羊
無駄な芸を仕込まないで欲しいものだ。
最初は、ただの羊であり、個性といっても、せいぜい顔が黒いとか白いとか位だ。ところが、時間がたつにつれて、一頭一頭の個性が強烈になってゆく。
どんどん、とんでもないことになってゆくので、できれば短時間で済ませるほうがいい。
「メエエエ」
「ンメエエエエ……」
平和な牧場は明るい緑の草が続いている。空にはチーズのようなお月様がかかり、柔らかく温かな夜風がほとんど気づかないほどの静かさで、流れ続けているのだった。
そんな牧場に、無数の羊たちが待機している。
彼らはだいたい、何も考えていないような顔をしている。眠たい目をして、どこを見ているやらわからない。顔が白いのも黒いのも、上あごと下あごを擦り合わせるようにして常に草を咀嚼している。五秒に一度くらいの割合で、群れの中のどれかが「ぼと」と脱糞している。
どれもこれも、半開きの目をして鳴くか、草を食うか、糞をひるかしている。
純白の柵が夜の牧場で鮮やかだ。
まるでハードルのように整然としている。
羊の群れは柵の左手にたむろっており、時を待っている。柵の右手には、どこまでも続く豊かな牧草だ。羊にとってはごちそうのテーブルである。
(そろそろ始めた方がいいだろう)
と、わたしは思う。
この牧場には熟練の羊飼いがいる。ちょうど、羊と同じように半開きの眠そうな目をしている。彼は牛乳瓶底の眼鏡をかけて、だるそうに羊たちを眺めていた。
わたしは、この羊飼いに自分の意思を伝える。
「そろそろ始めてくれい」
羊飼いは無言で頷くと、微妙に背筋を伸ばした。
この羊飼いは、あくせく走り回ったりせず、突っ立ったまま、羊どもをまとめ、言う事をきかせることができるらしい。
幾万もの白い奴らを、自分の手足の様に操るのである。結構な能力だと思う。
羊飼いは羊どもがだいたい順番に並んだのを見定めると、手に持っていた棒を、左から右に、ふいと振ったのだった。
一匹目が、ほとほとほとほと小走りでかけてきて、白い綺麗な柵をぴょんと飛んだ。
「めー」
と、羊はしわがれた声で鳴き、柵の向こう側でほとほと歩いてから、唐突に草をはみ始めたのだった。
羊飼いは無表情で棒を振り続け、その指揮に従い、羊どもは柵を越える。
二匹目、三匹目。
えんえんと羊は続く。平穏な風景だ。
しかし、十匹目くらいから、何だか様子が変わってくる。
「めー……」
と、ちょっと高めの声で鳴きながら柵に向かって助走し、ひょいと飛び越えた瞬間、そいつは確かに
「……タモルフォーゼ……」
と、鳴いたのだった。
羊のもっさもさの白い体が蛍光色に輝き、柵の向こう側に着地した時には、毛を刈られた貧相な姿に変わった。
実に痛々しく、寒々しい姿に変身したものである。
このあたりから、羊が個性を主張しはじめてくる。
演歌を熱唱し、熱い目をしながら柵を越えるやつ。
二足歩行状態でチュチュをまとい、くるくるとバレエを舞いながら柵を越えるやつ。
「どすこい」と野太い声で鳴きながら飛び越え、着地した時に地響きと土煙をたてるやつ。
「あはんばかんいやん」と羊声で囁きながら、自分の毛皮を脱いでストリップしながら飛び越えるやつ。
どんどん酷くなる。
一刻も早く、この事態を堰き止めなくては取り返しのつかないことになる。
相手は羊どもである。勝てないはずはない。そもそもこの羊どもは、何のために飼育されているのか。
(こいつらに己の本来の役割を思いしらせてやる必要があるのだが)
羊のくせに、白黒に毛を染めたパンダ風のやつが「めええええ」と飛び越えてゆくのを、わたしは見送る。
調子に乗りすぎているとしか思えない。
責任者である羊飼いは、淡々としている。全く問題を感じていない様子だ。
こいつがそもそもの原因かもしれない。一体こいつは、この無数の羊どもに、どれだけ芸を仕込んでいるのだろう。
暇な昼間のうちに――いくら暇で他にやることがないからといって、これはあんまりだ――一頭一頭、入念に教え込んだり、仕掛けを仕込んだりしたのだろう。
あっ。
今飛んだやつ、飛んだ瞬間に頭の上の毛の中から、鳩が飛び出して、夜空にはばたいていったじゃないか。
どんなマジックだ。
羊飼いは何も考えていない、ぼうっとした顔をしているが、絶対にこいつの腹は真っ黒だ。
こいつがどういうわけで、わたしの邪魔をしているのか分からない。いつか、さしで話し合う必要がある。
……。
羊のほうは、既に手がつけられないほど、強烈になっている。
「犯人はおまえだ」と叫びながら飛び越えるやつ――なんのサスペンスか、気になってしようがないじゃないか。
「奥さんがいてもいいの」と思わせぶりに呟きながら、気だるい目をして飛び越えるやつ――エロ不倫ものか、昼休憩の時間にちょうどやってるんだ。思わず観てしまうんだよなあ。
「あっ、明日、ごみの日だった」と、今思い出さなくてもいいようなことを叫びながら飛び越えていくやつ――悪意しか感じられない、なんだこいつ。あーくそ、ゴミ袋もうじき無くなるんだった。
「車検の日、いつだったっけ」
「あー、食費かさむわ」
「明日の仕事のシフト、あの人と組むんだったよな」
「うっわ、米炊く支度したっけ」
いちいち、気になってしょうがないことを呟きながら飛び越えていくのだ。
……。
たまに、何も呟かないで大人しく柵を飛び越えるやつがいる。
そういうのが何頭か続くと、ほっと安心して、やれやれと力が抜け始める。
ところが、いい感じになってきた時、静かに羊らしく柵を飛び越えた一頭が、いきなりこちらを変顔で振り向いたりするのだった。それで、台無しとなる。
「んめー」
一見普通の羊なのに、なぜか尻尾だけ、さらさらの光り輝く金髪のポニーテールだったり。
「めええええええ……んちカツ」
と、晩のメニューの案を叫んでくる奴がいたり。
どんどん悪化する。
羊の毛色も、文字通り目が覚めるような虹色だったり、蛍光塗料が塗られていたり。
くるくるくると回転しながら飛び越え、着地した時に拍手が鳴り響いてみたり。
「何で今日あんなこと言ったんだろうなあ」
などと、忘れかけていたことを蒸し返しながら飛び越えていくやつもいる。
羊飼いは顔色ひとつ変えずに、嫌がらせの様に、芸を仕込んだ羊どもを柵のこちら側に送り込んで来るのだった。
このところ、羊の主張が激しくなってきた。
時には、最初の一頭から凄いやつが来る。
羊のことなど考える間もなく、すとんと眠ることができれば良いのだけど。
疲れていないわけでは決してないのに、悩ましいことだ。
(何も考えずに、鳴いて草食って糞ひってれば、それでいいのに)
コチコチと目覚まし時計の音が耳に着く。薄目を開けると、もうじき夜明けだ。今夜も羊に玉砕か。
何も考えずに、淡々と仕事して飯食って寝ることができれば、苦労はしないのだ。
ごくごくたまに、神経が研ぎ澄まされて、眠れない日があります。