第二章 ② ー再会②ー
覇照は愉快そうにその髪を掻き上げる。少しだけ野暮ったく感じる髪は、一年前のあの日よりも伸びているように思えた。
「あれから、私は滅亡するための力を手に入れた。そして、夢物語だった滅亡を実現しつつある。なあ、あの公園の問答から……。あれから、どれくらい経ったのかな?」
覇照の問いに鼻で笑う。
「さあね」
渡織の隣にいる慧は、覇照と渡織という存在に対して恐怖を感じていた。
この鹿男を連れて歩く同年代の覇照への底の知れなさもそうだが、渡織もこの状況で笑っている。血生臭くて、心臓に刃でも突きたてられているような絶望感の中で口に笑みが浮かんでいる。
ゾッとする気持ちになりながらも、慧はそんな常人離れした渡織という存在に助けられたことに安堵するような気持ちにもなる。複雑な気持ちの中、二人の雰囲気に飛び込む勇気もなく、緊張感のある会話に耳を向けることに慧は集中する。
「へえ、思った以上に君は腰が据わっているようだ。私が今、突きつけているのは一丁の拳銃なんかよりも殺傷能力の秀でた兵器だ。そんなものが、君の喉に心臓に触れようとしている。他者の破滅を望むならまだしも、己の破滅は怖いと思わないのか」
渡織は体に付着した汚れを払い落としながら、覇照を睨みつけた。
「自己の崩壊? それすらも通過点だ。そういうことを考えている時点で、お前の破滅は三流なんだよ」
その一言に覇照は、驚いたように瞬きを二度三度繰り返す。そして、薄く笑う。
「言うねえ。破滅させる力も持たない君が、そんなことを言うのか。私からしてみれば、君は私のお陰で舞台に上がることができている大根役者さ。ところで、私が何でこんなところに君を呼んだのか知っているかい?」
「お前のペットを見せたいわけじゃないんだよな」
渡織は、周囲をぐるりと見渡せば、ピクリとも動かない鹿男達の顔を見る。
全員直立不動で、何十という剥製に見られているようで君が悪い。
クックックッ、とかみ殺したような笑い方をする覇照。
「実を言うなら、自慢をしたいという気持ちは全くないわけじゃない。だが、本当の目的はそこじゃないんだ。……なあ、渡織。そんなところで何をしているんだ?」
「なに……」
残念そうに覇照が言えば、言っている言葉の意味が理解できない渡織はその顔を曇らせた。
「私の予定では、君が私を止めに来るはずだったんだ。この学園を破滅へ導く私へと、本当の破滅に気づいた渡織が立ちはだかる。これほどまでに、盛り上がるクライマックスはない。見せてくれよ、君はこの学校で唯一”シグマ”を殺した人間なんだから。……ああ、すまないね。シグマていうのは、あの鹿男君達のことさ」
シグマ、そう呼ばれた先頭の鹿男達が一斉に頭を下げた。それを満足そうに覇照が見れば、視線を渡織に戻した。
「悪いな、ご期待に沿うことができなくて。趣味の悪い鹿男達から逃げるので、精一杯だったよ」
「君は同族ではあるが、交わることはない人物だ。破滅を背負う私に、破滅を抱く君との戦い。それが、私にとってこの学園のシメというやつだったんだが。……それは、なんだ?」
覇照は獣すら怯えさせるような殺意と共に、慧を見下す。
慧は小さく「ひぃ」と悲鳴を上げれば、小さな体をさらに小さくさせて、その体を震え上がらせた。まるで、小動物が大きな動物に怯えて穴の中に隠れているようだと覇照は思った。
「わ、わたし……?」
眼中にすらない、いや、人間とすら認識されていないのではないかと思っていた慧は、この状況に混乱していた。
「コイツが、お前に何かしたか」
渡織は、自然な動作で慧の前に立つ。その行為は、慧を守っているようにも見える。事実、慧は渡織の背中を見て張り裂けそうなぐらいドキドキしていた鼓動が落ち着いていくようだった。同じく、鼓動が静まっていく人物がもう一人いるが、それは慧とは真逆の意味を持っていた。
「それだよ、それ。そのオマケは、渡織にどういう役目があるんだ?」
よほど、渡織が慧を庇うように立った姿を見たくなかったのか、嫌面で言う覇照。
「お前には、関係のないことだ」
「それはないだろう? 死なないのは、私が君を守っているからだ。君は世界の破壊者に守護される、愚かな人間なんだよ。簡単に潰されてしまう命が、私の気まぐれによって生かされていることを忘れないでほしいな」
教えてくれ、と覇照の目が渡織を催促する。しかし、渡織には慧という人物のことを説明するようなことはできない。
「……」
勇吹は悔しげに無言のままで視線を逸らした。
覇照は呆れたようにその顔を見て、「あらら」と小馬鹿にするように言えば、狼男の肩から軽やかに降りた。
トン、と軽い着地音が教室に響く。まるで、死が降りてきたような恐怖を超越した何か。
覇照は渡織に歩み寄れば、渡織の髪の毛を掴めば、自分の顔へと引き寄せた。
「まさか、君も凡人だったのか。そんな人間を生かしてまで、私はここで待っていたのか? 違うよな、私は違うはずだ。ここから、生きて帰りたいだろう。それなら、邪魔者を排除してあげよう。君もうんざりしていたはずだ、その金魚のフンに」
渡織に顔を近づけて覇照は言うが、そのぎょろりとした目は背後の慧を射抜く。息が止まりそうになるほどの眼光を受けて、慧は全身から自分が汗を吹き出しているのを感じる。
「ああ、うんざりだよ」
慧は渡織の一言に両目に涙を溜める。泣きそうな気持ちで、渡織の発する言葉が築いた心を崩壊していく。まだ、渡織何かを言おうとしている。
ここで、自分は死んでしまうのだろうか。ああ、私にしては長生きした方かもしんない――。そう他人事のように慧が思った瞬間。
「――お前みたいな奴にはな」
渡織は顔を寄せた覇照の首に手を伸ばせば、その体をぐるりと反転させて、自分の胸元に引き寄せた。その覇照の首元には、いつの間にかガラス片が突きつけられていた。
渡織は、覇照を人質にしたのだ。
「覇照様!」
狼男が慌てた様子で、一歩前に進む。
「やめろ。これ以上近づけば、この女を殺す」
覇照の笑顔が崩れることはない、相変わらず余裕のある表情でそこにいる。
既にポケットから出していたガラス片を、その喉元に触れさせる。覇照の首元に赤い滴が流れ落ちる。
「いい方法だ。手足を切っても、それは致命傷になることはない。数も質が敵が上ならなおさらだ。しかし、首というのは心臓を突くよりも簡単に、命を仕留めることができる死に近い部分だ。だが一つ言わせてくれ、君の頭を見つめただけで殺すことのできる鹿男君がいるんだぞ。私が命令を出せば無駄死にだぞ」
「これぐらい動脈が近いなら、反射で動脈を突き刺すぐらいのことはできるぞ」
渡織は、呼吸が荒れることもなく、鹿男達と狼男に警戒心を向ける。
「賞賛しよう。鹿男君達、拍手を」
パチパチパチ、と乾いた音が無数の音が響く。ここが教室なので、これではまるで作文の発表でもしたような陳腐な見世物だ。
圧倒的にこの状況に足りないのは、追い込まれている側の緊張感だ。しかし、どういうことだ。
(なんだ、この雰囲気は。……俺の方が怯えている。優位な立場は、俺の方のはずだ)
まるで見透かされてかのように、覇照は低い声を出す。
「どうした、渡織には何かしたいことがあるのだろう。私をすぐに殺さない理由を聞かせてくれよ」
オシエテクレ、オシエテホシイ。
渡織は、気づく。覇照は何か物語を求めている。絵本を手に入れた子供のように、純粋に、そこには善悪も優劣もなく。ただ、欲望に忠実な獣がいる。
「ケダモノのような奴だな。……コイツら、どうやって止められる? 弱点は?」
「ああ、そんなこと。なんかその質問、渡織っぽいよね」
「無駄話をするつもりはない」
これ以上ガラス片を押せば、確実に覇照の命を奪うことに気づいた渡織は、その刃をぐっと押し込む代わりに、覇照を抱えていた腕を首を絞めるように力を入れた。
覇照はまるで子供と遊ぶかのように、両手で渡織の首元の腕をパンパンと叩く。ギブアップという意味の仕草だが、その顔には諦めた様子もなく、この状況すら楽しんでいるようだ。
「苦しい苦しいよ。これは、教えるしかないなぁ……。あのね、鹿男の弱点は基本的には頭。肉体は成人男性そのままだから、単純に鈍器で殴ったりしただけでも致命傷になるのさ。足は折れるし、腕ももげる。だが頭がある限り、人を破裂させる力を発揮することも可能なのさ。ただ、あの攻撃方法は、渡織の気づいているように、目で見たものを殺すことができる。しかし、あまりに距離があると精度がずれる場合がある。彼らにも鹿程度の知能があるから、”しかせんべい”の力を使用するために、ある程度の集中力を必要とするのだよ。……以上」
「まだだ、俺はどうやって止められるか、とも聞いたはずだ」
「あぁ、それは奴らを火炎放射器で焼き尽くすよりも、ナパーム弾を学校に落とすよりも簡単さ。――私を殺せば、コイツらはみんな消える」
それが、どうした。そう言いたげに覇照が告げる。
渡織は、目を細めてその顔を見つめた。薄暗い沼のような瞳、人でありながら違うものを見つめることしかできなかった異常なその二つの目。その暗闇の奥に、渡織は自分の姿が見えた。
覇照の目が――その奥の自分が告げた――殺れ。
「――それなら、死ね」
低く囁くように言えば、渡織はガラス片を覇照の喉元に突き刺した――。