あんた、この行動をどう思う?
「なんなんだよ……あいつは……」
家に帰った後、西村陽一は呆然とした表情で呟いていた。
立ち入り禁止となっている病院跡、いや廃墟……陽一がそこを訪れる気になったのは、ほんのちょっとした気まぐれだった。真歩路駅から電車で十分、バスで十五分ほどの位置にあるというその廃墟、一応は立ち入り禁止の札が立てられており、ロープも張られている。だが人気のない場所に建てられているせいか、入り込むのは容易だ。
そして陽一も、その廃墟に入り込もうとしていた。いずれ書く予定の作品……そこにはアウトローが多数登場する。廃墟の中での取り引き……そのシーンを描くために、まず廃墟を自分の目で見てみたい。
昼過ぎ、陽一は廃墟を訪れた。日が出ていて明るい時間帯だとはいえ、広大な廃墟は不気味な雰囲気を醸し出している。さすがの陽一も、いざとなると入るのがためらわれた。
しかし、意を決して侵入した。周りを見渡し、ゆっくりと歩く。ひょっとしたら、ホームレスや家出少年などが入り込み、住み着いている可能性もある。そういった連中を刺激するのだけは避けたい。
廃墟の中は、昼間だというのに暗く、見通しが悪かった。廃墟の隙間から射してくる日光だけが頼りだ。念のために懐中電灯を持ってきてはいるが、明かりを持って歩き回るのは目立ってしまう。
だが、階段のそばにさしかかった時……陽一の耳にかすかな物音が聞こえてきた。さらに、人が話しているような声も……陽一はその場で立ち止まる。姿勢を低くし、様子を窺った。
どうやら、上の階から聞こえてくるようだ。押し殺したような途切れ途切れの声が聞こえてくる。
陽一は考えた。これは、引き上げるべきか?
いや、待てよ。
声の主は、こんな場所で何をやっているのだ?
話し声からして、一人じゃなさそうだし……。
陽一は迷った。しかし、結局は好奇心が勝利する。陽一は階段を上がり、音のする方を目指してみた。
「はい……そうです……わかりました……」
聞こえていた声は、突然に止んだ。そして、人間の動きに伴うような音。いったい何が起きているのだろうか……物音は大きな一室から聞こえてくる。窓が付いている部屋のようだ。日の光が通路にまで届いている。
そして、またしても声が聞こえてきた。
「あ、すみません……いや、それはどうでしょうか……はい……いや、それは私の方では何とも……はい……わかりました……」
声が止む。いったい何なのだろうか。初めは誰かと話しているのかと思いきや、一人の声しか聞こえてこない。電話で喋っているのか。
では、わざわざこんな場所で電話する理由は?
通路の壁に体をピッタリと付け、そっと覗いてみる……。
そこには、スーツ姿の若い男が一人、古びた椅子に座り、机の上で何やら手を動かしている。陽一の存在にはまるで気づいていないようだ。ここから見る限りでは、ごく普通のサラリーマンにしか見えない……顔立ちも服装も地味だ。
しかし、ごく普通のサラリーマンが……こんな廃墟で何をしている?
陽一はじっと観察を続けた。いったい何をしているのだろう。ここから見る限りでは、机の上で何かを調べているように見える。だが、何を調べているのかはわからない。
すると突然、男が立ち上がった。そして部屋の中を忙しなげに歩き始める。何やらブツブツ呟きながら……陽一は心臓が止まりそうになり、顔を引っ込めた。そして、音を立てないように四つん這いでその場を離れる。そして階段を降りたとたん――
バタバタという足音。何やら声も聞こえてきている……陽一は恐怖を感じた。あの男は普通ではない。この廃墟で、何か恐ろしい計画を立てているのではないか? ピアスの男との喧嘩など、比較にならないほどの恐怖が全身を蝕んでいく……。
次の瞬間、陽一は走った……廃墟の廊下を走り抜け、そして外に出る。振り返ってみたが、誰も追ってくる気配はない。
陽一はホッとした。そしてバス停に向かい歩き始める。日射しが実に心地よかった。陽一は初めて、日の光に感謝する。この明るさがなかったら……自分の心は恐怖に支配されたままだったろう。
バスに乗り、そして電車に乗って、陽一は家に帰ってきた。改めて、男のことを思い出してみる。陽一は確かに、一瞬ではあるが男と目が合ったのだ。男は自分の存在に気づいたはずだが……。
それにしても、あの男は恐ろしい目をしていた……感情が全く感じられない不気味な瞳……そんな瞳で、男は何者かと会話していたのだ。しかも、その会話の内容は、ごく普通のものだった。あんな異常な環境下でするようなものとは思えない……。
陽一は立ち上がり、両拳を握り構えた。そしてパンチを放つ。恐怖にとらわれた時ほど、体を動かせ……そんなことを書かれた本を読んだ記憶がある。陽一はひたすら虚空にパンチを打った。左でジャブ、右でストレート……その時、陽一の頭に閃くものがあった。
あいつ、どこかで見た覚えがあるぞ……。
そうだ……ニュース……いや、ネットの記事か何かで見た記憶がある……。
・・・
「鉄さん、残りの二人ですが……中島の方はわかりました。南部の方はまだですが……」
事務所のソファーで寝ていた藤田鉄雄。だが、その眠りは火野正一の声により妨げられた。鉄雄はやや不快なものを感じながらも、体を起こす。そして正一を見上げた。
「そうか……で、中島ってのはどんな奴だ? 今どこにいる?」
「あ、ちょっと待ってください……今日は仕事しながらあちこち電話かけたりメールしたりで……飯食う暇もなくて……疲れましたよ……」
言いながら、正一はどっかりとソファーに座る。そして段ボール箱の中からカップラーメンを取り出し、お湯を注いだ。
鉄雄は正一の動きを横目で見ながら、ポケットの中に手を入れた。そしてぐちゃぐちゃになった一万円札の束を掴み出し、正一に渡す。
「正一……とりあえず家賃代わりだ。しばらく、この事務所で世話になる。いいな?」
「へ? いや、俺は構わないですけど。あ、ところで……その中島って奴のことなんですけどね……あれは昔も今も変わらない、本物のクズですね」
中島隆一。覚醒剤の所持使用で何度も逮捕されている。三年前に実刑判決を受けて刑務所で服役し、半年前に出所した。現在は生活保護を受給しながら、真面目に生活しているのだという……うわべだけは。
「中島の奴は……薬物依存のために働けない、なんて言って申請を出してるんです。そのくせ、金が入るとちょいちょいシャブ食ってるみたいで……どうしようもないクズですよ。まあ、寺門や肥田に比べりゃマシですがね……」
カップラーメンをすすりながら、喋る正一。
それを聞きながら、鉄雄は考えた。ひょっとしたら、犯人の次の狙いは中島なのかもしれない……打つ手がない今、藁をも掴むつもりで当たってみるしかなかった。
「正一、まずは中島に話を聞いてみるよ。奴は今どこに――」
「よう、お前らずいぶんと仲良しだな……ひょっとしてお前ら、ふしだらな関係なのか?」
声と同時にいきなり事務所に入って来た者、それは刑事の高山裕司だった。高山は掴みどころのない、奇妙な表情を浮かべてこちらに近づいて来る。
「い、いや……やだなあ、妙なこと言わないで下さいよ……」
食べかけのカップラーメンをテーブルに置き、ぎこちない笑みを浮かべて立ち上がる正一。だが、高山は片手を上げて制した。
「いいよ……まずはそいつを食ってからにしろ。お前との話はそれからだ」
そう言うと、高山は鉄雄の前に腰を降ろす。そして、猛禽類のような目で鉄雄を見つめた。鉄雄は無表情で見つめ返す。
「なあ藤田、お前はここで何やってる?」
「何って……別に何もしてませんよ」
「さっき黒川運輸に問い合わせたんだがな、お前は腰を痛めて仕事が続けられなくなり、辞めたって聞いたぜ。腰を痛めたわりには元気そうだな」
「腰以外はどこも痛めてませんからね」
すました顔で、答える鉄雄。だが、内心では困惑していた。なぜ、自分ごときのことを細かく調べるのだろう。それでなくても、この辺りは大変なことになっている。銀星会のチンピラが殺気立っているのだ。さらに、マスコミの姿も目立つようになった。まるで映画にでも登場しそうな、グロテスクな事件……ネタに乏しい昨今、こんな事件にでも食いつくしかないのだろうが。
「藤田……お前は他のチンピラとは違う。何か目的があってここに来たんだろうが……まあ、それはいい。お前に聞きたいのは……五年前の話だ。お前、この男に見覚えはないか?」
高山は一枚の写真を差し出す。鉄雄は写真を手に取り、じっくりと眺めた。だが、まったく覚えがない。どこにでもいる、平凡な男の顔だ。鉄雄は頭の中で、これまでに会った人間の顔と名前を片っ端から思い浮かべてみる。しかし、写真の男と一致する人物はいない。
「いや、見たこともないですね……こいつは何かやらかしたんですか?」
「五年前の夫婦惨殺事件……その殺された夫婦の子供だよ。運良く生き延びたんだがな……あ、すまん。ちょっと失礼」
高山はいきなり立ち上がり、携帯電話を取り出す。そして扉に向かって歩き、話し始める。
「もしもし……ああ、わかった。今行く……」
携帯電話で話しながら、高山は鉄雄に向かい片手を上げる。そして向きを変え、扉から出て行ってしまった。
「何だったんですかね、あいつ……いきなり来て、いきなり帰って行って……訳わからないですね」
カップラーメンをすすりながら、呟く正一。鉄雄はもう一度、写真を眺めて見た。そう言えば、この男の名前を聞いていなかった。まあ、知る必要はないだろう。自分には何の関係もないのだ。それよりも、先にやらなくてはならないことがある。
「正一、中島の居所はわかってるんだよな?」
「え……あ、はい、わかってますけど」
「じゃあ教えてくれ。今から行って、話だけでも聞いてくる」
そう言うと、鉄雄は立ち上がった。この事件が解決しようがしまいが、自分には関係ない。しかし、形だけでも動かなくてはならなかった。
それに……個人的に一つ気になることもある。
五年前に襲われたというカップル……どんな目に遭わされ、そしてどうなったのか?
・・・
俺は……闇の底にいる……。
そして……俺の目の前には……恐ろしく醜い怪物がいる……。
怪物は大きな両手で何かを掴み、鋭い牙の生えた口を開けて……貪り食っている。
俺は恐怖のあまり、動くことができない。
怪物は……俺の目を真っ直ぐ見つめながら……何かを……いや、誰かを食べている……。
誰を?
男と……女だ……。
気が付くと、既に夕方になっていた。仁美一郎は慌てて体を起こす。まさか、会社で居眠りをしてしまうとは……一郎は周りを見てみるが、誰もいない。どうやら、皆は先に帰ってしまったらしい。後で問題になるかもしれない。大森部長あたりに呼び出されたりすることになるのだろうか。
だが、それより気になることがある。
またしても、あの夢だ……いったい何の意味があるのか。あの醜い怪物は何なのか。
あいつは、俺をじっと見ていた。
俺の顔を見ながら、人間を食べていた……。
馬鹿馬鹿しい。
しょせんは夢だ。
そう、しょせんは……夢……現実には、あんな怪物はいない……。
本当に……いないのだろうか……。
あの怪物がいた世界……本当は、あちらが現実ではないのか……。
では、今が夢の中なのか……。
一郎は苦笑した。頭を振って、頭をよぎる馬鹿な考えを追い払う。自分はどうかしている。さっさと帰って寝よう。
そういえば、今日はおかしなことがあった。会社の中に、鳩が迷いこんで来て大騒ぎになったのだ。開いている窓から入り込んだのだろうか。会社の中をバタバタ飛び回り、追い払うのに苦労した。寝てしまったのも、恐らくはそのせいだろう。
まあいい。今日は帰るとしよう。
いつもと同じく、バスに乗り、そして電車に乗って帰る。代わり映えのしない日常。時おり、今日が何曜日なのかすら忘れそうになる。うかうかしていると、記憶が全て消えてしまいそうだ……。
記憶……。
嫌なことは全て、忘れてしまえばいい。
覚えているべきほどの価値のあるものなど、この世には存在しない。
真実の記憶……そんなものは、ただの錯覚だ。
錯覚ならば……俺の頭で勝手に創り上げればいいのではないか?
気が付くと、真歩路駅に降りていた。一郎はそのまま歩く。自宅までの道のりを真っ直ぐに――
だが、その途中……吸い寄せられるように公園に入っていった。
設置されている公衆便所に入る。相変わらず汚い。血痕は消えており、跡形もない。
次は遊具の方に向かう。昨日、女と会った巨大な滑り台……しかし、今日は誰もいない。一郎はあちこちを探して見たが、どこにも居なかった。
一郎は落胆した。ここに来れば、もう一度あの女と会えるのではないかと思っていたのだ。しかし、女はいない――
「お前さん、こんな所で何をやってるんだい?」
突然の声。一郎は慌てて振り返った。
よれよれの着古した感じのコートを着た、目付きの鋭いタフな雰囲気の中年男が立っている。
「お前さん……こんな所で何する気だい。まさか、変な趣味があんのか?」
言いながら、男は近づいて来る。近くで見た時、一郎はようやく思い出した。この男は刑事だ。名前は……確か……。
「高山さん、でしたよね……」
「おう、高山さんだよ。なあ、さっきから何やってんだ……お前さん、はっきり言って挙動不審だぜ」
言いながら、高山はポケットに手を入れ、タバコを取り出す。一本抜いてくわえ、火を点けた。
煙を吐き出し、空を見上げる。
「近頃じゃあ、禁煙の場所が多くてな……困ったもんだぜ。こちとら、わざわざ高い税金払ってやってんだぜ。しかも、命まで縮めてよ。なのに……今は愛煙家ってだけで迫害されるんだぜ。少しは考えて欲しいもんだ」
「だったら、止めればいいじゃないですか」
一郎は不快な表情を浮かべて言い放つ。自分はあの女に会いに来たのだ。少なくとも、会えるかもしれないという淡い期待を抱いて……なのに、よりによってこんな男と再会することになるとは……。
すると高山の顔に、面白い表情が浮かんだ。
「馬鹿言うな。俺はな、お前が生まれる前からタバコ吸ってんだ。今さら止められるか。肺ガンになっても吸い続けてやるよ」
吐き捨てるように言った後、高山は再びタバコをくわえる。一郎は不快な思いがさらに増していくのを感じていた。この刑事はいったい何なのだろう。刑事ならば、さっさと犯罪者を逮捕しに行けばいいのだ。自分のような無害な人間に、何の用があるというのだろうか。
少なくとも、自分は刑事に用はない。
「すみません。俺はいろいろと忙しいんで……失礼します」
そう言って、一郎は立ち去ろうとした。すると、高山に肩を掴まれた。
「そうか……忙しいのか……じゃあ仕方ないな。ところで……お前さんが勤めているのは……羽場商事だったな?」
「そうですが、何か」
「……わかった。すまないな。もう行っていいよ」
・・・
大和武志は車に潜み、じっと様子を窺っていた。中島隆一のアパートは目の前だ。天田士郎の情報によると、中島は覚醒剤の依存症……いわゆる「ポン中」だという。ポン中は覚醒剤を射ち始めると、家の中にこもったきり何日も姿を現さないケースもあるという。
「ポン中は……相手にすると面倒だぞ。まあ肥田ほどデカくはないから、運ぶのは楽だがね。今回も俺に任せろ。俺が絞め落として連れて来る」
士郎の言葉に、武志も同意せざるを得なかった。最近、どんどん食欲が落ちてきている。夜もよく眠れない。その影響は、武志の肉体に如実に現れている。わずかな間に体重が五キロ減ったし、体力もかなり落ちた。寺門の時のように、自分一人だけの力で気絶させることは難しいかもしれない。
結局、士郎に一任することにした。
しかし、ここで思わぬ事態が起きたのだ。
「士郎さん……何ですかあいつは……」
車の中で、唖然とした顔で呟く武志……運転席でスマホをいじっていた士郎が顔を上げ、視線を移した。すると……。
中島の部屋の前に、一人の男が立っているのだ。身長は百八十センチを超えるであろう。肩幅が広く、首も太い。がっちりした体格だ。肥田と違い、鍛え抜かれた雰囲気の体つきである。背を向けているため顔は見えないが、頭はスキンヘッドだ。服はトレーナーを着ているだけの軽装だが、分厚い革の手袋をはめている。
大男はドアを叩き、そしてじっと待っている。時おり、辺りを窺うような素振りをみせる。その目付きは鋭く、何かを警戒しているようだ。
「あいつは……かなりヤバいな……」
士郎は呟くように言うと、次の瞬間――
「武志、今日は中止だ。引き上げるぞ」
「え……ちょっと待って下さいよ……どうしてですか――」
だが、士郎は無言のままで車を発進させた。
「士郎さん……一体どういうことですか……何で……何であいつを……」
家に戻ると同時に、士郎に尋ねる……いや、詰め寄っていく武志。口調そのものは静かだが、その表情は真剣だ。殺気に近いものすら漂っている……。
だが、士郎はその殺気をものともしなかった。鋭い視線を平然と受け止める……士郎の冷めた迫力に呑まれ、武志は動きを止めた。
「武志……俺はプロだ。少なくとも、プロのつもりだよ。俺はツキや流れを重視する。俺の調べた限りじゃ……今の中島に、家を訪れるような友達はいない。家族からも見放されてる状態だよ。そんな中島の家に、あんな得体の知れない奴が訪れる……これは完全に想定外の流れだ。こんな時に無理して続行すると、大抵は失敗する。だから今日は引くべきだと……そう判断したんだよ」
穏やかな表情と静かな口調で語る士郎……武志の表情が、少しずつ和らいでいった。それに伴い、張りつめた空気も変わっていく。
「それにな、あのスキンヘッドだが……ただのチンピラじゃねえ。間違いなく荒事専門の男だよ。ひょっとしたら……中島が狙われていることに気づいた奴がいるのかもしれないな。だとしたら……厄介だぞ」
「どっちにしても同じですよ……邪魔するようなら、あのデカい奴は殺します。どうせ、あいつもヤクザ……あるいは、その同類なんでしょうし……」
静かではあるが、冷たい口調で吐き捨てる武志。そう、何者が相手だろうとも今さら後戻りはできない。これは……ゲームとは違うのだ。リセットボタンを押して、最初からやり直すわけにはいかない。始めてしまった以上……どんな形であれ最後までやり抜くしかないのだ。
士郎は、そんな武志を憐れみのこもった目で見つめる。そして、ため息をついた。
「武志……お前、本気で銀星会と殺り合う気なのか? 俺はごめんだぜ。なあ、武志よう……ギリギリいっぱい生きようや。死ぬのは何時でもできる。そのうち、どんなに嫌でも死ぬ時は来るんだぜ」
「……わかりました」
武志は複雑な表情をしながらも、一応は頷いて見せた。そして、床にあぐらをかいて座る。まだ納得がいっていないようだ。
そんな武志の様子を、じっと見つめる士郎。ややあって、声をかける。
「じゃあ、また明日来るからな……俺は久しぶりに女と会ってくる。お前もたまには羽目はずせ」
そう言って、士郎は立ち去ろうとしたが――
「士郎さん……あの……士郎さんの……彼女さんて……どんな人なんですか?」
「どんな人? うーん、足クセが悪いな」
「足クセ?」
「ああ。変なことを言うと、蹴りが飛んで来るんだよ……痛いんだぜ」
士郎は顔をしかめる。その普段とかけ離れた表情を見て、武志の顔がほころんだ。
いや、それを通り越して笑い出した……。
「おいおい、笑いごとじゃないんだぜ。痛いんだよ……あいつ、空手の黒帯なんだからな……」
言いながら、士郎は苦笑した。
そして、言葉を続ける。
「なあ武志……いい機会じゃないか。今夜は一人でじっくり考えてみろ。こいつを終わらせたら……その後はどうする? それからの人生の方がずっと長いんだぞ。お前は……こっち側の人間にはなれない。真っ当な生き方はできないかもしれないが……それでも、人として生きることはできるんだ」