小娘になってしまった!?
女子高生の身体で目覚めたゼグンド将軍。ムフフな展開のはずが、なんだか思っていたのと違う?お母さまは美しく、弟は反抗期真っ最中!厳しい監視者に見守られながら、暑苦しく奮闘するゼグンド将軍を、どうぞ生ぬるい目で見守ってやって下さい。
小娘になってしまった!?
ふよふよと、水の中を揺蕩うように、身体が軽い。
さらさらと耳に心地よい水音が近くに聞こえ、さらには女人の声が聞こえてくる。
「・・・・・・・・・軍。ゼグンド将軍、起きて下さい」
ああ、そうか。俺は死んだのだったな。やっと、戦いの日々は終わり、勇者のみが導かれるというヴァルハラなる楽園へ誘うべくして、誰かが迎えに来てくれたのだな。
そういう甘酸っぱい希望を胸に、俺はこのまま眠っていたい、という欲求を「えい!」と退け、くわっと目を見開いた。
さぁ来い、美女!いや、贅沢はいかんな!とりあえずヒゲの生えていない、汗臭くない、清潔な服を着た女性であれば、大歓迎だ!
だがしかし。現実とはいついかなる場合も、非情なものである。
ちょっとばかりワクワクして目を開けた俺の目の前、つまりは5歩ほど先の地面に胡坐をかいてふんぞり返っていたのは、女というにはあまりに幼く、同時に小童というにはあまりに冷たい目をした、小さな娘っ子だった。
黒い真っ直ぐな髪を耳の下で二つに結わえ、見たことのない、光沢のある高級な着物をきっちり纏っており、見えている部分の肌といえば、頭を支えるほっそりした首と、小さな手足のみだった。
子供なのに、やたら威張った様子で腕を組み、武人である俺を目の前に、少しも怯えた様子も見せない。まっすぐにこちらを見据えるその瞳は、黒黒として、深い闇を湛えているかのよう。
目尻と、ちんまりした唇にうっすらと朱を刷き、まるで人形のように造作の整った子だったが。
上品で感じがよかったのは、どうやらこの見てくれだけだったらしい。
次の瞬間、その娘っ子はぱかっと口を開き。
「誠に遺憾ながら、貴方はまだ死んでいません。正直、迷惑しています」
と、なかなかに厳しい事を言いだしよった。
はぁ?と俺は慌てて起き上がり、無意識に地面を探って、常に手元にあるはずの愛槍「イグニス」の柄を掴もうとしたが、なぜか何もない。
倒れた際にでも、取りこぼしてしまったのだろうか?
しきりに頭を捻り、なんとなく空気を掴んだ己の手を見て、
「えっ!?」と思わず動揺も顕わに声をあげてしまった。
同時に、自分の声が耳に馴染んだものと違い、柔らかい女の声なのに気づく。
ど、どうなっている!?何かのまやかしか?誰かの――――そう、例えば目の前にいるこの娘っ子の魔術で、姿を変えられでもしたか?
魔法の存在に馴染んだ知識を総動員するも、見慣れた自分の身体が、二回りも小さく頼りなく縮んでいることに、まず仰天した。
いやいやいや、なんで?寝てる間に老化して縮んだか?それにしたって、こんなに急に変わるものなのか?ありえん!!骨格そのものが違うではないか!
改めて、ぺちぺちと自分の顔を叩いてみて、その感触がまるで別人のものであることを確認し、胃がひっくり返るような衝撃に身が震えだす。
ひ、ヒゲがないっ!!どこにもないぃいいいい!!!顎が縮んだ?鼻が埋まってるぞ、どこいった??頬がモチみたいに丸いぞっ!?
お、落ち着け!!落ち着くんだ!!いかなる場合においても、冷静でなくてはいけない!
俺はごっくんと生唾を飲み込み、ソロリと蹲ったままだった自分の身体を見下ろした。
バカに清潔そうな履物をひっかけた足は小さく、膝や手首の骨格がやたら頼りなく、成長途中であることが、かろうじて見てとれる。
しかもこの肉付きと骨格は、男のものではない。若年とはいえ、男ならば、首にしっかり喉仏を感じるはずだし、手首の骨格も、こんなに華奢ではないはずだ。
お、女になってしまった!?どういうことだ!!?
そして、手が小さい!!
こんな薄い皮膚の、頼りない手や、細っこい腕では、槍を掴んで振り回すことも、難しいのではないかっ!?
がばっと立ち上がり、思わず、やたら短い胴衣と袴の下からにょっきり覗く、白い足を見下ろし、またしても、その細さにショックを受けた。
細い!!こんな棒っきれのような足で、どうやって走るんだ!?見た所、衣の長さも足りないようだし、まさか貧民なのか?
アワアワと目線を動かし、二の腕や、ふくらはぎの肉付きを確認し、そこにも大した筋肉がないことがわかると、絶望的な気持ちになってしまう。
それなのに、胸や尻のあたりには、何かがぶら下がっているような奇妙な違和感があって、落ち着かない。いったいぜんたい、なんじゃこれは?なんだって、胸とケツに余計な脂肪が――――。
「ハイ、そこまで!!」
無意識に、自分が最も違和感を覚えるあたりに手を持っていって、胸の脂肪を掴もうとした途端、それまでゲンナリとした面持ちで、俺が慌てふためく様を見守っていた娘っ子が、いきなり声を張り上げた。
同時に、持ち上げていた手にピリリと電流のようなものが走り、思わず「わっ!?」とみっともない声をあげてしまった。
しかも、ほぼ同じタイミングで、胸あたりを凝視していた視界にも、霞みのようなものがかかって、それ以上どうやっても、先ほど見たような、くっきりとした胸の膨らみを目視することが出来ない。
アレ?
俺の目がおかしくなったのか?
慌てて、なおも手を持ち上げ、胸を触ろうとするが、どう頑張っても、手は動かず、ぎぎぎ、と音をたてて首が勝手に上を向き、「そこ」から目線が無理やり引き剥がされてしまった。
「貴方が眠っている間に、既に私は貴方の身体の一部に刷り込まれているのよ。その身体の持主、エナ・キリシマが嫌がる、セクハラは一切できないよう、オートロックをかけておいたわ」
どうやら目上に対する言葉遣いは止めると判断したらしい、娘っ子はフンと鼻を鳴らして、俺を汚いものを見るような目でジロリとねめつける。
セクハラ?
さっきから黙って聞いていれば、この娘っ子。まるで俺が犯罪者か何かのような扱いではないか。
失敬な!自分の身体が自分のものでなくなっていたら、肉付きのひとつやふたつ、確かめるのは当然の成り行きではないのか!?
そりゃあ、ちょっとだけワクワクしましたが――――イヤイヤなんでもありませんよ!――――、こほん、セクハラとは何だね!?不可抗力ではないか、失敬な!
「・・・・・・・・まさかと思うけど。ゼグンド将軍、貴方、どうしてその身体に入ってしまったのか、その経緯を覚えていらっしゃらない?」
ふと、娘っ子の言葉に不安げな声色が混ざって、ほんのちょっとだけ丁寧な口調に戻った。
「何をだ?雷を避けた直後に、転んで、何かに頭を強打されたようだったが・・・・頭を打っただけで、なぜ身体が変化するのだ!?」
お前の仕業ではないというのか?そう問いかけると、娘っ子は束の間、口を引き結んで表情を消した。
黒い瞳が、キラリと光り、油断なくじっとこちらを見つめるその姿に、俺はまた無意識に戦場で慣れ親しんだ緊張感を思い出してしまった。
この娘っ子。先ほどから奇妙だと思っていたが。やはり、人間ではない。
長い戦歴を経て、竜王や魔人、妖精族、あらゆるものと出会って来た。このゼグンド、伊達に戦場で生き抜いてきたわけではない。
見た目に騙されるものか。
心の目でしかと見ると、少女の姿とはまた別の何かが見えてくる。
自然と俺の身体は(正確には、小娘の身体だが)、戦闘態勢に入る。
危険を察し、戦いに備えるという本質は変わらない。俺はやはり、どこまで行っても戦士なのだろう。
ところがそんな俺の警戒心など、まるで気にする様子もなく、少女はヒョイと肩を竦め、不機嫌そうな態度はそのままに、マイペースに話しかけてくる。
「将軍・・・・・・・・・・・・今貴方の身に起きていること、全てをお話する事は出来ない。まだ審議中で、沙汰が下っていないのですから。
のものであただ、こうなってしまった以上――――別世界の第三者、エナを保護し、元に戻すためにも、貴方にも無事でいてもらわなくては」
審議中・・?なんの?そして、別世界の第三者?
わけのわからぬ話をいきなりされても、理解が追いつかぬ。
「何やら、ようわからんが。エナとは、この身体の持主だという小娘の事なのだろうか?」
少女の目線が、俺を通り越して別の何かを見ているようだと気づいた時、俺はにわかに、状況が飲み込めて来た。
この身体は俺のものではない。だとすれば、当然、この身体の本来の持主が何処かに存在しているはず。
一体どこにいる?
「そう。可哀想に、貴方が追い出したんじゃないの。エナには何の罪もないのに。・・・貴方は都合のいい事ばかり忘れていられて、本当に幸せよね」
娘っ子は、嫌悪も顕わに顔を歪め、敬語もやめて吐き捨てるようにそう言うと、そっぽを向いてしまった。
俺が追い出した・・・・?全くわけがわからない。どうして俺が、会ったこともない、こんな小娘の身体に入りたいと願うのだ?
全く身に覚えのない非難なのだが、この身体を見下ろす都度、なぜか居心地の悪い罪悪感がこみ上げてきてしまう。
それに。ちらとまた己の変わり果てた、小さな白い手を見下ろし、きゅっとそれを握りしめて俺は唇を噛み締めた。
エナとかいう娘は、この身体から追い出されて、どうなったのだろう?
もしかして――――。
ふぅ、とまるで俺の心を読んだかのようなタイミングで、幼い少女がため息をつく。
「そう。あの子は今、貴方の身体に強制的に押し込まれた状態よ。貴方が余計な抵抗をしたせいで」
「ちょ、ちょっと待て!!!」
俺は思わずガバリと跳ね上がるようにして立ち上がった。
さっと頭に蘇ったのは、意識を失う前まで己が戦っていた、死体が散乱する討伐現場の凄惨な光景だ。
あの死臭漂う地面を、豪雨がどの程度紛らわせてくれただろうか。とてもじゃないが、若い女に見せられたものじゃない。
少し後退すれば、あらかじめ設けていた野営地に戻れるが、そこには、素行に問題のあるゴロツキあがりの傭兵、長くツライ従軍過程に不満を抱えているであろう、仏頂面の負傷兵がすし詰めになっている。女にとっては、さぞかし臭く、居心地の悪い場所であることは間違いない。
金持ちの近衛騎士団「黄金の盾」とは対照的に、3度にわたる俺の降格処分の際に、騎士団の名を剥奪され、経費を大幅に削減された我が第三騎士団は、とにかく金がない。
便所どころか、湯浴みのための間取りもないのだ。もちろん従軍している医療部隊、後方支援隊の中に、女が皆無というわけではないのだが、とても少ない上、離職率が半端なく・・・・。
この、エナとかいう小娘が、そんなところで目を覚まして、一体どうなるのか。
俺の身体に入っているにしても、右も左もわからず、地獄にでもいるのかと勘違いをして、パニックを起こすやもしれぬ!
それだけならまだしも、俺ときたら多額の懸賞金がかかった、賞金首ではないか!
「い、今すぐ元に戻してくれ!!後生だ!!」
俺は思わず、がばっとまた地面に座り込み、無我夢中で、怪しいが全ての事情に通じていそうな娘っ子の足元に身体を投げ出し、意外につるりとしていた床に・・・・あれ?ここどこだろう?と初めて気づいたが、それは後回しだ!・・・額をこすりつけて平服してしまった。
「お前は先ほど言ったな。このエナとかいう娘には罪がないのに、と。
この娘のためにも、すぐに元に戻してほしい!お前達がどの程度、俺の事情について知っているのか知らぬが、こうしている間にも、普通の女の手には負えないような、生命の危機が迫っているのだ!」
「わかってる!」
なおも言い募ろうとした俺の言葉を、ぴしゃりと遮って、幼い少女が声を張り上げた。
ハッとして顔を上げると、不快げに片眉を揺らしたその少女が、どっかりと俺の前に腰を下ろし、苛立ちも顕わに「聞け」と、命じた。
「エナには、私の兄、シャリオンが付いたわ。だから大丈夫、ちゃんと守ってくれているはず。
だけど将軍、エナの事をこれ以上貴方と議論するような時間はないの。私達はこれから、エナの世界に一緒に向かい、そこで霧島エナとして、しばらくの間暮らさねばならない」
は・・・・・?
俺の思考は一瞬停止した。
今にもどうにか、元の身体に戻してもらい、槍を片手に部下の元へ、戦場にと戻ろうと血が騒ぎだしていたところだったのに。
なん・・だと・・・?
貴様、正気か?冗談です、と言ってもらえる事を期待し、見つめ合う事数秒間。
だがしかし、娘っ子は無情にもゆっくりと首を振り
「これは現実。変えようのない決定事項であり、他に選択肢はないの。私にとってもね」と、俺の目を(エナの目なんだろうが)見据えて、ハッキリと告げた。
嘘だろう?となおも、心の中で呟くのだが、痛いほどの緊迫感を伴った沈黙が、娘の言う通り、「どうしようもない事なのだ」という事実を突きつけてくる。
久しぶりに得体の知れない恐怖がこみあげてきて、嫌な汗がジワリと額に浮かぶ。
いやいやいや、どうやって?37歳の俺が、こんな――――ヒゲも生えていない、頼りない小娘のフリをするというのだ?
すぐにも怪しいと見ぬかれ、違法な魔術に手を染めたと、黒魔道諮問委員会に通報されるのではないのか?
奴らの裁判にかけられたら、おしまいなんだぞ?問答無用で、とりあえず禁固刑300年を言い渡されるのだからな!
「エナの世界に、そんなものはない。魔術そのものを頑なに否定し、別の文明が発達した世界だから、最悪の場合でも、挙動不審を理由に病院に連れていかれるくらいで済むわ」
え?そうなの?
俺はこの時初めて、もたらされた情報にホッとした。
黒魔道諮問委員会とは、恐ろしい組織である。国際法で定められている、禁じられた黒魔法を使用したと通報されれば、どこからともなく影のように現れ、対象者を裁き、一筋の光も射し込むことのない、深淵の牢獄に閉じ込めると言われているが。
その実は――――いや、やめておこう。奴らの手先とやり合ってこさえてしまった、古傷が疼く――――って、そんなはずはないか。この娘の身体には、少しの傷も見当たらない。(見える範囲にはな!)
「魔法が発達しなかった世界か・・・・。それなら、大抵のことは誤魔化せそうだな。」
「そうよ、シャリオンには申し訳ないけど、今から向かう、エナの世界の方が、断然楽そうなのよね」
少女はそんなことを言っているが、俺の経験上、楽そうな仕事ほど、後になってみれば「割に合わなかった」と思わされることが多い。
生命の危機とはまた違う、厄介な事が起きそうで、本当に気が進まない・・・。
大体この身体はなんだ?
胸のあたりがやけに重いし、尻にも余計な肉がついているようで、いつもと違うところに重心をもっていかないと、真っ直ぐに立ってもいられないじゃないか。
女の身体とは不便なものなのだな。
それよりも、だ。
俺は意を決して、今の今まで後回しにしてきた疑問を口にすることにした。
「先ほど、セクハラ云々、などという失礼極まりない事をぬかしていたようだが、おぬし」
「ジェマよ」
10にもならないだろう、見た目だけは幼い娘っ子は可愛げもそっけもなく、ぴしりと答えてくれる。
「誤解のなきよう言っておくが、俺はこれでも騎士である。わが軍でも、いついかなる場合においても、女子供に手を上げる事なかれ、という絶対の規則を、部下達に遵守させておるくらいだ。
だから、これは本当に、真面目に聞いているのだから、怒らんでくれよ。
そのぅ、用を足すときや、湯浴みなど、どうすればよいのだ?見えない、触れない、であってはそんな日常生活もままならないではないか」
先ほど、胸の肉を触ろうとしたら、厳しく止められ、視界を遮られたことを思い出し、その事に対する抗議と聞こえないよう、努めて冷静に話を切り出してみる。
女子の身体をどうこうできるかもしれない、という下衆な考えなど全くない。それだけは、どうか信じて貰いたい。
俺はこの時、本当に困り果てており、そのような余裕など、ちっともなかったのだ。
少しでも力加減を間違えたら、壊れてしまいそうなほど貧弱な娘の身体に、できれば指一本たりとも触りたくなかった。
ジェマ、と名乗った得体の知れない小娘は、有難いことに、そんな俺をバカにする様子もなく、「本当に?」と邪推することもなく、頷いただけだった。
「大丈夫。それは私が全て行うことになっている。私が必要に応じて、貴方の意識を一時的に押しのけ、その身体に刻まれた、エナの記憶を忠実に再現するというわけ。
貴方と違って、私にはこの身体の記憶、エナとしての記憶の全てを知り、活用することができるのよ」
「そうなのか?それなら何故、俺がエナのフリをする必要がある?俺の意識など眠らせておいて、全てお前がやってくれればいいではないか」
「無理ね。そうしたいのは山々だけど。常時そうし続けるための、必要なエネルギーと魂の体積が足りないのよ・・・・私もシャリオンも、実はとても小さいの。」
そう言って、小娘は少し肩を竦めて、初めて申し訳なさそうな表情を見せた。
「それにね、エナをずっと昏睡状態にさせておくわけにもいかない。元の魂が長い事身体を離れるだけでも、大変なことなのに、身体をずっと動かさずにいると、元通りにするのが難しくて。生きて活動するための筋肉も、日々衰えるわけだしね」
「・・・・・・・・・・まあ、そうだろうな」
戦場では、常に死を覚悟してきた俺と違い、このエナとかいう娘は恐らく、平和な暮らしを営んでいるのだろう。
白い掌をじっと見下ろしながら、俺は深々とため息をついた。
俺が一体何をやらかし、このような事態に陥ったのかは、わからない。
ジェマも、恐らくは何処かの組織に与しており、上役に命じられて、貧乏くじを引いてしまっただけなのだろう。
年を取ると、こういった事がすぐにわかってしまうだけ、「理不尽だ!」と責め続けることも、今すぐ元に戻せと、言い募ることもできなくなってしまう。
聞きたいことは沢山あったのだが、ジェマが言おうとしないのなら、きっとその許しがないせいなのだろう、と察することができたので、俺も結局口を噤んでしまった。
元々口数が多いわけではない。不器用で、ましてや女子相手に何をどう話せばいいのか、という点については、いくら年を食っても、わからないままだ。
束の間、しーんと俺達の間に奇妙な沈黙が満ちた。
この時点でようやく、少し落ち着いて辺りの様子を窺う事に意識を向けることが出来た。
なんとなく、最初から、自分がみっともなく転んで頭をぶつけた、魔物の血と雨の臭いが充満した荒地ではないとわかっていたが、それを確かめる事は重要ではないと考えていたのだ。
まず、床が「地面」ではなく、ツルツル磨き抜かれてとても清潔な石で出来ている。
ここは、どこかの城内なのだろうか?見覚えは全くないのだが、この上なく清潔なマーブル大理石造りの大広間に、上品なクリーム色のカーテンが、部屋の左右の巨大な窓を覆い隠している。
つい先ほど、川のせせらぎを耳にした、と思ったのは、この部屋の最奥に設えられている美しい噴水が奏でている水音だったようだ。
二層の楕円形の盆の上で、白い二羽の鳥の彫像が乗った水瓶が傾き、そこから水がこぽこぽ湧き出ている。
芸術に疎いせいかもしれないが、室内に噴水を作るという風習など、見たことも聞いた事もない。
どうしてなかなか、水の音は心を落ち着けさせるし、部屋の中にそういう鑑賞用の場があるというのは、好ましく、センスがいいと感じてしまう。
だがしかし、これだけ贅沢な広い部屋を、きっちり掃除するだけでもかなりな手間のはずだ。
城や領主の屋敷などは、その居住まいを管理するため、必要以上に多くの使用人を抱えているものなのだ。
それなのに、ここはどうだろう。使用人の姿形どころか、傍近くに全く、俺とこの娘っ子以外の人の気配がないではないか。
ジェマはゆったりと首を巡らせ、一瞬だけ噴水を眺めた後に口を開いた。
「ここは、私の部屋。私が支配している領域よ。見た目ほど狭くはないのよ。
――――さて、ここのことも、私のこともこれ以上説明している時間と、権限はない。
実は、これまでに一度だって、同じような事は起こっていない。貴方達が、世界を跨いで入れ替わった、初めての例ということになる。それで、私とシャリオンが、これ以上世界に混乱をもたらさないよう、見張り役として派遣されたというわけ。
ここから先は、私と貴方は運命共同体になるのよ、忘れないでね!」
ふむ。
俺は聞きながら、なんとなく、クセで顎に手をやり、下顎にあるはずの髭をさすろうとしたのだが、当然、小娘の身体なのだからして、そんなものがあるはずもなく、指先はやけにツルツル、もっちりした肌の感触を伝えてくるのみだ。
そこに、自分でも思ってもみなかったほどの、喪失感を覚えたが、感傷に浸っても仕方あるまい。
ないものは、ないのだ。
不意に、それまでじっとしていたジェマが、何かに耳を傾けるような仕草をした後、すっと音もなく立ち上がった。
「時間ね。エナの身体は、目覚める準備が整った。私達、もう行かなくちゃ」
言うなり、ジェマは持ち上げた片手をこちらに向け、ついと人差し指を俺に突き付けた。
その途端、色鮮やかな衣を纏ったその小さな体が、ぱっと光ったかと思うと、あっと言う間に小さく萎んで、小さな卵サイズの塊になり、てんてん、とバウンスした後、すっと光の筋に変じ、あっけにとられた俺の腕にと巻き付いた。
「うぉ!?」
しゅる、と何か紐のようなものが片腕に巻き付いた、と感じたのはほんの一瞬の事。
すぐにその違和感がなくなり、光っていた筋のようなものは、白い皮膚の下に溶け込むようにして、見えなくなった。
そして、今度は俺の脳内から直接、話しかけて来た。
「エナの世界では、魔法はいかなる形でも発動してはならないし、私のような、「監視者」は存在していることを気取られてはいけない。だから、こうやって貴方の中に潜んで、状況に応じて、エナの身体の記憶を再現して乗り切るしかない。
だけど、必ず元に戻る日が来るから。それを信じて、なんとか耐えてね。
・・・・・・・・大変だろうけど、これはもう決定事項なの!将軍、貴方ならよくわかっているはずよ。
道を選べないのなら、突き進むしかないってことを!」
か弱い小娘の姿をしていたくせに、歴然の勇者のような事を言いおってからに!
なんで俺がそんな、わけのわからない、何者かもわからない、会ったばかりのお前の指図を受け入れねばならんのだ!と思わないでもなかったが。
だが、ふつふつと、出陣前のように気分が高揚してくる。
これはいわば、防衛戦だ。時が来るまで、持ちこたえるという任務なのだ。
俺の中では既に、どこかでこの現状を受け入れつつあり、小娘としていきなり右も左もわからない異世界に飛ばされる事は、もうどうしようもないのだ、と理解し始めていた。
何より、本能がそうさせているのだと思う。
理不尽だと思うが、動かしがたい状況であるのなら、大事なのは、これからどうこの危機を乗り切ればいいのか、前向きに検討することなのである。
「あいわかった!ジェマ、頼りにしておるぞ!」
「・・・・・・・・・・・・・まずは口調から、直さないとね」
可愛らしい小娘の声というのは、なんとも違和感があるものだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そこから、急激に状況は変化した。
ふっと瞬きする間に、それまでに見えていた、真っ白い部屋の全てが幻のように消え失せ、ぐんと頭を後ろへと引っ張られ、くらりと視界が揺れて、何もわからなくなった。
そうして、また泥沼の中に浸され、かき混ぜられているかのように、頭が重く、沈んだり、浮いたりを繰り返すうち、少しずつ、外からの物音が聞こえるようになってきた。
ツンとクセのある刺激臭が鼻をくすぐり、続いて、誰かの指が俺の腕(小娘の、だが)の肘内側を押さるのを感じた。
その箇所から、なにか針のようなものが、引き抜かれるのがわかり、一瞬攻撃されたのかと身構えそうになるも、実際には微動だにできなかった。
何故なら、ジェマが「ダメ!急に動いちゃだめよ!」と言いながら、俺の肉体を素早く勝手に操作したからだ。
いや、正しくはエナ、という小娘のか。ややこしいので、これからは、全て「俺の身体」という言い方をさせてもらおう。
だが、もう目を開けていい、とジェマは考えているのだろう。恐る恐る顔に力を入れ、目を開いてみると、誰かが俺の腕に身を屈め、小さくカットした何かを、先ほどまで何かが刺さっていたと思しき、その箇所に貼るところだった。
目に染みるほど真っ白い、頭巾とシャツと、細身の袴、という奇妙ないでたちの若い女だった。
そこまで認識すると、俺はまた危うく、「ぬ!?」と呻いて飛び上がるところだった。
「オッサン!!大人しくしてろってのよ!!」と、何やら焦った様子のジェマが、ふん!!という感じに気合を入れて、そんな俺の身体を内側から押さえつけているおかげで、実際には動いていないのだが。
だだだ、だって・・・だって!!
お、女がいるんだぞ!?こここ、この俺の半径1メートル以内に、女が、しかもまだ若い女が、いるんだぞ!?これがどんだけ異様で、奇跡的な状況なのか、ジェマ、お主は知らないのか!?
「あら、霧島さん、お目覚めですか?よかった、脳震盪の割に、なかなか目が覚めないから、心配してたんですよ!」
クワッと目を見開き、固まってしまった俺の様子に、ちっとも怯むことなく、その女性はにっこりと眩しいほどに優しい笑みを向けてくれた。
その笑顔に、ズキューン、と胸を撃ち抜かれ、ぐらりと気が遠くなる。
い、今までかつて、俺にこのように笑いかけ、労わってくれた女性がいたであろうか・・・?
否!!!!
初恋の女子は「お慕いしています!貴方の帰りをお待ちしていますから!」とまで言ってくれたのに、数年後、クソ長い国外任務(当時は戦時中だった)を終えて帰国してみれば、別の男と既に結婚していたり。
次に話しかけてもらえた、ちょっといい感じになっていたはずの女性からは、結局
「あらゼグンド将軍。また降格処分を下されたのですか?・・・爵位だけは何とか取り上げられずに済んでいるようですが、なかなかの甲斐性なしですね!失望しましたわ」と、アッサリ袖にされ。
着慣れない礼服に身を包んで、初めて国王に招待されたダンスぱーちー、という社交の場では、もっとひどい目にあった。
お、思い出したくもない事ばかり、一瞬の間に思い出してしまったぞ!おいコラ、ジェマ!!何を笑っておるのだ!
さては勝手に俺の記憶を覗いて楽しんでおるな!?
それにしても、この女子の着ているこの服は、とんでもなく身体にぴったりして小さいようだ。
はて?ちょっとムッチリして肌艶もよいし、健康そうなのに、もしかして貧乏なのだろうか?
どこの国でも、流行に差はあれど、基本的に裕福層のものほど、たっぷり高級な生地を使い、なんだかヒラヒラするものを魚のヒレみたいにあちこちにぶら下げているものなのだが。
そう疑問に思っていると、するっと、まるで別のところにある、別の脳が働いたような奇妙な感覚と共に、あるはずのない、この世界の知識が頭に忍び込んできた。
この世界、特にこのニホンという国では、服に使用される生地の量は、貧富の差を計る要素には、なりえない、ということと。
この世界の服そのものが、動きやすく、身体に沿った形で造られているのだ、ということが一瞬で理解できてしまった。
もちろん、その例外もあって、ふぁっしょんしょー、なるものでは、実用性と無縁の、ひらひらして、着方もよくわからないような服を見られるイベントもあるらしい。
なるほど!
そう勝手に納得している間にも、俺の様子をしげしげと観察し
「どこか痛いところはありませんか?」だの「気分はどうですか?お母さんが、もうすぐ来ると思いますよ」と、矢継ぎ早に話しかけてくれる。
ああ、女性が、こんな近くで、優しく話しかけてくれている・・・・!俺は幸せだ!!
などと、じぃん、と感動していると、またしてもジェマの忍び笑いが聞こえて、俺は慌てて居住まいを正した。
「や、かたじけない!どこも悪くないゆえ、お気遣いなく!」
「えっ!?」
ハッ・・!しまった・・・・!!!ジェマが舌打ちしながら、俺の内側から悪態をついた。
そうだった、今俺の身体は、小娘・・・・!今しがたこの口から出た声も、若くて柔らかい女の声だったのだ。
口調と、声がまるで合っていない。
別段、自分の話し方がどうとか、考えたこともなかったが、ジェマに
「時代劇に出てくるおじいさんみたいな喋り方は、不自然よ」と何度も注意されてばかりなのだ。
少なくとも、エナのような子が口にするセリフではないのだろう。
この白い服を着た女人のリアクションが、痛いほどその困惑を伝えてくるので、流石の俺にも「まずかった」のが身に染みる。
じぇ、ジェマよ!こういう時は、どう誤魔化したらよいのだろう!?
「仕方ないわね、いい?今回だけは私がやるから、次からは迂闊に口を開かないでね!」
そうコッソリ念押ししながら、素早くジェマは、俺の意識からするっと主導権を取り上げ、ニッコリと無邪気な笑みを、小娘の身体を使って再現し、晴れやかな顔でこう言った。
「なんてね!えへへー、冗談ですよ~。どこも痛くありません」
笑って誤魔化せ!という何とも単純なやり口なのだが、流石に威張るだけあって、ジェマのやつ、演技が上手い。
それとも、小娘の記憶を正確になぞっているからなのか。
言われた当人である、どうやら看護師、という職についているらしい、その女性はホッとしたように眉尻を下げ、頷いてくれた。
「そう!よかったわ、点滴も終わったし。じゃあ、ちょっと先生に、霧島さんが起きましたって、伝えて来ます。ちょっと診てもらいましょうね」
主に頭を、と何だか引っかかることを呟きながら、元気よく、身をひるがえして去っていってしまった。
灰色のドアをぱたんと閉められた後には、俺と、俺の中のジェマだけが取り残された。
大部屋をカーテンで仕切り、ベッド自体は他に3つもあったが、使っている人はこの時他に誰も見当たらず、貸し切り状態なのかと思いきや。
後から聞いた話によれば、他の入院患者が、たまたま検査、入浴、散歩、などでそれぞれが席を外していただけだったらしい。
ポカンと、見慣れない材質のベッドの縁を触ってみたり、てれび、という俺がかつて暮らしていた世界にはなかった、小さな黒い板みたいなやつを弄っているうちに、ぱたぱた、と誰かが駆けてくる足音が扉の外の廊下から聞こえて来た。
あ、そういえば、エナの母君がこちらに来る、と先ほどの女性が言っておったなあ、と思いついたのと、その扉が大きく開いて、ぱっと小柄な人物が飛び込んで来るのが、ほぼ同時だった。
「エナ!!」
「・・・!!」
エナという小娘の母君。
弄っていたテレビというやつを握る手に力が籠って、みし、と嫌な音が鳴った。
先ほど見た女性と同じように、黒い髪。これも後で知ったことなのだが、この国では、ほぼ全員が、似たような黒髪、黒目で生まれてくるらしい。
俺の記憶にある、南国イシュパネラの民とも違う、黒というより、柔らかい茶色をした艶やかな髪をゆるく結い上げたその人を見た途端、息が止まるほどの衝撃を覚えてしまった。
嬉しそうに頬を緩め、大きく見張った黒い瞳はキラキラ輝き、とてもエナのように大きな子供がいるとは思えないくらい、その顔立ちは若々しく、愛らしい。
飾らない主義なのだろう、男が着るような、くすんだ色合いのシャツというこの世界の標準的な服を着て、どこに腰があって、どこに尻があるのかもわからない、これまた見慣れない袴をはいており、それを何故か残念に思う自分がる。
さっきの女性のように、色々と身体のラインを出せばいいのに、とコッソリ思ってしまって、ジェマに「変態か!!」と怒られ、正気に返ったが。自分でも、なんでそんなバカみたいな事を考えてしまうのか、よくわからない。
いやいや、それにしても、なんて可憐なご婦人なのだろう!?
「エナの母さんだからね!??ちょっと、将軍!!聞いてる!?一応、その人35歳のはずだよ?」
とどうでもいい事を言いながら、ガミガミと言ってくるのだが。
35歳とな?だから何だというのだ?20歳だろうが50歳だろうが、なんとも思わないのだが。
いや待て、35ということは・・・・俺が38歳なのだし、とてもお似合いではないのか!?
「エナ?どうしたの?ぽかんとして・・・。まさか、頭が痛むの!?」
おっとイカン。
ボンヤリしている内に、ご婦人――――母君が、心配しはじめてしまった。
嬉しそうだった顔がみるみるうちに雲って、オロオロと口元を覆って俺の方へと片手を差し伸べ、額に触れて来たので、俺はまたしても、危うく飛び上がってしまうところだった。
ぎゃああああ!!?じょ、女性の手が俺の顔にぃいいい!!!
「エナちゃんの顔、にだからね!!!しっかりしてよぉおお!!このポンコツ将軍!!」
思わずずささっと後ずさりしそうになったが、これまた、ジェマがすかさずコントロールしてくれたのだが、鉄壁だと自負していたはずの俺の平常心は、地平線の遥か向こう側にいっちまったらしい。
うぉおおお、顔、顔が近いっ!!
心配そうに、きゅっと唇を噛み。長い睫毛の下で瞬く黒目は、ウルウルと潤んで星の如き美しさ。
それに、なんだかいい匂いがする!新鮮な果物のように、甘酸っぱく――――。
「ダメだ、このオヤジ!!!!」
そこまで思った途端、ジェマの絶望したような悪態が聞こえ、それと同時にぷつっと何かが切れる音がして、そこからいきなり何もわからなくなった。
え?と思っているうちに、次に瞬きし、一瞬止まってしまったようだった時間が流れはじめた、と思った時には、目の前にいたはずの、エナの母君の姿はなく。
俺はいつの間にか、また見慣れない部屋に、ぽつんと一人残されており、先ほど見た時とは違う「ぱじゃま」という服を着せられ、ピンク色のカバーのかかったベッドに座っていた。
あれ?何が起こった?なんかいきなり、日が暮れた?
ここはどこだ?
「・・・・・・・・・・・将軍。貴方がパニックを起こしているようだったので、意識の100%を、私が乗っ取って身体を動かし、ここまで来たのよ」
ハァ??
ジェマの静かな声が脳内に響き、俺は思い切り顔をゆがめてしまった。
ちょ、ちょっと待ってくれ!先ほどまで、俺はこれまでの人生で最高に、幸せな瞬間を迎えていたのだぞっ!?
夢に見るほど、美しい女性が、あんなに優しく俺に近づいて来たのなんて、いつぶりか!?
12年前には、同じような事もあったかもしれんが、たしかあの時は、すぐにバチーンと頬を張られて終わったではないかっ!?
「それは、自業自得だからね。女性に対し、照れ隠しか何か知らないけど「太りましたか?」なんて言った貴方が悪いのよ」
ほ、褒めたつもりだったのに・・・!!
いやいや、待て待て。やけに詳しいな。ジェマよ、やはり俺の記憶を――――しかも負の歴史ばかりを厳選して覗き見したな!?
ムッと抗議しようとした俺だったが、それより早く、不満やるかたない、と言わんばかりにジェマが猛然と
「それより、何なのよ!?あの体たらくは!データになかったわよ!将軍ともあろうものが、あんなに女に弱いなんてっ!それでよく、今まで生きて来れたわね!?」
と、まくし立てられたので、俺は慌てて首をブンブン振るしかない。
「弱いとは何かね!?失敬な!自慢ではないが、俺は一度だって、女性を泣かせた事はないのだ!紳士なのだぞ!」
「それを自分で言っちゃうの?バカじゃないの!?泣かされたことは、沢山あったでしょうが!女の暗殺者にあの手この手で騙され、ブッ刺されること23回!よくそれで今まで生き伸びてこれたわね!?流石ね、物理防御値99999は!!
まったく!聞いてないわよ、こんな仕事!情報局のあの野郎、こういう都合の悪いデータの全てを隠していやがったわけね・・・・!クソッ、騙されたわ!!な~にが楽な仕事よ、大ウソつきめ!!」
一体何がそんなに逆鱗に触れたのか、ジェマはきぃいっと物凄い剣幕で吼えた後、わけのわからない事をブツブツ念仏のように唱えている。
声しか聞こえないため、どんな顔をしているのかわからないのが、知りたいような知りたくないような、複雑な気持ちになってくる。
物理防御値って何の事だろう?23回って、そんなに刺されたっけ?
若かりし頃、ついウッカリ綺麗なオネエちゃんに見惚れて、フラフラしてしまった際、いつの間にかブスブス手裏剣が背中に刺さってた、という失敗があったような、なかったような?
大袈裟だな!何かの間違いだというのに!
はて、と首をひねっている間にも、どうやら我に返ったらしいジェマが、
「とにかく!」と厳しく俺の注意を引いた。
「いいこと?貴方は今、霧島エナなのよ!そして、さっきのあの人は、エナのお母さん!
そしてここは、本来貴方が存在しないはずの、全くの別世界!最終的にはここを離れて、元の世界に戻るんだからね!」
ハッ!そうだった・・・・・・!
つい、美しいご婦人方に優しくされて、ぼぅっとなってしまったが、ここは別世界で、本来俺の居場所など何処にもない。家どころか戸籍すらなく、エナの身体に間違って入ってしまっただけの、難民のようなものではないか。
いつまでもこのままというわけにいかないし、何より、俺には残して来た部下達がいる。故郷には、これまでの人生全てを捧げて来た、「我が家」があるではないか。
どんなに理不尽な処分を言い渡されても、それでも亡命できないのは、家があるからだ。
守らねばならない、民がいるからだ。そのためなら、結婚できないくらい、なんだというのだ!
「え?将軍、なんか泣いてる?」
気のせいだ、ジェマよ!!悲しくなんてないのだ、全ては自分で選んだ道なのだからな!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
どこでも眠れる俺は、あの後ひとしきり決意を固めると、そのままボスンといい香りのする枕に頭を乗せ、スヤスヤと夜明けまでたっぷり眠ってしまった。
そして、朝日とともに起床。あ~よく寝たぁ、朝稽古するか、伸びをしていると、
「おはよう・・・」と、どこか覇気のないジェマの声が脳内から響いてきて、半ば寝ぼけていた俺は、ハッと思い出した。
そうだった、コイツがいたのだったな。なんだか低血圧気味のようだが。
そして今の俺は、エナ・キリシマという小娘!クソっ、それに槍もないぞ。日課の素振り1万回が出来ないではないか!
ギリリと歯ぎしりするも、身体を動かしたい欲求をなんとかやり過ごすと、今度は別の欲求が湧いて来た。
そういえば、朝イチの尿意が――――。
「交代するわね。着替えるとこまで」
あ、と言う間もなく、するっとそこで俺の意識がまた、綺麗に切り取られたかのように、なくなった。
そしてまた、ふっと意識が戻り、ぱちぱち瞬きする間に、昨夜から身にまとっていた服がガラリと変わっていて、俺はギョッとした。
おやっ!?
先ほどまで「厠はどこか?」と探そうとしていたキッカケの尿意がなくなっているだけでなく、顔までなんだかサッパリしている。
「言ったでしょ。そういうのは、私がやるって」
なるほど。そういえば、そういう話だったな。
ちぃとばかり残念な気持ちもあったが、ホッと安堵する気持ちの方が大きかった。
しかも、ちゃんと髪をとかし、顔も洗ったというのだから、なんとも手際がよいと感心してしまう。
いつものクセでヒゲを探してしまうが、つるりとしたエナの顔が、昨夜触った時に比べても、やけにしっとりして、何かべとつくものを塗りつけているような感触すらある。
それが何やら不快で、擦って取ろうとしたら、すかさずジェマに怒られた。
「バカっ!せっかく塗った日焼け止めが剥がれちゃうでしょ!女の子の顔に、無闇に触らないでよ!」
「お、おぅ」
何やら、年頃の娘を持つ父親の気持ちというものが、なんとなく理解できた瞬間だった。
結婚もまだなのに、どうしてこういう気苦労ばかりを、先に味わわねばならんのか、という腹立たしい問題はともかくとして。
「ほら、着替えも終わったんだから、カーテン開けて」
「あ、ああ」
出会った時から、あまり尊敬はされていないな、と感じていたが。何やら夕べから、ジェマの態度は一層ぶっきらぼうになり、隠す努力もする気はないのか、俺への侮蔑の念が言動の端々に滲み出ている。
はて・・・?なんでジェマはこんなに怒っているのだろう?
俺は明るくなった部屋の内装を改めて見回し、おかしな形をした、「時計」という時間を不気味なほど正確に示してくれる、便利なアイテムをちょっとだけ観察していたが、大人しくジェマの勧めに従って、朝日を室内に取り込むべくして、窓辺にと歩いていった。
ベッドカバーもそうなのだが、このカーテンも、なんだかやたらと薄くて、柔らかい素材で出来ている。(しかも、女子というものは、皆こういう趣味なのだろうか?なんだかヘンテコな生物を描いた模様でいっぱいだ)
エナが今着ている服にしても、やたら薄くて、ちょっと引っ張るだけで、ビリッとと破れそうで、なんだか怖い。(弁償できないからな!)
ここでの物価単位がよくわからないのだが、どれもこれも、ひどく高価な素材で出来ているように見えて、なんだか落ち着かないのだ。
何しろ昨日までは、文明から程遠い、人里から3日も離れた荒野を歩き回っていたので、清潔なものに囲まれているだけでも、ひどく贅沢しているような気持ちになってしまう。
向こう側が透けて見える、柔らかい薄絹と、やや厚手のしっかりしたピンクのカーテンに手をかけ、ソロリと左右に開いて外を眺めた途端、俺は束の間言葉を失った。
な、なんだこれは!?
窓が、窓に嵌っているガラスが、まず物凄く透明なことに驚いた。
俺のいた世界にもガラス窓は多いが、ここまで薄く、まるで空気のように向こう側が透けて見えるようなものは、王宮にだって存在していない。
思わずぺたぺた触ってみると、つるっとした表面は異様にキメが細かくて、継ぎ目がない事に、またビックリする。
そして、なんだか軽い!エナの記憶をもとに、おっかなびっくり、スライド式の留め金を外し、からからと右へ窓をずらしてみるだけで、そのスムーズな動きにも、目が釘付けになってしまった。
なるほど、別の文明が発達すると、こうなるのか!
外はどうなっているのか、ガラスに気を取られ過ぎて、よく見ていなかったが、改めて顔を窓から突き出し、外を見て、
「な、なんじゃこりゃあ!!?」と、またしても叫びそうになって、慌てたジェマに止められた。
エナの家を取り囲んでいる、家々の屋根の形くらいは違うだろう、と適当な予想をつけ、覚悟していたものだったが。
それより驚いたのは、ビッシリ地面を覆って見事に平たく均された黒ずんだ道と、それを走る鉄の「自動車」なるものの速度だ。
顔を出してすぐに、折よく家の前の道を、ブロロロ、と不思議な音をたてて走り抜けた「クルマ」を見た時、俺は危うく後ろにのけぞって、みっともなく腰を抜かすところだった。
な、なんてこった!それも、一台や二台ではない、たくさんの車が、それぞれ好き勝手に走っている。
俺の世界では考えられないことだ。
妖精族から買い付ける「火石」や「水石」を動力源として高速滑走を可能とする、たくさんの人を乗せて走る「列車」は存在しているのだが。
路面を整備するのに莫大な金がかかるので、まだまだ、友好国のうち2つと繋がる一番大きな路線と、王都と、南東側で一番栄えている商業町を結ぶ一本の路線しか、我がファラモント王国にはないのだ。
それだって、警備と整備にかかる人件費と維持費、加えて燃料費が莫大なので、もしもファラモントの経済状況が少しでも悪化すれば、国内線は維持すらできない、と言われているくらいだ。
エナの知識の全てを把握している、ジェマが軽く説明してくれるのを聞いていると、文明のあまりの差に目が眩んで、頭がズキズキ痛みを訴えだしてくる。
ちなみに、俺の国でも、この自動車のようなものはあった。だが、精霊の力を籠めた燃料そのものが高額なため、王都に住むごく一部の貴族しか、この自動車みたいに、獣と御者なしで走れるような車を持っているものはない。
それがどうだろう。ここでは、金持ちばかりが住む一等区域でもないというのに、こんなにたくさんの家が、人が、自動車なるものを持っているのだ!
なんと贅沢な!!
「ほら、将軍。さっきも言ったけど、あまり深入りしないで。ここにずっといられるわけじゃないんだからね」
「あ、ああ・・・・」
遠くに見える、背の高い、にょっきり積木のように立ち並ぶ建築物を熱心に見入っていると、ジェマがそっと声をかけてきた。
そして、先ほど起きた時に、なんとなく目に入ってきた、ベッドの傍の壁にかかった、「時計」を見るように促して来た。
この世界の数字の形は、一瞬見慣れず読み方がわからなかったが、すぐにエナの身体の知識が、まるでもう一つの脳が身体にあるかのように、そつなく俺に知識を与えてくれるので、今ではすっと読めるようになった。
現在、7時20分だな。
「ほら、もう朝ごはん食べに降りて行かないと。お母さんが朝ごはんを用意しているので―――」
な、なんだとぉおおおお!そ、それをはやく言え!!
俺は身を乗り出していた窓から顔を引っ込め、素早く踵を返し、部屋の外へ走り出そうとしたが、ジェマの「あ、鞄くらい持って降りてよ」と文句を言うので、ご丁寧に出入口のドア付近に置いてあった、「がくせいかばん」なるものを片手に引っ掛けた。
あの美しい母君が、俺のために朝食を・・・・!
「ちがーう!!エナちゃんのためだから!」
ドタバタと、短い廊下をつっきって、突き当りの階段を走り降りると、ぷぅんとパンが焼ける香ばしい臭いがして、俺はまた、じぃんと涙が出そうになった。
続いて、じゅわ~っと油をひいたフライパンか何かで調理する音が聞こえ、食欲をそそるいい匂いが鼻をくすぐり、俺はたまらず湧いて来た涎を零しそうになってしまった。
燻製肉だ!この匂いは、燻製肉――――おっと、ジェマが「ベーコンよ!」と言っているな――――で間違いない!なんの肉かは知らないが、あの母君が出してくれるものなら、こないだ倒したブサイクな魔物のハラワタであったとしても、完食してみせる!!
美味しそうな匂いのする、居間とキッチンがつながった広い部屋に入る手前で、ついついそうやって両手を胸の前で組んでいると、後ろからのっそり誰かが近づいて来るのに気づいて、俺は一瞬だけ「お?」と思ったが。
相手は軽装のようだし、特に武器を携帯しているわけでもないことは、足音や匂い、気配でわかっていたので、俺はゆったりと振リ向こうとした。
「どけよ、エナ。邪魔」
ハァ?
不機嫌そうな少年の声に、俺自身には聞き覚えはないが、エナの記憶がまたしてもスッと俺の脳内に滑り込んできて「弟のハヤト」という人物であることを告げるのだが。
エナの弟といえば、たしか15歳くらいだったはずだ。
小僧のくせに、この俺を(エナだが・・・)呼び捨てた挙句、タメ口をきく、だと?
イラっとしながら振り向いた先に立っていたのは、ヒョロヒョロに痩せ、青白い顔に黒縁眼鏡を乗っけ、やけに明るい茶色の髪をボサボサと伸ばした、不健康そうなガキだった。
これが、エナの弟で――――あの可憐なお母君の一人息子、だと?
だらしなく、か細い腰に引っ掛けるような形で細袴(すらっくす、というのか?)をひっかけ、学校指定なのだという窮屈そうな詰襟式の制服を羽織りながら、両手をポケットに突っ込んで、肩をもそもそ動かしながら立っている。
「そこ、邪魔なんだけど」
目上であるはずのエナ(俺のことだ!)を、汚いものか何かを見る時のように、顎をしゃくり、片眉を潜めて眺めるその様は、思い切り見下した態度だ。
――――フム。これは、躾が必要かな。
俺は思わず拳を握ったが、ジェマに
「もう!!やめてよ、家庭内暴力なんかふるったら、お母様が悲しむわよ!」
と言われ、慌てて攻撃のために無意識に一歩引いていた軸足を、元に戻して、何食わぬ顔で道をあけてやった。
ハヤトとかいうクソガキめ、フンと鼻を鳴らし、この俺を押しのけるようにして、先に居間に入っていきおった。
ジェマよ。こんな躾のなっていないクソガキを放置しておくのは、いずれは母君を悲しませることになるのだぞ?何故止めるのだ!?
俺はムカムカする気分を何とか落ち着かせようと、気を取り直してハヤトに続いてそのドアをくぐったのだが。
そこには、可愛い水色のエプロン、その下はグレーのだぼっとしたシャツとズボンを纏っただけという、昨日病院で見かけた時よりもさらに、くだけた格好をしたエナの母上がいて、フライパンを片手に、肩越しに俺を見て
「おはよう、エナ!」と笑いかけてくれた。
ぶーっと鼻血を吹かずに済んだのは、やはりというか、ジェマのおかげだ。
朝からなんと、眼福なことか!俺はかぁっと赤らむ顔を見られぬよう、俯いてしまいながらも、ぴしっと
「おはようございます」と挨拶を返し、またジェマにツッコまれた。
「硬すぎるわよ!!いつの時代の娘よ!?」と。
母君といえば、ちょっと面食らったような顔つきになったが、俺が「しまった!」と考えるのと同時に、先に部屋に入っていたハヤトが、我関せずといったように、母君の挨拶を素通りし、母君を押しのけるようにして、傍近くにあった白い箱(れいぞうこ、というのか)を開けたので、俺の注意はまたしても、ハヤトに釘付けになった。
「ハヤト?ご飯食べていきなさいよ。牛乳だけじゃ、力でないで――――」
「うっせーんだよ、クソババァ!」
ムッ!?
俺が目を見開いている間にも、母君は悲しそうにションボリと俯いてしまい。
俺がもちろん、すぐにもハヤトをシメようと動く前に、先にジェマが身体の自由を奪って、俺を押さえつけている間にも。
ハヤトというそのクソガキは、箱(冷蔵庫)から飲み物を勝手に取り出し、なんとコップも使わず、ぐびぐびと行儀悪くその中身を飲みだした。
そしてもちろん、元に戻すこともせず、だん!と音を立てて、母君が作った美味そうな朝食が並ぶテーブルの上に置きっぱなしにして、ドカドカと出て行ってしまった。
お、おのれっ・・・・!!!ジェマ、放せ!!躾というものは、すぐにやらねばならんのだっ!!
「待ちなさいって!エナちゃんはそんな事してなかったわよ!どうしていいかわからなくて、困って、結局は、残されたお母さんを慰めていたわよ!それが貴方のすべきことなのよ!」
いやいやいや。
俺の怒りは収まらない。
ジェマの言わんとすることも、エナの事情や気持ちもわからんでもないが、俺にはさっぱり理解できない。
なんで、あのクソガキは、その日の寝床もメシも、全て用意してもらっておきながら、お母上に敬意を払うどころか、奴隷か何かのように見下しておるのだ!?
父親は何をしておるのだ?こんな時こそ、クソガキを一発ぶん殴って厳しく叱るべきところではないのか?
止めるなジェマ!俺はどうしても、今行かねばならん!!
「だから、させないってば!!!」
ぎぎぎぎ、と俺にしか聞こえないのだろう、俺の身体が内側から嫌な音をたてて軋む。
俺を内側から支配し、俺の行いを止めようとするジェマと。
怒り狂って、ハヤトを追いかけようとする俺の意志とが、一瞬の間に物凄い勢いで激しくぶつかり、火花を散らした。
くそぅ!!なんで身体が言う事を聞かないんだ!?
「なんで、意識を失わないのかしら!?どうなってんのよぉおお、ステータスにありったけ、下方修正をかけるよう、依頼したはずなのに!!」
ジェマも理性を損なっているのか、わけのわからない怒り方をしている。
束の間、そのままぎぎぎ、と同じ身体の中で何かを同時に掴んで、左右に引っ張り合う、というような感覚が続いていたのだが。ばちん!と音をたてて、俺とジェマの戦いは突如解除された。
頭の中で、巨大な風船が割れたかのような衝撃が走り、一瞬だけ立ち眩みがしたのだが。
その勢いで、ジェマもまた何らかの打撃を受けたのだろう、先ほどまでキーキーうるさかった、ジェマの声が聞こえない。
チャンスだ!!
俺はばっと踵をひるがえし
「あっ!エナどこ行くの?ご飯は!?」
という母君の慌てたような声を背に受けながら、裸足のまま玄関に向かって疾走した。
クソ、この身体、体重はずいぶん軽いのに、やはり脚力が足りず、いつもほどの速度が出ないな!!
だが俺は頑張って姿勢を低く保ち、エナという小娘の貧弱な身体をどうにか駆使して、先にブラブラと、ろくなものが入ってなさそうな薄っぺらな鞄を肩にひっかけた、だらしなく制服とやらを着崩したハヤトの、ひょろっとした背中に追いついた。
家から出て、ほんの2ブロック程度しか進んでおらず、幸い、大通りを逸れて人気の少ない路地に入ったところだったので、俺はニヤリと笑みを浮かべてしまった。
「ちょっと・・・・!殺しちゃダメだからね!?」
と、ジェマの泣きそうな声が聞こえ、心外だと俺は眉をしかめた。
何故俺が、お母君にとっての一人息子を死なせなくてはならないのだ?ちょっとばかり、拳に物言わせて、躾けるだけだと言っておろうに。
まあ、見ておけ。俺とて伊達に将軍職に就いておらぬわ。このような、イキがる新兵をどう扱えばよいのかなど、知り尽くしておる!
俺にかかれば、クソガキを躾けるなんてことは、赤子の手を捻るようなものだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なにか、おかしい。
イライラと爪を噛みながら、霧島隼人は先ほど3日ぶりに帰宅した、姉のエナの姿を思い返しては、不可解な違和感の正体がつかめず気持ちが落ち着かなかった。
おっとりした母に気質が似たのか、エナもまた、よく言えばおっとり、悪く言えば鈍い気質をしていたはずだ。
3日前に、近所の商店街をブラついて、子供が蹴ったボールを避け損ねた拍子に、頭を打って転んだというが。
やはり打ちどころが悪かったのだろうか?
記憶にある、3日前までの、へらっとした呑気な笑顔を浮かべ、自分を苛立たせる雰囲気を持っていたエナと、今朝リビングの入り口で突っ立っていたエナは、まるで別人のようだった。
邪魔だ、と声をかけると、エナはゆっくりと、驚愕に目を見開き――――そして、これまで一度も見たことのない、ゾッとするような鋭い目をこちらに向けてきたのだ。
あの一瞬、まるで心臓を素手で握られでもしたかのように、全身に鳥肌がたった。
認めたくはなかったが、その時隼人が感じたのは、得体のしれない恐怖であり、無意識に一歩下がりそうになったのを、必死に誤魔化し、つとめて「気のせいだ」と思う事で、なんとかやり過ごしていたのだ。
いつも通りに、ごはんごはん、と食べる事ばかり勧めてくる、口うるさい母をあしらって、牛乳を口にすることで、なんとか気持ちを落ち着け、家を出てきたのだが。
やはり、気のせいだったのだろうか?頭を打ったせいで、エナのやつ、頭のネジがおかしくなったのか?
追いかけてこない事にホッとし、隼人はポケットに手を突っ込み、そこに入った、茶封筒を握りしめては、複雑な気持ちで奥歯を噛み締めるしかなかった。
――――10万、持ってこい。あるいは、お前のネエちゃん紹介しろよ。なかなか可愛いって噂じゃんか。皆楽しみにしてんだからさぁ。
学校内で、不良に絡まれ、イジメられている内はまだよかった。少なくとも、学校内で終わることだし、卒業するまでの我慢だと思えば何とかやり過ごせたから。
だが、隼人に絡んでいた同じ中学の「ならず者」達は、学校の外では、さらに強い、高校生の不良の腰巾着になって、気の弱そうな知り合いを捕まえては、金品を強請り取り、無茶な要求をしているのだった。
例に漏れず、隼人も下校時に寄り道なんかしていたおかげで、そういう連中に捕まり、ボコられた挙句に、金を要求されるようになった。
小遣い程度で済んだのは最初の数日だけだった。
そのうち、高校生のグループに毎日のように待ち伏せされ、捕まり、家族構成を知られ、わりと可愛い顔をしている姉の存在に目をつけられた。
こうなると、姉をネタに強請られるのは、当然の成り行きだったのかもしれない。
警察に相談したところで、未成年は逮捕に至らないので、解決に至るどころか、必ず報復される。そう考えた隼人は、言いなりになって、今日も、母の財布を漁って、10万には足りなかったが、数枚の万札を抜き取ってきていた。
仕方ないんだ・・・・!だって俺一人じゃやり合っても勝てないし・・・・!エナは俺よりずっと弱いし、あんな奴らに目をつけられたら・・・・!
悔しいが、要求を飲むしかない。
そう改めて考え、ぎゅっと唇を噛んだその時。
「待ちな、ハヤト」
がっしと、力強い手が、肩にかかった。
ドスの効いた低い声だが――――間違いなく、姉のもので、咄嗟に振り向いたハヤトは目を見開いて、いつの間にか追いついてきたばかりか、間合いを詰めていたエナの姿を見て、
「ヒッ!!」と思わず震えあがってしまった。
思わず、エナ、と呼んでしまうと、目にもとまらぬ速さで、がっしと襟首を片手で掴まれ、そのままぐいと上に持ち上げられた。
エナよりも15センチ高い身長のおかげで、なんとかつま先は地面に触れているのだが、クレーンのような力で上へと吊り上げられ、学ランの襟が首に食い込んで、大変苦しい。
「お姉さま、だろう?口の利き方には気をつけろ、小僧」
可愛いと評判の、くりっとした大きな瞳が、今は瞳孔が完全に開ききって、底なし沼のようなほの昏い闇を湛え、小さく赤い唇がニィと邪悪な笑みを浮かべている。
6人の不良高校生に囲まれた時以上の恐怖を感じ、ハヤトは震えあがった。
それでもなんとか、放せ、と自分の襟首を締め上げる、エナの手に片手を持っていくのだが、その小さな手は、まるで鋼鉄の鉤爪のようにしっかり食い込み、何をやっても剥がれない。
こ、怖いっ!!目が、目がおかしいっ!!
やっぱコイツ、頭を打ってオカシクなったか!?こ、殺されるっ!!
混乱して、そんなことをぐるぐる考えている間にも、どうやら沸点が別人のように低くなったらしい、エナが凶悪な笑みを深くして、吊り上げていた腕をいったん軽く後ろへ引き。
次の瞬間、片腕ぶんだけの力で軽々と、ハヤトの身体を、斜め横にぶん投げた。
「ギャア!!」
ずしゃああっと物凄い音をたてて、受け身をとる暇もなく吹っ飛ばされるハヤト。
な、何が起こった!?まさか、あの弱っちくて、すっトロいエナが、俺をぶん投げたのか!?
その事に気づいて、一瞬頭に血が昇る。
「な、何しやがる!?」
痛む身体を何とか動かし、立ち上がると、今度は、正面から近づいて来ていたエナが、一瞬の間にサッと身を屈めたかと思うと、地を蹴り、ぐっと引いていた片方の拳が、ハヤトの顔に向かって飛んできた。
「ぐぉっ!?」
ズガン!!と音がしそうなほど、強烈なパンチが、避ける間もなく左頬に炸裂し、かけていた眼鏡が吹っ飛んだ。
つ、強い!!アイツらより、よっぽど強いんじゃないのか!?
薄れゆく意識の中、そんなことを思いながらハヤトは何とか片目を開けて、己を容赦なく殴った姉の姿を盗み見た。
振りぬいた拳をゆっくりと納める、何かの武術の型を彷彿とさせる残心に見惚れてしまいながら。
可憐な女子高生であるはずの、姉の身体の後ろに、どういうわけか、クマのように逞しい、筋肉ムキムキのオッサンが堂々と佇んでいるのが、ダブって見えた。
幻・・・・?エナが筋肉ムキムキのオッサンに見えるなんて・・・・そんなはず、あるわけない――――。
to be continued