1 シエラと黒い指輪
短編の方と全く同じです。読んだ事のある方は二話からお願いいたします。
「ちょっと辺鄙な所かつ、危険な場所だから、ちょっと注意してね」
今回の調査対象になった森について、上司はそう説明した。それは人間の自分にとって、『ちょっと』の注意でなんとかなる場所なのだろうかとシエラは思った。上司は魔物だった。魔物の『ちょっと』でシエラが死にかけた数は三桁をこえた。――現代日本に帰りたい。
シエラは『森林保安官』だ。
森を訪問して、その森の『統治者』が今誰であるのか、代替わりがいつ行われるのか、勢力図に変わりがないかを確かめ、上に報告する。
統治者は、妖精だったり魔物だったり、精霊だったり、時には動物だったり人間だったり魔女だったりすることもある。
そして、森同士で領土を争っていたり、抗争をしていたり、同盟を結んだりしている。
うっかり足を踏み入れて、その抗争に巻き込まれたりすると大変なので、常に森の現状を把握しておくことが必要なのだ。その情報を集める機関を『森林保安協会』という。名前は似ているが、電気の点検は行わない。
シエラの担当は西の森だった。非常にざっくりだが、大陸の西方面の森全部である。森林保安官は特殊な能力が必要だから……とても数が少ない。同僚はほとんど人外だ。
西の森の担当は上司含めて五人。シエラ以外は全員魔物だ。生粋の人間であるシエラが一生かかっても、自分の担当地区の森を全部回ることはできない。ただ、ありがたいことに、森の統治者と人間の時間感覚は全く異なっている。人間の百年が統治者にとっての一年くらいの感覚だろうか。そう簡単に抗争は決着がつかないし、統治者の代替わりは行われないし、同盟は維持され続ける。
「守り石は持ってゆくこと。ヤバそうだったら逃げること。野良の魔物や魔獣に会ったら死んだふり」
「死んだふりしたら喰われます」
シエラはため息と共に答えた。上司は全身を黒いローブで覆い隠し、目深にフードを被っている。もう何者なのかさっぱりわからない。魔物は基本的に人間に姿を晒さない。ローブの下にどんな姿を隠しているのかも知らないし、性別もわからない。日によって女性の声だったり男性の声だったりするからややこしい。今日は女性の声だ。
フードの奥からちらりと見える真っ赤な唇が、にいぃっとつり上がった。
「それがわかっているなら大丈夫」
西の森担当部署の事務所は、何故か昔シエラが通っていた中学校の職員室にそっくりだった。緑の黒板を背にして上司が座っている。
少し離れて四つのデスクが向き合う形で置かれていた。デスク同士は背の低いパーテションで仕切られている。そうしないとうず高く積み上げられた書類が隣に雪崩れるからだ。どのデスクもまるで書類積み上げ競争をしているような状態になっている。
シエラの席は上司から見て左後ろだ。椅子はよくある肘置きのないオフィスチェア。上司の椅子は肘置きがある。少し羨ましい。
天井には細長い蛍光灯。壁際にはファイルがびっしり入ったスチール本棚が並び。部屋の奥には掃除ロッカーまでもが完備されていた。
事務所の中にはいつも二人きりだ。残り三人の保安官は調査に出掛けたままもう百年くらい戻っていないらしい。時々報告の電話がかかってくるから、声だけは知っている。
「……あ、帰ってきたらお見合いだから」
「……因みに今回のお相手は?」
「狼男さんと人魚さんのお子さんで、新月期は魚で、月が丸くなるにつれて、だんだん人間っぽくなっていって、満月の夜には狼になる。で、翌日は人間っぽいのにもどって、だんだん魚になってゆくというなかなか素敵な人だよ」
だんだん人間になるってどんなだ。そして、だんだん魚になるってどんなだ。怖い。
いや待て、さりげなく『人間っぽい』って言わなかったか? ぽいってなんだ、ぽいって。……不安しか感じられないのだが。
前回のお見合い相手は、ニワトリっぽい魔物だった。九割ニワトリで、大きさだけが人間サイズだった。相手はもう少しニワトリ成分高めの結婚相手を望んでいたようで、速攻お断りされた。
そんなこんなで十連敗中である。上司は「何で今回もダメかなぁ」とか言っていたが、あなたの選ぶ相手が悪いんですよとシエラは思った。思ったけれど、相手は一応上司なので声には出さなかった。……もう少し人間成分高めの相手をお願いしたい。魔物の感覚は理解できない。
ひょっとして、人間相手の結婚はもう無理だと思われているのだろうか。
これでもまだギリギリ十代だ。民族的特徴として髪も目も黒く平面顔。容姿は並。胸もない。そして毎日仕事に撲殺されている。連日大荷物背負ってコンパスと地図を持っての山登りだ。お風呂に入れない事も多い。服も肌もボロボロ、肩まで伸びた髪はバサバサ……あ、泣きたい。
調査に行くのも嫌だが、戻ってお見合いするのも嫌だなとシエラは思った。
多分また九割魚で呼吸器官のみ人間とかそういう感じなのだろうと思う。本当に、帰れるものなら今すぐ現代日本に帰りたい。
冬山登山くらいの装備を背負って、地図とコンパスを頼りに山を登る。
代替わりが行われたと思しき森を目指し、野宿で歩き続ける事一週間。山の中に綺麗な川が流れていたから、洗濯もできたし、水浴びもできたため、今回はわりと身ぎれいに過ごせている。命にかかわる危険動物及び野良の魔物や魔獣にも出会わなかった。本当にありがたいことである。
森林保安官をやっている内に、この山歩き生活にもだいぶ慣れた。もし日本に帰れたら富士山に登りたい。
便宜上『森』と言っているが、要するに力ある者が支配する領土のことだ。実際は森でないこともある。森と言いながらも海の中や砂漠の場合もあるのだ。海の中を調べる場合は、エラ呼吸できる保安官が担当する。シエラは人間だから、海や砂漠に派遣されることはない。確実に死ぬ。
恐らく目的地はこの辺り、という場所に来ると、目の前に真珠色の結界が張り巡らされていた。
シエラは腕時計を確認する。文字盤は青。危険はない。一歩足を踏み入れると何の抵抗感もなく結界の中に入ることができた。恐らく野良の魔獣や魔物の侵入のみを防ぐ目的の結界だ。シエラは人間だからこの手の結界には引っかからないことが多い。人間は脆弱なのだ。
魔物や魔獣に出あう前に帰りたい。……でも帰ったら魚とお見合いだ。それも嫌だ。
「すみませーん。森林保安協会から来ましたー。統治者の方はいらっしゃいますかー」
シエラは開けた場所で足を止め、背負って来た巨大なリュックサックを下ろすと、空に向かって大声で呼びかける。ざわっと森が大きく揺れた。
「わぷっ」
しばらくすると、何かが飛んできて、シエラの顔に張り付いた。
可愛らしい笑い声が耳元でする。柔らかい。あたたかい。いいにおいがする。
顔にはりつかれているから、見ることはできないけれど、恐ろしいものではなさそうだ。ふわふわとした手触りのそれを、そっと両手で包み込むように持って、顔から離す。
シエラの顔にしがみついていたのは、小さな子供……のような魔物だった。にこにこ笑っている。悪意など全く感じられない純真無垢な瞳がシエラをまっすぐに見つめていた。
ふわっふわの白い長い髪の毛。大きな青い瞳。柔らかそうなほっぺた。何と愛らしい生き物なのだろうか。頭に小さな角がぐるりと冠のように生えているのと、宙に浮いていることを除けば、よちよち歩きを始めたくらいの人間の赤ちゃんそっくりの外見をしている。
その子供は、ごく薄い生地を幾重にも重ねて作り上げたような、真っ白なワンピースを身に着けていた。そこからとてもいいにおいがする。
期待を込めた瞳で見つめられてシエラが思わず高い高いをすると、きゃっきゃと喜んで手足をバタバタさせた。かわいい。――ああ、天使がここにいる。多分魔物だけど。
きっとここは天国なのだ。自分はいつの間にか死んだのだ。どうりて今回の行程は楽だと思った。どうやら天国への道を歩いていたらしい。これでもうお見合いしなくていいな。
しかし、緩み切った顔で、空に向かって持ち上げたちいさな魔物を見つめていたシエラは、はっと気付いた。
(これって、まずいかも)
この子は恐らく魔物の幼体だ。先程のあの結界はこの子を外敵から守っているのだろう。幼体は捕食者に狙われやすい。こんな目立つ場所に出てくるのは非常に良くない。この子はきっと、統治者に呼びかけるシエラの声に気付いて、森の奥から出て来てしまったのだ。
(ちょっと危険って、多分、これだ!)
「すみませーん。すみませーん。森保の者ですー。統治者の方―。いませんかー」
シエラは慌てて幼い魔物を胸に抱きしめると、先程この子が飛んできた方角に向かって歩き出す。
「すみませーん……って、ひょっとして大声出すのも良くないかも」
音に反応する魔物もいる。シエラは焦り始めていた。シエラが結界を通り抜けたのだから、統治者は侵入者に気付いている筈だ。それでも姿を現さないのだとすると……留守なのだ。
自分はとんでもないことをしでかしたかもしれない。右腕の腕時計を確認して、シエラは顔を引きつらせた。いやな汗が背中を流れ始める。
「まずいまずいまずい……」
シエラの右手首に巻き付いている時計の盤面が、赤い色味を帯びてきている。時計は強力な魔物か魔獣の出現を預言している。――近い。
シエラは人間だ。魔物や魔獣に対して手も足も出ない。遭遇したら喰われて終わりだ。だから、絶対的に身を守る手段をひとつだけ持っている。ただ、それを自分のために使ってしまえば、この子が餌にされてしまう。
……ダメだ。例え自分が助かったとしても、このかわいらしい子を見殺しにしたらシエラの心は確実に死ぬ。
腕の中の魔物が、不思議そうな顔をしてシエラを見上げている。どうしたの? というようにちいさな手を伸ばして頬に触れた。
シエラはその子をぎゅっと抱きしめると、心を決めた。後ろポケットに片手を突っ込んで、そこにいつも入れてある、卵型のちいさな小石を取り出す。
「守り石」
手のひらにのせて呼びかけると、石が半分に割れて、割れ目から真っ黒な煙が立ち上る。煙は一瞬にして巨体の魔物に姿を変えた。身長はシエラの二倍くらい。上司と同じく全身をフード付きのローブで隠しているから、その本当の姿はわからない。
「なんだ、シエラ」
しゃがれた声がそう問いかけた。シエラはすっと息を吸って、命じた。
「この子を、隠して」
「そうなるとおまえは隠せない」
感情のこもらない平坦な声がそう告げた。やはりそうかと思った。でも、守り石の魔物がこの幼い魔物を隠せるとわかりホッとする。
「……かまわない」
ぐっとお腹に力を込めて頷く。文字盤が真っ赤に染まっている。上空に魔法陣が浮かび上がる。何かがもうすぐあそこから出てくる。
守り石の魔物はちらっとその魔法陣を見上げて、再びシエラに向きなおった。フードの奥は真っ黒の闇だ。
「……意外と短い付き合いだったが、私はおまえのことは忘れない。本当にバカだと思うが、おまえのそういうところは嫌いじゃなかった」
もう死ぬものと決めつけられていた。まぁそうだろうなとシエラは思った。
「はいはい、ありがと。もし骨が残ってたら拾って上司に届けて」
「……多分丸呑みだと思う」
「その方が一瞬で終わるから、いいと思うことにするよ」
シエラは精一杯強がって笑った。幼い魔物は物珍しそうに、守り石の魔物に手を伸ばしていた。この子には警戒心というものがないらしい。
シエラは腕の中のかわいい魔物を、守り石の魔物に差し出す。大きくローブの裾がめくれて、小さな体をすぽりと覆い隠した。きゃっきゃと喜ぶ声が聞こえ、ローブの一部が大きく膨らんだり波打ったりし始める。
「この森の統治者が戻ってくるまで、その子は隠し続けておいて。頼むね」
「わかった」
その言葉を最後に、守り石の魔物は姿を消した。手の中の割れた石も消え失せた。
これで、シエラが身を守る手段はもう何もなくなった。
空の魔法陣が青黒く光る。真っ黒な爪が中心部から突き出した。爪一本がシエラの腕くらいの大きさだった。あ、これは死んだなと彼女は思った。
魔法陣から出て来た真っ黒い魔獣は、神話に出てくるケルベロスそっくりな外見をしていた。目が真っ赤で、口が耳まで裂けている。そしてとにかく巨大だった。シエラなんてその魔獣からみれば大豆一粒くらいの大きさだ。食べても何の腹の足しにもならないだろう。魔獣から肉が腐ったような酷い匂いがした。木の陰に隠れたシエラは思わず片手で口と鼻を覆った。
仮称ケルベロスは何かを探していた。そして、それが見つからないことに怒り暴れ出した。
結界は結構がんばって持ち堪えたと思う。しかし、やはり限界はあるようで、割れ砕けて空気に溶けた。鋭い爪が、近くの木をなぎ倒す。巨木がシエラの隠れている木の枝めがけて降って来た。バキバキバキバキというものすごい音がして、木と木がぶつかり合った。枝や葉が自分めがけてぶつかってくる。シエラは両腕で顔を庇った。静かになって顔から腕を外したら、目の前に黒い爪があった――シエラの目は限界まで見開かれた。
しかし、次の瞬間、黒い爪は明後日の方向に飛んで行く。再び木々の枝が折れる音が響き渡り、重いものが地面に叩きつけられる音がした。何が起こったのかわからず、シエラはへなへなとその場に座り込んだ。
赤黒い血が流れ寄って来ていた。ひどい腐臭で吐きそうだ。
目の前には、真っ白い髪に、左右色違いの目をした美女がいた。頭にはやはりぐるりと冠のように小さな角が生えている。真っ白いドレスを身に纏った彼女は、血だまりの上に浮いていた。
彼女が不機嫌そうに右手を上げると、長い髪がふわっと舞い上がり、背後でごおっと火柱が上がった。屠られた魔獣ごと、すべての痕跡が一瞬にして燃え尽きる。山火事のような火が燃え盛ったのに、シエラには熱風すら感じられなかった。火は一瞬で消え失せ、魔獣の匂いはなくなっていた。何かが燃えた匂いすら残っていない。
――すべて元通りだ。
炎は魔獣の痕跡のみ焼き尽くしたようだ。地面の草も、近くの木々も、炎に焙られた様子は全く見られなかった。ただ、すぐ横の地面に倒れている巨木の幹に、ざっくりと爪痕が残されている。あれが現実だったことを物語るように。
茫然と座り込んだままのシエラの目の前に、何かが飛んできて、顔に張り付いた。
「わぷっ」
柔らかい。あたたかい。いいにおいがする。
シエラは両手でそっと幼い魔物を顔から離した。守り石の魔物は、忠実にシエラの命令を実行したようだった。森の統治者が戻ったから、隠していた幼体を外に出したのだ。――ズボンの後ろのポケットに守り石は戻っただろう。
「絶対に外に出るなと言っておいただろうが、このバカ」
美しい声が、とても乱暴な言葉使いでそう言った。
「お前のせいで、この人間、死にかけたぞ、わかってんのか?」
「すみません。それは私が大声で呼びかけたからで……」
恐る恐るシエラが声をかけると、
「あんたは別に悪くない。言いつけを守らず、ちゃんと留守番できなかったコイツが悪い」
あっさりと美女はそう言った。しつけに厳しい人のようだった。
しかし、幼い魔物はどこ吹く風でにこにこ笑いながら、シエラの周りをふわふわ飛んでいる。美女はこれは何を言っても駄目だというようにため息をついた。
そして、シエラに向かって言った。
「とりあえず、まず顔拭きな」
安心したせいか、目と鼻から大量の水分が流れ出していた。
「森林保安協会で西を担当する保安官のシエラと申します。以後お見知りおきを。……こちらをご確認の上ご署名下さい」
美女とシエラは倒れた木を椅子にして並んで座っていた。シエラの頭の上には、ちいさな魔物がうつ伏せで乗っており、楽しそうにぺちぺちとシエラの額を叩いている。
シエラはリュックサックの中から、黒い二つ折り書類ケースを取り出して、ボールペンと共に目の前の美女に差し出す。
美女の目は左が紫で右が青だった。年はシエラより少し上だろうか。
「お名前は、真名ではないものをお願いいたします。あと代替わりの予定もこちらに」
「はいはい。次の統治者はコイツ。成体になるのに……人間の時間だとあと千年くらいかかるんじゃないか? 代替わりは二千年後くらいだな」
彼女はシエラが手渡したボールペンで、頭の上で機嫌よさげにしている幼い魔物を指した。その頃自分はもうこの世にいないなとシエラは思った。
美女はさらさらと書類に文字を書き込むと、シエラが確認しやすいようにくるっとひっくり返して手渡してくれる。
びっくりするくらい口は悪いけれど本当にいい人(?)である。人ではなく多分魔物だと思うのだが、ただの人間であるシエラには、美女が何者なのかわからない。力ある魔物は、上司や守り石の魔物のように人間に姿を見られるのを嫌うのだが、この美女はそういうことにあまり頓着しない性格なのかもしれない。
「えっとジオードさんとお呼びすればよろしいですかね。そうすると、ここはジオードの森という領域名となります。この名前で登録されますのでよろしくお願いいたします」
「ん。とりあえずご苦労さん」
美女はそう言うと、片手を伸ばしてシエラの頭の上の幼い魔物を掴むと、ぽいっと空に向かって投げた。シエラは幼い魔物の行方を目で追う。きゃっきゃっと喜びながら落ちて来たのを美女が受け止めて、またボールのように空にほおり投げる。シエラの顔も上を向く。
「重かったろ」
落ちてくる魔物を目で追うシエラも下を向く。
「いえ、半分くらい浮いていてくださったので、それ程は」
また上を向き、下を向く。
「ふーん」
そう言ってまたほおり投げる。そういう遊びらしい。幼い魔物はとても嬉しそうだ。
「あの……お子さんですか?」
そう尋ねると、目の前の美女はとても嫌そうな顔をした。
「違う。人間でいえば弟か妹ってヤツ。まだ性別は決まってない」
「……それは大変失礼しました」
「別にいい」
無表情でそう言って、落ちて来たちいさな魔物を膝に乗せた。幼い魔物は、姉の髪に手を伸ばして掴んで引っ張って遊び始める。美女が頭を撫ぜると、途端に眠たそうな目になった。
「あんたコイツを命がけで守ってくれたろ、なんかお礼をしないとな」
長い髪を掴んだままうとうとし始めた、弟(か妹)を見下ろして美女がそんな事を言う。
「……どちらかというと、私が危険にさらしてしまったようなものだと思うのですが」
「誰が来ても出てくなって言ってあった。それを守らなかったコイツが悪い」
「助けていただいたのは私の方です」
シエラが言うと、美女は大変不服そうな顔をした。そしてちょっと考え込むような仕草をする。
「……そうだな、じゃあ、あんたが困ってるときに、そこに書いた名前を呼んだら、一回だけ助けてやるよ」
「いえいえ、お気持ちだけで十分です」
「死ぬ前に呼べよ」
曖昧に笑ったシエラを見て、何かを感じ取ったらしい。美女はすっと上体を倒してシエラに顔を近づけた。額に柔らかいものが触れる。何をされたか理解したシエラは真っ赤になって額を押さえた。
美女は口の端を上げるようにしてにやりと笑った。膝の上で幼い魔物はすっかり眠っていた。
本部に戻り上司に報告に行くと、シエラの顔を見た上司はおやっというように首を傾げた。
「……今回のお見合いは僕から断っとくから、今日は帰っていいよ。あ、写真だけでも見てみる?」
何故か上司はそう言った。今日は男の声だった。渡された写真に写っていたのは、体は人間で顔が魚のスーツ姿の男性だった。魚はちょっと匂いが苦手なので、シエラはお見合いしなくてすんで良かったと心から思った。……肺呼吸かエラ呼吸かはちょっと気になった。
翌日上司から『お祝い』と書かれたご祝儀袋をもらった。中には結構な金額が入っていた。ボーナスはもう少し先だろうと思ったが、ありがたく受け取っておく。水引があわび結びだったことがちょっと気になった。結び切りだから、もう二度とやらないぞということなのだろうか。
しかし、うちの上司は妙に現代日本の文化に詳しい。実は帰れるんじゃないかとシエラは思った。帰せるならとっとと帰らせて欲しい。
前回の調査から一ヶ月。今日も今日とてシエラの日常はハードだ。そもそも人間に森林保安官の業務は厳しい。人間は脆弱なのだ。現代日本に帰りたい。
背後から巨大な昆虫型魔物が追いかけてくる。タガメに似ていた。タガメは水生昆虫ではなかったか。何故普通に森にいるのだ。あれに捕まったら多分体液全部吸い取られる。
シエラは森の中を全力で逃げていた。小回りが利くからそう簡単に捕まることはないだろうが、ズボンのポケットから守り石を取り出す余裕がない。
死ぬかもと思った。毎回思っているが、今回の調査でもやっぱり思った。
死んだら日本に帰れるだろうか。続きが気になる漫画が結構あるのだが。――普段はあまり考えないようにしているが、両親と兄は元気だろうか。ずっと探してくれてたりしたら申し訳なさすぎて生きてゆけない。
そんなことを考えていたせいか、木の根に足を取られた。身体が前につんのめる。背後に迫る気配を感じる。あ、終わった、とシエラは思った。
「だから、死ぬ前に呼べって言ったろうが」
強風が吹いた。耳のそばでそんな声がして、ぐっと抱きしめられた。
タガメは空の向こうに吹っ飛ばされていったようだった。シエラは顔だけ振り返って、空を飛んで行くタガメを見送った。
「とりあえず、顔拭いとくか?」
シエラの知り合いで、このような言葉遣いをする相手は一人しか思い浮かばなかったが、あの人は女性だった筈だ。長い髪は真っ白で、白いドレスを着ていた。
でも、今目の前にあるのは黒い髪をした男性の顔だった。不機嫌そうにシエラを見下ろした目の色は、左が紫で右が青だ。頭に小さな角が冠のようにぐるりと生えている。
腕から解放されて、シエラは男性から距離を取る。女性の時とは体つきが違うし、身長もだいぶ高い。男は黒いローブを着ていたが、フードは外していた。やっぱり魔物だったんだとシエラは思った。
もの問いたげなシエラの様子に気付いたのか、男は肩をすくめてみせた。
「ガラの悪さが三割減になるから、会合とかはあっちの姿で出ろって、先代から言われてんだよ」
確かにその通りだとシエラは思った。なまじ容姿が整っている分、何というのか男性姿でこの口調だと無駄に迫力がある。
「なんで……」
「あんたが死にそうなくらいの恐怖を感じた時には、俺に伝わるようにしといたから」
男はシエラの額を指差した。思わずシエラは両手で額を押さえる。男はちょっと笑って、ローブの中から何かを取り出した。手招きされて、シエラは恐る恐る近付く。怖い魔物ではないとは分かっている。ただ、男性だと意識すると近寄りがたいのだ。免疫がないもので。
「手、出して」
シエラは言われるままに手を出した。その手首を優しく握られて一瞬にして真っ赤になった。黒い指輪がふたつ。シエラの手のひらの上に置かれた。
「はめてほしい? それとも自分ではめるか?」
はめないという選択肢はないらしい。くすくすと何故か機嫌よさげに笑いながら、男はそう言った。
「えっと……これはどういう……」
おろおろしながら、シエラは手の中の指輪を見つめる。
「あんたの上司がこうしろって言った」
何がどうして、どういう話でそうなったか是非聞かせていただきたい。そう思った途端、先日もらったご祝儀袋のあわび結びの水引がふと頭に思い浮かんだ。『お祝い』って、お祝いって、これか!
何でだ、どうしてこうなった。……いや現実逃避はやめよう。何となくわかる。これが何を意味するのか。やっぱり本当に無駄に現代日本の知識があるな、あの上司。
「アイツがあんたに懐いてる。珍しいんだ。アイツが懐く相手って。まぁ子守だと思って」
そうか、子守なのか。うんそれなら納得だ。そう思って、ちらりと目を上げて相手の表情を窺って、シエラは一瞬にして後悔した。
何というのか、捕食者の顔をしていた。目が合った瞬間、彼は甘く甘く微笑んだ。無駄に破壊力があった。腰が砕けそうになる。
すっと体を寄せた男は、そっとシエラを腕の中に閉じ込めた。そして耳元で囁く。
「指輪をはめてくれないか?」
結局、最初から勝ち目はなかった。相手は己の外見的な魅力を十分理解した上でやっているのだろうから、こんな恋愛初心者の小娘を手のひらの上で転がすなんて、タガメを空に飛ばすより簡単に違いない。
震える手で相手の左手の薬指に指輪をはめて、半泣きになりながら、自分の指に指輪をはめてもらって、男が満足そうに微笑んだから――シエラはダッシュで逃げようとした。
上司が教えたという手順が間違ってなければだ。次はあれだ。あれだな。……自意識過剰だと笑いたい奴は笑え。
しかし、お腹に手を回され引き留められた。じたばたしてみたが、相手の腕は全く緩まなかった。もうすでにシエラはボロボロ泣いていた。いっぱいいっぱいだった。何だろうこれは夢か。夢なんだ。きっと自分はあのタガメに捕まって体液全部吸われて干からびて死んだのだ。
「森の統治者は、配偶者を持って一人前とみなされる」
男は歌うように言う。とても機嫌が良さそうだ。確かに悪いよりはいい。でも今はその機嫌の良さが怖い。
男の言葉の意味を、シエラはちゃんと知っている。森の統治者は配偶者がいないと、半人前という扱いになる。……だから、上司はシエラに見合い話を持ってきた。相手は全員、未婚の森の統治者だった。彼らは早く身を固めたがっている。そして、シエラの方にも、早めに結婚しておけば大きなメリットがあった。
――統治者は配偶者を命がけで守るからだ。
保安官をしているシエラには常に命の危険が付き纏う。だから、上司としては命綱を用意するような感覚で、力のある未婚の統治者たちを選りすぐっていた。人外成分多めになるのはそのせいである。――本当は知っていた。
そして、人間であるが故に短すぎるシエラの寿命を、何とか延ばしたいと上司が思っていることにも、シエラは薄々気付いていた。保安官になれる素質を持つ者は本当に貴重なのだ。
寿命を操れるくらいの力を持つ、未婚で人型の統治者はとても少なかったに違いない。――そして、そんな貴重な存在であるこの魔物の元にシエラが派遣されることになったのは、多分偶然ではない。
あの上司が認めたということは、この男もかなりの力がある統治者なのだろう。まぁ、仮称ケルベロスを一瞬で跡形もなく消し去ったくらいだし。タガメもふっ飛ばしたし。きっとシエラの寿命も延ばせてしまう。
でも、違う、違うのだ。シエラにとって結婚はそういう契約めいたものではなくて。もっとこう、例えば片想いの期間があって、交際期間があってだな。……こんなジェットコースター的な何かは望んではいない。
全力で暴れたら、息が上がって来た。ダメだびくともしない。背中に当たる体温を感じるともう恥ずかしくていたたまれない。暴れたせいだけでなく心臓がバクバクいっている。
お腹に回された手がするっと離れた。そのまま肩を両手で抱きしめられる。背中からぎゅっとって……そろそろ意識が限界を迎えようとしている。
「俺はあんたがいい」
――シエラは心臓が壊れて死ぬかと思った。
今日も視界の端で小さなもみじのような手がゆらゆらしている。
幼い魔物はいつも通りシエラの頭の上にのっていた。そこがお気に入りらしい。そういえば、この子誰にでもよく懐くよな、とシエラは思った。守り石の魔物にも手を伸ばしていたし、初めて上司に会った時もにこにこして近寄って行った。
「それは、シエラが心を許してる相手だからだよ」
まるでシエラの心を読んだかのように上司は言った。本当に読んだのかもしれなかった。何しろ相手は魔物である。気をつけよう。……今更だけど。
「そうでない相手には、姿を見せないよ」
「はぁ……」
そういうものなのかと、シエラは頭の上に手をやって、小さな魔物の背中を撫ぜる。子守というのは本当だったようで、あの日からずっとこの子はシエラのそばにくっついている。機嫌よくにこにこして、頭の上に乗っていたり、事務所内をふわふわ珍しそうに探検していたり、仕事の邪魔をしたり、物を散らかしたり、書類を破いたり、ファイルの山を崩したり、自由気ままに過ごしている。
――全部上司が指を振れば元通り。
「ねえ、ハヅキ」
いきなり昔の名前で呼ばれて、シエラは驚いて上司を見た。八月に生まれたから葉月。懐かしい響きだ。シエラというのは、上司がつけてくれた字だ。保安官として生きて行くためには、真名を知られるのは危ないからと。
「よかったね。いい相手が見つかって」
フードとローブのせいで、相変わらず何者かさっぱりわからない上司は、書き物をしながら淡々とそう言った。今日は女の声だった。
「……で、結局誓いのキスってしたの?」
顔を真っ赤にしたシエラは、幼い魔物を抱えて職員室っぽい事務所を飛び出した。飛び出した途端に穴に落ちた。
「ああ、仕事終わったのか。早いな」
ストンと落ちたのは、良く知っている男の膝の上だった。きゃっきゃっと腕の中の幼子が喜んでいる。古い日本の洋館を彷彿とさせる部屋だ。彼はいきなりシエラが中空に出現しても特に驚いた様子もない。
「終わってないですよ……何であんなところに穴が開いてるんですか?」
「早く帰ってこられるように?」
紫と青の目をした男は、小首を傾げる。そんな仕草に騙されるものか。
「嘘ですね」
「あんたが動揺すると穴が開く」
小さくため息をついて、男は白状した。今日は明治時代の書生風の衣装を着ている。また勝手に記憶を探ったなとシエラは思った。
どうやらあの職員室風の事務所も、この洋館っぽい建物も、シエラの記憶の中から彼らが見つけて作りあげたものらしい。確かにこういう洋館に住んでみたいと思ったことはあった。だが、記憶を勝手に覗き見られるこっちの気持ちも察して欲しい。たとえそれが、純粋な思いやりからくる厚意であったとしても。――本当に魔物の感覚は理解できない。
「そういうトラップはやめていただきたい」
シエラは真顔でお願いした。そんな設定をされたら、この男の話題が出る度に穴が開いて森に強制送還だ。過保護もいい加減にして欲しい。仕事にならない。
男は曖昧に微笑んだ。あ、やめる気ないなとシエラは確信した。
「ところで、何を言われた?」
シエラは再び真っ赤になった。今度は逃げ場はなかった。