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第1話 そして俺の心は壊れた

 ──俺は俺が正しかったと信じている。






 親父は仕事が上手く行かず、酒に溺れ、ことあるごとに母さんを殴り蹴るその姿に激しい憎悪を覚えたのは自然な事だろう。


 酔うことで現実から逃避し続け、見ないために喚き散らし、耳に入れないためにその拳を振り上げる。


 そんなに頑強でも無く、一般的な中年男性の体躯の親父でも凶暴化すればそれだけで恐怖を感じて当然だ。少なくとも母さんよりも力はあるのだから。


 母さんの体に日に日に増えていく傷とアザ、対して日に日に減っていく笑顔。


 それでも母さんが折れなかったのは、「俺を守るためだから痛くも痒くも無い」と痛々しい傷のついた笑顔で教えてくれた。


 なら俺のする事は何なのか、それは母さんの虚勢とプライドのために何もしない事だとすぐに理解し、しばらく利口に黙って静かにしていた。


 だが、それでは何も解決しない。


 誰も信じられなくなった親父はより一層孤立し、母は俺を守るという使命だけにしか縋れず自ら親父の人形として振る舞う事を望んですらいるようだった。


 ヘドが出そうだった。


 親父はもう改心出来ない。ならばそんな一縷の望みに懸ける事ほど無駄な事は無い。


 俺の生活の安寧がもう一度訪れるためには、変われない親父も心を失った母さんも、もはや必要ない。


 俺が変えなければならない、俺が動かないとどちらかがボロ雑巾のようになって朽ち果てるまで終わらない。




 正しい選択を出来るのは、俺だけだ。




 本当に躊躇した。目の前まで来てこの手に触れるまで何度も考えた。これが本当に正しいのかと自問自答を繰り返した。


 それでも答えが変わる事は無かった。握りしめるとさらに呼吸が荒くなり、心臓が張り裂けそうなほどに速く脈打ち、全身から玉の汗が止まらない。


 今まで絶対にしてはいけない事だと認識してきた行為に及ぶことは、心の中で幾重にも連なる巨大で分厚い壁を全てぶち破らなければならない。


 悪辣を重ねてきた親父を裁くために、自我がほとんど無くなるまで俺のために耐えてきた母の思いに報いるために。


 その大義のために握った包丁は、何度か持った時よりも遥かに重く、遥かに恐ろしく見えた。






 一瞬のように感じた。


 実際は何分も経っているが、衝撃的だったせいか記憶があまり無い。


 ピクリとも動かなくなった親父に馬乗りしていた俺は立ち上がり、粘り着く感触がずっと残る真っ赤な両手を見て再確認した。


 俺は殺したんだ。親父と母さんを……俺が。


 後ろには首から多量に出血して硬直した母さんが横たわる。これまで俺のために我慢してくれたから、あの世ではゆっくり休んでほしいと本心からそう思った。


 親父は腹をめった刺しにされて完全に動かない。血の池と化したフローリングをピチャッ、ピチャッと音を立てて歩き、憎き親父への裁きを終えてホッと胸をなで下ろした。


 そして冷静になり、もう一度その光景を見て俺は思った。


 何故(・・)俺は(・・)冷静でいられるんだ(・・・・・・・・・)、と。


 見ての通りの惨状に何の感情も湧かず、2人を殺した事を自覚して尚、発狂する様子も高ぶる笑いが腹の底から湧き上がる様子も無い。


 両手にこびり付く血潮、白い夏用の制服に着いた返り血、昨日はニンジンとジャガイモを切っていた包丁が俺の手によって2人の命を刈り取った事実。


 何を自覚しても、俺は何も感じない。


 正確に言えば、とても簡単なゲームをクリアしたような、楽しいんだか楽しくないんだかよく分からないあの感覚だ。


 無傷の俺は、どうやら心も無傷らしい。


 さらに30分ほどが経った時、カーテンで閉ざされた窓に背もたれて座っていた俺はようやく気付く。


 ──ああ、俺も壊れてたのか。


 仕事も人間関係も上手く行かずに現実逃避をして、心が壊れていった親父。


 親父のDVも機嫌取りも愛する息子を守るためと虚勢を張り、心が壊れていった母さん。


 そんな2人の様子を黙って見ていてちっぽけで衝動的な正義感に駆られた俺も、知らず知らずの内に心が壊れていった。


 人殺しを正しかったと胸を張って言えそうな今の状態も、どうやら壊れているからまともな思考に至れないからだ。


 もう良い、全部どうでもよくなった。


 最初はただ、前みたいに母さんの美味い飯を食べながらくだらない話で笑い合う、そんな何でも無いぬくもりが、幸せが欲しかっただけなのに。


 変えられなかった、終わらせてしまっただけだ。


 ちょっと考えれば分かるはずなのに、そのちょっとが遠すぎた。


 許すとか許されないとかもどうでもいい、俺の壊れた心をちゃんと裁いてくれる誰かがいるならそれで。


 当然そんな奴はいない、天使も悪魔もこの世にはいない、いるとすればそういう妄想にとらわれて皮を被っちまった矮小で、醜悪で、学習しないバカな人間だけだ。


 実際に自分に向けてみると、冷たくて硬いソレを見るのは結構勇気がいるな。


 でも不思議と……いや、不思議ではない、今となってはそれも当たり前になってしまった。


 全く、怖くない。


 さて、俺の人生はこれから走馬灯に出るほど大層なモノだっただろうか。


 最後の方はどうしようも無く酷かったが、幼少期は確かな幸せをかみしめていたので全体を見れば救いようが無くは無い。


 せめて最期くらい笑ってやるかと自分自身を俯瞰し、首元に半分赤く染まった刃を触れる。


 ……どうして今さら、さすがに遅すぎて置いてけぼりにするところだった。


 むしろそう願っていたのだが、やっぱり俺は人間として死にたいらしい。


 やっと、涙がこぼれだした。


 あまりに滑稽過ぎて、思わず笑ってしまった。


 そして、言ってやった。


 後に殺す事となる両親の寵愛を受けて生まれてきた0歳の俺に。


 ウンコやらオナラやらが好きで一日中言いまくってよく叱られてた4歳の俺に。


 子供の作り方も知らねぇくせしていっちょまえに初恋してやがる7歳の俺に。


 その恋が成就しないまま相手が転校して一晩中泣きじゃくった10歳の俺に。


 バスケが好きで部活に入ったけど練習がキツすぎて1ヶ月でやめた12歳の俺に。


 それが最後に両親から祝われた誕生日だと知らずに喜んでる15歳の俺に。


 そして、今日が誕生日の17歳の俺に。




 ──おい、俺は人間らしく死ねたぞ。と。




 ゆっくりだと痛いので、一気に力を注いで切り込んだ。


 そして視界が暗黒に染まり、呆気なく左肩から床に伏した。


 そこで、俺の記憶が途絶えた──

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