学院騒動 12
翌朝、私は目を覚ますと寝ぼけた頭でぼんやりとあたりを見回した。
いまならきっと猫でも殺せそうに見えるだろう目つきで、自分のいる場所を思い出そうとしていた。
あぁ、そうだ、ここリュリュの実家だっけ。
思い出し、敬愛するお師匠さまの姿がないことに気づく。
あ、あれ、お師匠さま。……えっ! あ、い、いない!?
血の気が引いた。弟子が師匠より遅く起きるなど、あってはならないことだ。本来内弟子は、師の身の回りの世話をすべてしなくてはならないのだ。
もっとも、ソーマの一派は、ソーマ配下の世話好き連中が勝手にするので、弟子は自分のことだけを最低限やればいいだけになっているが。
そのため私はお師匠さまの食事の用意くらいしかさせてもらえない。とはいえ、身の回りの世話、それに関しては、お師匠さまはまったくうるさくなかった。
でも、だからといって怠けていいわけではない。なにしろ、今は世話役たるエリスタたちはいないのだ。
ベッドから飛び起き、服を着替えているとお師匠さまが戻って来た。
「お、お師匠さま、おはようご、ざ、い……ます」
戻って来たお師匠さまの姿を見、私の言葉が凍った。
お師匠さまはその顔に絶望を張り付かせていた。俯き加減のまま、のそのそと部屋を横切り、そのままベッドへと潜り込んでしまった。外套を脱ぎもせずに。
え、お、お師匠さま?
ばたばたばたばたばた、ばーん!
「み、みみみミディン様! いったいどうなされたのですか? 出かけられた時には、あんなにも溌溂としてらしたのに!」
ドアを壊しかねない勢いで、ルリオンが部屋に飛び込んできた。
どうやら、あまりに減退したお師匠さまの気配を心配し、駆けつけたようだ。
「大丈夫、心配しないで……」
布団にすっぽりくるまっているお師匠さまのか細い声。
「い、いや、どうみてもただ事じゃないじゃないですか、お師匠さま!」
「どどど、どうなされたのですか?」
慌てて訊ねる。
たっぷりと、五回は呼吸できるほどの間をおいてお師匠さまが答えた。
「もうやだ。今日はずっとお布団の中にいる」
……答えになってなかった。
「おっはよー、勝手に上がらせて貰ったわよー」
え、リノ先生? なんで?
室内の混乱はさらに増した。
「ふむ、まぁ、当人に訊くしかないでしょ。出てけとも云われてないし、そこまで深刻なわけでもないと思うわよ」
この状況を把握した お師匠さまを迎えに来たらしいリノ先生が云った。
ベッドの傍らに座り、ぼそぼそとお師匠さまと話す。
ややあって――
「えーと、昨日の腹癒せに、軍団兵を壊滅させてきたって云ってるんだけど」
え? どういうこと?
「それでキャロル。昨日、軍団兵となにがあったのかなぁ? お姉さんに教えてくれないかなぁ」
ちょっ、リノ先生、怖いです。そのまるで笑ってない笑顔はやめてください! っていうか先生、そんな性格だったんですか! 学院では猫被ってたんですね!
「キャロルさん。そのお話、是非とも私にも。えぇ、大丈夫ですとも。お任せくださいまし。血の一滴残さず、凍結してみせますから! 話に聞く極東の八寒地獄に咲く血の花はとてもとても美しいと聞いておりますよ!」
ルリちゃんはさらに酷い。というか、なにがそこまですることに――って、寒い!
凍気が漏れてる、漏れてるから!
少々騒がしくはなったものの、どうにかお師匠さまから話を聞くことができた。
お師匠さまの話はこうだった。散歩がてら練兵所へ行き、軍団兵の早朝訓練を見学(一般公開されているようなもの)。そのあまりの残念さに連中を煽り、訓練に飛び入り参加。結果、模擬戦で全員を叩きのめしたとのこと。……素手で。
え、嘘でしょ。
「ミディンちゃん、さすがに素手の女の子に負けるほどあいつら弱くはないと思うんだけど。馬鹿だけど」
「……破導術使いました」
「うわぁ……」
リノ先生が声をあげた。
破導術。神弟様が人間に伝えた、徒手格闘術用の魔法のようなもの。簡易付与魔術のひとつである、肉体付与の筋力増加や反応速度上昇とはまったく別物の魔法で、破壊に特化した代物である。殴ったモノを粉砕する。炎上させる。凍結する。というような。
簡単に云うと、魔法(物理)である。厄介なことに、大抵の障壁魔法を半ば無効化するという凶悪っぷりである。
一応、武器でも使えるけれど、威力が若干落ちるらしい。
ただ修得難度が高いため、使い手は少なく、知名度は著しく低い。実際、この技を扱っているのは塔の守護者たちくらいだ。
まぁ、元々は神様の武術だからね。人間用に改修されているとはいえ。
「えーっと、連中、大丈夫なの?」
「加減はしましたから、今日の仕事はできるはずです」
「ふむ、それで、どうして布団にくるまってるの?」
「……自分の矮小さに自己嫌悪中です」
あー、ここでかー。まさか自爆で打たれ弱さがでるなんて……。
どうやら、あんな雑魚共相手に向きになった自分が嫌になった模様。
そして本日の予定を思い出し、私は頭を抱えたのだ。
説得の末、やっとお師匠さまをベッドから引っ張り出すことに成功した。
今日は学院で講義をしなくてはならないのだ。昨日引き受けておいて、それをすっぽかす訳にはいかない。
とはいえ――
「うぅ……お布団に帰りたい……」
お師匠さま、諦めてください。自分から嬉々として引き受けたお仕事ですよ。
ルリちゃん特性のコーンスープを匙で掬い上げたまま、お師匠さまはこの有様だ。
「ぶちのめしても問題ないわよ。プライドだけは一丁前だから、どこぞに訴え出るなんてことはできやしないし、なにより見物してた人がいたんでしょ」
「あぁ、それなら安心でございますね、ミディン様。北の森の大賢者さまの妹様として認知されていますから、帝都の民は、皆がミディン様のお味方です」
パンを齧るリノ先生の隣で、給仕に徹しているルリちゃんが胸に手をあて、なんだか誇らしげだ。
「そんなのは気にしてませんよ。それで罪に問われるなら、罪人でもなんにでもなってやりますよ。えぇ、その上で帝国の厄災として暴れてやりますとも」
ちょ、物騒なこと云わないでくださいよ!
「問題なのは、あいつらが弱すぎってことですよ。ちょっとムキになったあたしがゴミクズみたいじゃないですか。馬鹿ですか。馬鹿に馬鹿にされてるんですかあたしは!」
お師匠さまが騒ぐが、なぜか掬ったコーンスープは、匙から一滴たりとも零れはしない。
なるほど、そういうことか。ゴミ共と同じレベルまで降りてぶちのめした自分が、あまりに大人気無くて、いやになったと。気分的には、赤子を全力で殴ったみたいな……。
「あいつらあんだけ大言壮語吐いたんだから、もうちょっと、こう……こう……」
お、お師匠さま?
うがぁっー!
頭を掻き毟りながら、ミディンが喚いた。
コーンスープを掬っていた匙は、口に運ばれることなく、再び皿に没した。そっと。
「この精神状態じゃ、生徒の娘たちに八つ当たりしそうなのよ。あああ、イ、ラ、イ、ラ、す、る」
「お師匠さま、落ち着いてください」
慌ててお師匠さまの背をさする。これがどれほどの効果を示すかはわからないが、なにもしないよりはマシだ。
「また随分と荒れてるわねぇ」
「あの、ミディン様? 詳しくは、なにがあったのでございますか?」
「あったというより、あいつら弱すぎなのよ。まだ塔の半人前の学生共のほうが強いわよ。なんなのあれ。あれで騎士より強いとかほざいてんのよ。アホか。実力差も分からないとか、あいつらの目玉はなんでできてんのよ。卵か? 蛙の卵か!? 口先だけのゴミクズ共が!!」
あー。お師匠さま、身の程知らずには厳しいからなぁ。できないこと、弱いことについては、お師匠さまは一切嫌悪しない。それを自覚し、どうにかしよう、もしくは別の道を模索しようと努力するのなら、喜んで手を貸すような人だ。でもこれが口先だけの身の程知らずとなったら、嫌悪対象となって、対する態度も酷いことになる。
きっと、軍団兵、全員がそんな感じだったんだろうなぁ。
そして、なんでまた蛙なんですか、お師匠さま。
私はそのお師匠さまの蛙へのこだわりに、思わず首を傾げたのだ。