紅い音色に想いを乗せて 4
春陽たちは、資料室を出て、夜遅くに部屋へと戻った。障子が開く音だけが響く。
一歩部屋へ入ると、灯りもつけていないのに後ろの怪異が何かに反応した。それも、嬉しそうに。憑かれているせいか、感情がかすかに私の中に流れ込んでくるので分かった。
聞かなくても問題ないだろうけど、雑談から解決方法が見つかる可能性もある、そんなふうに樹希が言っていたことを思い出す。今この場に、あのお喋り男がいないので、代わりに自分が訊くしかないのだろう。怪異の感情が入ってくるだけでも疲れるというのに。
「どうしたの」
「――何か、この部屋にある気がして。私の一部が」
少しの間考え、先日拾った赤い紐の事を思い出す。何となく不思議な感じがして拾ってきた紐。落とし主もおそらく見つからないだろうけど、捨てる気にもならず机の上に放置していたものだ。
無言で部屋の電気をつけ、そわそわとして煩わしい怪異――皐月宗助に見せる。
「たぶん、これでしょ」
「それです! いつだかわかりませんが、紐が切り取られてしまって。この通り、手足がないので見送るしかなかった。ああ、見つかってよかった」
心底ほっとしたように紐を見つめる。怪異は思念で物を操れるが、直接自分で触れることはできない。脆弱な怪異であれば、物を操れても範囲はたかがしれている。
切れた赤い紐と部屋の隅に適当に転がしておいた鼓を見て、他人の死に際を夢に見た原因がなんとなく分かった。
明日はもう少し、情報を絞り込んで検索できる可能性が出てきたのだから、喜ばしいが寝覚めが悪いことだけは確かだ。
黙々と寝るための準備をしながら考える。
未練、強い想い。彼は化け物になるリスクを抱えてまで、どうしてこの世にとどまるのか。
「気になる事がある。あんた、どうしてここに残り続けてるの?」
「それは……会いたい人がいるからです。一目でいい、会って言葉を交わしたい。言葉を交わせなくたっていい、彼女が無事かどうか確かめたい」
「無事かどうか? 犯罪に巻き込まれている可能性でも?」
「――分かりませんが、彼女は怯えていたから」
「何に」
沈黙が場を支配した。記憶が戻りつつあるのだろうか。怪異との交流を今までしたことがなかったので、他人を心配する姿に少し戸惑いを感じた。
死に怯えた表情。自分の一部が見つかり、安堵する表情。世間話に華を咲かせる姿。他人を心配する姿。今も私の着替えを見まいと、後ろを向いている。幽霊のくせに。身体なんてもうどこにもないくせに。もう、この世に残っているのは『想い』だけのくせに。
どれをとっても、人間そのもののような気がした。でも、惑わされてはいけない。怪異はいつか人間性をすべて捨てて化け物になる。羨ましいなどとは思わないが、純粋な思いだけでこの世にとどまれるのは、ある意味で幸せなのかもしれない。
私はもう、何も考えず、何も追わずに、あの人だけに憧れて追い続けることはできないから。自分の師が、樹希が、仲間が、私の事を想ってくれていることを知っている。だから私は、自分の仲間を二度と怪異が傷つけないように、この世から排さなければならない。
そのために今、できることは――と考え、夢の中で見たことを精査していく。
河のせせらぎ、桜の花びらに街燈ひとつない深夜の逢瀬。河が近くにあり、桜の木が植わっている場所が殺害現場のはずだ。街燈もなく、人目を忍んだ逢瀬に向いている場所と言えば――桜の古木の怪異が発生した隅田川。そこで鼓を見つけたのだから、殺されたのはあの場所で間違いはないだろう。
殺害現場は分かったが、あの夢からは皐月宗助と名乗る怪異の身元が判明するような情報はなかった。こうなると分かっていれば、もっと注視したのに。
明日もこの煩わしい怪異と共に身元捜索をしなければならない事を考え、辟易した。
+++
死亡検索記事をあさり続けて早数日。
隅田川での死亡事故が多く、皐月宗助の身元を特定するには至っておらず、今日もひたすらパソコンに向かって記録をあさり続けていた。
「――それで、宗助さんは鼓を鳴らしてたのはどんな時だったんですか?」
「私が鼓を鳴らすときは、決まって月が丸い時です。無性に鳴らしたくなるんです。どうしてかは分からないですが、自分がここにいるっていうのを知らせないと、と思って。もちろん、誰に自分の存在を知らせているのかは分からないんですが」
日がな一日、座り続けているとだんだんとストレスが溜まってきていた。
いつもであれば走り込みをするか、訓練をするかで解消するが、日が経つごとに体がだるくなって来て動く気すら起きなくなっていった。そんな私の状況とは反比例するように、怪異である皐月宗助は日ごとに元気になっていく。当たり前だ。皐月宗助が私の生気を吸い取っているのだから。
「ちょっと……いつまでも喋ってないで手伝いなさいよ。いい加減にしないと、樹希はアフロにする。あんたは、喰う。刀がなくたって、憑りつかれてる今ならか、のう……?」
目を丸くして、樹希と幽霊がこちらを見ている。心底驚いた顔をして。あまりに微動だにしないので、私の背後に何かあるのかと思って振り返るが――なにもなかった。
「なに?」
「いや、今……あんたって言ったから驚いて」
「はあ?」
「いつも、私の事を『怪異』とか『皐月宗助』と物のように仰っていたので……」
「これだけ長く一緒にいれば、そういう呼び方もめんどくさくなるのよ。察して」
楽しそうに樹希と皐月宗助が目を合わせた。が、今の私にそれを気にしている余裕はなかった。体調が、すごく、ものすごく悪かったからだ。繰り返し繰り返し見る、彼の死に際の夢のせいで寝不足だったから。眩暈と頭痛が酷く、調査に集中できない。
「あの……憑りついている私が言うのはおかしいのかもしれませんが……春陽さん、体調は大丈夫ですか?」
「うるさい。とっとと終わらせたいから、話しかけないで」
「名前を呼ぶのまで許すなんて、ずいぶん仲良くなったなぁ。でも、もう少し仲良くしろよ」
「煩い、黙れ、無駄口叩くな、穀潰し共」
身体の不調を堪えながらさらに数時間ほど過ごしていると。資料室中に樹希の声が雷鳴のごとく轟き、椅子がひっくり返った音が響いた。
「見つけた!!! この写真、宗助さんでしょ!?」
「……はい。私です」
私たちは周囲に向かって無言で両手を合わせ、ひとしきり謝罪をすると再びモニターに向かった。
本人曰く、皐月宗助――彼の本名は『藍澤宗助』。24歳。職業は商家の番頭だった。
「――年12月17日未明、隅田川にて死体が発見された。死因は刺殺。何度も刺されていることから、怨恨の可能性を示唆している。死体の横には女性用の簪が落ちていたことから、何らかの関係があるかと思われたが隅田川は道ならぬ恋人達の密会スポットでもあったため、関連性は不明。
時間も遅かったため、藍澤宗助も誰かと密会をするために待っている時に刺されたものと推測される。刺された位置からして、被害者と同等の身長を有している男性と思われる。また恋人は商家の娘の可能性があるが、目撃者もなく本案件は不明点が多すぎるために捜査終了……」
「怪異歴10年……その割には……」
後ろで申し訳なさそうにしている怪異――藍澤宗助に向かって言い放つ。それを聞いていた樹希が、こともなげに言い差した。
「それだけ『自分』が残ってたって事だろ。それはそれで珍しいが。しっかし、この事件ずいぶん中途半端な所で捜査が終わってるな」
「所詮ここも国に飼われてる組織。藤家って言ったら、国御用達の豪商だし、圧力でしょ。それよりも、藤皐月のところにリンクが貼ってある」
リンク先をクリックすると、次の報告書とある事件の記事が現れた。
12月19日、藤皐月が自宅にて服毒し死亡。
同日、藤皐月の部屋にて松木忠雄が服毒し死亡。
遺書の内容から心中と見られる。
酷く短い文章で事件の終りが綴られていた。それを見た皐月宗助――もとい、藍澤宗助がぽつりと寂しそうに呟いた。
「鼓の音は、彼女と待ち合わせの合図だったんです。どうして、皐月さんが死ななければならないのか」
ポタポタと開かれた目からは涙が流れ出ていた。まるで人のように。心を引き裂かれるような得難い感覚が、胸中に広がる。
もう、愛しい人の笑顔を見ることができないことが悲しい。
もう、愛しい人をこの腕に抱くことができないことが悲しい。
もう、愛しい人の声を聴くことができないことが悲しい。
苦しくて、辛くて、今にも叫びだしたい。
春陽には関係ない。
そう一生懸命、自分に言い聞かせるが同化が思ったよりも進んでいるらしく、私が大事な人を喪ったかのような錯覚に陥りそうになる。何とかそれを堪えようとするが、感情の奔流は押しとどめることはできず、強い感情に呑まれてしまう。
「ダメだ。――宗助さん。辛いだろうけど、感情を抑えてください。春陽が呑まれてる」
私の目から涙が零れ落ちる。あまりの悲しさに、今すぐ死んでしまいたくなる。
すぐにでも、あの人のそばに――藤皐月の傍にいきたい。
隅田川のあの思い出の地へ。
「宗助さん、落ち着いて。それ以上はダメだ」
「でも……分かりそうなんです」
「……樹、希っ。いい――あんた何か、思い当たることがあるんだろ。何でもいい、話してみろ」
「はい。隅田川で、彼女の気配がしたんです。私が鼓を鳴らす夜は必ず。私たちは会うことはできなかったけど、傍にいた。すごく近くに……」
「――それだ。私とあんたの波長が完全に合ったのは、そのせいだ」
「は?」
「あの日、隅田川に向かう時には鼓の音なんて聞こえてなかった。でも、帰りには聞こえてた。それが桜の花びらに纏わりつかれたことで完全に一致した。 それが藤皐月が起こしていた怪異だったとしたら」
「……でも、春陽……藤皐月はもうこの世にはいないんじゃ? お前、喰っただろ?」
「私が喰い殺した中には、女はいなかった。それだけは覚えてるから、恐らく別の奴だ。そいつが桜の花びらなんて操ってなかったとしたら? 同じ場所に、怪異が2つ憑りついてたんだよ。今回は珍しいことだらけだが、どれもないことじゃないし。
この記事にある、松木忠雄が藤皐月に執着していたとしたら?」
「そういえば、怯えてたって言ってたな。となると、この男《松木忠雄》は彼女を追って――同じ場所に憑くかもな」
「私があの場で喰ったのはどれも女じゃなかった。多数あったけど、それだけは確か。藍澤宗助の恋人《藤皐月》は、まだあそこにいる」
手早く身支度を整え、資料室を出ようとすると背後から慌てたような声が聞こえる。
足音がしたと思ったら、目の前に回り込まれてしまった。
「どこに行くつもりだ?」
「どこって決まってるだろ」
「ダメだ。そんなひどい顔色で――俺が見てくるから、報告して休んでろ」
「いや、ダメだ。今すぐ行く。早く行くの。これ以上待ってられない」
――逢いたい。逢いたい。逢いたい。早く、愛しい人に逢いたい。
ずっと近くにいたのに逢えなかった。一目でいいから、今すぐにでも顔を見たい。
再び、心の中に溢れ出てくる想い。いてもたってもいられない。
約束の場所へ早く向かわないと、一刻でも早く――
「やめろ! これ以上、頭の中に入って来るな。この体は、私のものだ」
「――え?」
「あんただよ。藍澤宗助。大人しくしてろ」
「あ……申し訳……ありません」
「まだ隅田川の古木にはいかない。あの場所には、死んだ人間も生きた人間も含めて、強い想いがたくさん残ってる」
それだけで樹希には私が言いたいことは伝わったようだ。
二人で目だけで会話をすると、樹希が廊下を駆けていき、藍澤宗助だけが状況が飲み込めず、慌てふためいていた。
「今説明する。頼むから落ち着いて。同化が進み過ぎてて、あんたの考えてることで支配される」
「申し訳ありません……彼女の事を想うとつい」
「分かってる。私にだって会いたいと思う人はいる」
「はい……」
眩暈と頭痛を抑えながら、気を抜いたら倒れそうなほど重い体を引きずって局長の部屋へと向かった。