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ありきたりな大冒険

作者: 大野サクラ


 7歳のときに見つけた秘密基地は、父が所有する小さな森の端にある。


 もうずいぶん前に使われなくなったであろう物置小屋は、屋根が半分抜けて青い空がよく見えた。私はそこに読み切れないほどの本やブランケット、お菓子の入ったバスケットを持ち込んで、天気のいい日には一人で本を読んだ。

 木々のざわめきと、鳥の声が心地いい。誰もいない、一人だけの世界。


 そこに彼がやってきたのは、私が12歳のときだった。


 抜けた屋根から転がるように落ちてきたのは、栗色のボサボサ頭に、瓶底のような分厚いめがねで顔の半分を隠した少年だった。

 不格好なよれよれのシャツを着た彼は、「ぐへーっ」と情けない声を上げて、背中から地面に落ちた。

それほど高さはないとはいえ、受身も取らずに落ちたのだ。一瞬、最悪を想像して血の気が引いた。読んでいた本を投げ捨てて慌てて駆け寄ると、彼は「いたたた」と腰のあたりを抑えながら立ち上がった。


「ちょっと、大丈夫!?」

「うん、大丈夫……」


 少年は私を見て、ぽかんと口を開けた。


「っていうか、きみ、だれ?」

「……それ、こっちのセリフ」




【ありきたりな大冒険】




「いや、なんか悪いね」


 と、少年はへらへらと軽薄な笑みを浮かべながら、私が家から持ってきたバスケットの中のお菓子を食べつくした。悪いね、と言うのならもう少し悪びれた顔をしてほしい。


「……別に、いいけど」


 隣に座る少年を横目で見てから、私はため息と一緒に手元の本に視線を落とした。

 屋根が残った部分の下に備え付けられた本棚に背中を預け、ブランケットを敷いた床の上にあぐらをかいて、いつもの姿勢を取る。このポーズが意味するのはつまり、“もう君のことは気にしていないので、早く帰ってくれ”である。

 ここは私だけの秘密基地。世界で唯一、私が私でいられる場所なのだ。部外者がいては安心できない。

 が、私のそんな思いを毛ほども感じ取らず、少年は私にずいと近づくと、読んでいた本を覗き込んだ。


「へぇ、冒険小説?」

「……そうだけど」

「めずらしいね、君みたいな女の子が!」


 少年は私が背を預ける本棚にも視線を向けると、「よく見たら冒険小説ばかりじゃないか!」と驚いたような声を上げた。

 華美な洋服が好きでないとはいえ、丁寧に手入れされた長い髪と、質のいい生地を使ったワンピースに、品のいいお菓子の入ったバスケットを持っていれば、私が“ふつうの家”の生まれではないことはすぐ分かるのだろう。

 ふつう、そういういい家のご令嬢は、冒険小説をこんなところでこそこそ読んだりはしない。


「……悪い?」

「いや、俺も好きだぜ!」


 少年は屈託ない笑みを浮かべると、あろうことか本棚から本を一冊抜き出して、私の隣に腰を下ろし、本棚に背を預けた。片膝を立ててそこに本を置く。細い指がページをめくったのを見て、「……ちょっと」と唸った。


「え?」

「何普通に本読んでんのよ」

「え? だめ?」

「だめ」

「ここは私の秘密基地よ!」

「きみの? なんで?」


 そう問われて、ぐっと言葉に詰まった。「お父様の所持している森だから、私の」と言ってしまえば簡単だが、それはつまり自分の身分を明かすことになってしまう。できればそれは避けたい。

 中途半端に開けた口からやっとのことで飛び出した言い訳は


「……私が、最初に見つけたから」


 という、なんとも根拠に欠けるものだった。


「なぁんだ。そんな理由か。じゃあ、別に俺が来たって問題ないだろ。誰だって入れる森だ」


 それはそうだけど。

 私はページをめくる手を止めて、「……でも嫌」と少年を睨んだ。


「気にすんな、邪魔はしないよ」

「気にするわよ! っていうかあんた誰なの」


 人に指を指してはいけないと知っているが、それでも指を指さずにはいられなかった。

 少年はわずかに開いた口のまま私を見た後、ゆっくりと結び、端を吊り上げた。


「……“ロロ”だよ」

「へ?」

「俺はロロ」


 少年はそう言って「きみは?」と続けた。

 “ロロ”という名前には聞き覚えがあった。いや、よく知っている名前だ。


 私と彼の手に持たれた冒険小説シリーズ“ロロとコゼットの大冒険”の主人公の1人の名前。

 意気地なしのロロは、小さな島の生まれ。ロロは真っ赤な目を持ち、昔から町の人たちに気味悪がられていた。あるとき唯一の家族である母親を亡くし、自分の居場所を見つけるため海に出た。シリーズは全12巻。ロロは様々な島をめぐる大冒険をする。


 つまり、たぶん、彼が名乗った名前は偽名だ。

 どういう意図で彼がその名前を名乗ったのかは分からないけれど、それは私にとっても好都合だった。手元の本から、名前を借りる。


「……私は、“コゼット”」

「ふぅん」


 少年――ロロは、右手を出した。


「よろしく、“コゼット”。この秘密基地の仲間に入れてくれ」


 私はイエスともノーとも言わなかった。代わりにロロの右手を軽く握り返した。ロロも何も言わなかった。代わりに歯を見せて笑った。



 コゼットという少女は、ロロが最初に辿り着いた島にいた美しい少女だ。

 彼女に両親はいない。意地悪な叔父と伯母の元で、奴隷のように過ごしていた。そんな境遇の彼女を、ロロは不憫に思い、その叔父と伯母の元から救い出す。そして、「一緒に行かないか? 世界で一番、幸せな場所を探しに行こう」と冒険に誘ったのだ。コゼットは涙をこぼしながら「もちろん、あなたとならどこへでも行けるわ!」とその手を取り、共に大冒険へと出かけることになる。



「ぐへーっ!」

「わっ!?」


 ロロは今日も屋根から落ちるように秘密基地にやってきた。

 あれから彼は時々この秘密基地へやってくるようになった。頻度はだいたい月に1度か2度くらい。期間はまちまち。変わらないのは、彼が一向に、屋根から入ってくるのが上手くならないことだ。


「……大丈夫?」


 最初はロロが落ちて来るたびに口から心臓が飛び出しそうなくらい驚いて、大丈夫かと狼狽えたりもしたけれど、最近はもう本から視線を上げないままでも平気になった。それは


「……おう。なんだよ、つまらないなー。もっと狼狽えたりしてくれよ」


 彼が悪戯好きだから。

 私のおろおろした情けない表情を見て楽しんでいると気が付いてからは、彼のワイルドな入室方法についてはどうでもよくなった。

 ただ、毎回突然大声を上げて降ってくるのには、やっぱり驚く。静かに入ってきて欲しいと言っても、受け入れてくれない。こちらとしてはいい迷惑だ。


「というわけで、これあげる」

「なにが、“というわけで”?」

「いいから、これ、あげる」


 私は皮ひもに通した鍵を、隣に腰かけた彼に手渡した。ロロはそれを太陽にかざし、不思議そうに見ている。


「ただの鍵だよ」

「見ればわかる。俺が聞きたいのはどこの鍵かってことだよ」

「ここの合鍵」


 そう言うと、ロロが息を飲んだ。

 てっきり、ありがとな、と礼の一つや二つくらいあるかと思ったが、いつまでたってもロロは何も言わない。……もしかして、いらなかっただろうか。小さな不安が頭をよぎり、隣を伺う。

 ロロの口が、ぽかんと開いていた。


「……驚いた」

「うん。見れば分かるよ」

「うれしい」

「大げさな」

「いつ来てもいいってことだろ」

「うん。私がいる時も、私がいない時も、もちろんどうぞ。ただし! ちゃんとドアから静かに入ってきて!」


 念を押すように語尾を強めると、ロロの笑顔が弾けた。


「もちろん!」


 ロロは何がそんなにうれしいのか、しばらく鍵をいろんな角度から観察して、ようやく首にかけた。それを、よれよれのシャツの中に大事そうに仕舞う。

 彼は口元を緩めたまま、後ろの本棚からロロとコゼットの大冒険シリーズを取り出した。「前は72pまで読んだなー」と歌うように言って、ページを開く。

 やっと静かになった。と、思った矢先、ロロの上機嫌な鼻歌が部屋に響き始める。


「……変な曲」

「いいだろ」

「誰の曲?」

「今適当に作った」

「なにそれ」

「コゼットにも教えてやるよ」


 そう言ってロロは本を閉じ立ち上がる。ゆったりとした動きで私の前に出ると、咳ばらいを一つ。大きく息を吸って、胸を膨らませ、堂々と立つ。

 私も本を閉じ、曲を聞く姿勢を取った。

 ロロは不敵な笑みを浮かべる。


「“世界の海を渡り~”」

「……は?」

「“大冒険をするのは~”」

「ま、待った、ロロ」


 それ以上は言葉にならなかった。笑ってしまって。

 しょっちゅうひっくり返る声に、不安定な音程、歌詞に反する悲し気なメロディ。つまり、彼は猛烈な音痴だった。あんまりにも肩透かしな出来だ。

 やめてと言っているのに、なぜか、笑う私を見てロロはより大きな声で歌を続けた。変なツボに入ってしまったのか、笑いがますます止まらなくなる。腹を抱えて地面にうずくまったところで、ようやく彼は歌うのをやめた。


「なんだ、俺の美声に失礼だな」

「失礼って……ふふっ……わざとでしょ」

「いやいや。俺はいつでも真剣さ!」


 わざとらしく言って、ロロは私の前にしゃがみ込んだ。その口元は満足げな弧を描いている。


「コゼットが笑うの、初めて見た」


 しばらく私の笑う様子を見ていたロロは、ぽつりと言った。


「……そうね。私、無愛想だから」


 笑いはようやく収まりつつあった。目尻にたまった涙を拭きながらそう返すと、間髪入れず「ああ」と肯定される。


「でも、いいさ」

「そう?」

「俺は音痴だし、きみは無愛想だ。でも、それでいいさ」


 笑うのは苦手だった。それを周囲に指摘されることもしばしば。けれど、家族以外にそれを肯定されたのは初めてだった。

 私は結構な衝撃を受けたのに、ロロは何でもないことのような表情をして、また私の隣に腰を落とした。再び本を開くと、追って気の抜けるような陽気な鼻歌が聞こえ始める。

 彼の音痴な鼻歌を聞きながら、私ももう一度本を開いた。不思議とその鼻歌は嫌じゃない。


「……バスケットの中のお菓子、食べてもいいよ」

「おう。ありがとな」



 鍵を渡した後、ロロが屋根から入ってくることはなくなった。

 私が言った通り、彼は私がいるときもいないときも秘密基地にやってきているようだった。時々、物の位置が変わっていたり、本に挟んであるしおりが動いていたから。

 一人になりたくてここに来始めたのに、一人でなくなったのはそれほど嫌ではなかった。それは、彼もまた、一人の時間を大切にしているからなのかもしれない。

 ロロはここで沈黙を埋めるための会話も、私を探るような会話もしなかった。けれど、黙っているわけではない。彼は時折、思い出したようにどうでもいいことを言った。


「なぁ、コゼット」

「なに?」

「こうして見てると、なんか海みたいだな」

「……なにが?」


 なんのことかと隣を見ると、彼は抜けた屋根の向こうをぼんやり見つめていた。


「あの雲が島で」


 彼の指が宙を滑る。


「あの青が濃い辺りは渦潮の海だ」


 私はその指がたどる先を見た。


「渦潮の海は怖いなぁ……」

「コゼットは泳げるか?」

「無理」

「俺は泳げる」


 ロロのどこか勝ち誇ったような言い方が気に入らなくて、脇腹あたりを叩くと彼は「なんだよ!」と言いながらも笑い声をあげた。


「安心しろよ。コゼットが溺れたら俺が助けてやる」

「そんなことにならないように泳ぐ練習をしておくわ」


 私たちは、抜けた屋根の向こうの空を海に見立てて、何度もロロとコゼットの空想の冒険をなぞった。

 

 私が言うのもおかしな感じだけれど、ロロは少し変な人だった。

 変な見た目に、突拍子のない言動。ある時、彼は、雨漏りを直すと言って、トンカチと釘を持ってやって来た。

 彼はしばらく天井を見た後、「雨漏りをしないかが気になるんだ」と言い始めた。


「屋根半分抜けてるんだから、雨漏りとか今更関係ある?」

「関係あるだろ。このままだといつ本棚の方までだめになるか分からん」


 それはまあ確かに、と思ったので、ロロが家の外に立てかけてあった古い梯子を部屋の中に引きずってくるのを止めなかった。


「安心しろよ。抜けたところはそのままで、自分たちの頭の上が雨漏りしないように補強するだけだ」

「ふぅん。まあ、いいけど……」

「あのあたりの古い木材もらっていいだろ」

「うん。いいと思うよ。知らないけど」


 本を閉じ、少し端に寄る。いつも二人で座るあたりに梯子を立てたロロは、小屋の端に重ねてあった木材を抱え、釘を数本咥えると慣れた手つきで梯子を上った。随分、様になっている。

 もしかしたら彼は、大工とかそういう家の生まれなのだろうか。

 そう、彼が釘を打ち始めるまでは思っていた。


「……完成だ!」


 梯子から降りたロロは、一仕事終えた充実感に満ちた表情で額の汗をぬぐった。


「……完成?」


 私は彼が補強した天井を見上げた。

 見栄え悪く打ち込まれた木材に、あっちこっちへと頭が曲がった釘。小さな子供が初めてやったような出来栄えである。


「はじめてやったけど、なかなかいいだろ!」

「あ、やっぱりはじめてだったんだ」

「俺には才能があるのでは……!?」

「いやいや、妥当だよ。初心者らしい仕上がり。むしろよくはじめてなのに天井の補強しようと思ったね」


 聞いているのかいないのか、ロロは梯子を片付けると、本を取り床に寝転がった。

 そのまま本を開かず、しばらく天井を見上げる。彼がどんな目で自分が補強した部分を見ているのかは分からなかったが、口元は嬉しそうにひくついている。きっと、彼の目も、キラキラしているんだろうと思った。


「いいなぁ」


 ロロは噛み締めるように言った。


「俺が、直したんだ」


 その声があんまりにも嬉しそうだったので、私は「そうだよ」と彼の隣に寝転んだ。同じように不格好な天井を見上げる。


「なんかいいな。俺たちの秘密基地って感じが増した気がする」

「確かに、手作り感が出たね」

「……楽しいな」

「うん」


 ロロはなにかを作ることがいたく気に入ったようで、その後も時々壁を修理したり、ヘンテコな机のようなものを作ったりしていた。が、一向に上達はしなかった。

 斜めになったローテーブルにお菓子の入ったバスケットを置いた瞬間足が折れて、中身が全部だめになった時にはさすがに腹が立ったが、いつも彼がたのしそうなので、まあいいかなと思った。


 秘密基地には、どんどん二人の思い出が溜まっていった。


 ロロと一緒にいるのはとても楽だった。

 ロロといるときは、冒険小説が好きで、愛想のないコゼットでいられる。ロロは私になにも期待しないし、なにも求めない。時々とりとめのない話をして、笑って、黙々と本を読んでいられた。自分の存在を肯定してもらっているようだった。



「リラ」


 名前を呼ばれて顔を上げる。化粧をしてくれていたメイドたちの手が止まる。

 扉の隙間から、父が顔を覗かせている。


「お父様」

「やあ、緊張しているんじゃないかと思って、顔を見に来たよ」

「そりゃあ、緊張します。こんなドレスを着て、これほど丹念に化粧までされたら」


 立ち上がり、くるりと回って見せると、ボリュームのあるレースのスカートが、振りかけられた甘ったるい香水の香りとともにふわりと舞った。

 父親の優しく細められた目に映るのは、海色のドレスを着て長い髪をまとめふんわりとほほ笑む、ロベリア商会の娘のリラ・ロベリアだ。


「似合ってるよ」


 筋肉質で大きな体に精悍な顔つきの父も、正装がよく似合っている。その後、少し寂しそうに「母さんに似てるな」と言った。


「すまないね。リラがこういうのが好きではないとは知っているんだけれど」

「かまわないわ。ロベリア商会の娘の使命ですから。夜会の一つや二つさらっとこなしてみせますよ」


 胸を叩いてみせると、父は「頼りになるところも、母さんそっくりだ」と、ほんの少し不安そうにこわばっていた頬を緩めた。

 ロベリア商会は主に宝石を取り扱う、この国最大の商会だ。

 元々冒険家だった父が、世界各地を回り入手した宝石たち。希少で品質のいいものだけを扱う商会は、一代で莫大な富を築き上げた。

 その力は貴族にも引け劣らない。


「お兄様は?」

「もう下で待ってるよ。さあ、行こう」


 私はその夜、煌びやかな夜会の世界に飛び込んだ。

 ロベリア商会の娘の私の周りには代わる代わるいろいろな人が笑顔を張り付けてやってきて、誰もが私を「美しい」「素晴らしい娘さんだ」と機械的に褒めた。温度のない言葉に溺れるような夜だった。



「――、――ト、コゼット?」

「ふぇ?」

「俺、そろそろ帰るけど」


 視界いっぱいにロロの顔があって、変な声が出た。

 こうして見ると、ロロもずいぶん大人になったな、と思う。輪郭や体の線はすっかり男らしくなった。当たり前か。出会ってから、もう4年も経っている。


「ごめん……寝てた……」

「おう。ぐっすりだったな。珍しい」


 眠い目を擦ると、目が覚めた。手には中途半端なページで止まったままの、ロロとコゼットの大冒険。第7巻はロロとコゼットが、このシリーズ最大の敵、“ゴスリン大佐”に出会う巻だ。ゴスリン大佐は海軍に所属しながらも、コゼットを手に入れ、奴隷として売ろうとする悪徳大佐。私は昔からこのキャラクターが大嫌いだった。挿絵で品のない笑みを浮かべる彼が嫌で、本を閉じる。


「疲れるてるのか?」

「う、うん、まあ」


 16になって夜会デビューを果たすと、結婚の申し込みが津波のようにやってきた。ろくにしゃべったことのない相手から、顔も見たことのない相手まで、みんなロベリア商会との繋がりを求めっているのだ。

 自由恋愛推奨派の父が防波堤となり、なんとかやり過ごしてはいるが、一人、やっかいなのに目を付けられていた。


「大丈夫か」


 手を握られ、顔を上げるとロロが私を覗き込むように見ていた。前髪の隙間から、分厚い眼鏡の奥の、きれいな海のような青い目が覗いている。

 はっきりと見たことはないが、きっとロロの目はきれいなんだろうと思う。


「うん」

「そうか?」

「うん」

「なんかあるなら、力になるぞ」


 あまりに真剣なその物言いに、思わず「ふ」と笑いが漏れ出てしまった。途端に、ロロの唇が不満げに尖る。


「なんだよ」

「ごめん。真剣なロロって初めて見たから、笑えて」

「おい、はぐらかすなよ」

「はは。ごめん。でもありがとう。その言葉だけで充分なの」


 ロロはまだ不満そうだったが、もう一度「ありがとう」と言うと、ゆっくりと私の手を離した。


「ほんとに、いいのか」


 私は曖昧な笑みを浮かべた。

 いいの。だって、しかたがないの。


 家に帰ると、使用人が気まずそうに一通の封筒と燃えるような赤い花の花束を差し出した。差出人はわざわざ確認するまでもないが、封筒を裏返してそこに書かれた予想通りの名前に、重たいため息が漏れる。


「カオン侯爵からです……」


 カオン侯爵は、父の防波堤を軽々と超えてきたやっかいな人だった。

 うちの船が頻繁に出入りする港一帯を所有している人物で、その地位は高い。まさか18歳も年上の人物からこれほど熱烈なアプローチを受けるとは思ってはいなかったが、問題はそこではない。

 私は彼が単純に苦手なのだ。

 夜会で2度ほど話しただけだが、傲慢で自信家。相手の地位を見て、態度を変える様はあまり心地のいいものではなかった。

 彼が欲しがっているのは紛れもなく、ロベリア商会との繋がり、そしてロベリア商会が持つ他国との独自のコネクションだ。


「……めんどくさいなぁ」

「お断りの旨は伝えてはあるんですが……」

「かまいません。父があまり強く出られないのは理解していますし」


 彼が直接そう言うことはまだないが、港の使用権をちらつかせられると、こちらとしては分が悪い。さらに、彼は侯爵だ。地位だって父よりずっと上。

 いつかこういう時がくるかもしれないと覚悟はしていたけれど、いざ来ると、なかなか苦しいものである。


 封筒を受け取り、自室へ戻る。

 部屋に入って、倒れるようにベッドへ沈む。波打つカーテンに浮かんだ、ランプの影がゆらゆらと揺れている。目を閉じると、ロロの屈託のない笑みが浮かんだ。

 ぼさぼさの頭と、前髪の隙間から覗く瓶底眼鏡。くたくたのシャツを着崩した、気の抜けたような男。

 思い出すと、自然と頬が緩む。


「ロロに会いたいなぁ」


 その夜、夢を見た。

 私は荒れ狂う海の上、ロロと船に乗っている。「もうだめだ」と膝をついた私の手を、ロロは強く引いた。


『行こう! 俺たちならどこへだって行ける! 二人なら、こわいものなんてなにもないんだ!』



 抜けた屋根から見える空は、雲一つない快晴だった。


「じゃーん!」


 いつものようにやってきたロロは、扉を抜けると仁王立ちに腰を反らせた。鼻高々といった様子で、その姿勢のまま止まる。


「……なに?」


 私の言葉を聞くと、ロロはがくりと肩を落とした。


「おいおい! 気づけよ!」

「気づけよって……あ、なに? 前髪切った?」

「切ってねぇよ!」


 おまえ、適当に言えばいいと思ってるだろ! と、彼は不満そうに背中から細長い何かを取り出した。なに、と聞く前に、「いいだろ、布と棒だ!」と説明してくれる。


「何するの?」

「椅子を作ろうかと思う!」

「……それで?」


 彼の持つ木の棒と布が、頭の中の椅子のイメージとつながらずに首を傾げる。ロロは「これだから素人は」と雄弁に表情で語って、顔の前で人差し指を振った。


「ハンモック風にするんだ」

「……ふーん」

「いいだろ」

「いいね、作ったら?」


 そう笑うと、今度はロロが不思議そうに首を傾げた。


「……どうした?」

「なにが?」

「いつものコゼットなら、眉間に深い皺を寄せて冷たい目で“それでどうやって作るつもりなの? 作ってもいいけど絶対に私は座らないからね”って言うところだろ!」

「あー……確かに、そう言うかも。よくご存じで」

「当たり前だろ。何年の付き合いだと思ってるんだよ」


 気が付けば、私たちの付き合いはもう5年近い。日々はあっという間に流れ、私たちはどんどん大人に近づく。

 秘密基地を見つけ、逃げ込んだ自分に「この後ここには、名前も顔も知らない人がやってきて、その後5年近く一緒ここで会うんだよ」と言ったら驚くだろう。


「ハンモック風の椅子はいいだろ。なんか船っぽい」

「……うん」

「……おい、本当にどうした? なんか今日元気ないな。体調でも悪いのか?」


 ロロが私の額に手を当てた。「熱はないな」と不安げな声が、すぐそばで聞こえる。

 私は、額に触れていた手を取った。


「コゼット?」

「ねぇ、ロロ」


 この秘密基地とロロは、私の宝物。だから、


「あげる」

「……え?」


 目の前で揺れる古ぼけた鍵を見て、ロロは目を丸くした。「これ……」と迷いの滲んだ声を出すだけで、それを受け取ろうとしないロロにいら立って、胸元に押し付けるようにして渡した。

 私が持つ、この秘密基地の扉の鍵を。


「あげるって、これ、ここの鍵だろ」

「そう」

「俺はもう持ってる」

「ん」


 私はロロの分厚い眼鏡の奥を見たまま、鼻を鳴らすような返事をした。ロロがどんな顔をしているのかはなんとなく想像がついた。


「どうして」


 私は答えなかった。

 ロロの手を離し、本にを読む。

 文字の海をなぞる。ロロとコゼットの大冒険が終わりを迎える。荒れ狂う海を渡り、多くの敵に打ち勝ち、二人はついに二人の楽園に辿りついたのだ。


「なぁ」


 ロロがいら立ったように、私の肩を持った。見上げたロロは私が思った通りの表情をしていた。困ったような怒ったような彼は、「どうして」と私の肩を持つ手に力を入れた。


「……結婚するから」


 前髪の隙間から見えたロロの目がゆっくりと見開かれた。


「結婚?」

「そ、結婚」


 力の抜けた手を払って、私はもう一度本に視線を落とした。


「誰と?」

「……内緒」


 ロロは「……そうか」と蚊の鳴くような声で言った。すぐに重たい沈黙が落ちてきて、文字に集中できなくなる。横目で見ると、彼は手元に視線を落としたままの姿で固まっていた。

 気まずい。

 これ以上本を読み続ける気になれなくて、私は本を閉じた。

 一日の終わりを感じさせるような、冷たい風が天井から流れ込んでくる。そろそろ帰ろうと立ち上がった。


「なぁ」


 バスケットを持った手を、ロロが握った。


「なに?」

「コゼットはそれでいいのかよ」


 どこか咎めるような口調に、私は少々面食らった。

 ロロの手を抜けようと腕を引いてみたが、握る力が強くなっただけだ。私は仕方なくその場にしゃがみこんで、彼の前髪と分厚い眼鏡の奥にある目を見た。


「いいよ」


 迷いなく言い切ったその言葉に、ロロの手の力が少し弱まった。


「いいんだよ、私はこれで」

「……なんで」

「そういうものだから」


 秘密基地を作った頃の私は、子供だった。

 自分の立場を分かっていながら受け入れられない。そんな葛藤から逃げるようにここへやってきた。ロベリア商会の娘としての周囲からの期待も、縛りもない。ここで私は、ただの私でいられた。

 でも同時に、いつまでもそうしていられないことも知っていた。ここで過ごした数年間は、私がロベリア商会の娘であることを受け入れるための準備期間だったのかもしれない。


「私は、そうしなければいけないの」


 いつまでも返事をしない私に、ついにカオン侯爵は『あなたが断るというのなら、ロベリア商会の港の使用権について考えなければならないですが、いいんですか?』と最終通告を告げたのだ。

 侯爵との結婚は正直ものすごく嫌だけど、それが大好きな家族や屋敷の人々、商会で働く人たちのためだというのなら、今の私はそれを受け入れられる。

 大人になることを受け入れられる。


「ありがとう、ロロ」


 心から、そう言えた。


「あなたとここで過ごした時間は、とても特別だった」


 握ったロロの手は、陽だまりのように暖かい。

 私は上手く笑えているだろうか。


「私の冒険はここで終わり」


 抜けた屋根を海に見立て、空想の世界に浸りながら、物語の主人公の名前を持った少年とお菓子を食べる時間はもう必要ない。

 冒険と呼ぶには平坦で短い時間だったけれど、この秘密基地で過ごした日々は、誰になんと言われようとも私の大冒険だった。


「……ここは、好きに使ってくれていいよ。本も、残していくから」


 最後にもう一度、ロロの手を強く握ってそれからゆっくりと離した。立ち上がっても、もうロロは私を追おうとはしなかった。


「さよなら」


 振り返って、秘密基地を出た。木々はざわめき、思い出ごと小屋を飲み込んでいく。

 ロロが追ってこなくて本当によかったと思う。こんな不細工な泣き顔を、彼にだけは見られたくなかった。頬を伝う涙はどれだけ拭いても溢れてきて、結局家に帰る前まで止まらなかった。


 家に入って私の顔を見たメイドのリジーは全てを分かったかのように、私を抱きしめてくれた。母親を早くに亡くした私にとって、昔からこの家に勤めるリジーは母親代わりだった。お父様には言わないで、と言う前に『誰にも言いませんから』と私の頭を強くその豊満な胸に押し付ける。

 苦しい。

 私はそう言いながら、リジーの背中に手を回した。


「お風呂に入りましょう。あなたの好きな入浴剤をたっぷり入れて」


 お風呂に入って身だしなみを整えた頃には、私はいつものリラ・ロベリアだった。父と、他国の仕入れ旅から戻ってきた兄と3人で食卓を囲む。料理長が用意した私の好物ばかりが並んだ食卓は、ずうっとみんなの笑い声に包まれていた。


 カオン侯爵の元へ行くのは憂鬱。でも、もしかしたら、時間をかけて話したらいい人かもしれない。好きではないけれど、嫌いだという気持ちもいつかは薄れるかもしれない。この家族のようになれるかもしれない。

 そうなれたら、いいな。




 その朝はあっという間にやってきた。

 すがすがしい朝の空を見ながら、新しい船出には悪くない日だなとぼんやり思う。朝食もそこそこに、やってきたメイド達に身支度をされる自分を鏡越しで見た。緊張していないと思っていても、顔は少しこわばっているように見える。心ごとほぐすように、頬をぐりぐりと揉んだ。

その時だった。

 部屋の扉が乱暴にノックされ、返事を待たずに扉が開いた。リジ―が「誰ですか!」と怒る声を無視して、転がるようにして飛び込んできたのは息を切らした父だった。

 

「ど、どうしたんですか」


 化粧途中だった私は、顔にパフが押し付けられたまま固まった。メイド達も固まった。

 尋常ではない様子の父に、誰もが釘付けになった。父はようやく息を整え、言った。


「カオン侯爵との結婚は取りやめになった」



 どういう心変わりなのか、カオン侯爵は私との婚約を取りやめるとの書状を寄越すと、そのままぱったりと連絡を寄越さなくなった。もちろん港の使用権が脅かされることもない。

 なぜ。

 我が家にとっては喜ばしいことこの上ない出来事のはずなのに、あまりに突然のことすぎて「なぜ」が先行して誰もがいまいち喜べずにいた。私の決死の覚悟は宙にぽっかりと浮いたまま、けれど再び子供のように振る舞うこともできなくて、結局それから秘密基地には行かなかった。

 

 日々は穏やかに過ぎ、私は家で習い事に勤しんだり、家業を手伝いつつのんびりと過ごした。


 そんなある日、父が私を呼んだ。神妙な面持ちの父は、しばらく「今日はいい天気だな」とか「新しくできたケーキ屋がうまい」だとか意味のない話を続けたが、突然暗い顔になって頭を下げた。

 どうやらかなり動揺しているらしい。


「あ~、実はお前と結婚したい人がいてだ」


 父はこめかみあたりを抑えながら言った。


「……カオン侯爵?」

「いや。侯爵なんかじゃない」

「じゃあ誰?」

「相手方の希望で、リラには、会うまで内緒にしてほしいと」

「はぁ?」


 訳の分からない要望に不機嫌な声が出ると、父はがばりと顔を上げて「いい人だから!」とその人物をフォローした。

 今まで「娘には絶対に自由恋愛の結婚をさせるんだ!」と息巻き、津波のようにやってきた結婚の申し込みを押し返していた父親が、初めて私に結婚を申し込んできた相手をフォローした瞬間だった。

 正直驚く。


「いい人なんだ……いい人……いや、すごい人というか」

「はあ」

「こ、断れない相手だ……」

「あ、そうなんだ。いいよ」

「お前には迷惑をかけて本当に申し訳ないと……え?」

「いや、だから結婚するのいいよ。結婚するよ、私」

「い、いいのか?」

「うん」


 父は不思議そうだったが、私の色よい答えを聞いて、どこかほっとした様子だった。私は父を信頼している。父が「いい人だ」と言ったので、きっと本当にいい人だ。だから、嫌じゃない。

 話はとんとん拍子に進み、私は父が「断れなかった」という理由を、結婚相手が住む場所に辿り着いて理解した。


「……王城」


 ……城!!!

 あまりの衝撃に、一拍遅れて驚きがやってきた。

 城! 王城だ。

 一度夜会に呼ばれて入ったことがあるが、城に面識のある人物なんていない。その人物が待っている場所まで案内される最中も、案内をしてくれる人の話に相槌を打ちつつ頭の中の引き出しをひっくり返していた。

 が、どこを探しても王城にいるような相手と交流を持った記憶がない。


「こちらへ」


 と案内されたのは、空中庭園だ。遮るものがない場所で広がった雲一つない空は、まるで海のようにも見えた。

 その人物は、そんな真っ青な空を背に立っていた。私たちが庭園の芝を踏むと、ゆっくりとこちらを振り向く。栗色のサラサラした髪が風に揺れた。


「ルピアライト王国第三王子、フィル・ルピアライト様です」


 私はお土産の焼き菓子を詰めたバスケットをどさりと落とした。

 だいさんおうじ。

 第三王子。


「……こんにちは、リラ・ロベリア嬢」


 うんうん。これはお父様断れないわ。分かるよ。


「……今日は驚かせてすまない」


 すごいな。王子。遠目で見たことはあったけど、こんな至近距離で見たのは始めてだ。すんごいきれいな顔をしている。


「……聞いてるか?」

「あっ、はい。失礼しました……その……驚いてしまいまして……」

「そうだな。すまない」


 いつの間にか至近距離にいた王子に狼狽しつつ、頭を下げる。

 「では、後は若い者同士で」と案内してくれた人が下がり、庭園には私たち二人だけになった。


「……いつまで頭下げてんだよ」


 笑いを堪えたような声と共に、軽く脇腹あたりを小突かれて、私は顔を上げた。

 第三王子様は、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべている。その表情に、頭の中にははてなマークが踊った。


「……えっと?」

「敬語もいらない。なあ、こっち。見せたいものがあるんだ」


 そう言うと、彼は私の手を持ち、空中庭園をずんずんと進んだ。その行動に頭の中のはてなマークがどんどん増えていく。

 王子の言動は、まるで旧知の友人に対するそれだ。


「……あの」

「ん?」

「どなたかと、勘違いをなさって、いるのでは、ないで、しょうか?」


 動揺のせいで、言葉が変なところで区切れてしまう。王子はぴたりと足を止めた。

 振り返った表情は、驚きと「何言ってんだ、こいつ」という呆れに染まっている。


「……おい」

「はい?」

「……本気か?」

「え?」


 完全に気の抜けた返事をした私に、王子は重いため息をついた。そして、何を思ったのか髪を思いっきりかき乱した。


「え!? ど、どうなさったんですか?」

「――っロロ!」


 彼は怒鳴るように言った。


「だから、俺、ロロ!」


 だから、おれ、ろろ。

 私の頭はその言葉を何度か復唱した後、ついに理解した。

 ぼさぼさの栗色の頭。海色の目。形のいい唇。瓶底眼鏡はないけれど、よく聞けば声は間違いなく彼のものだ。秘密基地の彼が、目の前の彼と線で繋がる。


「ロ、ロロ、だ?」

「そう言ってるだろ、“コゼット”」

「っ、ロロ!」

「遅いだろ!」


 久しぶりにその名前を呼ばれて、胸が高鳴った。


「ひどいな。随分長く一緒にいたのに」

「だって……変装してたから」

「おう。変装は結構得意なんだ。城を抜け出すのに必要でな」


 屈託なく笑った顔は、間違いなく、懐かしいロロのものだった。

 状況は理解できたがなかなか飲み込めない私の手を引いて、ロロはゆっくりと歩き始めた。


「……強引で悪かったな」

「え? なに、今日のこと……ですか?」


 敬語はいいよ、気持ち悪いから。とロロ、もといフィルは苦い笑みを浮かべた。


「それもそうだけど、カオン侯爵のことも」


 思いがけない名前に、「え?」と音が落ちた。


「結婚相手を調べて、俺が邪魔した」


 あっさりとそう言ったフィルに、私は言葉を無くした。


「彼との結婚を取りやめにするには、彼より上の立場の人間が君を妻に迎えるつもりだというのが一番てっとり早かったから……なんだ、まさかあの男と結婚したかったのか?」


 フィルが焦ったように言うので、私は慌てて首を振った。


「いやいや……助かったけど」

「そうだろう。俺も知ってるが、あいつはまあまあろくでなしだぞ。強引で金に汚いし、女にもだらしない」

「なるほど」

「結婚には向かないと思う」

「う、うん。って、いうか……」

「なんだ」


 フィルの眉間に寄った皺を見ながら、私は首を傾げた。


「どうして、そんなウソまでついて助けてくれたの?」

「……は……?」


 フィルは目をまん丸にした後、がっくりという効果音が付きそうな勢いで項垂れた。あまりの落胆の様子に、ついつい「ごめん」と言うと、じっとりとした視線が向けられる。


「……あの時、泣きそうな顔してただろ」

「あの時?」

「“私は結婚しなければならない”って言った時、泣きそうな顔してた」


 フィルの指が、私の目元を優しく擦った。あの日、流した涙を掬うような、優しい手つきで。


「だから、邪魔した。あんな顔、してほしくなかったから」

「……もう……大丈夫。ありがとう」

「ん」

「でも、ロ、フィルはそれでよかったの? 結婚の噂なんて」


 私はいい。けれど間違ってもこの国の王子だ。軽々しく結婚の話なんて持ちだしたら、大きな問題になることもあるだろう。

 私は彼を心底心配しているのに、目の前のフィルの表情はどんどん険しいものになっていく。「こんな風に迷惑かけるつもりじゃ」なかった、と言いかけた言葉を、フィルの口から出た深く長い息が遮った。


「……いい。そういうタイプだった。とりあえずこっち来て。見せたいものがあるから」


 フィルは再び私の手を取ってゆっくりと歩き始めた。

 午後の穏やかな日差しと風が、私たちの背を押す。


「……俺は昔から、“第三王子”っていう自分の立場が死ぬほど嫌いで」


 ぽつりと、フィルが言った。


「優秀な兄たちと比べられるのが嫌で、実力もない自分に媚びへつらう大人たちも嫌いで、ああして変装して街に出てた。きみに会ったのは、その時だった」


 フィルの口元が懐かしむように弧を描く。


「最初はきみを変な女の子だと思った。きみは愛想もないし、だまって本を読んでお菓子を食べてるだけだし……」

「そんなふうに思ってたんだ」

「最初は、って言ってるだろ。だんだん、そうやって気取らない君の側で一緒に本を読むことが好きになった。すごく気楽だったんだ。嫌なことがあっても、つらいことがあっても、きみはいつも変わらず、俺を迎えてくれた」


 フィルは足を止め、振り返った。


「あの日君が、秘密基地で過ごした日々は特別だったと言ったように、俺にとってもあの日々は特別だった。初めて、ただの自分を肯定してもらったような気持ちだったんだ」


 フィルの手が、私の両手を取った。フィルの髪が風に揺れる。彼の目をしっかり見るのは初めてだった。海のような青い目が、優しげに細められている。

 胸がぎゅうっと苦しい。


「つまり」

「つまり?」

「俺は本気」

「本気……」

「リラが好きってこと」


 好き。その言葉を頭の中で反芻すると、頬に熱が集まった。初めて呼ばれた本当の名前がくすぐったい。

 フィルが「ふ」と小さくこぼしたやわらかな笑みが、凶器のように胸に刺さる。早鐘のような心臓を鎮める方法が分からない。


「見て欲しいのはこれで」


 フィルが指したのは、一本の木に寄り添うように建てられた不格好な小屋だった。すぐ隣にあったのに、ちっとも気が付かなかった。私はそれくらい緊張しているらしかった。


「中の本棚にはきみが俺に譲った本を入れて、座り心地のいいハンモック風の椅子を二脚用意した。壊れない。ちゃんと座ってみた。さすがに屋根をぶち抜くわけにはいかなかったから、代わりに大きな天窓を付けてみた。ま、かなり大工にも手伝ってもらったんだけど……」

「……秘密基地は、こんなに綺麗じゃなかったよ」

「これから、使い続ければ、そうなる」


 泣きそうだ。

 フィルが用意してくれた素敵な贈り物を見て、私は泣きそうだった。


「……俺たちはまだ大人って呼ぶには子供で、でも、現実を見ないでいられるほど子供でもない」

「うん」

「だから、また時々、ここに来よう。疲れたときや、悲しいときは空を海に見立てて、空想の冒険話に浸ろう」

「……うん」


 フィルは私の頬を一度擦るように撫でてから、その扉の前に立った。

 彼は何かを言おうとして口を開いたが、何も言わずに口を閉じた。そして口元を手で覆い、気まずそうに、迷いながら言った。


「あー……、ここまで言っておいてあれだけど、今回の話は君に好きな人がいたら」

「いない」


 私は咄嗟にフィルの言葉を切った。面食らったフィルに畳みかけるように「恋人も、好きな人もいない」と続けると、彼は「そうか」とはにかんだ。


「じゃあ」

「うん」

「大冒険とはいかないかもしれないが」


 フィルは照れたように頭を掻いてから、私があの日あげた鍵を差し出した。


「“一緒に行かないか? 世界で一番、幸せな場所を探しに行こう”」


 私はその鍵を受け取って、笑った。


「“もちろん、あなたとならどこへでも行けるわ!”」



END

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