三題小説第二十五弾『海』『隙間』『寝坊』タイトル「七海の目覚め」
夏休みが終わって一週間。今年最大の暑さを迎えた次の日の事だ。
信二は隣家の呼び出し鈴を使う事なく玄関扉を開き、朝の挨拶をして家に上がる。いつもの匂い、いつもの軋み。
これは信二の日課であると同時に、ある種の呪いだ。だけど信二にとっては喜び以外の何物でもない。
七海という女は信二の幼馴染で、片思いの相手で、隣の家に住んでいる。隣に住む幼馴染と言っても家がかなり離れているので屋根伝いに部屋に侵入する事は出来ないが、代わりに玄関からお邪魔して七海の部屋に入る事は造作もない。なぜならご両親に許可をもらっているからだ。
そして信二はいつものように七海を叩き起こす。長い年を経て手順化した作業を実行する。
カビ臭い部屋は敷布団も掛け布団も箱から出したばかりのジグソーパズルのようにとっちらかっている。
踊る人形のSのごときポーズで七海は眠っていた。仁王立ちする信二の前で無警戒で無防備な下着姿で七海は眠りこけている。第二次性徴を仄めかす肢体から信二は目を逸らす。いつものように目を逸らす。
信二は学生鞄を部屋の端に置き、窓を開いてカビ臭い空気を追い出した。代わりにむしむしした潮風を呼び込む。潮風は部屋の中でくるりとステップを踏むと入口から出て行った。
「七海起きろ。朝だぞ」
まずは普通に声をかける。これで起きた試しはないが、試しもしないのは失礼だろうと念のために声をかける。そしてやはり起きない。期待してもいなかったが。
次に華奢な肩を握って体を揺すってやる。たまにこれで起きる。前日に早めに就寝していてくれたならば、これくらいの事でも七海は起きられる。しかし今日は駄目だった。
信二は隣に膝をついて座り、亀のように体を丸めて七海の顔に口を近づける。無垢で無邪気な表情が間近に迫り、信二の鼓動が高鳴る。
次は耳元で叫ぶように起こす。
「七海! 起きろ! 朝だ!」
これでほぼ確実に起きる。これで起こせなかった事はほとんどない。確か昔に祭か何かで悪い大人に酒を飲まされた時はこれでも起きなかった事があったが、昨晩にそのような事は無いので、今回はこれで起きる、はずだった。
いつもなら文句を言ってくる。まだ寝ていたいとか、男が勝手に女の部屋に入るだなんて、とか。
しかし七海は相変わらず何事かをむぐむぐと言いながら、寝相を変えただけだった。今度はLのポーズだ。くるりと回転し、右手で信二の足を打った。
これだけして起きなかった前回はどうしただろうか、と信二は思い返す。たしか起きない事を七海の母に伝えたところ水をぶっかけられたのだった。今回もどうやらそうなりそうだ。
少し心は痛むし、これで起こすと数日の間口をきいてくれないだろうけど。この女は放っておくと永遠に登校しない。
信二は踵を返して台所にいた七海の母に事のあらましを伝える。起きない、ただそれだけの事を。
しかし今朝は何故こうも起きないのだろう。前日は特に何もなかったとは思うが、実は夜更かしでもしていたのだろうか。
七海の母がいっぱいに水を汲んだバケツを信二に渡す。
「俺がかけるんですか?」
「よろしくね」
そう言って七海の母は朝の支度に戻って行った。
仕方ない。幼馴染のよしみだ。これくらいの事は許してくれるだろう。そもそも起きないのが悪いのだ。俺が責められる道理はない。
信二はバケツを七海の頭上に掲げ、勢いよくひっくり返す。七海の部屋の床はリノリウムなので床下に漏れる事は無い。そういうわけで一切漏らさず七海の部屋は水浸しになったのだった。七海は下着姿のままでびしょ濡れになってしまう。しかし起きない。
「もう食べられないよ」と、七海が寝言を言った。
七海の家族が集まる。ただし漁に出ている父と祖父はいない。祖母と母と3人の姉に信二を交え、七海の周りで顔を寄せ合って話す。
3人の姉の余りに強い香水の匂いが信二の頭をくらくらさせる。
いずれ七海もこうなるのだろうか。
「いくら何でも起きなさすぎでしょう。寝てるふりでもしているんじゃないの?」と、長女が言った。
「それにしたって叩いてもつねっても痛がるそぶりも見せないわ」と、次女が言った。
「こんなに深く眠る事ってあるの? 聞いた事も見た事もないわ」と、三女が言った。
「昔にこんな事があった気がする。何だったかしらお婆ちゃん覚えてる?」と、母が言った。
「こりゃあ睡魔だな。睡魔に魅入られてしまったんだよ、この子は」と、祖母が言った。
「睡魔? どうすれば起きるんです?」と、信二は言った。
そんな訳の分からないものが七海に取りついているなど看過できない事態だ。
「私がまだ若い頃、あれは人食いナマコが揚がった年の事だ。芹沢の娘が同じようになったのをよく覚えてる。だがどうやって起こしたのだったか。そもそも起きたのだったか」
「それって芹沢のおばあさん?」と、姉妹の誰かが言った。
「いいや、あれのばあさんだよ」と、七海の祖母が言った。
「とにかくお医者様を呼びましょう」
七海の母がそう言うと長女が電話をかけに部屋を出て行った。香水の匂いが少しマシになる。
「他に誰か治し方を知っていそうな人はいないですか?」
信二がそう言うも彼女達は首を捻るばかりだった。どうにも不安が募るばかりだ。何かしなければいけないのではないか。こうも楽観的で大丈夫な状況なのだろうか。
「とりあえずお父さん達にこの事を伝えてくるわ。何か分かるかもしれない」
そう言って次女は部屋を出て行った。香水の匂いがかなりマシになる。
「とにかくもう学校だろう。信二よ。いつもいつも済まんが七海を連れて行ってくれるか?」
「それは勿論構いませんよ」
なにせ眠る七海を背負って登校するのはこれが初めてじゃない。一度起きて朝の支度を終えても夢現な状態な事がままあるのが七海だ。
そんな時もう永遠に七海が起きなかったらどうしようと、よく考えたものだ。しかし特に何も変わらないかもしれない、と思ったものだ。
「それじゃあ朝の支度をしてあげないと」と七海の母が言った。
「私は嫌よ」と言って三女は部屋を出て行った。香水の匂いは無くなった。
「でも私は朝の支度があるし」と七海の母は言う。
七海の母と祖母の視線が信二に突き刺さる。
「だいぶ前から覚悟は出来てます」
信二がそう言うと励ましと感謝の言葉を伝えて七海の母と祖母は部屋を出て行った。
七海は軽い。島の子の誰もが自然を相手にしてきた結果それなりに力持ちである事を差し引いても、七海を背負う事に辛さは無かった。
信二は背中の七海との間に溜まる汗に苛々していた。苛立ちをぶつける相手は空か雲か海くらいしかない。
紺碧の空に太陽が燦々と輝いている。西に吹く風に巻かれて蜻蛉の群れが竜巻のように渦巻いていた。
「おうい。七海。いつになったら起きるんだ?」
信二は蜻蛉に向かって呼びかけた。
「もうちょっとー」
確かに七海がそう言ったので信二は慌てて防波堤に座らせた。
しかし支えなしには倒れてしまいそうな七海は相変わらず寝息を立てて目も開かない。頬を軽く叩いてみても何の反応も見せなかった。
「寝たふりはよせ。七海」
「寝たふりじゃないよ。本当に寝てるんだよ」
信二は呆れた様子で苦笑する。
「本当に寝てるやつはそんな事言わない」
「これは寝言だよ。そして睡魔の言葉だよ」
確かに喋っている事以外は眠っているようにしか見えない。このまま向こうに突き落とせば間違いなく溺れるだろう。
「睡魔が代わりに喋ってるという事か?」
「そういう事だよ。察しが良いね。賢い子供だよ」
「察する余地なんて無かっただろ。何で七海に取りついたんだ?」
「別に誰でもよかったんだけどね。取りついていた蟹を昨夜の夕食にこの子が食べたんだから。引っ越したんだよ。それだけなんだよ。ホントだよ」
信二は深々とため息をついた。単なる不運だったというのか。
「出て行ってくれないか? 皆困るんだ」
「お安い御用のお茶の子さいさいだよ。蟹のようにこの子を誰かに食べさせればいいんだよ」
思わず支える手に力が籠る。馬鹿馬鹿しい話だ。
「それは出来ない。他にないのか」
「しーらない」
「そう言うな。何かあるだろ。蟹の前は何に取りついていたんだ?」
返事は無かった。七海の口は真一文字に結ばれて少しもピクリとも動かなくなった。
仕方なしに信二はもう一度七海を背負い、学校へと向かった。
蜻蛉はもうどこにもいなくなっていた。雲もどこかへ吹き飛ばされていた。
途上、信二は七海の父と祖父に出会った。どちらも日に焼けて筋肉質で海の男というのに相応しいなりをしている。
「いつもいつも済まんな信二」
七海の父がそう言った。七海の祖父は水平線を見つめて顔を顰めるのみ。
「2番目のお姉さんが来ませんでしたか? 二人を呼びに行ったはずなのですが」
信二は七海以外の姉妹の名前を覚えていなかった。3人とも似たような名前でどうにも覚え難い、という事は覚えているのだが。
「いいや。来なかったな。どうかしたのか?」
「七海が起きないんです」
「いつもの事だろう?」
「いつもより起きないんです」
ふうむ、と言って七海の父は七海の顔を覗きこんだ。七海の父が大きく息を吸い込むので釘を刺す。
「いくら大声を出しても起きませんでしたよ」
七海の父は大声を出すのを止めて空気を吐き出した。
「そうか。じいさん。七海が起きんらしい。何か分かるか?」
数秒待つと水平線を見つめながら七海の祖父は、
「睡魔かな」と、呟いた。
「おばあさんもそう言っていました」と信二が同意する。
「放っておけば死ぬ」と、七海の祖父は呟いた。
「え? それは七海がですか? 睡魔がですか?」
信二が問うがその答えはすぐには返ってこない。
「おい、じいさん」、と七海の父も促す。
七海の祖父は水平線をから目を外し、七海の家のある方向を見た。
「どっちもだ」
そう言って七海の祖父は歩き出した。
信二は血の気が引くような感覚を覚えた。どちらのか分からない汗が氷みたいに冷たくなり、七海の体重が一層軽くなったように感じる。
「なんてこった。なんとかしねえと」
七海の父が頭を抱えて怯えたように七海と七海の祖父と信二を順に見る。
「医者は呼んであります。他に方法を知っている人がいないか探してみます」
「頼んだぞ信二」
降り注ぐ太陽光線が体の髄からじりじりと焦がすのを感じながら信二は学校へと歩を向けた。
睡魔が喋った事は言い出せなかった。
学校には二人以外に3人の生徒がいる。全員の学年がばらばらで、しかし同じ教室で授業を受ける。
信二は七海を七海の席に座らせ、出来るだけ楽そうな姿勢を取らせる。他の生徒が興味深げに七海の周りに集まる。
「七海どうしたの?」と、6年生の女子が言った。
「睡魔に取りつかれたらしい。睡魔を追い出す方法を何か知らないか?」
信二は3人の顔を順番に見るが3人とも首を横に振った。
そこに、この学校唯一の担任の先生が来た。赤沢というこの背の高い女教師は苛立ったような調子で七海の前に立ち、信二達を見下ろした。
「お早うございます。信二さん、また七海さんに構っているのね」
「お早うございます」
信二は赤沢の方を見ずに行った。
「七海さん? 七海さんはまた寝ているの? 信二さん。早く起こしてあげなさい」
信二は簡単に事情を説明したが、赤沢は疑わしげな目つきで信二と七海を交互に見るのだった。
「睡魔だなんて信じられないわ。そんな事って本当にあるの?」
「さっき睡魔と直接話しました。たまたま取りついただけなんだそうです。それに昔芹沢のお婆さんが同じ事になったらしいです。そう七海のお婆さんが言っていました」
「彼女はもう相当なお歳でしょう?」
「どういう意味ですか?」
「どういう意味でもないわ。とにかく水をかけても起きないなんて事はありません」
そう言って赤沢は七海を揺すった。七海はされるがままになっているだけで、起きる気配はなかった。
「それぐらいの事で起きるなら水をかけた時に起きると思いますよ」
「じゃあそもそも水をかけたというのは嘘でしょう? 私は信じないわ」
そう言いながらも揺すり続けるとバランスを崩した七海は床に倒れた。信二が慌てて抱き起こすが女教師はただじいっと七海を見つめていた。
「もうやめてください。睡魔を追い出す方法が分からない事にはどうしようもないんです」
赤沢はただただじいっと七海を見つめ、とうとう口を開いた。
「もしかして死んでいるんじゃない?」
信二は赤沢を睨み返した。
「まだ死んでません。このままでは死んでしまうかもしれないという話です」
「いいえ。もう死んでいるわ。家族にお知らせしないと」
そう聞くや否や5年生の男子が「伝えてくる」と言い残して教室を飛び出して言った。
「死んでないよ。生きてるよ」
七海がそう言った。正確には七海の中の睡魔が言ったのだろう。
「ほらこうして寝言を言うのに何で死んだだなんて言えるんですか?」
「それは睡魔の言葉でしょう。あなたがそう言ったんじゃない」
「睡魔だなんて信じられないと、先生はそう仰いました」
赤沢は信二を睨みつける。
その眼光が信二は嫌いだった。不信と無関心の眼差しをなぜ他人に向ける必要があるのだろう。
絞り出すように赤沢は言う。
「そんなこと言ってないわ」
信二は七海の首筋に手を当てる。
「それに脈があります」
「睡魔の脈よ」
信二は七海の口元に手を当てる。
「息もしてます」
「睡魔の息よ」
「脈と息は私のじゃないよ。七海のだよ」
と、七海の中の睡魔は言ったが、赤沢は聞こえないふりをした。
「大体睡魔がいるなら、なおさらさっさと荼毘に付さなきゃ別の誰かに取りついたらどうするの!」
信二は諦めて七海をもう一度背負った。鞄は置いていく事にした。
赤沢が甲高い声で信二を呼び止める。
「どこへ行く気?」
「他に睡魔を追い出せそうな人を探します」
「そんな人いやしないわ」
赤沢はそう言って七海の肩を掴んだ。
信二は咄嗟に振り返って赤沢を突き飛ばす。赤沢の呪いの言葉を背に受けて信二は学校を走り去った。
信二は重大な過ちに気が付いた。経験者に尋ねるのが一番だ。何故そんな事も思いつかずに学校の先生なんかに頼ったのだろう。
信二は芹沢の所に向かった。
丁度太陽が天辺についた辺りだ。浜からは遠く離れ、小高い山へと信二は歩く。ふもとの防空壕跡に芹沢は棲みついている。そういう噂だ。いつの頃からか、多分何世代も前から芹沢の一族はあの防空壕に棲む事を決められ、あるいは許されていた。島からは追い出されないが、村からは追い出される。何か見えないパワーバランスが芹沢の一族をあの場所に居させるのだろう。
草いきれの匂い立つ中で後ろから声をかけられた。七海の父だ。
「信二。七海を渡せ」
立ち止まり、振り返ると他にも島の男達が何人かいて、じりじりと間合いを詰めていた。全員が全員、おっかない顔をしている。
「どうしたんですか? 睡魔を追い出す方法が分かったんですか?」
「睡魔なんていやしなかったんだ。七海はもう死んでいる」
信二にはすぐにぴんときた。
「誰がそう言ったんですか? 赤沢ですか?」
「そうだ。先生がそう言った。大人しく渡せ」
男達は目を血走らせ、今にも襲いかかってきそうな様子だ。信二もまた背後へとにじり進む。
「せめて芹沢の婆さんに話をするまで待ってください。睡魔がいてもいなくてもそれくらいしたって良いでしょう?」
「駄目だ。芹沢なんて怪しい奴。七海をどうされるか分かったもんじゃない。痛い目に遭いたくなければ七海を早く渡せ」
信二は痛い目に遭いたくなかったが、七海を引き渡す気にもなれなかった。このままでは七海は死んでしまいかねないからだ。選択肢は多くない上にどれを選んでも良い結果は望めない。
信二はもう一度振り返り、芹沢の棲むという防空壕に走った。両手がふさがっていて長い草をのけられない。既に何箇所か葉で切っている。
今では七海も羽根のように軽くなっているが、男達は易々と信二に追いつき七海を奪い取った。そして信二を囲んで何度も何度も蹴りつける。靴があばらの間に食い込み、鼻を叩き、尻を打ちのめした。ものの数秒の事ではあったが、信二には長い苦痛に感じられた。
しかしそれでも休む暇なく信二は立ち上がり、ほうほうの体で防空壕に転がり込んだ。
カビと土の臭いが肺に澱み、信二は思わず咳き込んだ。
「誰だい?」
防空壕の奥から腰の曲がった老婆が杖をつきつき歩いてきた。芹沢のお婆さんは盲てはいなかったはずだが、その視線は空中をさまよっている。
信二はいつの間にか流れていた涙と土でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。
「信二です」
「おお、山崎の。随分と大きくなったね。何の用だい?」
信二は土を払いながら立ちあがる。天井は思いのほか低く、少し背を曲げなければいけなかった。
「芹沢のお婆さん。七海に睡魔がとりついたんです! 早く起こさないと皆は死んだと思っててこのままじゃ埋葬されてしまう!」
芹沢は目を瞑り、口の中でもごもごした後、思い出すように言った。
「七海ってのはよく寝る子なのかい。そういう子ほど睡魔が取りつく。私の婆さんもそうだった」
「七海を助ける方法は何かないんですか?」
信二は異臭を放つ老婆に縋りつき、悲痛な声で哀願した。
「眠りにつく娘を助ける方法など古今東西に一つしかない。キッスだよ」
信二は少しばかり頬を染めたが薄暗い防空壕では誰にも分からない。
「キスですか。誰がキスをすれば」
「別に誰でもよい。お前でもな」
信二は覚悟を決めるように拳を固く握りしめる。背中にはまだ七海の温もりが残っていた。
「ほら。迷ってないで早く行け」
と老婆が言った頃には既に防空壕を遠く離れ一心に走っていた。
いつの間にか、陽炎の立つ浜を横断するように黒い葬列が出来ていた。
信二は遠目にそれを確認すると一定の距離を開いたまま、民家の陰に隠れながら葬列に気付かれないように七海を探す。
信二も葬列も真夏の日差しに汗を拭きながら雲の影に隠れた港を目指している。
信二がその流れを目で追うと、葬列のほとんど先頭に棺があった。信二はそれに気付くとそれを目がけて猛突進する。すぐさま葬列の方も信二に気付いて食い止めようとした。
棺はどんどん港を進み、今にも舟に乗せられようとしている。舟の行く先は隣の島の火葬場だろう。
信二も葬列もお互いを罵倒しながら取っ組み合いをする。しこたま殴られ、その倍殴り返した。
葬列から伸びる無数の手を擦り抜けて信二はぐんぐんと棺へと迫る。巨体を押しのけ、泣き声を掻い潜り、押しあい圧し合いの果てに信二が棺に指をかけた。
瞬間、バランスを崩した葬列は棺を海の中に落としてしまった。
考える間もなく信二も棺を追って海に飛び込む。葬列の一部も飛び込んだようだが、一番最初に信二が棺に辿り着いた。
海中でもがき、塩水を沢山飲みながら、無我夢中で棺をこじ開け、中から七海を救いだした。
海の中に追いやられ、息ができない状態でも、それでも七海は薄らいだ姿と安らかな表情で眠りについている。
信二は海面から顔を出すと、七海を背負ってひたすらに泳ぐ。島の反対側、幼い頃に二人でよく遊んだ『隙間』を目指す。
振り返る暇も勇気もなかったが、どうやら葬列は七海を追うのをやめたようだった。怒りと怨嗟の大音声が徐々に後方へ遠ざかって行くのが分かる。それでも信二は持てる力を振り絞り、最大速度で海を泳いだ。
しかし喜びはまだ信二の心の奥底で縮こまっている。少しも油断はならない事が分かっていた。
二人が『隙間』と呼ぶ海底洞窟は奥の方に空気が溜まっており、また天井に走る亀裂からは僅かながら日光が忍び込んでいた。
ここは時に海賊のアジトであり、幽霊船の停泊所であり、黄泉への入り口だった。いつもいつも二人きりで色々なごっこ遊びをしたものだ。二人の笑い声がいつまでもこだましていた。
ごつごつとした岩場に、七海を傷つけないように慎重に寝かせた。今となってはそこにいる事を忘れてしまいそうなほどに存在感が希薄している。
不意に、しかし確実に存在していた不安と恐怖が蛇の形になって信二の中でとぐろを巻いている。
「多分だけど」と、信二は独りごちた。「お前がこっちに来るって事だよな」
「ご名答」とすぐさま七海の口が言った。
「他に方法は無いのか?」
「さあね。知ってても君には教えないんだよ。いずれにせよ、今すぐに私を移さないと七海は死ぬけどね」
「俺はすぐさまお前に眠らされるのか?」
七海は沈黙した。
洞窟の奥で水の滴る音が反響している。
信二は観念して青白くなった七海の顔に自分の顔を近づける。
「まあ君が自ら眠るまでは猶予をあげてもいいさ。後は七海を信じるんだよ」
信二は七海と唇を重ねた。冷たい皮膚の奥に温もりが現れた。
一瞬の後、七海がかっと見開き、小さな悲鳴と共に信二を突き飛ばす。
七海は顔を真っ赤にして、起こし方に文句を付け、ここがどこかと問い、何で泣いているのかと首を傾げた。
「おはよう。七海」
信二はそう言って微笑みながら一つ大きな欠伸をした。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
ご意見ご感想ご質問お待ちしています。
うーむ。何だか自分でもよく分からない雰囲気の小説になってしまった。
マジックリアリズムを意識したものの……。
しかし今回は久々の難産だった。理由はよく分からないけど思いつかない時はとことん思いつかない。
ただアイデアが少ないなりに組み立てるのは早かった。これも理由は分からない。