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8 シエラと青い孔雀

 

「開くのは恥ずかしいんだ。求愛行動だから……」


『硝子と忘却の森』の管理者は、よく喋る陽気なオスの孔雀だった。声変わり前のソプラノの声が可愛いらしい。

 書類に書いてある管理者の名前は『孔雀』だった。そのまんまである。孔雀にサインさせるのは無理そうだったので、上陸早々ファイルとペンは配偶者に手渡した。配偶者はざっと目を通してすぐにサインをしてくれた。

 サインされた書類は、守り石の魔物のフードの下に飲み込まれた。五分もかからずシエラの仕事は終わった。


 ボートは陸に上げてある。これで誰もこの島には上陸できない……はずだ。


 湖に浮かぶ島の上には、真っ白な大理石で作られた、朽ち果てた神殿らしきものがあった。緑の草原の中に、円柱が何本も立っているのだが、途中で折れたり崩れたりしていて、元はどんな建造物だったのか、想像もつかない。


 配偶者が改めてじっくりとファイルの中身に目を通している。サインされた書類の他にも何枚か紙が挟まれていたのだ。

 邪魔にならないように、シエラは少し離れた場所で人懐っこい孔雀と親睦を深めていた。


 失礼にならないように、船が上陸する前にフードと眼鏡は外している。こんなに間近に孔雀を見たのは初めてだ。なんて艶やかな青だろう。濡れたように輝いている。長い青緑色の飾り羽は、ざわざわと揺れるだけでもなかなかの迫力だ。沢山の青緑色の瞳に見つめられているような気分になる。大きく開いた状態で追いかけられたら……かなり怖いに違いない。


「孔雀の羽根って魔除けになるんですよね! 綺麗ですねぇ」


「……うーん。効果あるのかなぁ。期待されると困るんだ。僕強くないから。所詮鳥だし……」


 確かに、脆弱な人間のシエラより弱そうだ。どこをどうみても孔雀にしか見えない。決死の覚悟でオールを持って挑めばシエラでも倒せそう……

 しかし、相手は領域の管理者だ。こんなに人懐っこくて優しそうで弱そうに見えるけど、実は強いのかもしれない。見た目は大変神々しい。


「キラキラ光ってますね。綺麗な青ですね。頭の上の羽根も王冠みたいですね」


「ええ~。そうかな、そんなに綺麗かなぁ」


 照れる孔雀。首を揺らして飾り羽をゆさゆさ振りながら、落ち着きなくその場をぐるぐる回り始める。


「あのね、僕ね……本当に、そんな大したもんじゃないから……」


 そうは言っているが、大変嬉しそうである。……和む。


「……うん。この内容なら大丈夫。うちとしては問題ないよ」


 折れた柱を椅子代わりして書類を読んでいた少年が顔を上げた。女性的な顔立ちだが声は孔雀より低く、外見年齢よりずっと大人びた話し方をする。額と両手の甲に孔雀の羽根の模様が描かれていた。褐色の肌に青と青緑がよく映える。人間っぽいが人間かどうかはわからない。深緑色の膝丈のシャツを着て裾を絞った白いズボンを履いている。


 孔雀はそれはそれは嬉しそうに「奥さんです」とシエラに紹介してくれた。……少年は物憂げな表情でため息をついていた。不本意ではあるようだった。


「奥さんがいいというならいいよ」


 孔雀はあっさりとそう言った。何も考えていないのは明白だった。

 孔雀が少年に駆け寄ってゆくので、シエラはゆっくりとその後を付いて行った。

 「よいしょっ」と言って、羽根をバタバタさせて、孔雀は少年の膝まで飛び上がる。……そうか、孔雀は飛べるのか。


「あの魔物は僕にはどうにもできない。森保の方で追い払ってくれるんだったら助かる」


 真っ黒な瞳がシエラを見つめる。柔らかそうな黒い髪も濡れたように艶やかだ。同じ色の髪を持つ者としては羨ましくて仕方がない。……手入れの差か。


 少年が丁寧にファイルを閉じてシエラに向かって差し出す。すべての動作がゆったりとした舞のように美しい。

 シエラはファイルを受け取ると数歩下がった。サインをもらったらファイルの中身を読んでおくようにと上司は言っていた。追い立てられるようにここに来たので、何が起きているのかよくわかっていない。


「魔物ってさっき会ったアレですよね……」


 胡散臭い笑顔を浮かべた青年のことを思い出し、シエラは思わず顔をしかめた。


「……近くで会ったの?」


 少年が警戒した声で問う。船着き場ですとシエラが答えると、ぐっと唇を噛みしめる。


「もうこんな近くまで来てるんだね」


「でも、ボートに乗った途端に諦めました」


「うん……今の所はまだ、ね。でも、これ以上力をつけられると、僕ではちょっと辛いかも……ごめん」


 膝の上の孔雀と目を合わせてから、少年が悲しそうな顔をして首を傾げる。


「万が一の時は奥さん逃げてね。僕捨てて」


「……うん」


 孔雀は明るい声で言うが、少年は歯切れの悪い返事をする。


「……そうだよね。逃げるよ。ちゃんとこの森を守るから」


 ぽつりと呟いた声が暗くて、シエラは思わず目を伏せた。

 統治者が息絶えても、配偶者さえ残れば森は維持されるとフリュオリネは言っていた。それは管理者の場合も同じであるようだ。


 シエラは統治者と管理者の違いがあまりよく理解できていない。誰も教えてくれないからだ。

 基本的にシエラがサインをもらうために尋ねて行くのは統治者だった。統治者は領域の管理者であるのだから、基本的には同じものなのだろう。『針と迷路の森』のセリアナや、こちらの孔雀は管理者と名乗っているようだ。


「あのね、森のことはどうでもいいよ。奥さんが幸せに生きていてくれるなら、僕はそれでいいなぁ。僕が食べられてる間にできるだけ遠くに逃げてね」


「……」


 孔雀の声は底抜けに明るいが、少年はますます俯いてしまう。場の空気が重く沈み込みかけた途端――


「……でも、孔雀ってそんなに美味しくないらしいんだよね。羽根ごとむしゃむしゃいくのかなぁ。きっと喉に詰まって時間がかかるよね」


 どことなく楽しそうな声で孔雀がそう言った。


(……危機感ないな)


 心配かけまいとわざと明るく振る舞っている……という訳ではない気がする。


(でも、この孔雀が魔物に喰われるなんて、想像するのも嫌だ)


 魔物はありとあらゆるものを『食べる』。だから基本的に毎日の食事を必要としない。魔獣だったら丸呑みだが、魔物は違う。頭からバリバリという訳ではないらしい。「とってもエレガントでスマートよ」と上司が言っていた。……意味がわからないし、知りたくもない。


 ……と、いきなり少年が孔雀の青い首に手をかけようとするので、シエラは思わずファイルを地面に落とした。少年の目に光がない。


「誰かに食べられるくらいなら……いっそ僕が……」


(え? ええ? なんでそうなった?)


「ちょっと待って。ちょっと待って下さいね。落ち着きましょう? 食べても美味しくないらしいですからね?」


 シエラが慌てて少年の膝から孔雀を奪い取る。お腹の前で抱えると、ぶらーんと飾り羽がスカートのように地面に垂れた。


「べつに僕、奥さんに食べられるなら……」


「余計なこと言わないっ。美味しくないんですからっ」


 とんでもない事を言おうとする孔雀を思わず叱りつける。


「そうだね。僕、美味しくないみたいだから、奥さんやめた方がいいよ。羽根むしるの大変だと思うし」


 きりっとした声で孔雀はそう言った。シエラがそろりと少年の様子を窺うと、途方に暮れたような目をしてぼろぼろと泣いている。


「ああ、奥さん奥さん泣かないで」


 それを見た孔雀が体を捩りながら羽根をバタバタ動かし始める。あちこちの羽根がシエラの顔や体に当たる。鬱陶しさに思わず上体を反らす。確かにこれを全部むしるのは大変そうだ。


「暴れないで下さいっ。落とします」


「うん。じっとする」


 孔雀はぴたっと動きを止める。なんという可愛らしい生き物だろうか。

 これは、やはりここから失われるべきではないものだ。


「とにかく食べるのはなしでお願いします。でも、今のは孔雀さんの言い方が悪い!」


「え? 僕、何か悪い事言ったかなぁ?」


 くるっと孔雀が首を捩じってシエラを見上げた。


「配偶者さんは、孔雀さんがいなくなったら、幸せになんてなれないんですよ。大切な人が自分の前からいなくなるなんてこと、考えたくもないはずです。孔雀さんがいなくて、森までなくなって、それでも幸せになれなんて、そんな悲しい未来を想像させないで……」


 シエラだって、できることなら今すぐ晶洞の森に帰りたい。日に日にその思いは強くなる。ジオードとノジュールに会いたい。ジオードに謝ってそれから、大切にしてくれてありがとう。酷い事をしてごめんなさいって伝えたい……


(もし今、記憶のないジオードに、勝手に知らない場所で幸せになれなんて言われたら……)


 すっと全身から血の気が引いた。その途端に左手に電気が流れたような鋭い痛みが走った。一瞬にして現実に引き戻される。

 気持ちが入りすぎた。シエラは目を閉じて、ひとつ深呼吸する。


「……孔雀さんだって配偶者さんいなくなったら嫌でしょう? 考えたくもないでしょう?」


「やだ」


「同じように、配偶者さんも、絶対嫌なんですよ」


 孔雀の首が地面に向かって下がってゆく。わかりやすく反省している。シエラは配偶者の少年に向き直ると、力を込めてお願いした。


「という訳で、食べるのはなしで」


「……うん」


 すっかり大人しくなった孔雀を、少し落ち着いたらしい少年に手渡す。彼はそっと孔雀を腕の中で抱きしめた。

 前屈するように地面に向かって力なく垂れていた孔雀の首が、いきなりぐいっと持ち上がった。


「奥さん奥さん。いなくならないで? 僕食べられないようにがんばるから」


(何をどう?)


 思わず突っ込みたくなったが、きっと何も考えてないので聞くのはやめておいた。


 涙を手の甲で拭きながら、少年は孔雀の背中を撫ぜ始める。冠羽を揺らしながら、孔雀は気持ちよさそうに目を細めている。……少年と孔雀の関係性が全く想像できない。


(ファイルに書いてあるとか……)


 少年が今すぐ孔雀をどうこうする気は失せたようなので、シエラは地面に落ちたファイルを拾い上げて書類を読むことにした。


(『硝子と忘却の森』の調査員が、計測器の異変に気付いたのは昨夜。すぐに本部に連絡。領域内に強力な魔物が発生した模様。外部から侵入した形跡はなし)


 発生……魔物は発生すると表現するのか。発生というと、台風とか……虫とか?


(発生場所が、魔女『巻貝』の工房近くであるため、関連性が疑われる。巻貝は行方不明。魔女の捜索と魔物の駆除のため、保安官の派遣を強く要請する?)


 駆除のため……? 駆除という表現で思い浮かぶのは、害虫とか害獣だ。つまり野良の魔物というのは発生したら駆除される、シロアリ的なものだということか。


 そして、害虫獣駆除も保安官の業務内容に含まれるようだ。知らなかった。仕事の危険度が大幅に上がった。思わず遠くの空を眺める。

 ……でも、そこは自分には全く期待されていないだろうから、気にする必要はないだろう。保安官は他にもいるし。

 そう結論付けてもう一度ファイルに目を落とす。書類を捲ろうとした時、巻貝という文字が目にとまった。


 ……ん? 

 引っかかりを覚えて記憶を探る。シエラは守り石を取り出して手の上に置いた。


「守り石の魔物。ひょっとして、ここに書いてある『巻貝』って名前の魔女、私が食べてたあの瓶入り食品を作ってくれていた魔女?」


 守り石から訝し気な声が返って来る。


「……そうだが、巻貝を知っているのか?」


 さて、昨夜のアーラとのやり取りをどうやって説明するか……

 自分でも何が起きていたのかよくわらない事を、言葉にするのはとても難しい。よってシエラは安直な方法を選択した。


「説明できない。だから記憶読んでいいよ」


 ……沈黙が落ちた。


「……人間の尊厳まで失うな」


 守り石の魔物が石の中から憐れむような声を出した。


「私はクラゲ。遠慮なくどうぞ」


 きっと自分は人間として何か大切なものを失った。でもいいのだ。どうせこの先も色々な魔物に勝手に記憶は読まれる。ジオードに至っては気持ちがまで筒抜け状態だ。その辺りが改善されるとは思えない。魔物たちは『そうしないとわからない』から。

 魔物の感覚をシエラが理解できないように、魔物も人間の感覚を理解できない。余計なことは考えない。無だ、無。


「瓶詰を渡したのが昨日の夜。その後魔物が発生したなら、全く関係ないってことはないんじゃないかなぁ……」


 カードは朝の挨拶に行った時にもまだ燃え続けていた。あの時点で残りは四分の一くらいだったから、もう燃え尽きたのだろうか。


「喰われてなければいいが……」


(こっちもやっぱりそういう話か……)


 守り石の言葉にぞっとする。書類を捲ると雑な地図がひらりと地面に落ちた。急ぐあまりに、落書きのような地図ごと配偶者の少年に渡してしまった。心の中で上司に詫びる。


「ここに魔女と書いてあるってことは、行けと?」


 地図を拾い上げながら、シエラは守り石の魔物に尋ねた。『捜索と駆除を要請』と書いてあった。駆除はどう考えても無理なので、シエラは捜索担当だろう。


「おまえが決めればいい。行けとは言えない」


 守り石の魔物の返事はそっけない。そういう所を自主性に任せられても困るのだが、多分心配されているのだと思う。行かないと言っても許してくれるような空気があった。


「お仕事ならば、行くよ」


 シエラは守り石を地面に置くと、ローブを脱いだ。地図を畳んでつなぎの胸ポケットに入れ、ファイルはリュックにしまう。いつもよりだいぶ軽いリュックを背中に背負うと、守り石を拾い上げ、ローブを手に持って少年と孔雀に歩み寄った。


「私が今さっきまで着ていたもので申し訳ないのですが、昨日洗濯はしたので我慢して下さい。胸についていた魔除けのお陰で、魔物は私に近寄れませんでした。だからこれ、着ていて下さい」


 少年が茫然と目を見開く。


「シエラ、おまえはまた……」


 守り石の魔物の言葉を遮るように、


「……孔雀さん、人間の私より弱いですよね」


 シエラは少年の目をまっすぐ見つめて確認した。少年は肩を落として頷く。


「……うん」


 やはり見たまんまの孔雀なのだ。何故孔雀が管理者になれたかはわからないが。


「これはおふたりが着ていて下さい。私も一応配偶者だから、統治者のジオードが何もしていない筈がない。だから大丈夫です。……そうだよね? 守り石の魔物」


 守り石の魔物からの返事はない。否定しないということは、そういうことなのだろう。

 目の前の少年の額に美しい孔雀の羽根の模様が描かれているように、きっとシエラの額にも何かの模様が描かれている。

 ジオードが記憶を失っても、シエラは彼の配偶者のままだ。指輪も左手の薬指にある。触れると気持ちが落ち着く。


「本当に今日はちょっと着ただけですからね」


 そう言って、返事を待たずに少年の体にすっぽりローブを被せる。胸の前で金の糸の渦巻きが誇らしげに輝いている。孔雀はこれでローブの中だ。少年の瞳が葛藤するように揺れていたが、やがて大きくひとつ頷いてくれた。


「……うん。ありがとう」


 少年が初めて笑ってくれる。取り澄ました雰囲気がなくなり幼く見えた。ローブの首元から孔雀がひょっこりと顔を出す。


「これで奥さんは大丈夫かな?」


「孔雀さんの奥さんは、孔雀さんが側にいれば大丈夫ですよ。魔物が近くに来たら、絶対に声を出さないで下さいね」


「うん。わかった。できるだけ静かにするね」


 真面目な声でそう言って孔雀が頷いた。……多分無理だなこれ。シエラは思わず残念なものを見る目を向けてしまう。その辺りは、まぁ、配偶者の少年が何とかするだろう。


「向こう岸に戻りたいのですが、ボートは使えません。何か方法はありますか?」


「桟橋まで戻すことならできるよ。……手を」


 優雅に差し出された左手に、自らの手を重ねる。少年の手は緊張のせいで冷え切っていた。彼の不安が流れ込んでくるようだ。一刻も早く解消されるといい。無邪気な孔雀が管理している森に、こんな深刻な空気は似合わない。

 少年が右手の指先で、シエラの手の甲に文字のようなものを描くと、そこに孔雀の羽根の模様が浮かび上がる。


「今僕があなたにしてあげられるのはこのくらい。これがある限り、姿と言葉を偽るくらいのことはできるよ。……でもお願いだから無理はしないで。あなたに何かあったら、あなたを守っている人がとても悲しむから」


 ふっと一瞬体が浮かび上がったような感覚があった。次の瞬間、シエラは桟橋に戻されていた。

 島に渡るためのボートはもうここにはない。


「まったくお前は無茶というか無謀と言うか」


 ぶつぶつ言っている守り石はポケットに戻さず、左手に握っておくことにする。腕時計の文字盤は青。野良の魔物はここにはいない。


「結局守り石の魔物も止めなかったよね。……あの孔雀さん。本物の鳥だよね。魔物や魔獣と遭遇したら、私と同じで何の抵抗もできずにあっさり食べられて終わりだよね」


 会話を続けながら、シエラは反対側の手で脇ポケットからコンパスを取り出して方位を確認する。金の針が小刻みに震えていることに気付く。カールの母親がいる方角を指す針だ。気になるが、今はそちらに構っていられない。


「繁殖期になると、本能に引きずられて鳥に戻ることがあるんだ……そうなると頭の中身もやや鳥っぽく」


「……鳥に戻る? 繁殖期以外は?」


「別物」


 コンパスをポケットにしまったシエラは、そのまま手を顎に当てて考え込んだ。何か似たような話を少し前に聞いた気がする。……思い出した。そうだ。見合い相手だ。確か『狼男さんと人魚さんのお子さん』だったか。


「満月が近付くにつれだんだん人間っぽくなっていって、満月の夜には狼になるとかいう、魚成分多めな統治者の方と以前お見合いさせられそうになったんだけど……その感じ?」


「それに近い。毎回ではないんだが、鳥になってしまうと一気に弱体化するから、今回のように魔物が発生したりすると、森保の方で対応する契約になっている」


「……それは、配偶者さんも不安だね」


 あの少年は、本当は不安で怖くて仕方がなかったのかもしれない。それなのに派遣されてきた保安官が脆弱な人間のシエラだったから、それを必死に隠していた……

 ローブを渡して良かった。張り詰めた気持ちが少し緩んだように見えた。はじめて笑ってくれたから。

 魔除けの紋は必ずふたりを守ってくれる。無事戻ることができたら『針と迷路の森』のセリアナと金の獣にも改めてお礼を言わなくては。


(さて、仕事だ)


 シエラは目を閉じて、意識を切り替える。


「保安官って誰が来るの?」


「アザレが来る予定だ。あれは駆除専門の保安官だから魔物のことはアザレに任せればいい。ここで待つか?」


 電話で何度か話した事のある保安官だ。低く渋い声で女性っぽい話し方をする。そういえば、あまり業務以外の話をしたことはない。


「……ここで待っている方が怖いから動くよ?」


 ここにいたら、またあの青年が現れて「島に一緒に行こう」と誘われるかもしれない。さっさとここから離れたい。先程目星をつけた方角に向かって歩きはじめる。雑木林に入る必要があるようだ。霧はもうすっかり晴れている。


「ならば眼鏡はかけておけ。その孔雀の印がローブに近い役割を果たしてくれている。あと、この領域内なら、誰に喋りかけても問題なく言葉が通じるようになっているようだな」


「先程魔物の前で喋るなと言ったのはそういうこと?」


「姿を偽っても言葉が違えば領域外の存在だと相手に気付かれる」


「成程」


 首からさげていた眼鏡をかけて、歩きながら自分の姿を確認する。先程とは違う色のロングスカートを履いており、足の靴も前回よりかなり上等なものだ。肩には手編みのショールをかけている。あの少年は育ちが良いのだろう……この服、庶民が着るにには質が良すぎる。


 常に時計の文字盤の色を確認しながら、明るい雑木林の中を歩く。所々に切り株があるから、人の手が入っていることは間違いない。


「……ここ?」


 しばらく道なき雑木林を歩いて行くと、山を背にした小さな村に行きついた。十数軒の集落のようだ。シエラの身長より少し高いくらいの石積みの壁が、村をぐるりと囲んでいる。石門から中を覗く。鄙びた農村といった雰囲気だ。石畳の道と、茶色い瓦屋根の石積みの家々が見える。村は静まり返っており、人間や家畜が暮らしている気配が全くない。

 警戒しながら村に足を踏み入れる。一瞬だけ甘いリンゴ飴の匂いがした。


(これ……この匂い、私がアーラに作ってもらった時忘れの香と同じ。でもなぜに……?)


 石門から村に入って二歩も進むと、突然深い霧に視界が閉ざされた。シエラは慌てて足を止める。目の前数歩分の石畳みの道しか見えない。腕時計を確認するが、文字盤は青のままだ。


(絶対おかしい……)


 やはり人の気配は全くない。もう嫌な予感しかしない。後ろを振り返っても、出口は霧で閉ざされてしまった。これはまさにホラー映画的な展開ではないか。

 

 目の前にキラキラとした粒子のようなものが集まってくると、すうっとシエラの鼻の前を流れた。シエラの苦手なあのスパイスカレーもどきの匂いがした。と、いうことは、アーラが燃やしたあの茶色いカードから流れ出した煙なのだ。


 キラキラとした煙はシエラの顔の前で折り返すようにして前方の霧の中に消える。ついて来いということだろう。足を前に進める毎に、霧はどんどん深く濃くなる。視界は真っ白だ。時折目の前でキラキラっと粒子が光る。常に腕時計を確認しつつ、足元に注意しながら光の粒子を頼りに歩く。右に曲がり、左にカーブし、道なりに進む。石を積んだ階段に何度か躓き、突然出現する壁に肩をぶつける。


 文字盤の色を確認しようと目を伏せたその時、誰かに強く腕を後ろに引かれたような気がした。


「え?」


 足を止めて顔を上げるとコツンと額が何かにぶつかる。立ち止まっていなければ激突していた。数歩下がり、目の前の壁に手で触れる。木の手触りだ。これは多分……扉だ。


「アザレを待つか?」


「この霧の中で待つ方が怖いからやだ……」


 シエラはため息をついた。おかしいな……どんどんゾンビや殺人鬼が出て来る映画っぽくなってきている。嫌いなのに。


「この状態だと、きっとアザレさん私がどこにいるのか見つけられない。戻る道もわからない……行く」


 怖い事は早く終わらせたい。

 扉に両手で触れてドアノブを探す。鉄の取っ手に触れた。押して開かないから引いてみる。軋んだ音を立てて、扉が開く。室内に一気に霧が流れ込もうとするから、慌てて体を滑り込ませて扉を閉める。


 小さな店舗だった。目の前には木製のカウンターがあり、店の奥と左手側に棚が設置してある。棚は空っぽだ。随分長い間留守にしているのか、木の床にはうっすら埃が溜まり、いくつか足跡が確認できた。

 ここが魔女巻貝の店なのだろうか。随分前から営業してないようだ。


 カウンターの奥の壁に、扉がある。キラキラとした煙が扉を突き抜けてゆくのが見えた。

 シエラはカウンターを迂回して扉の前に立つ。


 腕時計はの文字盤は青。

 扉の向こうがどうなっているのかなんてわからない。

 でも、開けるしかない。


「お仕事だから仕方ないっ」


 自分で自分に言い聞かせるようにそう言って、シエラは恐怖を振り払うように勢いよく扉を押し開けた。

 

 ――リンゴ飴の匂いがした。

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