夢で逢えたなら
水石泥棒、という汚名は返上できたけど、瀕死の魔物を見殺しにできなくて、救命すべく奔走するエナが知ったのは、「この世界の神聖魔法は品切れです、入荷予定がありません」という衝撃の事実だった!?そして夢に現れたイケメンは、敵か味方か。恋愛要素はもうちょっと・・もうちょっと先に出てきます!
「大変です、ケイレブ副館長!!」
どんどんどん、と寝室のドアが壊れんばかりに叩かれる。
――――ええい、うるさいな!尻に響くではないか!
ケイレブ・ウェストは内心毒づいた。
原因不明の腹痛に苦しみ、便所に駆け込むこと十数回、出すものを出し尽くせばスッキリすると思いきや、下腹はシクシク痛むし、某箇所が裂けるわで散々だ。果てにはトイレへの移動が面倒になり、ひと昔前の田舎貴族が愛用していた携帯式便所――――早い話が「おまる」の事である――――を、ベッドのそばに置く羽目になろうとは、なんとも情けない。
こまめに中身を捨ててもらってはいるが、嫌な臭いばかりはいかんともしがたく、まさに「泣きっ面に蜂」という状況である。
ケイレブは柔らかい布で出来た室内履きをつま先に引っ掛けてから、そっと忌々しい「おまる」をベッドの下にと追いやった。
もちろん、何やら興奮してドアを叩きまくっている小間使いに「身支度を整えるので、少し待ってくれ」と声をかけるのも忘れない。
このような状況でなくとも、身の回りを世話してくれる小間使い以外には室内に招き入れたくなかった。
「本当に大変なんです、ケイレブ副館長!!」
「なんだ?またウーボの搾乳に失敗して、誰か怪我でもしたのか?」
創設以来、大雨による川の氾濫などの災害はちょこちょこ体験していたが、毎月のように訪れる討伐隊のおかげで生息する魔物も少なく、たまに野菜畑が野生動物に荒らされる程度で、このキャストンファームは平和そのものだった。この時までは。
「いえ、そうじゃなくて!!そのウーボを簡単に手懐けてくれた、クーゲルさんが――――」
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「あの、そろそろ顔を上げてくれませんか?」
「本当に!申し訳ありませんでした!」
まだ体調(というかお腹?)が悪いのだろうか。短い杖によりかかった体勢のまま、ケイレブ副館長は深々と頭を下げて、ブルブル震えている。
いつも嫌味ったらしく鼻を鳴らし、従業員の働きぶりを見て回り、何かっちゃあ「節約!節約!!」とがなりたてる高圧的な態度はすっかり鳴りを潜めている。
「そりゃ、こうなるでしょ。君は今、クーゲルという退役軍人だけど、ゼグンド将軍の紹介状つきでここに世話になっているお客様という身分だからね。
そのクーゲルに無礼を働いた事がゼグンド将軍の耳に入れば、怒りを買って資金援助を打ち切られるかもしれないし。盗難事件云々の被害よりも、スポンサーに見放される事の方が怖いだろう。謝るしかないでしょ、責任者としては」
私の脳内で生意気そうな少年の声が響く。もちろんこれはシャリオンのものだ。いつものことだけど、シビアな発言内容と、若過ぎる声のギャップが激しい。
可愛くないよな、と思いつつも、こうして自分にしか聞こえないとはいえ、何でも話せる相手がいるというのは有難い。
シャリオンの説明を裏付けるかのようなタイミングで、ケイレブ副館長は矢継ぎ早に
「まさか、私が寝込んでいる間に、こんな事になろうとは」だの「ゼグンド将軍への報告は、今少しお待ちいただけないでしょうか」だのと、必死な形相で言い訳と嘆願を織り交ぜてまくしたててくる。
報告って言ってもね。ゼグンド将軍の中身は、地球の日本にいる、私――――霧島エナっていう女の子の身体に閉じ込められているそうだし、チクる方法なんて思いつかないわよ。
それにしても、寒い。
私が押し込められていた、物置代わりの粗末な部屋は、相も変わらず、私が今抱えているワンちゃん――――シャリオンは、魔物だって言ってるけど、毛並みや鋭利な爪、口を閉じてもはみ出しっぱなしな大きな牙を除けば、狼に似ている――――が、乱入してきた時に窓を破壊されたまま、ぴゅうぴゅう冷たい風が吹きこんでくるので、とっても寒い。
一生懸命に謝ってくれるのは素直に嬉しいけど。できれば早く暖かい部屋に移動させてもらえないかしら?
私は両腕をさすって肩を竦め、「寒いです」アピールをしてみたが、筋肉ムキムキのオッサンの肩が多少動いたところで、「寒そう」には見えなかったらしい。
それどころか「怒り心頭です」と勘違いされたらしく、ケイレブ副館長とサイモンさん達の頭がますます下へと下がっただけだった。
クソっ!見た目って大事なんですねっ!?
その後たっぷり30分ほど、「もういいですから」だとか「誤解が解けたのならそれでいいです、ゼグンド様に報告なんてしませんから」と何度も繰り返したところで、やっとケイレブ副館長は顔を上げてくれた。
うぅ、寒かったよぅ!!
後ろに揃っていたサイモンさん達もそれに続いて肩の力を抜くのが見えたので、これで一件落着よね!と思ったんだけど。
それが、そうはならなかった。
「ご無礼を許していただけて感謝いたします。――――ところで」
コホン、と咳払いをし、ケイレブさんはおもむろに切り出した。
「万事解決、と申し上げたいところなのですが、疑問が残ります。
私どもがお預かりしている、貴方様がお持ちになっていた水槽の事です。あれに詰まっておりました水石――――しかも、このサイモンらが申すには、大変な魔力を秘めているかもしれない、高級品質のもののようですが。
これらを、一体どこで手に入れたのでしょうか?」
うっ!!
「どこ、と言われましても、そのぅ」
後ろめたい事なんて何もないのに、なんと言えばいいのかわからず、困ってしまう。
これまでもう何度も、「昨日もらった廃材です、磨いただけなんです」と説明してきたのにも拘わらず、誰一人として信じてくれていない。
廃材を磨けば光る、という事実はそんなにも受け入れがたいものなのだろうか?
考えあぐね、言葉を濁したその時、私の膝の上に乗せていた大きな黒い獣の頭がモゾモゾと動きだした。
あ、そうだった!この子を何とかしなくちゃ!
「そ、それより、この子を診て頂きたいのですが、お医者様はいらっしゃいますか!?」
ワンちゃんは私の言葉を後押しするかのようなタイミングでクゥンと弱弱しく呻き、荒い呼吸を繰り返している。右わきに刺さった黒いナイフのような棘は深々と肉に食い込んでおり、とても痛そうだ。
早く抜いてあげたいけど、下手に触ったら骨や神経を余計に傷つけてしまうかもしれないし、抜いた後にどうすれば出血を止められるのか、という専門知識もない。
異世界に来てしまってからというものの、シャリオンに指摘されずとも、己の無知と無力さを思い知らされる事ばかりで、泣きたくなる。
今まさに自分の膝の上で死にかけているワンちゃんを助けたいと願ったところで、私にできる事と言えば、せいぜいお医者さんを呼ぶことくらい。
それなのに、それもまた「はいそうですね」と受け入れられる事はなかった。
「それは、フォークルフ(*この世界では珍しくない、狼に似た四つ足の魔獣。戦闘時、狩りの際には爪と牙が4倍の長さに伸びる)のようですが」
ケイレブさんはワナワナと震えつつもビシッと私の膝の上のワンちゃんを指さした。
「手負いとはいえ、なぜ、肉食の魔獣を、そのように庇っておられるのですか?なぜ仕留めないのですか!?この間ここを訪れた討伐隊は、そのような魔物を何匹も狩って牙を抜き取っておりましたが!?」
うひゃぁ、生々しい!
そんな残酷なこと、無理だよぅ!!
「何言ってんのさ。君の世界では、象牙やら毛皮のために、罪もない動物を狩っているじゃないか」
私はやってませんから!密猟だって許せないわよぅ!
早くソイツの首をへし折ってください、という無言の圧をヒシヒシと感じつつも、私は負けじとワンちゃんを庇うように膝の上に抱き直した。
「だ、ダメです!!」
――――おい、エナ!何を言い出すんだよ?確かにこいつは弱っているし、ゼグンド将軍にとってはいつでも簡単に仕留められる程度の魔物だけど。ここにいる人達にとってはただの危険物なんだよ!?すぐにでも放り出すべきだ。
シャリオンが私の頭の中でビシビシ文句を言ってくるのと同時に、ケイレブさんの後ろからも、それまでじっと頭を下げて恐縮するばかりだったサイモンさん達が
「危険ですよ!今の内に殺すべきです」と口々に声をあげ、「誰か、武器をとってこい」なんてことを言いだした。
状況は秒刻みに悪くなる一方だ。
いやいや、ちょっと待ってよ。
まさか斧とか包丁とかで、この弱り切ったワンちゃんをバッサリ殺そうとしてるの?正気なの?
嫌ぁああああ!!動物虐待反対!!!やめてよー!!
「相変わらずウルサイね、コイツが殺されるところを見るのがつらいのなら、今の内に窓から外へ放り出しちゃえば?」とまた溜息をつくシャリオン。いつものことながら同じ身体に宿っているくせに、同調するどころか、取り付く島もない。
でも、こんな怪我をしているのよ?放り出したら死んじゃうかもしれないじゃないの!今ほっぽり出したところで、どこかで誰かに仕留められるのか、それとも他の魔獣に食べられるのかも、と想像しちゃって、きっと今以上に胸が苦しくなる。
却下よ!!
「そりゃあ、そうだろうけどさ。じゃあどうする気?」不満やるかたない、と再び侮蔑たっぷりのため息をつくシャリオン。それは私が教えてもらいたい事だというのに、シャリオンにとってこの招かざる珍客の生死など、どうでもよいのだろう、助け船を出してくれる気配は微塵もない。
何かしら不穏な空気を感じ取っているのだろう、時折うっすら目を開けて、私の顔を見上げてくるんだけど、そのつぶらなお目目がウルウルして「助けて」と訴えかけてくる。
この世界に来てから、むさ苦しい強面のオッサンの身体になってしまって以来、こんな目で縋るように見られたことはついぞなく、胸がきゅうっと熱くなってくる。
これを見捨てたら、漢が廃るってもんよ!!俄然、使命感が沸いてきちゃう。
「いやいや、何言ってんの・・・」とツッコミが入るも、こういうのは精神的なもので気にしない。大事なのはノリと勢いなのだ。
私は鼻息荒く拳を握って、はったとケイレブ副館長さんに向き直った。
「この子は魔物ですが、色々あって、今は私のペット――――つまり、飼い犬なのです。いざとなったら、私が力づくで取り押さえますので、どうか許していただけないでしょうか?」
「えっ!?それは・・・・・・・・調伏したということでしょうか?」
我ながらムチャクチャな事を言ってしまった、と思った矢先に、思いがけない事を指摘されて、私は思わず「は?」と間抜けな声をあげるところだった。
今すっごく、ファンタジー用語っぽい言葉が聞こえたような??
「テイム」ってあれですか?モンスターにボールを投げるやつ?それともチートスキル的なアレやソレで――――。
と、私の興奮が高まったところで、堪忍袋の緒が切れたのか、シャリオンが「もう、黙ってな!」とプンスカ怒って、私から身体の支配を取り上げた。この現象にも慣れつつあるけど、まるで「ゼグンド将軍」の身体が巨大ロボか何かであり、お一人様専用コックピットにシャリオンと私二人が押し込められ、一つの操縦桿を挟んで常に奪い合ってるかのようだ。
操縦権を快く譲り合うのは「シモの世話」や「早朝の強制自主練(鍬をもっての1万回素振り)」だけで、私がマズイ事やらかしそうになると、シャリオンが見かねて手だしする、というパターンが出来上がってしまっている。
ありがたいんだけど、面白くない。せっかくアコガレの異世界に来たって言うのに、ちっとも魔法や妖精、はたまたこの世界の礎となっているという、竜王のことも教えてくれないしさ!
シャリオンのケチケチ!!
そんな事を考えてむくれる私を当たり前のように無視し
「そうなのです!退役する少し前に所属していた隊に「獣調伏士」がおりまして。そいつから少々調伏方法を聞きかじった事があり、先ほど窓から飛び込んできた、この手負いの魔物相手に使ってみたところ、奇跡的に成功してしまったというわけなのです。
ですから、私のいう事に従うはずです。万が一にも、皆様に牙を剥くなんて事はありえませんのでご安心ください」
と、シャリオンはスラスラ言いながら、乱暴な手つきでグッと私(ゼグンド将軍)の膝に乗っていたワンちゃんの首根っこを掴み上げ、その目を覗き込んだ。
――――あっ、何すんのよ、怪我してる子をそんな風に扱うなんて――――と声にならない声をあげ、シャリオンを非難しようとしたその時だった。
ぶわっと胸の奥から全身を滾るような熱が膨れ上がり、私が生まれてから17年の間に経験したこともない、とてつもなく強い「何か」が血管という血管を走り抜けるのを感じた。
「逆らえば、殺す」と、ひどく静かで重々しい一言が、私の知らない間に私の――――ゼグンド将軍の口から洩れ、なす術もなく大きな手に掴まれ、ぶら下がるような形で覗き込まれたワンちゃんが、ぶるりと震えあがる。
この時私の全身を貫いたその感覚が、紛れもない「殺意」であり、他者を屈服させる「威圧」なのだと知った。それはもちろん、ケイレブさんが言った「調伏」などという穏便な技術ではない。
シャリオンはゼグンド将軍が本来持っている能力の一部を使って、瀕死のワンちゃんを脅し、俺はいつでもどこでもお前を殺せるのだ、という概念を刷り込んでいるのだ。
それはあまりに強烈な感覚で、腹の底から物凄いエネルギーがグワッと沸き起こったかと思えば憤怒にも近い「従え!」という意志が頭のてっぺんまで通り抜け、全身の血が沸騰しそうなほど熱く滾り湯気のようなものさえもが毛穴という毛穴から立ち昇るのがわかった。
私はこの時、他人の肉体を介して「他者を屈服させるほどの覇気」がどういうものなのかを、生まれて初めて自分のものとして体験したんだと思う。
こんなに激しく、たった一つの意志が全身を満たす事があるなんて。
また、これほど強くゆるぎないものが、一人の人間の中に存在しているなんて、と私は圧倒された。
知識としては知っていたけど、このゼグンド将軍という人は、本当に特別な人なのだ。
とその時、映画のワンシーンのように、泥と煤、そして返り血に汚れた戦士たちの顔が次々に私の脳裏に浮かび上がり、実際に見てきた光景のように鮮明な像を結んで心に焼き付いた。
今と同じように、私――――いや、ゼグンド将軍の体に強い意志が満ちるのと同時に、「全軍、突撃!!」という怒号が辺りに響き渡り、それに呼応した何千、何万もの戦士たちが、死をも畏れぬ覚悟と狂気に満ちた表情で、翼ある獣の手綱を引き、それぞれの武器を天高く掲げ、敵地へなだれ込む、そんな光景がまるで昨日のことのように、ハッキリと脳裏に浮かんで、全身が震えた。
「サヴァルテ・ラー・ギリヤ!!」と、誰かが吼えたその声が、この世界の、ゼグンド将軍の故郷、ファラモントの言葉で「サヴァルテ(神の矛)よ、黄泉まで届け!!」と言っているのが、脳裏を駆け抜けた凄惨な戦場の光景が過ぎ去った後に、木霊のように私の心に響いて、なぜかとても胸が痛くなった。
その時、くぅーん、と怯えたようなワンちゃんの声が耳を打ち、私はハッと現実に引き戻された。
あれ!?私、今何を??
「しっかりしてよ、エナ!ゼグンド将軍の記憶に惑わされるな!」
ぴしゃりと頬を叩くような強さで、シャリオンの怒鳴り声が、ひときわ近く私に語り掛けてくる。
そこで私はやっと、自分の意識があるべき場所に引き戻され、自分の手が、ゼグンド将軍のゴツい手として動き、依然として弱った犬型の魔物を掴み上げて威嚇しているというこの状況を思い出すことが出来た。
慌てて目線を下げ、怯え切って無抵抗を示すかのように、だらりと四肢を下げたワンちゃんを見て、チクリと胸が痛むが、シャリオンはそれでも手を下ろさせてくれない。
――――ごめんね、ワンちゃん!シャリオンて鬼よね。
「しょうがないだろ。こいつはれっきとした魔物なんだし。完璧な主従関係を見せつける必要があるんだ。このくらいは当たり前だ」
はじめから、怪我をしてロクに動けない状態だったので、犬特有の「服従ポーズ」などとれるはずもなく、単に無力な獲物としての姿を晒しただけだったけど、固唾を飲んで成り行きを見守っていた人々にとっては十分だったようだ。
ケイレブさんを始め、サイモンさん達も、ゼグンド将軍が一瞬だけ見せた殺意に恐れをなしたのか、「わかりました」と言ってくれたのである。
そのあとは、あっけないほどスムーズに事が運んだ。
なんと答えたらいいのか考えあぐねていた「どこからあの水石を持ってきたのか」という質問も、ひとまず後回しにしてもらえたし、ちゃんと医務室まで案内してもらえた。
ワンちゃんの身体は大きく、なかなかにズッシリした重さがあったけど、ゼグンド将軍のムキムキな身体はビクともしない。
軽々と赤ん坊のように腕の中に抱えたまま速足で歩けたので、医務室まであっと言う間に到着し、何やら内職に励んでいたおじいさんに会うことができた。
「おお!あのゼグンド将軍様の部下だったという、クーゲルさんでしたな!いやはや、やっとお目にかかれましたな。私はキール・ウィルビーと言います、よろしくお願いします」
と、にこやかに挨拶をしてくれたウィルビーおじいさんだったが、その手はよどみなく動いてせっせと、クリーム容器のようなものにラベルを張り付ける、という作業を続けているではありませんか。
おじいさん!!ラベル貼りくらい、私がやるから!私が抱えているワンちゃんを診て下さいよっ!
シャリオンに未だ操縦桿を握られたままだとはいえ、苛立つ私の気配を察したのか、サイモンさんが慌てて私の(クソ!忌々しい、ゼグンド将軍の)巨体の後ろからヒョイと躍り出て声をかけてくれた。
「ウィルビーさん、ラベル貼りの手伝いまでしてくれてたんですね、ありがとうございます!受注数が減ったので、このくらいあれば充分でしょう。それよりも、患者――――じゃない、患畜を診てやってください」
「おお、そうじゃったか。どれどれ・・・っておい!!これ、魔物じゃ!?」
おじいさん医者は、私がワンちゃんを診察台に置くのを見た途端、仰天して手に持っていた青蓋のクリーム容器をぽいと放り出しざま、盛大に騒ぎはじめてしまった。
「なんでこれを治療するんです!?このまま死なせておけばよいのでは!?」
ひっどぉおい!と私は思ったけど、この世界の常識に既に馴染んだシャリオンは「まあ、当然の反応だね」と落ち着き払っている。
ダメよ、助けるって決めたんだから、何とかしてよ!と私がしつこく、ぎゃいぎゃいとシャリオンに訴えていると、シャリオンも結局は諦め、ため息をつきつつ、先ほどのように「調教済みのペットですから」云々の説明をし、ご丁寧にも拳をバキバキ鳴らして見せて、「いつでも殺せます」という不穏なアピールまでしてくれた。
「は、はぁ、それなら・・・コホン、診ましょう」
モゴモゴ言いながら、おじいさんがそっと私たちから距離をとって、診察台の反対側に移動したのは、言うまでもない。
ウィルビーおじいさんは、最初はビクビクしていたけど、いざワンちゃんの怪我を覗き込み、不思議な光沢をもつ毛皮をかき分け、出血具合や脈を計る頃になると、プロらしくキリリとした顔つきになっていた。
「ふむ」とか「うぅむ」と言いながらそうして暫く診察していたけど、すぐに聴診器のようなものを首から外しながら、おじいさんはキッパリと首を横に振った。
「この棘は、手術して周辺の肉ごと切り取らなくてはならないのですが、そもそも魔物の皮膚は厚く頑丈なので、ここにある医療用メスの類では歯が立たちません。
もしも仮に、魔法を付与された特殊な魔道具を入手し、切開が可能になり手術自体が成功したとしても、ここには獣の身体に適した呼吸補助装置も、生命維持に必要な空調管理室もありません。
それに、ここまで重症な患畜を治すには最高ランクの獣医と、24時間体制での看護要員も必要になってくるので――――つまりは、お手上げです。
ここでできる事があるとすれば、止血処置での僅かな延命処置か、毒物を与えて安楽死させてやることくらいですね」
異世界なのに呼吸補助装置とか、空調管理室とかいう言葉が存在してるなんて、という驚きははさておいて、聞かされた話の内容を理解した途端、私は「そんな!!」と叫びそうになって、またしてもシャリオンに取り押さえられた。
魂だけになっても、不思議と色んな感覚が残っているようで、取り乱しそうになると、横からどすんとタックルされるような衝撃があって、視界が揺れる。
何度も同じことを経験しているというのに、毎回心の準備が間に合わず、結構な衝撃に頭が揺れて、落ち着くまでに時間がかかる。
どうしよう、とか、ここは異世界なのに全然夢がない、と文句を言おうと、シャリオン以外に私の声に気づく人はいない。誰か優しい人に話を聞いてもらったり、社交辞令であろうとも「そうだね」というように同調してもらえない、というのは思ったよりもツライ事だった。
その後どうやって、借りている客室に戻ったのか、あまり記憶にない。
出会ったばかりとはいえ、傷つき弱ったワンちゃんを助ける方法を得られず、これからどうしよう、と途方に暮れるあまり、「あの水石はどちらで」と尋ねてくるサイモンさん達の声は聞こえていたけど、シャリオンがどう受け流していたのかは覚えていない。
見慣れた粗末な部屋に閉じこもるやいな、私は膝から頽れてしまった。
そんなぁ・・・!助けるって決めたのに、方法がないなんて!
ねえシャリオン、この世界には魔法があるんでしょう?神聖魔法とか?癒しの術とか、ないの?
一縷の望みを賭けて聞いてはみるけど、シャリオンはふぅっとため息をつくばかり。またしても「魔法」について語りたがらない様子を見せたけど、私がしつこく食い下がると、ようやく折れて重たい口を開いて説明してくれた。
「大昔――――全ての元素を司る竜王達が栄えていた頃には、確かにそういう魔法もあったよ。僕の世界でそういう記録を目にしたから、それは確かだ。
でも、竜王達の大戦後、ほとんどの竜が再生の眠りについた時に、他の多くの古代魔法と同じように失われたんだ」
どういう事?竜王が眠ることと、魔法ってどう関係があるのよ?
「竜王は、それぞれの魔法の源だ。たとえば火を司る炎竜王アグレイシスが魂までバラバラにされれ、再生の深い眠りについたならば、この世では何をやっても火を起こすことは不可能になる。
火属性の精霊達はこぞってやせ細り、火石を吐きだせなくなってしまうし、ゆるやかに死滅していくだろう。
幸い、実際にはそこまで傷つくことなく終戦を迎え、火属性の精霊も、魔法も無事に残っている。
ただし、その時に壊滅状態になった世界を癒すため、主だった竜王達は自発的に一斉に「癒しの眠り」につき、それからずっと眠ったままだ。その唯一の例外が、最近になって、ゼグンド将軍の活躍によって覚醒を果たした水竜王オリスヴェーナだけど、その話はまた今度ね、長くなるから。
とにかく、神聖魔法を生み出していたのは、光竜王だ。名前はちょっと思い出せないな、あまりに昔の事だったし、この世界の古代語は時代の移り変わりの際にどんどん簡略化され、言語が枝分かれする度に呼称が変わったからね。
――――結局、光竜王は、対極する滅竜と相打ちになり、あまりにひどく、魂もろとも砕けたため、再構築するための長く深い眠りについた。不滅の存在だとはいえ、一度バラバラになると、復活までは相当時間がかかるものなんだ。
この世界と結びつき、自ら癒しの眠りについた他の竜王達とは訳が違う。その気配が、光の魔法の元素があまりに希薄になったため、「聖」属性の魔法は完全に無効化されてしまった。
さらに数百年経てば、人がどうやって神聖魔法を使っていたのかという記述すらも失われ、光竜王の存在そのものが、信仰されなくなった。
光属性の精霊もほとんどが消滅しちゃったくらいだからね。」
へ、へーぇ!
なんだか魔法って、思っていたのと違う。
指を鳴らせば壊れたものが修復されたり、呪文を唱えれば奇跡が起こるというわけじゃないみたい。
火、水、風、土などの最もポピュラーな元素さえもが、それぞれの竜王から発生しているっていうんだから驚きだ。
大昔の大戦の話はまるで御伽噺みたいだけど、実際にあったことなのだとしたら、大変よね。クウガも以前、そういう話をしてくれていたけど、そこまで規模の大きい話だとは想像してなかったわ。
そして、「あったら便利だろうな」ランキング1位であろう、神聖魔法が使用不可とは!
なんてこった!!つまり、どうあっても今ここで、このワンちゃんを助ける方法がないってことなのか!大きな町に行って、教会にお金を払えば、神聖魔法を使ってサクッと治してもらえるのかと、心のどこかで期待していた自分が恥ずかしい!
私は絶望のあまり、またしても泣き崩れそうになってしまった。
「うっ!もぅ、エナ!ゼグンド将軍の顔で泣かないでくれ!ものすごいブサイクだし、気持ち悪いんだから!!」
だ、だってだって、仕方ないじゃない、女の子なんだもん!(*オッサンです)
「オェッ・・・・!!筋肉ダルマ男が、内股で座り込む姿だけでも気持ち悪いってのに、鼻水まで垂らすんじゃない!!」
おや?シャリオンめ、いい感じにイライラしてきたぞ。ははぁ、さては、ゼグンド将軍の輝かしいキャリアとやらを熟知している分、この大男の姿に過分な夢を抱いちゃっているわけね。
いつの間にか、私にこの身体の操縦権を戻してくれているところからして、長時間奪いっぱなしには出来ない、シャリオンなりの都合があるんだろう。
この先どうしたらいいの、私の腕の中にいる温かいワンちゃんを死なせたくないのに、私には何の力もない、と落ち込みながらも、私はチャンスを見逃さなかった!
あったよ、今の私にも出来そうな事が!よし、ここでもう一押し!!トコトン煽ってやろうじゃないの!
私はすかさず両方の膝をくっつけ、ちょっとわざとらしいかしら、と一抹の不安を抱きつつも、両手を口元に添えて、よよよ、と命一杯「女の子っぽく」泣き崩れて見せた。
「ああ、どうしたらいいの!」と哀れっぽくシナを作り、少し上目遣いで口をすぼめるのが最大のポイントである。
うん、我ながら最高にウザい。
絶世の美女ならともかく、身長2メートル近くの筋肉ムキムキ男の野太い声と身体でこれをやると、非常に見苦しい。
もちろんシャリオンはキレた。
「あ~~~!!!!ウザい!!もう我慢できないっ!!もう家に帰りたいっ!」
フフフ、ちょっぴり傷つくんだけど、効果は絶大だったようだ。きぃいい!!と奇声まであげてくれちゃって、いつものスカした物言いは何処へやら。すっかりご乱心だ。
そんな事言われたってね、と私はシレっと演技を続け、ことさらクネクネして床を這いつくばって見せた。
「うぅっ・・・!吐きそう・・・・お願いだからエナ、それやめて!!クソ、もう今日は大分長い事このオヤジの身体を動かしてしまったから、これ以上のコントロールはキツイし・・・!
そうだ、エナ。その水槽に入ってる「聖水」を使ってみたらいいんじゃないかな!!」
私はピタっとウソ泣きをやめた。
シャリオンに言われて初めて思い出した。
そもそもの水石泥棒というレッテルを貼られることになった元凶である、水石ソックリの廃材がつまった水槽の事を。どうやって取り返したのかは忘れちゃったけどさ。
そういえば、ケイレブさんがさっき、「大変な魔力を秘めているかもしれない、高級品質のもののようですが」って言ってたよね!?
「そ、そうだよ。完成品の傷薬みたいに、薬草が入ってない状態だから、治す方は期待できないけどさ。それだけ高濃度な浄化の魔力を持った水を飲ませれば、少しは元気になるはずだよ」
おぉーっ!早速やってみよう!
私は意気揚々と、部屋の片隅にほったらかしにしていた水槽に飛びつき、食堂から借りっぱなしになっていたコップをひっつかんで、水槽の水を汲もうとしたんだけど、すぐに思い留まった。
犬って、コップから水を飲めたっけ?
困ったぞ、飼ったこともお世話したこともないから、わからないわ。
そういえば、くーちゃんが猫を飼っていて、よくマグカップから水を飲みたがると言っていたわね。
可能といえば可能なのかしら。
だけど、このコップの飲み口は直径8センチくらいしかない。ベッドに横たわらせたワンちゃんの大きな鼻面を見るまでもなく、横たわった状態ならなおの事、コップを使って水を飲ませるのは無理そうだ。
やっぱり、スープボウルのような器が欲しいよね。
私はワンちゃんに「すぐ戻ってくるからね!」と声をかけてから部屋を飛び出て一直線に食堂に向かった。
スープ皿を貸してもらえないか、と聞くとエプロン姿のおばさん達には怪訝な顔をされたけど、詳しい事情を話すだけの余裕がなくて、「すみません、後で洗ってお返ししますので」としきりに頭を下げる事しかできなかった。
「ワンちゃんを飼うことにしたんです!水やご飯をあげたいんです!」と胸を張って言えたらよかったんだけど、この時はそれが精いっぱいだった。
貸してもらえたのは、ところどころ縁に窪みや傷があるけど、ちゃんとした木製のスープ皿だ。私は高鳴る胸を抑えつつ、部屋に戻って、隅に置いたままだった水槽ににじり寄った。
「聖水」と称される、この研究所が作っている浄化水と、果たして同じ効果を得られるものなのか。
そしてなぜ、皆して廃材を磨いて放り込んだだけのこの水に、魔力が含まれていると考えているのか。
色々と謎のままだったけど、今はそんな事はどうでもいい。
シャリオンは、よく誤魔化すし、はぐらかすけど、嘘はつかない。短い付き合いだし、色々と腹の立つところも多いけど、悪い子じゃないのはわかってる。
どこから来て、なんで私の面倒を見ることになったのか、まだまだ知らないことは多いけど。
少なくとも、最初に会った時に本人が言った通り、私のサポート役であることだけは、間違いないはず。
そのシャリオンが「この水には浄化の魔力がある」と言ったんだもの、きっとその通りなんだろう。 そういう嘘をつくだけのメリットがまず見当たらない。何の効果もなければ、すぐにバレるんだからね。
それに、ゼグンド将軍は、水竜王オリスヴェーナの加護があるって言ってたじゃない?きっとその加護のひとつじゃないかしら。
うんうん、それなら辻褄が合うよね。水属性の精霊が、ゼグンド将軍のお願いを聞いてくれたり、呼べば現れるっていうのなら、使い古した水石を復活させられるくらいの追加スキルがあってもおかしくない。
我ながら、鋭い推理よね!
「・・・・・・・・・」
シャリオンは答えなかったけど、否定する声は聞こえない。よし、信じよう!この水には、魔力があるのよ。きっと、少しくらい役に立つはずよ!
私はぐっと奥歯を噛み締めながら、せいや!と気合をこめて、水槽にスープ皿を突っ込んで、そこから水を汲んだ。
小さな窓から差し込むわずかな西陽を浴びて、小さく掬い取った水面は淡いピンク色に輝いて見えたのは、気のせいだろうか。
それとも過剰な期待と願望が、そういう風に錯覚させたのだろうか。
いずれにせよ、この時の私は、ワンちゃんを助けたくて必死だった。
ブルブル震える手でワンちゃんの首の下を支え、その鼻先にスープ皿を持って行ったけど、熱っぽく荒い呼吸を繰り返すばかりえで、なかなか飲んでもらえない。
意識も朦朧としているのだろう、たまに目を開けるのだけど、深い青にも金色にも見える不思議な色の瞳は焦点が定まらず、すぐにまた閉じてしまう。
お願い、飲んで!と思うものの、無理に口に水を含ませようにも、だらりと舌をたらし、開いてしまっている口元を見ると、それも難しそうだ。
そこで、自分の指先に水を浸し、ちょんちょんとワンちゃんの鼻の下、そして口元を濡らしてみた。
特に何かの知識があったわけではない、ただこうしてみたら、と単純に思いついただけだったので、自信はなかったんだけど。
次の瞬間、ワンちゃんはペロッと舌を動かし、自分の口元を舐めた。
おやっ!?今、舐めたよね?
続いて、ワンちゃんはどういうわけか、カッと目を見開いた。
信じられない、というように、ぱちぱちと瞬きしたかと思うと、ゆっくりと首を動かし、今度はしっかりと目線を自分の口元に、私が支え持つスープ皿に定め、ぴちゃ、と音をたててそこから一口、水を飲んでくれた。
おぉおお!!飲んだ!?飲んだよ、やったよ、シャリオン!!
「・・・・!?」
一口、もう一口、とワンちゃんは水を飲み続け、どんどんそのペースは速くなっていき、またたくまにスープ皿は空になった。
そしていつの間にか、ワンちゃんは私の腕から首を起こし、しっかりと自分の身体を反転させて「伏せ」の姿勢をとっている。
えぇ!?なんだかすごく元気になってない!?すごいね、浄化の魔力って!
「・・・・・・・・・・・いや、そんなはずは。待て、これはまさか・・・・・・・・ううん、いや、そんなバカな」
あれ・・・?シャリオン、もしかして、浄化の魔力云々があるって、嘘ついたの?あるはずないのに、あったから驚いているかのようなリアクションだよね?
「違うよ、嘘なんてつく意味ないだろ。そうじゃない・・・・ただ、規格外の事が起こっているんだよ」
ブツブツと何か私には聞こえないほどの声量で自答自問を繰り返していたシャリオンが、ようやく私の言葉に反応を見せた。
「君には見えないだろ。だけど、僕には見える・・・・!コイツ、本当に下級魔獣のフォークルフなのか?浄化の魔力を自己治癒能力に変換しているのか?どんどん、体内から黒い棘の魔力を上書きしているぞ」
黒い棘の魔力?上書き??
私は慌てて床に腹ばいになって、ワンちゃんの脇腹のあたりを覗き込んで、「あっ!!」と大きな声をあげてしまった。
ない!!!ワンちゃんのお腹をぐるぐる巻きにしている包帯こそは、赤黒い血を吸って汚れているけど、黒い棘が極力動いてこれ以上脈を傷つけたりしないよう、しっかり固定していたはずなのに。
さっきまで、10センチ近く飛び出ていた切っ先が、どこにも見えない。
えっ!?もしかして、この短い間に、身体の奥にまで潜ってしまったとか?
「そんなわけあるか!!逆だよ、溶かしたんだよ!」
ますます意味がわかりません!!水を飲んだだけで、どうしてあんな固そうな物質が溶けるっていうのよ!?
「あれは元々、魔法で出来たものだったんだ。恐ろしく強い魔法だ、刺さった生物から全ての魔力を吸い上げ、枯渇させる嫌らしい呪詛で作った代物だった。
魔法を打ち消すのも、上書きをするのも、より強力な魔力が必要なんだ。
だから僕はさっき、こいつが本当にフォークルフというありふれた下等魔獣なのか、という点に疑問を抱いた。どう考えても、魔力を帯びた水を飲んだくらいでは、こんな事は出来ないんだから」
う、うーん。どうやらシャリオン君にも、わからない事があるんですね?
「当たり前だよ、僕だってこの世界に来てまだ間もないし。君がいた世界と違って、ここは強大な魔法世界なんだから、情報把握にはもっと時間がかかる」
いつもなら、シャリオンからどうにかして、わくわくするような「魔法」や「異世界」の情報を聞き出したい、という欲求を抑えられず、どんどん質問しちゃったりするんだけど、ワンちゃんの容態が目に見えてよくなっている事に感動して、それどころじゃなかった。
シャリオンにすらわからない、何かおかしい事が起こっているんだとしても、結果オーライよ!
ワンちゃんの呼吸も安定してきてるし、助かったんだわ!やった!
ツヤツヤした黒と銀色の斑模様の毛皮をそっと撫でて、その温かさを手に感じていると、心の奥底からほかほか温かいもので満たされてくる。
何が幸いしたのか、この子が本当にどんな種類の魔物なのか、なんにもわからないけどさ。あんな怪我をするほど、他の魔物か何かにイジメられていたのかもしれないよね。
保護できて本当によかった。一時はどうなるかと思ったけどさ。
それにしても、この子、野生育ちの割に毛皮が綺麗よね。窓枠まで壊して飛び込んできた上、ろくに掃除されていない床を転がったのだから、もちろん埃やススで汚れていたんだけど、濡らしたタオルで軽く拭くだけで綺麗になった。
やはり、魔物の体毛って、私の知っている動物のものとは違うのかな。
一番外側の太い毛(後でシャリオンに教えられたんだけど、オーバーコートっていうのね)はとてもスベスベしていて、撥水素材のように水を弾いて汚れにくいし、その下の柔らかい毛も、手触りがいい。
ひょっとして誰かのペットだったりするのかなぁ?いやでも、魔物だし、ここらへんには民家なんてないし、それはないか。
私はワンちゃんを撫でる手を止めて、空になった器を見てしばらく迷ったけど、やはり、夜中にも喉が渇くかもしれない、と思いついて水槽から再び水を汲んでおいた。
これにどんな効力があるのかよくわからないけど。元気になれるのなら、ありがたいわ。どんどん飲んでもらいたい。
使いきっちゃったらまた作ればいい。水石の廃材は、またサイモンさんに頼んで譲ってもらって、磨けばいいよね。よーし、明日からまた頑張ろう!
元々物が少ない部屋では、片付ける手間も少なく、部屋の片隅にある水槽と、ワンちゃん用の飲み水を置く位置を決めてしまうと、他にやる事はない。
なんだか眠くなってきた。そうだ、昨夜はずっと水石磨きに没頭してたから、寝てなかったのよね、今日はなんだかんだで日課の一万回素振りも出来なかったし、そんなに汗かいてないし、このまま寝てしまおうかな。
うん、そうしよう。大体ここってテレビもゲームもスマホもないんだもん。下手に夜更かししてると、お腹がすくばっかりで、いい事ないしね。
ワンちゃんがぐっすり眠っているのをいいことに、私はその隣に横になり――――たかったけど、シングルベッドサイズの寝台に、秋田犬よりも大きいワンちゃんと、筋骨逞しいゼグンド将軍の巨体が並んで眠れるはずもなく、私はしぶしぶ床に腰を下ろして毛布にくるまった。
あーあ、お家が恋しい!ニ〇リのマットレスが恋しい、乙女ゲームが恋しいよぅ!!ママや隼人と話がしたい!
などと今は帰れない故郷を思い起こし、鼻をすすり、アレコレ考えるんだけど。
結局いつも通り、すこぶる寝つきのよいゼグンド将軍の身体は私の意志とは無関係に、数秒後にはウトウトし、あっさり寝入ってしまえるのだった。
そしてこの日、私はおかしな夢を見た。
夢は願望を映す、という説もあるくらいだ。多分、常日頃から「元に戻りたい」と思い詰めているせいか、夢の中で、どういうわけか私は「霧島エナ」に戻っていた。
何気なく掌を見ると、いやに白くて傷ひとつなくて、小さいことにビックリしたっけ。続いて、目線を下ろし、己の胸を見て、そこに見慣れた「リーズナブル」なサイズのバストを見つけて、複雑な感動を覚えてしまった。
いやね、このサイズで合ってるんだよ?うん、このくらいだったよね?でもね、久しぶりに見たんだもの、ちょっとは大きくなっているか、と期待しちゃった。
そこまで考えた時、カリカリと足を引っ掻くものがいることに気づいて、「あれ?私猫なんて飼ってたかしら?」と何故か呑気に考えながら、目線をさらに下げてみると、そこには見慣れない、イタチみたいな灰色の小動物がいる。
おや??
「キィイイ!!」とそのイタチちゃんはぷっくりした口元から鋭い牙を剥きだしにしながら、今度はポカポカと私の足を叩きだした。
おててがとても小さいので、もちろんちっとも痛くない。むしろくすぐったいくらいだ。
それにしても、なんだってこの子はこんなに怒っていて、私になにか言いたそうな顔をしているのかしら?
もっとよく見ようと、腰を屈めた時、私はそこでやっと、自分の足が踏みしめている地面が、黒くて固い岩場であることに気が付いた。
え?何??ここ、どこなの?
私はイタチを見るどころではなくなって、慌てて回りを見回し、どっちを向いても辺り一面、灰色の霧に覆われ、10メートル以上先に何があるのかさえもわからなかった。
嫌な夢ね!いくら私に想像力がないからってさ!どうせならうんとロマンチックな白い古城とか、イケメン逆ハーレムとか、ケーキバイキングの会場とかで目覚めたかったわ。
「ムッキィイイ!」と、またしても、ぽかっとイタチに叩かれる。あれ?そういえば、こういう時必ず、シャリオンに「妄想ばっかしてないで」って言われるのに、なんで何も聞こえないのかしら?
シャリオン??どこ行ったの?
眠ってるのかしら?
何か変だな、と思うものの、自分の身体が元に戻っている事といい、都合の良過ぎるところも全て、夢だから、の一言で片付いてしまう。
私はさして気にも留めず、その辺を歩き回ってみた。どうせ夢なんだもん、危険なんかあるはずがない。
それどころか、ママや仲良しの友達だって出てくるかもしれない、と期待までしてしまった。
ところが、いくら歩き回っても景色が変わらず、ぐるぐると同じところを回っている気がするし、夢の中だというのに、肌寒さが増して来た。
霧は生き物のようにゆらゆらと風に乗って蠢き、色の薄い部分に肌が触れると、ゾッとするような冷たい感触があった。
へ、へんね。なんだかリアルな夢よね?そろそろ目覚めないのかしら。
代わり映えのしない景色に飽きて、私は霧を手で払いのけるようにブンブン振ってみた。すると、一瞬だけど灰色の霧に隙間が出来て、そこからキラリと何かが光るのが見えた。
あれっ?今の、なんだろう?
私は慎重に、まっすぐ歩を勧め、片手を前に突き出してなおも霧をかき分けるようにして、先ほど見えた光の正体を探そうとした。
もちろん霧は冷たく、私の指先はあっという間に赤くかじかんできて、すぐに引っ込めてもう一方の手でさすってしまったけど。
そこで、私のつま先が、かつんと何かに当たった。
ちょうど、そこに見えない壁か何かがあるかのように、確かにぶつかった。
「グゥウウ」と、いつの間にか私にピッタリくっついて来ていた、イタチが低く唸りをあげる。
そこに一瞬気を取られたものの、下を見るよりも先に、私は自分の手がかき分けた最後の霧の切れ目が、ふわりと大きく広がったので、瞬く間に全意識をそちらへ持っていかれてしまった。
見たい、と思った私の願いに応えるかのように、風に吹かれて開けた20センチほどの霧の隙間に、黒い鏡がぽっかりと浮いている。
私は霧が再びそれを包み隠してしまわないうちにと、足元で何やら怒っているイタチの声を無視して、ぐっと身を乗り出し、鏡をのぞきこんでしまった。
鏡と言っても私の顔が映っているわけじゃない。ただ、アンティークの壁掛け鏡のように、繊細な銀色のレリーフに縁どられた鏡面状のガラスが張ってあり、そこからチラチラと何かが夜空の星のように瞬いているようなのだ。
私は呼吸も忘れてじっとその鏡に見入ってしまった。
光はだんだん大きく、はっきりとした像を結んでいくようだった。あっと言う間に光は鏡一面を金色に一瞬だけ埋め尽くし、その眩しさに私が思わず目を閉じている間に、スッと暗くなった。
あれ?と私が目をごしごし擦って、もう一度よく見ようと身を乗り出すのと、足元にいたイタチがするすると器用に私の身体をよじ登り、肩に登ったのは同時だった。
その途端、私の頭の中に、数日の間にすっかり聞きなれた、生意気なシャリオンの声が響いた。
「エナ、今すぐそこから離れて!ソイツを見ちゃダメだ!!」
え??シャリオン??
と思うものの、私の身体はいう事を聞かず、鏡を見るのを止められない。
だって、ぴかぴか光るものはなくなったけど、最初に見た真っ黒のガラスの奥に、何だかぼんやりと、人影が浮かびあがってきているんだもの。
もっとよく見たい、という誘惑を、なぜかどうしても振り払えなかった。
ぼんやりした人影は、色彩を伴ってじんわりと姿を現すにつれ、シャリオンがこれまでに聞いたことのない、切羽詰まった声で「エナってば!!ダメだ!!魅入られるな!!」と叫ぶのが、どこか遠くに感じていた。
鏡に映ったのは、一人の青年だった。それも、とんでもなく美形の。
陶器のように白い肌は、その下に温かい血が通っているとは思えないほど寒々しい印象が強く、触れば心臓まで凍ってしまいそう。
私のいた世界では見たことのない、黒に近い紺色の髪は男にしては長いけど、不思議なほど野暮ったさはなく、よく似合っている。
自分の顔としてウンザリするほど見慣れてしまった、ゼグンド将軍のゴツゴツした男らしい顔とはまったく違い、滑らかな曲線を描く頬と顎、そして通った鼻梁の形の良さに惚れ惚れと見入ってしまう。
何より、目が綺麗。吸い込まれそうなほど鮮やかな紺色の瞳が、瞬きする度に色を変え、神秘的な金色に落ち着く。その瞳に真っ直ぐ見つめられるだけで、ドキーンと心臓が大きく縮みあがり、口から飛び出そうになってしまった。
なんですか、この非現実的なイケメンはっ・・・!クウガの顔がどんなだったかさえ忘れそうなほど、綺麗な顔だっ!!世の中不公平だ!!!私を憤死させる気なんですか、神様!!?
いやでも、もっと見ていたいわ、夢なら覚めないでえええ!!
―――――と思ったところで、目が覚めちゃった、ホントに。
どういうわけか、夢の続きのように、脳内でシャリオンが目覚まし時計のアラームの如き勢いで「エナのバカバカ!!!あれほどダメだって言ったのに!!」と何故か怒っていて、私は寝ぼけ眼をこすりながら、首を傾げるしかなかった。
いやあね、シャリオン。まだ夜が明けてないじゃない。もしかしてゼグンド将軍の体内時計が狂って、もう朝イチのおしっこが漏れそうなの?もうちょっと優しく起こしてよー。
「もう、知らないからね!アイツは僕の手にも負えない!とんでもない奴を懐に引き入れちゃったんだぞ、バカバカバカ!!よりにもよって、――――の片割れだ!悪魔だよ!!」
あー、ハイハイ、わかりましたよ、トイレまで自力で歩けって言いたいんでしょ。
でもトイレに着いたら、交代お願いしますね。
「違うって!あのフォークルフの事だよ、バカ!」
なんだか頭がぼーっとして、シャリオンの言っている事の意味がわからない。いや、言葉としては理解できるんだけど、今もなおグッスリとお休み中のワンちゃんが、何かの片割れなのか、とか、フォークルフたりえない、とか。何を聞いても、頭がぼんやりして、大した問題であるように思えないんだよね。
何であったとしても、こうして大人しく寝てるんだし、誰にも迷惑かけていないんだから、いいじゃないの。
「うぅっ!!クソ、しっかり術中に嵌ったか!おいエナ、トイレから戻ったら、僕は少しの間沈黙するけど、おかしな真似するんじゃないぞ!ちょっと上と連絡を取るから」
おかしな真似って何よ?失礼ね~。あれ?シャリオン、上って何のこと?そもそも、貴方どこのどちら様だっけ?なにか役所に勤めているような口ぶりをするけど、どういうお仕事をしている人なの?「僕の世界」ってたまに言ってるけど、それ、どこにあるの?
「・・・・・・・・・・!!こっちがかけた術を解いたのか。そんな器用な真似ができるのは、やはり・・・!エナ、ごめん、説明は後だ。今すぐ行かなきゃ!トイレは少し我慢してて!」
そう言い捨てて、シャリオンはいきなりスッと押し黙った。
声が聞こえなくなったんじゃない、なんだか隣にあったはずの何らかの気配が、いきなりかき消えたという奇妙な寒々しさが、私の意識の中にたちこめて、私はそこでハッと我に返った。
それまで頭が奇妙に重たく、全てが霞みがかったかのように、どうでもいい事のように思えていたのが、嘘のように現実味を帯びてくる。
え??シャリオン??上に連絡とるって?しばらく私と話すことも、ゼグンド将軍の身体を使って、必要なアレやソレ――――トイレでの所用やマッパになっての身体拭きや入浴の時、交代できないってこと?
幸い、まだ尿意はないみたいだけど。もしもこのまま何時間もお留守にされたら、私、独りぼっちでどうしたらいいのよ??こんなオッサン――――ああ、自分の身体に戻れたのって、やっぱり夢だったのね!チックショウ!――――の下半身なんて、直視できないよ!漏らすしかないんじゃない?いやでも、着替えられないし!!男のアレなんか触りたくないよ!!無理無理!!!
いやああああ!!シャリオン、はやく戻って来てぇええええ!!
――――などと、私が精一杯の乙女としての矜持と、ゼグンド将軍の身体の生理現象、そしてシャリオンとの対話不能という三重苦にあえいでいるところを、薄目を開けて覗き見しているものがいる、という事は、結局私は一度も気づくことができなかった。
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――――少々意地の悪い事をしてしまったが、これで少しは待遇が良くなるはずだ。エナといったか、この子には死相が見える。遠くない未来で、この子は殺される。
そんな事はさせない。
そこまで考えたのは、フォークルフという偽の身体を造り上げた時に支配が緩んだ、ルスラン本人のものだったのか、それとも、セルケー・ニェトと呼ばれる氷の悪魔のものだったのかどうか。
今はまだ、誰にもわからなかった。
to be continued
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。




