魔女。強くなればそれだけ強い魔物が寄ってくる。黒蝶はその魔物を食べてさらに力を手に入れる。
巻貝はどうしても魔物を食べることができなかった。自分が自分でなくなってしまいそうで怖かったのだ。だからずっと弱いまま。いつまで経っても使い魔になってくれる魔物が見つからなかった。
ふたりの師である魔女は、それもひとつの道だと笑っていた……
そうだ……黒蝶は知っている。どれほど巻貝が使い魔を欲しがっていたのか。
出あう魔物出あう魔物すべてににべもなく断られて落ち込む巻貝を、この魔女はいつも近くで見て嘲笑していた。
黒蝶はこの魔物に……自分を食べろと命じたのか。
使い魔になってやると言えば、巻貝が簡単に釣れるとこの魔物を唆したのか……
「その扇で、こっちの煙を吹き飛ばして欲しいんだけどな?」
「いやよ。匂いが酷いのよ。一瞬だって耐えられない。私の使い魔になりたいなら、そのくらい自分でなんとかなさい」
魔女は自棄を起こしたように扇で自分をあおぎ続ける。赤い煙が風に流され四方に散る。でも消えない。すぐにまた魔女の元に戻ってゆく。
確かに不思議な匂いだ。でも、目の前の魔女程受け付けないという訳でもない。古い傷跡が不意に痛み出した時のような感覚に似ている。記憶の奥底に沈んだ悲しい記憶に繋がっているような、甘い匂い。
巻貝を守っている白くキラキラと輝く煙は、いつも作っていた保存食の匂いがする。
森林保安協会に委託されて作っていた人間用の瓶詰。最後に納品したのはいつだった?
記憶に穴が開きすぎた。何もかもが曖昧だ。
(もう……いい)
諦めの気持ちが恐怖を消してゆく。巻貝の顔から表情が失われる。
(もう……もう何も考えたくない……)
このまま砂が落ちるのをただ待てばいい。それですべては終わる。巻貝が自分の膝をぼんやりと見つめながら俯いていると。どこかで扉が開く音がした。ここは草原の真ん中なのに。
「よその村の人間が紛れ込んだみたいでね。えらく上等な服を着ていたけど、この霧の中まっすぐこの店に向かって来るってことは、あんたのお客さんかしらねぇ?」
巻貝はのろのろと顔を上げた。にやりと黒兎が口の端を吊り上げる。
「あんたを心配して訪ねて来てくるような物好きもいるのね。でも、あんたはその人間にももうすぐ忘れられてしまうの。可哀想。……ねぇ、どんな気分? もう誰もあんたの事を覚えてない。もう誰も必要としていない。もうすぐあんたは完全に消え失せる。私もようやく忘れられる。ああ、本当に清々する。あんたが存在した証なんてなーんにも残らない。あんたなんて最初からいなかった。ああ最高に気分がいいわね」
黒蝶が楽し気にそう言った途端に、すべて諦めたはずの心が『嫌だ!』と叫んだ。枯れたと思っていた涙が目からあふれ出す。
何も残らない。誰の記憶にも残らない。
どうしてそれがこんなに恐ろしいことなのかはわからない。悲しいのかもわからない。
でも、怖いのだ。跡形もなく忘れ去られてしまうことが。……自分が自分でなくなってしまうことがたまらなく恐ろしい。
巻貝から少し離れた場所。黒蝶とその使い魔が立つ背後に、まるで空間を切り取ったかのように白い長方形が出現した。
巻貝はその白い空間を泣きながら凝視する。
中心に立っていたのは、一目で上等だとわかる服を着た、眼鏡をかけた若い女性だった。常連客ではない。知らない人間だ。でもこの霧の中、わざわざ訪ねて来てくれたのならば、それは……
(待って、今日は何日?)
次に森林保安協会に納入する日はいつだった? そうだ。普通の人間がここまで辿り着ける訳がない。きっと彼女は森保の関係者だ。今自分を守ってくれているこの煙も、きっと……
(まだ私を覚えてくれている人がいる)
でも、あの砂が落ち切れば忘れ去られてしまう。絶望と希望が心の中で激しくぶつかり合う。
白い長方形の光の中から身を乗り出した女性は、草原を大きく見渡して……
「誰もいない……?」
ぽつりとそう呟いた。そして、左手で軽く眼鏡の軸を持って、角度をつけるように押し下げた。その状態でもういちど周囲を見渡し始める。目と目が合った気がした。その瞬間に若い女性は目を閉じて眼鏡を元の位置に戻す。
黒蝶と魔物はその様子を嘲笑いながら眺めている。
「成程」
彼女は頷いて、一瞬自分の手の首の辺りを見てから、少し考えるような仕草をした。
「……単純に力の差?」
独り言を言って、身を乗り出すようにして手を伸ばした。
「巻貝さん、手を!」
そう声をかけられた瞬間、絶望に希望が打ち勝った。しびれたような足は上手く動かない。それでも地面に倒れそうになりながらも何とか立ち上がる。キラキラと輝く煙が巻貝の右腕に絡みつき、腕を前に引っ張る。あの手を取れというように。
「行かせてはダメ!」
黒蝶が叫んだ途端、赤い煙が彼女の顔をすっぽりと覆った。赤い煙を大量に吸い込んだ黒蝶は激しく咳き込む。
巻貝の前に立ちはだかっていた魔物の気がそれる。黒い魔女が体を二つに折って苦し気に咳き込んでいる。喘ぐように息をする度に、赤い煙がさらに黒蝶の体に吸い込まれてゆく。
魔物は慌てて黒蝶に駆け寄り、草の中に落ちていた扇を拾い上げた。強くあおいで赤い煙を散らそうとするのだが、黒蝶に纏わりつく煙は消えない。
走る巻貝と座り込む黒蝶がすれ違う。その瞬間、黒蝶の口から金の鍵が吐き出され、草の中に落ちる。
『その鍵を拾って!』
頭の中に知らない声が響いた。巻貝は数歩戻って鍵を拾う。させまいと、咳き込みながらもものすごい形相で黒蝶が手を伸ばしてくるが、巻貝を守る煙に阻まれる。鍵を握りしめて走る。反対の手を必死に伸ばす。
指先があたたかいものに触れた。すぐに手を掴まれ、体が白い光の方へ引っ張られる。一瞬視界が真っ白に染まる。
足もとは草原ではなく巻貝の店の床だ。
「と……り……かえせっ」
黒蝶が掠れた声で必死に魔物に命令する。魔物が手に持った扇で巻貝を守る白い煙をはらう。肩を強く掴まれて草原の中に引きずり戻されそうになる。
間近で視線がぶつかる。
巻貝は痛みに顔を顰めながらも、意図せず魔物の目の中を覗き込んでしまう。
黒い瞳の中に、砂が今にも落ち切ってしまいそうな砂時計が見えた。
「砂が……落ちてしまう」
あえぐように呟いたその時、砂時計が遠ざかり、魔物の顔になる。魔物が信じられないというように大きく目を見開いて、ゆっくりと仰向けに倒れてゆくのが見えた。
巻貝の手を離した娘が草原に降り立ち、魔物を力いっぱい突き飛ばしたのだ。
扇の風に散らされた白い煙が舞い戻って来て、倒れてゆく魔物の顔の前に集まってゆく。白い煙を吸い込んだ魔物が咳き込む。肩から魔物の手が外れる。
嗅ぎなれた自分の料理の匂いがする。
そうだ。出来上がった料理を熱湯消毒した瓶に詰めて蓋をして……それから、大鍋で煮て脱気するのだ。時間を測るために早く用意しなくては。砂時計をひっくり返して時間をはからないと……
「砂時計」
何故、今までずっと目の前にあるのに気付かなかった? 目の前にあるからこそ違うと思い込まされたとでもいうのだろうか。
巻貝の目の前で、魔物は両手で包み込めるサイズの砂時計に姿を変える。傾きながら草原に落下してゆく。中の白い砂はすべて落ち切ってしまっているように見える。
草原に座り込んでいた黒蝶が勝ち誇ったように笑った瞬間。空っぽだった方のガラス管に白い煙が入り込む。ガラスの中で渦を巻いていた煙はキラキラと輝く砂となって、砂時計の中を流れ落ちはじめた。
「なっ」
黒蝶が口元をひきつらせる。
「守り石の魔物。巻貝さんを隠して」
誰かが叫んでいる。巻貝の視界は真っ暗になった。
眼鏡をかけた状態で見えたのは黒っぽい古めかしいキッチンだった。まるで博物館の展示品のように、もう長い間使われた形跡がない。
眼鏡を少しずらすと見えたのは、夜の草原だった。
子供の身長くらいの大きさの白い砂の砂時計が草原に立っている。その奥に、キラキラした煙が巻き付いている小柄な女性が座り込んでいた。泣いている。
彼女の前に、黒いドレスの女と、白い服を着た青年が立っていた。
(……え? ちょっと待って、何匹いるんだ?)
害虫扱いならば助数詞は匹でいいだろうか。そんな事を思いながらも、とりあえず眼鏡を戻す。文字盤の色は赤だ。でも文字盤の放つ光が弱い。つまり、あの魔物は、先程船着き場で遭遇した魔物程強くはない。……どちらにせよ脆弱な人間のシエラには手も足も出ないのだが。
座り込んでいたのが魔女巻貝だろう。アーラの煙が彼女を守っているように見えた。小柄でとても可愛らしい感じの女性だった。
(水族館の時ほど巧妙に隠されてはいない)
「……単純に力の差?」
思わず口に出してしまった。蛍石の森の統治者フリュオリネ(息子)より、この空間を作り出した魔物の力が弱いという事か或いは……
(性格の悪さとか)
カールの身内を悪く言って申し訳ないが、あの男はやることなすこと最悪だった。
草原に降りようとしたが、足が踏み出せない。……入れないという事か、或いは入るなということなのか。
アーラの前に急に声が出なかったように。
孔雀の前で左指に鋭い痛みが走ったように。
そして、先程扉の前で腕を後ろ引っ張られたように。
「巻貝さん手を!」
見えたという事は、水族館の時と同じで多分届く。シエラはキッチンに向かって手を伸ばした。
右手を差し出して、守り石を握りしめた左手で少しだけ眼鏡をずらす。白い煙を纏った魔女が立ち上がってこちらに必死に走ってこようとするのが見える。
「行かせてはダメ」
黒いドレスの女が叫ぶ。リンゴ飴の匂いがふわっと漂い、女が突然激しく咳き込んだ。苦し気に地面に膝をついて体を折る。
(あの煙、あれ、……私の血?)
時忘れの香と同じ色同じ匂いの煙。あれはきっと……カールの母親の行方を占ってもらった時に燃やされた、シエラの血で作られた赤いカードから出た煙だ。
(あの女性が、カールくんの母親を謀った……魔女?)
そういえば、コンパスの金の針が妙な動きをしていた。
(え? ええ? どうしたらいい)
目の前にカールの母親の行方に関係する魔女がいる。
内心焦るが、足が動かないのだから今は巻貝に手を差し伸べることしかできない。左手の守り石を脇ポケットに滑り込ませ、ドア枠を掴むと、ドアの向こう側に身を乗り出す。眼鏡が元の位置に戻ってしまう。目の前には空っぽのキッチンがあるだけだ。そこに向かって必死に体と腕を伸ばす。
触れた! と思った瞬間に手を掴んで店側に引っ張り込む。
「砂が……落ちてしまう」
喘ぐような声が耳のそばで聞こえた。その途端今まで動かなかった足が動いた。気付けばキッチンに足を踏み入れていた。調理台の上にちいさな砂時計が置いてある。もうすぐ砂が全部落ち切る……
シエラは調理台に駆け寄ると。慌てて砂時計をひっくり返そうとして、焦るあまりに掴み損ねる。砂時計が倒れてゆく。倒れる間に最後の砂が落ち切ってしまう。
(間に合わない……)
……その時、シエラの苦手な瓶詰の匂いがした。白いキラキラとした煙が砂時計の中に入り込み、光り輝く砂に変わり流れ落ち始める。
そして、カタンと調理台にぶつかる音。
ほんの数粒の光る砂が……倒れた砂時計の左側に残されていた。
(……ん? ってことは、ひょっとして、もう煙が巻貝さんを守っていない)
シエラはポケットから守り石を取り出すと、振り返りもせずに慌てて命じた。
「守り石の魔物。巻貝さんを隠して」
そうしてから振り返る。背後には誰もいない。手の中に守り石もない。何が起こったのかもよくわからない。目の前の調理台の上にあったはずの砂時計も消えている。
「おまえ、何をした。巻貝をどこにやった! 鍵を……鍵が」
突然鼻先数センチのところに、黒いドレスの女が現れる。何か出た! と思った瞬間にはシエラは踵を返して走り出していた。逃げ足には自信がある。そうでなければこれまで生き残れなかった。
「鍵を返せ!」
キッチンを出て店に戻りそのまま扉を押し開けて外に転がり出る。外は相変わらず霧で何も見えない。よろめくように二三歩前に進んで……もう足が前に出なくなる。
背後を振り返っても真っ白なだけだ。行くことも戻ることもできない。一歩踏み出した先が地面とは限らない。壁があるなら激突するし、階段なら転落する。怖い。やっぱりホラー映画だ。泣きたい。背後からにゅっと腕とか出てきたらどうしよう。
(もうやだもうやだもうやだ……怖い無理)
頭の中はそれしかない。泣きそうになりながら胸の前で両手を組んで左手の指輪に触れる。
「ねえ人間のお嬢さん、ゲームをしよう」
「ひっ」
突然頭の上から声が降って来た。心臓が口から飛び出しそうになる。バクバク音を立てている心臓を押さえながら、空を仰ぐが白いだけだ。何も見えない。
「あなたの欲しいものを僕は用意できるよ。どんな願いも叶えられる」
「絶対できない」
シエラは怯えながらも空に向かってキッパリと否定した。
「できるよ。あなたの望みはなんでも叶えてあげられる」
甘く纏わりつくような声だ。それがシエラの神経を逆立てた。
用意なんてできる訳がないではないか。シエラの欲しいものはここにはないのだから。食べるものにも不自由しているんだこっちは。
「できないっ。できるわけがない」
気付けば声の限り叫んでいた。
「できるよ。だからゲームをしよう? 僕はあなたの願いを叶えられる」
甘い甘い猫撫で声。かっと頭に血が上った。簡単に願いを叶えるなんて言うな。期待させるな。
「欲しいものを何でも用意するし、どんな願いも叶えるよ。僕は魔物だからね」
それはそうだろう。魔物には人間の欲しがるものなんて簡単に用意できる。
心を、記憶を読めばいい。
そうやってジオードはシエラの願いをいつも叶えてくれた。
でも、ジオードはちゃんと理解していた。シエラの一番の願いを叶えられないと。
(……わかってる。私の願いは叶わない)
あの夏から、どのくらい時間が経過しているのかわからない。戻る方法も知らない。
「嘘をつくなっ。絶対無理。叶えられる訳がない。人間の気持ちなんて何一つ理解できないくせに適当なこと言うなっ」
両手を強く握りしめる。浅い呼吸を繰り返す。押さえ込まなければ。また、自分は立ち上がれなくなってしまう。
「勝手に人の記憶を読むな。盗むな。利用するな」
最初低く呟くようだった声が、どんどん大きく高くなる。自分の声に余計に感情が煽られる。
どれだけの夜を泣き暮らしたと思っているんだ。朝が来る度に絶望した日々を……思い出させるな!
「全部、全部もう戻ってこないものを……大切な記憶を勝手に利用して。果たせない約束ばかり増やして、何が願いを叶えるだふざけるな。思い出は誰にも渡さない。誰にも汚させない。私の記憶は私だけのものだ。私の欲しいものが用意できるというなら、今すぐ用意してみればいい。出来る訳がない」
借りたバス代も水族館の入館料も兄に返せない。びしょ濡れで「また明日ね」と笑った親友にはもう会えない。母の作るお弁当はもう食べられない。雨は夜までに上がっただろうか。雨は降らないという言葉を信じて傘を持たずに仕事に出かけた祖父と父は濡れなかっただろうか。もう、傘を持って迎えに行くこともできない。特売のメロンパンは食べられない。
「本当に最悪だ。カール君やフリュオリネさん身内を悪く言って申し訳ないけど、やっぱり許せないっ」
涙が溢れ出す。悔しくて悲しくて、正座して空に向かって泣き叫ぶ。邪魔な眼鏡は乱暴に外して顔を両手で覆って。絶叫する。
「やれるものなら今すぐやってみせろっ。ゲームだろうとなんだろうとやってやる。私を元の場所に戻してみせろっ。できないものに用はないっ。私に話しかけるな。今すぐ消えろっ」
叫びすぎて声が割れる。泣いて泣き続けて……意識が真っ暗になる。
……かえりたい。おねがいかえらせて。
願いはいつもひとつ。でも、本当はわかっている。
時間は戻らない。
だから、思い出の中で暮らしながら、思い出さないようにしていた。
フリュオリネ(息子)によって、高校二年生の夏に戻された時……その場所の居心地の悪さに驚かされた。
ずっと会いたかった人たちに会えたのに、まるで醒めない悪夢の中にいるようだった。
あの時……シエラは、自分はもうすっかりあの頃とは違うものになっていたと気付かされたのだ。
フリュオリネ(息子)がシエラを閉じ込めた偽物の記憶は、葉月が高二の時の夏の記憶をもとにしていた。
でも自分は……もうあの頃の葉月ではなかった。時間は流れ続けていた。
葉月はどんな言葉遣いだった? 家族とどんな会話をしていた?
しっくりこない。思い出せない。もう忘れてしまった……
(例え戻れたとしても……すべて元通りではない、なんて)
認めたくなかった。怒りを必死に燃やして、これは偽物だと言い聞かせた。
『いつかっていつだよ』
兄の声がする。
いつかはいつか。
――待っていて。私は……決して忘れないから。でも……
みんなが待っているのは高校二年生の葉月かもしれない。
だけどもう自分は違うのだ。どれくらい時間が流れた?
この世界での記憶が、あの夏以前の思い出を過去に押し流してゆく。
――私はもう葉月とはちがうものになってしまった。
『それ以上考えるな。もうしばらく忘れてろ』
遠くからジオードの声がする。心配そうな、悲し気な声。その言葉が頭の中で繰り返される。
『ごめんな……気付いてやれなかった。どうしても、うまく消せない』
どうしてジオードが謝るのかわからない。寂しくて辛くて余計に悲しくなる。胸が痛い。痛くて苦しい。
「シエラちゃん、落ち着きなさい」
聞こえて来たのは、耳に心地よい低い声だ。どこかで聞いたことのある声。穏やかでとても優しい。
「シエラ、シエラ、泣かないでっ。ごめんね。ごめんなさいっ」
次に聞こえて来たのはカールの声だ。どうしてカールが謝るんだろう。ジオードもカールもどうして謝っているんだろう。
「ごめんっ。ごめんなさいぃ……」
カールが泣いている。カールが……泣いている? 何故?
はっと意識が戻る。ぼやけた視界の中、シエラの目の前に誰かがいる。瞬きで涙を散らす。カールがシエラの目の前で座り込んで泣いている。
(……え?)
喉が痛い。咄嗟に声が出ない。
「カール……く……ん?」
絞りだした声は、ガラガラだった。
「シエラごめんっごめんなさいっ」
「え……と……」
カールが泣いている。ちいさい少年が泣きじゃくっている姿は痛々しい。
顔を真っ赤にして涙をボロボロ流している。何故?
「ちょっと、……けほっ。カール君……待って……どうし……たの?」
「シエラが泣いてるの、あにうえが……ごめんなさいぃ」
その言葉を聞いた途端に一気に頭が冷えた。
「カール君のせいじゃないからねっ!」
思わずカールの両肩を持って、まっすぐ目を見て言い聞かせる。ガラガラの声で言い切った瞬間に喉に激痛が走って咽た。咳き込むシエラに、カールはびっくりして泣き止むと、慌てて背中を撫ぜ始める。シエラはポケットからタオルハンカチを出すと、口元を押えた。
「シエラ、シエラ大丈夫? お水飲む? えっと、ちょっと待ってね」
コップに入れた水がシエラの目の前に差し出される。咳が治まるのを待ってから、ゆっくりと水を飲む。冷たい水が喉に染みる。
一息ついて、手の甲で涙をぬぐう。コップをカールに返すと、リュックからタオルを取り出す。大きなタオルに顔を埋める。柔らかい肌触りと慣れた匂いに安心する。
……こだわって洗濯をしてこだわって干すと、タオルもここまで柔らかくふんわりするものらしい。
「……カール君、どうしてここに?」
顔を押さえたままなのでくぐもった声になる。
「シエラが急にお仕事に行くことになったからって、アザレさんが迎えに来てくれたの。この『森』には少し前に着いていたんだけど、シエラがどこにいるのかわからなかったんだ。でも叫び声が聞こえたから……ごめんねシエラ。あに……」
……いや、その先はもう聞きたくない。シエラは自分の顔の前で手のひらを広げた。
「カール君。本当に申し訳ないのですが、また腹が立ってくるので、一旦終わりにしましょう」
タオルを目から離して真顔でお願いする。やっと落ち着いたのにまた変なスイッチが入ってしまいそうだ。リュックの中からもう一枚新しいタオルを取り出してカールに手渡す。
「カール君もお顔を拭いて下さいね。これ、ジオードが洗濯したやつなのでふわふわです。……で、魔物、魔物どうなりました?」
「……消えたわよ。シエラちゃんが消したの」
落ち着いた声が降って来た。ふと顔を上げると、大柄な男性が立っている。まず目を引いたのは、派手としか言いようのない真っ赤な髪だった。背が高く体格も良く声も渋くて素敵なおじさまだ。年齢は四十代くらいだろうか。立ち襟の軍服を着ている。上着は紺色でズボンは黒。これで上着が赤で大きな黒い帽子を被ると、元の世界の時計塔が有名な国の衛兵っぽい感じなのかもしれない。洋画に出て来る俳優さんのように素敵な人だ。ぼんやりと見つめてしまう。
「……アザレ、さん?」
「そうよ。直接会うのは初めてよね。定期連絡では話しているから、不思議な感じはするわね……こんなちいさなお嬢さんだったなんて」
「……魔物は私が消した?」
シエラがおずおずと尋ねると、アザレが厳しい表情になった。
「……多分無意識だったと思うのだけど、もうやってはダメよ。今回はたまたまうまくいったけれど、本当に危険だったの。シエラちゃん、自分が何を言ったのか覚えてないわよね」
確認するように問われて、おずおずと頷く。
「……願いが叶えられないのなら消えろとか言った覚えはあります」
思い返してみても、確かに感情のままに叫んだために何を言ったのかはあまり覚えていない。アザレはやれやれと言いたげな顔になった。
「言葉は魔法になるの。例えば、相手に『嘘をつかせない』方法は最初から教えられていたわよね」
「はい。上司から、相手がもし嘘をついている様子なら。『嘘をつくな』と言えばいいと」
アザレは確実に魔物ではないなと、シエラはこの時点で気付いた。難しい事をきちんと説明しようとしてくれる人物は、基本的に魔物ではない。
「それは、保安官は誰もが使える言葉の魔法なのよ。保安官に絶対に必要な力は、嘘を見抜いて封じる能力なのね。わかるかしら?」
「……言葉は魔法だと、『針と迷路の森』で言われたので、何となく」
言葉はひとつの魔法で、与えることも奪うこともできると『針と迷路の森』の管理者であるセリアナは言っていた。実際シエラの言葉でセリアナの服は婚礼用のドレスに姿を変えた。
あれと同じ事が起こったというのだろうか。
それはつまり……
「……まさか私が消えろと言ったから消えた訳ですか?」
「消えろと命じれば消える訳じゃない。今回条件がきれいに揃った。その条件は今まだ言えない。シエラちゃんはにはまだ使いこなせない。失敗した場合にうしなうものが大きすぎるから知らない方が良いわ。魔女や魔物に会ったら沈黙する。これが一番安全ね。その指輪が常にあなたを守っている。でも今回は怒りが強すぎてその指輪の制止を振り切ってしまったのね……」
シエラは思わず左手薬指の黒い指輪に視線を落とした。その途端、アザレがとんでもない事を言ったのだ。
「あのね、言いにくいんだけど、シエラちゃんは今、魔物を『食べた』状態なのよ」
「……は?」
「シエラちゃんは……魔物を食べてしまったの」
意味がわからないシエラのために、アザレはもう一度ゆっくり丁寧に繰り返してくれた。
「……吐き出したいです」
シエラは一瞬にして顔色を悪くした。
「残念ながら……今は無理ね」
非常に同情的な目でアザレがそう返した。
「どどど……どうなるんですか? お腹壊したり……」
シエラはタオルを固く握りしめながらガタガタと震えだす。
「……は、しないから大丈夫。なんだけどねぇ。こればっかりは説明のしようがないのよね。私魔物じゃないからわかんないのよ。守り石の魔物とかに聞けばわかる……わけがないわね……カール君説明できる?」
「……えーと、ちょっと時間をください」
弱り切った顔をしてカールは答えた。
「そうよね。魔物にとっては当たり前すぎるのよね……人間が、ご飯を食べるのと同じ感じ」
「多分、色々な変化があると思う。シエラが食べた魔物がどのくらい長く生きていたかにもよるけど。魔物の記憶が取り込まれるの。えっと……深く考えちゃダメだからね。お野菜やお肉だと思えば大丈夫だから。『夜と洋灯の森』のごはん美味しいよね?」
カールが、引き攣った作り笑いを浮かべてそう言った。ものすごく気を使われているのはわかった。
「カール君はご飯を食べますよね」
『夜と洋灯の森』で、カールは魔女アーラの作った食事を美味しそうに食べていた。
「父上が食べるから。父上は魔物的な食事があんまり好きじゃないの」
カールの返答に、シエラの顔色はますます悪くなった。
「……元人間なフリュオリネさんが好きではないことは、きっと私も好きにはなれないですよね」
思わずシエラは胃の辺りを押さえた。吐き気はしない。満腹感がある。余計に怖い。
「今回は事故だから仕方がないわ。それでシエラちゃん助かったんだしね。……でも、そうね、フリュオリネならきっと取り出せるから、この仕事が終わったら、一緒に『蛍石の森』に行きましょう。ちょっとの間気持ち悪いかもしれないけど我慢してね」
「うん。消化には結構時間がかかるから大丈夫だよ。んーとね。ほら、果物って収穫しても樹は残っているでしょう? 魔物の場合も、基本的に食べるのは実の部分だけなの。だけどシエラは今回樹ごと丸呑みしてる感じなの。実は消化されちゃうんだけど、樹の部分に関しては相手が抵抗すれば抵抗するだけ消化は遅くなるの。諦めの悪い魔物だったら取り込まれずにそのままずっと残ってるから大丈夫」
カールが一生懸命言葉を選んでくれているのはわかる。だが、消化という言葉は使って欲しくなかった。……できれば諦めの悪い魔物でありますように。取り込まれないように必死に抵抗して下さい。どこに向かって言えば良いのかわからないので、胃の辺りをさすりながらそうお願いした。
「……なんかすごくいや」
涙目になりながらシエラはぽつりと言った。でしょうね。と、アザレは曖昧に笑った。
「じゃあ、さっさと終わらせましょうね。まずここを出ましょう。守り石は?」
再び泣き始めたシエラの頭を撫ぜながら、アザレは幼い子供をあやすような優し声で尋ねた。
「巻貝さん隠してもらってます」
「じゃあ、そのままにしておいたほうがいいわね。霧が晴れないってことは、この霧はシエラちゃんが食べた魔物の仕業ではないわ。とりあえず、カール君、飛ぶわよ」
「……え?」
シエラの顔が引きつる。飛ぶと酔うから飛びたくない。
「多分もう酔わないよ。さっき食べた魔物の記憶が同化し……」
カールが、もうどうしていいのかわからないという顔で言った。
「いぃやぁぁぁぁ」
シエラがタオルに顔を押し当てて叫ぶ。もう「食べる」という言葉を使うのはやめて欲しい。精神衛生上非常によろしくない。
「うん……わかるけど、今はどうしようもないから落ち着いてね。フリュオリネにさっさと取り出してもらうために、早くお仕事終わらせましょうね」
素敵なおじさまは感じよく笑ってシエラにそう言った。