前編
「幽霊なんか出っこないって!!」
悠は笑いながら言った。
僕らが居るのは、先々月廃院になった小児科病院の門の前。鉄の格子扉は鍵が壊れていて、誰でも敷地内に入れてしまう状態だ。
コハル小児科病院は、僕らの地区では古くからある、大きな個人病院だった。
僕も子供の時から何かとお世話になった。多分凛花も渚も、そして藤崎涼もだろう。
「でもさ。コハル病院が廃業したのって、例の……」凛花が、怖々といった顔で悠に反論する。
「……『リョウコちゃんの幽霊』の、せいなんで、しょ?」
「あたしもそう聞いた」と、渚が頷く。
「看護師さんや保育士さんの殆ど全員が、『リョウコちゃん』を見た後に辞めてったって」
僕は悠を見た。悠は、笑顔を苦笑に変える。
「病院を閉めたのは、院長が歳とって診察が面倒になったからだ。——爺さん、前から誰かに跡を任せたいって言ってたんだ」
悠は、コハル小児科病院の院長の孫だ。
悠のお父さんは、確か都内の大学病院の准教授だったはずだ。小児科かどうかは聞いたことは無かったけど。
「あのさ。悠のお父さんは病院、継ぐんじゃなかったの?」
思い切って聞いてみた僕に、悠は不機嫌な顔でふん、とそっぽを向いた。
「父さんはダメだ。今時小児科だけで病院の経営が保つ訳ないって、全然」
「そう……、なんだ」
「他にも大学病院の後輩の医者に声掛けたらしいけど、色々折り合わなくって。で、いっそ閉めちゃえってさ」
だから、と悠は続けた。
「みんなが噂してるような事で閉めたんじゃないんだ」
悠の説明に、渚と凛花が顔を見合わせる。
「……まだ、『リョウコちゃんの幽霊』のせいって、思ってるんだろ?」
悠は、女子二人の顔を交互に見た。僕も、ほんの少し、噂を真実だと思っている。
「みんながそういう目でコハル病院を見てるんで、爺さん、少し気にしててさ。でも、俺も爺さんも他の医師も、院内で幽霊なんて見てないんだ。看護師さん達もそう。なんで、辞めた人達も『どうして?』って感じなんだよ」
「じゃ、どうして今日、病院で肝試ししようって、言ったの?」
凛花が悠に訊く。
僕も、悠に呼び出された時、それが不思議だった。
悠は、凛花と渚、僕と藤崎涼をぐるっと見回した。
「実証したかったからだ。本当に幽霊なんて出ないって」
******
壊れた門扉から、中へと入った。時刻は午後五時半。
悠が鍵を開けてくれた玄関の真正面に、見慣れた受付がある。掛け時計は受付の中の、いつもの壁に掛かっていた。
「廃院にしちゃったんで、電気も止めてるから。これ」と、悠は小さなペンライトを僕たちに渡してくれた。
「上へ行くんなら、明るいうちの方がいいかもな」
悠は、言った通り、まるで幽霊が出るなど信じていない態度で、すたすたと廊下を奥へと進んで行く。
渚と凛花は手を繋ぎ、悠の後を早足で追って行った。
僕は、しんがりの藤崎涼を振り返った。病院前に集合した時から今まで、藤崎涼はずっと無言だ。
教室では、やはり言葉は少ないが、友達とはちゃんと笑顔でやり取りしている。
僕の印象では、僕より藤崎涼の方が悠と親しいと思う。
だが、今日はなんとなく妙だ。
悠はあんまり、というか、全く藤崎涼に話し掛けない。藤崎涼も、いつもなら悠と二言三言は会えば言葉を掛けるのに、何も言わない。
僕は気になって、藤崎涼の隣へ寄った。
「あのさ、聞いてもいいかな?」僕が声を掛けると、藤崎涼は小さな声で「何?」と返した。
「藤崎さ、夏休みに入ってから、その……、悠とケンカかなんか、した?」
「……どうして?」
「今日、全然話してないから、二人」
藤崎涼は、「ああ」と、無表情な顔を上げた。
「ケンカ……、っていうか、夏休みに入ってすぐに、俺、出かけちゃったから。今日まで家に帰って来て無かったんだ」
「その間、悠とラインとかもしてなかったの?」
僕の質問に、初めて藤崎涼が微笑んだ。
「蓮だって、あんまりライン、やってなかったんだろ?」
僕は、クラスのラインにはあまり書き込んだりしていない。既読にはするが、殆どスルーだ。
でも僕達のクラスは、それでも割と平気で、スルーはスルーで見逃してくれる。
そう言えば、藤崎涼も悠も、クラスラインはスルーが多い。
「面倒臭いしね。いちいち返事するの。悠も面倒くさがりだから、してなかった」
「そっか」
「おーい、蓮。遅いと日が沈んじゃうぞー」
悠に呼ばれて、僕と藤崎涼は慌てて階段を昇った。
******
六室ある入院用の部屋は、既にベッドも片されて何も無かった。
壁から下がっているナースコールや、吸入用の容器が、ここが病院だったというのを示している。
カーテンも無くなった窓ガラスから、茜から藍に変わり始めた空が見えた。
悠は六つの部屋を周り終えると、ナースステーションへ入った。
「その奥が休憩室だ。……噂の『リョウコちゃんの幽霊』が目撃されたっていう場所」
驚いた顔で、女子二人が休憩室の入り口を振り向く。
悠は、平然と中へ入って行った。
ナースステーションは建物の中央に位置しているので、当然だけど休憩室に窓は無い。
扉も無く、使用されていた時は、カーテンでナースステーションと仕切られていたらしい事が、入り口のカーテンレールから判った。
真っ暗な中で、悠のペンライトがくるくると動く。
「今は何にも置いてないよ。見てみれば?」
手招きする悠に、女子達は「え〜、怖いよぉ」と言いつつも足早に中へと入った。三つのペンライトの灯りが、小さな部屋の壁や天井をふわふわと動く。
僕は、悠と凛花達が出てくるのを待って、一人で中へ入った。
外からぼんやりと見えていたけど、本当に何も無い。ペンライトで浮かんだのは、ロッカーが置いてあった場所の床面の傷くらいだ。
あと、壁際に、置き忘れられたらしい折りたたみ椅子が一脚。
「本当に、何も無いんだね」
部屋から出ようとしていた僕は、奥から藤崎涼の声がしてびっくりした。
振り向くと、藤崎涼が椅子をペンライトで照らして、じっと見ている。
休憩室の入り口は、人二人がぎりぎりすれ違えるほどだ。
入る時、僕は先の三人の一番後ろ、渚とすれ違った。
僕に続いて藤崎涼が入って来ていたら、絶対に気が付くし、出て行こうとしている今の状態ですれ違えば、間違えようが無い。
で、僕は藤崎涼とすれ違った覚えはない。
なのに、どうして今、僕より休憩室の奥にいるんだろう?
靄のような恐怖が、僕の心に掛かって来る。
なにか、おかしい——
「藤崎……、どうやって……」
僕が問い掛けた時。
「蓮。先行くぞ」
悠が僕の顔にペンライトの青い光を当てて来た。
僕は慌てて悠を追い掛ける。
「悠、あのさ、」
「悠ぅ、霊安室って、地下だっけ?」
僕の言葉に被せて、渚が悠に問い掛ける。悠は僕を無視して渚へ返答した。
「ああ。これから行くぜ」
藤崎涼のこと、解ってるんだろうか?
僕は言葉を飲み込んで、後ろを振り返った。
藤崎涼は、やっぱり無言で僕らの後ろについて来ていた。
悠と凛花が階段を降りる。
渚を挟んで、僕は『最後』に階段を降り始めた。
僕のすぐ後ろから、藤崎涼がついて来ている。僕は、俯いていた藤崎涼の顔を、数段下から見上げた。
目が合った。
ギクリ、とした僕に、藤崎涼は、いつもの優しい笑みを見せた。
「何?」
「あ……、いや」
おかしい。けど、藤崎涼はいつもと同じだ。
さっきの、ナースステーションでの事は、僕の勘違いだったのだろうか?
やっぱり、僕は藤崎涼と一緒に休憩室に入ったのか——
一階に戻ると、悠は奥の診察室の前を右へと曲がった。
日はずいぶんと落ちていた。窓から入る灯りは、すぐ近くの街灯のものだけになっている。
それでも、ペンライト無しで歩けるほど、廊下は明るい。
しばらくして、悠は右側に設置されたエレベーターの前で立ち止まった。