第三章 ② ―現状でのアルファオメガ―
「アルファオメガ?」
聞き覚えの無い言葉。狼男の表情というのは、なかなか判別がつかない。獣の瞳と長い耳、毛むくじゃらの顔。その細い長い顔が、長い牙を見え隠れさせながらもごもごと動く。
「その様子、お前は知らないようだ」
「俺は何も知らないよ」
じっと真偽を確かめる狼男の眼差しを受ける渡織。ぼんやりと見返すその瞳も、相手の様子を窺うように瞬き一つしない。無言がきっかけになったように、狼男が口を開く。
「俺は覇照様に、アルファオメガについてお前に教えろと言付かっている。今の俺にお前を襲撃する気はない。どうせ、いずれは命を奪い合うのだ。お前にとって、不都合は全くといっていいほどないはずだ。……俺としては不本意だが、耳を傾けてもらおうか」
言葉を返さない渡織の反応を見て、言葉を続けることを了承したものだと判断した狼男は言葉を続けた。
「まずは、アルファオメガとは何かを教えてやろう。今、お前が手にした力こそアルファオメガというものだ。大体のことは自分なりに解釈しているかもしれないが、いわゆる超能力というやつだ。念じ願ったことがあれば、アルファオメガの力が働き、その祈りを叶える。事実、お前も力を使用して自分を守るための壁を作り出した」
狼男の言う通り、慧の命が奪われた後に突然力が生まれた。どうしてだか分からないが、あの瞬間自分は力を使えるのだと判断した。それが、アルファオメガと呼ぶとは知らなかったが、この力は確かに超能力の類のものだ。
「そもそも、この力……アルファオメガとはなんだ。どうして、俺や覇照はこんな力を持っている?」
「この力は多くの死が必要となる。具体的な数は覇照様も分からないようだが、とにかく多くの生命の死が必須だ。しかし、それだけでは、完成はしない。条件は二つ、最も心の中で近いと感じている人間が死ぬこと、そして、強烈な殺意が条件になる。……世界を滅ぼすような殺意がな」
渡織は自分が力に目覚めた理由に気づきつつあった。
多くの生命の死というのは、この学校の生徒。
近いと感じる人間の死は町屋慧。
その時に生まれた覇照への憎しみが、世界を滅ぼそうと思った殺意。
突拍子もない話だが、散らばるピースを集めれば、一つのパズルが完成していく。
「その条件が揃ったから、俺がこの超能力……アルファオメガを手に入れたというわけか。……覇照のやりたかったことが、少しずつ見えてきたな」
頬にぬるい汗を垂らして、渡織は腕組んで狼男を見る。
「覇照が、学校を滅亡の最初に選んだ理由は、ただここを足がかりにすることだけが理由じゃない。俺という最も近いと思った相手を殺すことで、そのアルファオメガの力をさらに高めようとしたんじゃないか?」
狼男は渡織の言葉に、ただただ目を閉じて鼻を鳴らした。
「俺は覇照様に従うだけだ。そこまでの把握はできない。……話を続けさせてもらう。このアルファオメガにも個性というものが存在する。体を頑丈にして目に見えない力で筋力を高める。そうした手に入れた人間の基本性能を上げることはもちろんだが、アルファオメガにも種類がある。覇照様の力は〈想像使役〉というものだ。自分の思い描いた存在、俺や鹿男達のようなものを創り操ることが可能だ。力を使用していく内に、覇照様ご自身が気づいたそうだ」
説明口調で狼男は、覇照の情報を口にしていく。渡織からしてみれば、足場もなにもないはずの高い山を登る前に、突然現れた存在によって道順まで書かれた階段を目の前で作ってもらっている気分だ。
「……いいのか、俺にそんなことまで言って?」
若干、挑発気味に狼男に声をかける渡織。
狼男はそんな渡織の顔を見て、見下すように笑う。
「だから、どうしたというのだ? アルファオメガの基本能力しか持たないお前が、覇照様の立つ場所に辿り着くのは至難の業。お前の目指すべき場所は、ただ一つだ。――覇照様は、この学校の屋上で待つ」
渡織は、その言葉のままに窓の外に屋上に目を向ける。ここから見れば、グレーのフェンスがただ続いているだけで、覇照の姿なんで分からない。しかし、渡織にははっきりと自覚できる。
(覇照は、必ず屋上にいる。奴は、そういう女だ)
入り口のところにいたはずの狼男はいつの間にか姿を消していた。
アルファオメガの力だろうか、今はもう体の痛みもあまり感じない。体力的にも回復しているのだと認識できる。
「行こう」
覇照がどうしてアルファオメガなんて力を知っているのか、どうすれば、この力の本来の性能を引き出せるのか、どれだけ考えても答えは出ない。だからこそ、渡織はただ目指すことを決意する。
「俺には、何も分からない。ただ、今の会話で一つだけ分かる……俺はお前が憎いよ、覇照」
気づかない内に守ろうとしていた慧を死なせてしまった。その結果が、今の自分の姿なら、間違いなく町屋慧を大切にしようとしていた自分は本物なのだろう。それだけは確かなのだと、自分を信じるようにただ歩き出す。
滅亡を知りたくて、滅亡を望んで、滅亡を恐れて――。そんな全てが間違いだらけの中、ただ前に進むことを決めた。
※
無防備に廊下に出れば、今の自分の立ち位置を考える。
玄関口に近い事務室は階段への道も近い。慧と一緒に脱出しようとしていた下駄箱もすぐ近くにあるので、反対にそこから上階を目指せば大丈夫だ。ただ、そこから屋上に行くためには、一度二階に到着した後に屋上へ昇るために用意された別の階段へと向かわなければいけない。単純に一直線で到着、というわけにはいかないのが大きな問題ではあった。
「まあいい、鹿男に殺されるようなら、どうせ覇照にも勝てないさ」
廊下を歩き出す。
感覚的に力の使用方法は分かる。しかし、教室から逃げ出す際にかなり体に負担がかかった。つまり、アルファオメガも万能ではない。これは、渡織にとってもかなり痛い事実だが、覇照も完璧ではないという証明でもある。
勝機はある。奴と自分は、かなり近い存在だ。ただ、力の使い方だけ見れば奴の方が上なのだ。
しっかりした力で歩いていけば、階段の前にさっそく五匹の鹿男達が立つ。横一列に並んだその姿は、それこそ一種の置物のようで滑稽だ。
先程までは絶対に勝機などなかった存在。しかし、今は目の前に立つ障害に過ぎない。いや、ただの壁だ。そう強く念じる。
(この力の原動力は、想像や願い。”死にたくない”という願望に応えたアルファオメガなら、その逆も不可能ではないはずだ。俺はやれる、奴らを圧倒することができる。今の俺なら、奴らを葬ることも容易い。そうだ、俺はただ奴らを土に返すだけだ――!)
真っ向から近づいてくる渡織に気づき、鹿男達は同時に口を開けた。
「「「「「しかせんべい」」」」」」
――バリバリバリッ。
「ぐぅ――!」
反射的にアルファオメガの力を使用することで、渡織の目は青く輝き出した。
しかせんべいの衝撃を受け、周囲に張り巡らされた壁が揺れ割れる。そこで足を止めない、次のしかせんべいの攻撃来るまでに、全力で駆け出す。
「俺は風だ」
小さく渡織が呟けば、人が瞬きをするよりも早いスピードで鹿男達の前に到達する。渡織がたどり着けば、その目は未だに後方の渡織が立っていた場所を見つめていた。
渡織の中に恐怖はなく、どうして自分がこんな存在に怯えていたのかと悔しく思えた。
「俺は熊だ」
イメージするのは触れるだけで切れてしまうような大きな爪。さらには、渡織の何倍も大きく逞しい腕。
不安定だった力が形になり、今の自分の腕が実体を持たない凶器だと認識する。前のめりに腕を振りきる。周囲の空間が歪んでしまうほどの、拳の刃。
――グシャグシャグシャグシャグシャ。
機械に肉片が巻き込まれたような鈍い音が響く。鹿の形を忘れてしまったような、鹿男の頭が天井に大きく跳ね上がり、ぶつかれば、強く打ちつけた衝撃で天井に頭一つ分の染みを五つ作る。
棒立ちだった鹿男達が、その体を斜めに倒れこむ。扇のように倒れこんだ鹿男の体の上を踏み乗り越える。
「一階はクリアだな」
慧と必死に通り抜けた階段を上っていく。あの時とは気持ちが違う。
力や目的が違うのもそうだが、空っぽの気持ちに生まれた何かがあった。それを知りたくて、それを求めて、渡織は二階の階段の前に立っていた鹿男へ飛び掛った。