第一章 ③ 階段から出口へ
走り出した二人を待っていたのは、階段下の踊り場に立つ鹿男。とっさに階段の手すりの影に体を隠して、その様子を確認する。
今見えるのは、ただ一匹だけの鹿男だが、おそらく周囲にも仲間がいるはずだ。一人を不意打ちでどうにかできてもかなり厳しいところだろう。
階段を降りて、五メートルもすれば下駄箱が見えてくるのだが、その前の踊り場はトマトでも叩きつけられたかのように血だまりを作っていた。
隠れる場所もなければ、都合良く身を隠して進む場所もない。どこへ出ても奴らと遭遇し、引き返す方法をとることもできない。あの悲鳴を上げた女子生徒がどこまで耐えられたのか分からないが、奴らも始末をした後には戻って来るはずだ。
「ど、どうしよう、相高くん」
袖を引く慧を見る渡織の目はうっとうしいと言っているようなものだ。その内なる感情に気づかない慧は、なおも心配そうに顔を覗きこんでいる。
思いきって囮として使おうとも思ったが、つい先程「生還させる」と告げたのだ。どういう気持ちの自分であっても、それを否定するのは己を殺すと同義だ。なにより、慧が出ていっても例の”しかせんべい”攻撃で終わりだ。役立つ囮にはならないだろう。
「触れずに殺せて見るだけで必殺、か……」
ふとあることを思いつく渡織。
裾を握る慧に耳を寄せて語りかける。
「手鏡を持っていないか?」
「え、手鏡?」
女の身だしなみというやつなのか、スカートのポケットの中からは手の平からは少しはみ出す大きさの四角形の手鏡が出てくる。そこには、昔流行したアニメキャラクターのシールが貼ってあり、どうしてこの女は自ら失敗する道を選ぶのだろうか、と再び頭が痛くなる。
「奴らは自分の目を使って人間を見ることで、人を殺すことができる」
「え……そうなの?」
(気づいていなかったのか……コイツ……)
既に把握済みだと思って、会話を進めていたが、まさかこの返事は本当に予想外だった。とりあえず、その質問はスルーをして、そのままスムーズに予定していた言葉を続ける。
「……だから、それを利用させてもらうのさ。奴が見たものを、殺すことができるのなら、そいつが自分を見た場合は逆に自分が死ぬんじゃないか」
「じゃあ、鏡を向けながら逃げれば……」
「いや、まず通用するかも分からない。それに、これで反射できたとしても、精々一匹が限界だ。同時に複数の奴らから狙われたら、それで終わりだ。かなりギャンブル性の高い方法になる。これは、可能性にかけた奥の手だ。ただでさえ、賭け事だというのに、そこからさらに可能性を加えるようなら、それは博打以下だ」
黙って渡織の話を聞いていた慧が、ぎゅっとスカートの裾を握る。そして、意を決したように、渡織が手に持っていた自分の手鏡を強引に奪い取る。解決案を探して悩んでいた渡織は、慧の急な行動に対応できずに僅かに遅れて慧を見た。
「おい……」
大きな声を出すのは、かなり危険なので、小さな声ながら強い口調で慧に話しかける。
慧は震える両手で、自分の手鏡を抱えてみせる。
「こ、こ、これ……私が試してみるよ。ずっと、相高くんに迷惑をかけてばかりじゃいられないよ」
顔は半泣きで頬を赤くして慧が告げる。
渡織は、予想できない事態に焦りを覚える。これがまだ多少動いても良い状況なら、簡単に取り返すことも可能だが、今は下手な動きもできない。
「ま――」
立ち上がる気配を感じて、渡織はとっさに手を伸ばすが、それは何も掴むことはできない。慧は眼下の階段を駆け下りていくところだった。
「こんな私を助けてくれて、ありがとう」
涙混じりの感謝の声と足音。おそらく、顔を出してしまえば、自分も巻き込まれてしまう。無意識に伸ばした手を引けば、階段の影に身を隠す渡織。
前方から現れた鹿男が、一階に最初の一歩を踏み出した慧を見る。そして、呪いとも呼べる例の言葉を口にしようとする。
「しかせ――」
しかせんべいが声を上げる前に、慧が手鏡を前に構えた。
「当たってっ」
祈りとも呼べる声で慧が言えば、閉じられていた鏡を開けば、最後の一文字を言う前に爆弾でも炸裂するような音で鹿男の頭が弾け飛んだ。その血飛沫は顔を覗かせていた渡織からも理解できた。
(実証された。奴は目だけで、攻撃していたのか! 後は逃げるだけだ、早くどこかに身を隠せ!)
渡織の願いとは裏腹に目の前の慧は力が抜けたのか、その場にへなへなと座り込んだ。
「へへへ……とーりくん、私偉いかな?」
急に渡織と呼ぶ慧。この極限的な状況で名前を呼ぶことが、どういう意味なのか何故こんな状況でそんなことを言うのか渡織には理解できない。しかし、みっともなく血と涙で濡れた顔で笑うその顔を見て、渡織は胸の内から今まで感じたことのない気持ちを感じていた。
慧は自分が足手まといであることも、ここで死ぬ覚悟をしていたことにも渡織は気づいた。それでも、正義感などではなく、自分の視界に映った醜いものをこれ以上見たくないと渡織は思った。それが、どういうものであれ、彼はここで初めて慧を”守ろう”と思ったのだ。
頭をフルに回転させて、慧の周囲の光景を脳裏に焼き付ける。
間もなくして、タンタンと音が響くのが分かる。他の奴が、慧に近づいてきている。あの足音は死を呼ぶ音、ただ仲間が死んでいる状況に気づいていないだけで、この場の光景を理解すればすぐさま慧を殺すだろう。
「くそがっ」
吐き捨てるように声を上げれば、渡織は地面を蹴り、階下で力なく尻を床につける慧に向かって駆け出した。
「き、きちゃダメ……!」
「だったら、その足で早く逃げろっ。お前を生かすといった、俺の滅亡に泥を塗る気かっ」
慧を抱きかかえるように、地面を転がる。
廊下から来る鹿男なら、もしかすれば見つからずに済むかもしれない。しかし、前方から現れる奴がいるならば、きっと二人まとめて粉々にされる。
転がり体を起こせば、思っていた通り目の前に下駄箱が並ぶ。今のここでは靴や上履きなどといったものは意味がない、ここでの下駄箱の意味は脱出するための出口だ。
ありがたいことに、校門まで見えて来る。今までこの玄関がこれほどまでに安心感を与えたことはないだろう。渡織でさえも、とりあえず外に出てから空気を吸いたいとさえ思っていた。
抱きしめた慧は、「うわぁ」と嬉しそうな声を上げているのが分かる。まだ外にも出ていないのに、新鮮な風が流れてきているようだった。
「足に力が入るな、幸いにもここには誰もいない。奴らが死体を見て騒ぎ出す前に逃げるぞ」
「うん」
素直に頷く慧の声を耳に、いつの間にか握った手でそこから走り出す。渡織が引っ張るような形で、その後を続くように慧が走る。
はあはあ、と息を切らしながら出て行けば、中庭が見えて来た。その庭を越えれば駐車場が見えてくるはずだ。
幸い、学校の外には敵の姿は見当たらない。相変わらず、中庭の中央には少年少女が両手を上げている銅像が一体、それを囲むように花壇。そして、その花壇を外側からぐるりと囲む形の道を通れば、後は校門が待つだけだ。
「ねえ、渡織くん」
いつの間にか、ナチュラルに名前で呼んでくる慧に渡織は気づくが、それに対してはもう何も言わないし反応はしない。
「こんな時に、なんだ」
「私を守ってくれて、ありがとう」
心の底からの感謝の言葉に、渡織は顔を横に向ける。これが日常の世界なら、その反応に不満を持つ人が多くいただろう。しかし、命懸けで自分を守ろうとしている渡織の姿に慧は不思議と不快な気持ちにはならなかった。
つり橋効果というやつかもしれない、と慧は思う。気が付けば、慧は自然と渡織のことを愛おしいと感じていた。つり橋はたった数十分の出来事だが、過去に彼から与えてもらったものが、この状況で好意と呼ばれる一つの形になっていた。
彼のことが好きなのだと慧は思う。本人でさえも不思議な、物騒なことを口にしながら、何故か自分を助けている彼に。
「……くだらん」
それだけ言えば、渡織は周囲の様子を調査しようと玄関から僅かに顔を出す。
――ブロロロロ。そんな音を立てて、中庭を半円描きながらこちらへ乗用車が向かってくるのに気づいた渡織は、慧の手を引いて慌てて後退する。
(一体、誰だ。こんな危険な状況で……!)
白い乗用車が目の前で急停止すれば、運転席の扉が開かれた。
「君達! 大丈夫かい!? 早く、車に乗るんだ!」
痩せたにんじんのような形の顔に、右耳の下の大きなホクロ。見覚えのある化学の教師である、伊藤正治という名前の先生だ。
「先生っ」
慧は生きている人の顔、さらには車という安全で快適なはずの存在に目に涙を溜めて顔をほころばせる。
反対に、渡織は彼を舌打ちで迎えた。
「急げ、早く乗り込むぞ!」
これだけ大騒ぎをして、車がやってきたんだ。奴らも馬鹿じゃない、このままここにいれば、慧も渡織も巻き添えになることを理解していた。
よほど能天気なのか、伊藤は自分のことを救世主かそれに等しいものと思っているようで、満足そうに何度もうんうんと頷いてみせた。
「いやぁ、君達が生きててくれてよかったよ! このまま、僕の車で警察署まで行くから。そこで保護してもらおう! さあ、大急ぎで行くから急いで――」
「――先生、早く」
慧の手を強引に引き、大急ぎ後部座席に乗り込んでいた渡織は急かすように言う。話を聞く分には構わないが、それでも、もう少し焦りというものを持ってほしいと渡織は思う。自分に運転の技術があるなら、この男を殺してでも車に乗り込むことを想像してしまうほどに。
「あ、あぁ」
アクセルを踏み込めば、タイヤは大きな回転を生み、乗用車は門へと向かう。
あれだけ遠くに感じていた門がぐんぐんと近づいてくる。校舎を見れば、先程の鹿男達がゾロゾロと校舎から出て追いかけてくる。
「おい、頭を下げろ!」
慧の頭を強引に掴めば、そのまま後部座席の足元へと押し付ける。掴んだ本人である渡織も、同じように体勢をひたすらに低くする。
奴らが、視認しただけで人を殺すことができるのは慧も知っている。そのため、特に不満を言うこともなく、慧も大人しく座席の下に顔がついてしまいそうになるほどに体勢を低くして身を隠し続けた。
(もしかしたら、敵は前にもいるのか……!?)
ふとそんな考えたが頭を過ぎり、顔を上げてから渡織は目を剥いた。
既に伊藤の頭はなく、それが何かの花の一種ではないかと思うほどに天井に大量の鮮血を付着させていた。その先には、おそらく彼を殺害したであろう鹿男がいる。そして、奴はあの言葉を口にする――。
し、か、せ――。
「顔を上げるな、絶対にだ!」
慧が小さくコクリと頷けば、渡織はその手を伸ばして、既に死体となった伊藤の足を掴んで、アクセルのある位置へと持って行く。そのまま、伊藤の足を使い押し込む形でスピードを上げた。そのまま、乗用車は鹿男へと突進していく。
――ゴボォ! 鈍い音を立てて、鹿男が突き飛ばされて跳ね上がり、もう一度大きな音を立てて車は鹿男を乗り上げた。あれだけ大きな頭が弱点になったはずだ。
おそらく、潰されたか首が折れたであろう鹿男の頭を確認することもなく、ブレーキを踏むこともできないまま速度を上げた乗用車は校門へと突っ込んだ。
エアバックが飛び出す音を耳に、車内全体を揺れる激しい振動の中、天井に強く頭をぶつけた渡織はそのまま意識を失っていった――。