あんた、この言葉をどう思う?
気が付くと、既に夜が明けていた。西村陽一は昨夜から、寝よう寝ようとしていたが……どうしても眠れないまま時が過ぎ、そしていつのまにかこんな時間になっていたのだ。
昨日、生まれて初めて人を殴った。自分に絡んできた男の顔を、何度も何度も……男のピアスだらけの顔が苦痛に歪み、鼻と口から血が吹き出る。しまいには尻もちをつき、顔を両手で押さえ、何やら呻きながら頭を下げてきた。そこで陽一は我に返り、その場――前にその男たちにさんざん殴られた公衆便所だ――を離れたのだ。出て行く時、変なサラリーマン風の男とぶつかりそうになり謝ったのを覚えている。
そして家に着いた後、陽一は異様な興奮を感じていた。衝動のままに他人を殴り、初めて他人を暴力で屈服させたのだ。陽一は奇妙な恍惚感に包まれていたが……。
違う。
あれは、運が良かっただけだ。
僕が強かったんじゃない……。
そう、あれは不意討ちに近いものだった。
まず公衆便所に入ると同時に、ピアスの男が何やらベラベラと勝手なことを言い始めた。もっとも、陽一の耳にはほとんど入っていなかったが……。
陽一はピアスの男をじっと見つめながら、ゆっくりと両の拳を上げる。心臓は壊れてしまうのではないかと思うほど高鳴っている。体は震え、呼吸は荒い。
「何……何その態度? マジ殺すよ?」
ピアスの男は、ヘラヘラ笑いながら近づいて行く。その顔には、警戒する様子など欠片も感じられない。彼は何の迷いもなく、両手をだらりと下げたまま陽一に向かっていき、右の拳を振り上げた――
格闘技経験のない者が人を殴る場合……フックのような大振りの、廻すような動きのパンチを放つのが普通である。ピアスの男もまた、右の拳を振り上げて殴りかかろうとした。
しかし……右の拳を振り上げた瞬間、陽一の左ジャブが顔面に当たった。次いで、体重を拳に乗せた右ストレートが炸裂……ピアスの男はよろよろと後退る。ストレート系のパンチは、最短距離で相手に当たる。フックのような大振りのパンチと同時に打った場合、ストレートの方が先に命中するのだ。
ピアスの男の動きが止まった。驚愕の表情を浮かべて陽一を見ている。殴られた痛さよりも、殴られた驚きの方が勝っているようだ……。
しかし――
「いってえな!」
吠えると同時に、ピアスの男は怒りを露にし、再び殴りかかろうとする。すると、またしても陽一のジャブ、ストレートが炸裂……ピアスの男の顔面を襲う激痛。陽一は続けてパンチを放つ。左でジャブ、右でストレート……ピアスの男は痛みに耐え兼ね、両手で顔を覆いしゃがみこむ――
「い、いでえ……もうやめで……」
陽一は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。ふと、あの喧嘩は夢の中の出来事だったのではないだろうかという考えが頭をかすめる。
しかし、両方の拳を襲う痛み……その痛みは伝えている。あの出来事は紛れもない現実だったことを。
そして、陽一は空腹を感じた。
食事を終えて、陽一はパソコンに向かう。小説投稿サイトのランキングをチェックしてみると、やはり上位は異世界に転生する作品に占められている。一方、陽一の投稿した作品の昨日のアクセス数は……八。人気の作品は一日で数万アクセスを叩き出すというのに……もはや、比べるのも馬鹿馬鹿しい。
だが、そんなことはどうでもよくなっていた。ふと気がつくと、陽一は昨日の出来事を思い出していた。昨日の喧嘩を。
もちろん陽一にもわかっている。あの勝利はラッキーパンチによるものだ。そもそも、ピアスの男は陽一が殴ってくるとは思っていなかった。完全に油断していたのだ。
素人同士の喧嘩は、殴る意思の有無で決まってしまうケースが多い……格闘技のエッセイに書いてあったが、今回の喧嘩はまさにそのケースだ。自分には殴る意思があった。はっきりとした意思が……だが、ピアスの男には殴ろうという意思が希薄だった。
さらに言うなら……ピアスの男は、まともな喧嘩の経験がほとんどないように思われた。まず、ピアスだらけの顔で威嚇する。そして大声を出し、周りの物を蹴飛ばすなどして威圧し、相手の戦意を失わせ、恐怖感を煽った上で暴力を振るう……奴は今まで、そうやって戦わずして勝ってきたのだろう。現に自分も、そんな目に遭わされたのだから。
条件付きの強者……それがピアスの男の正体だ。体格的にも痩せこけていた。そんな者を相手に、幸運に恵まれて勝った……何の自慢になるのだろう。
僕が強かったんじゃない……ただ、あいつが弱すぎただけだ。
僕は弱いんだ……調子に乗るな……。
陽一は自分に言い聞かせた。そして、書きかけの小説に取りかかる。
だが……あの感触が忘れられない。拳が相手の顔に命中した瞬間の、拳の痛みと……えもいわれぬ快感。相手の流す血の匂い。自分の前で顔を歪め、無様にしゃがみこむ男。
そして……勝利……。
陽一はこれまで、誰かと何かを競ったことなどなかった。ましてや、こんなはっきりした形での勝利など……。
形容のできない……ドス黒くも熱い何かが、陽一の体を駆け巡るのを感じた。
・・・
「正一、どうだった?」
「いやあ、さっぱりです。はっきり言って、俺たちじゃあ無理ですよ」
火野正一は疲れた顔でソファーに座り込む。その横で、藤田鉄雄はため息をついた。
銀星会の桑原徳馬から命令され、鉄雄と正一は人を探す羽目になった。
銀星会の準構成員である寺門達也と肥田勝弘……その二人が両目を潰され、両手両足を切断された状態で発見されたのだ。しかも、二人は発見された時、精神に異常をきたしていた。まともに証言などできない状態だったのだ。
後でわかったことだが、二人はモルヒネを大量に投与されており、事件当時の記憶がほとんど残っていないらしい。
「それにしても、やることが滅茶苦茶ですよね……頭おかしくなるくらい大量のモルヒネを射ってから両手両足ぶった斬るなんて。やっぱり外国の連中ですかね……ねえ鉄さん、どう思います?」
カップラーメンをすすりながら、尋ねる正一。だが、鉄雄は首を横に振った。
「いや……それはない。断言はできないが……」
そう、外国の連中ならば……そもそも、こんな回りくどいことをする必要がないのだ。日本は豊かな国である。不景気などと言われてはいるが、それでも、まだまだ旨味は残っている。わざわざ銀星会と揉めるよりは……銀星会と提携して商売をしていく方が賢いやり方だろう。
もっとも、断言はできないが。
「あ、そういや……この二人、どっかで見たことあると思っていたんですけど……五年前に鉄さんがブッ飛ばした奴らですよ。覚えてません?」
「……あのな、五年前にブッ飛ばした奴らの顔なんか覚えてるわけないだろう。つーか、それ本当か?」
「いやあ、間違いないですよ。前に銀星会の仕事を手伝わされてる時、こいつらが来たじゃないですか。この肥田ってのが、事務所でいきなりシャブ射ち出して……鉄さんがブチ切れて全員ブッ飛ばした挙げ句、桑原に電話して……あん時は笑えましたよ」
「ああ、あったな……んな事が……」
鉄雄は思わず苦笑し、五年前を振り返る。当時、桑原の経営する人材派遣会社の仕事を手伝わされていた鉄雄と正一。建設現場に四人を派遣することになっていた。ところが、事務所に来た四人は……。
全員、クズばかりだったのだ。いかにも頭の悪そうな雰囲気と礼儀を知らない態度。しかし、それだけなら良かったのだが……。
肥田という男が、事務所のトイレに入ったきり出てこないのだ。鉄雄は嫌な予感がした。
「おい、まさかと思うが……あの肥田ってのは、ポン中じゃないよな?」
鉄雄は、四人の中で一番まともそうな男に尋ねた。すると――
「え、いや、その……」
この煮え切らない答えで、鉄雄は全てを悟った。そして次の瞬間、トイレのドアをこじ開ける。すると……。
肥田は洋式の便座に座ったまま、じっと下を向いている。そして右手には、注射器が握られたままだ。
鉄雄は無言のまま、肥田の髪を掴んだ。そしてトイレから引きずり出し、力任せにぶん投げる。
肥田は床に倒れた。事務所の空気が、一瞬にして凍りつく。しかし、肥田はそんなことにはおかまいなしだった。次の瞬間、勢いよく立ち上がる。そして、凄まじい形相で鉄雄を睨みつけ――
「てめえ! 何しやがるんだ!」
吠えると同時に、殴りかかっていく……だが鉄雄の強打が顔面に炸裂し、あっさり殴り倒される。それでも起き上がり、鉄雄に掴みかかっていく肥田……。
「しつけえなあ」
鉄雄は呟いた。次の瞬間、肥田の首に右腕を回す。そして左手で肥田の袖を掴み、引き寄せると同時に――
投げた。
肥田の巨体は一回転し、床に叩きつけられる。悲鳴に近い声を上げ、顔を歪める肥田……。
鉄雄は他の三人に視線を移す。完全に怯えきった表情だ。仲間が目の前で叩きのめされたというのに、止めようとする様子もない。三人とも、完全に体がすくんだ状態になっているようだ。
鉄雄はその三人に、ゆっくりと近づいて行った。
「そういや、あの四人ですが……とんでもないクズ野郎だったらしいですよ。鉄さんにぶっ飛ばされた後、ブチ切れちまって……たまたま出会ったカップルをさらったとか……」
カップラーメンをすすりながら、喋り続ける正一……何の気なしの言葉だったろうが、鉄雄は素早く反応した。
「おい……何だその話……詳しく聞かせろ」
「え……いや、俺も詳しくは……そもそも、五年も前の話だし……ただ、あの日は四人全員が相当むしゃくしゃしてて……それでカップルさらって無茶苦茶やったとか……相当えげつないことをやったらしい、って噂は聞きました……」
「そうか……」
鉄雄は考えた。これは偶然か? いや、そのカップルが五年も前の事件の復讐を今さら始めたと言うのか……あり得ないだろう。
しかし、気になるのも確かだ。
「正一……暇だったらでいいんだが、そん時の四人……の残りの二人を探しといてくれ」
「あ、はい……探してみますよ。ところで鉄さん、天田のことなんですけど……あいつ、最近この辺りでうろちょろしてるみたいですよ。何やってんですかね……まあ俺は、奴とは関わりたくないですけど」
・・・
「はい、これ」
ぶっきらぼうな様子で、封筒を手渡す女の事務員。仁美一郎は封筒を受け取り、頭を下げた。そして無言のまま、足早に立ち去ろうとする。
「ちょっと待ってよ……あんた、最近どうなの?」
事務員の声だ……一郎は振り向き、そしてじっくりと見つめた。自分と対して変わらない年齢だろう。化粧っけのない地味な風貌、ぶっきらぼうで無愛想な態度。冷たい目付き。今までは、話しかけてきたことなどなかったのだが。
「何がです?」
一郎は逆に質問した。最近どうなの? などと意味不明な質問をされて、なんと答えればいいのだ。そもそも、なぜ質問をする? あんたと俺と、何の関係があるというのだ。
「……」
事務員は複雑な表情で、一郎の顔を見つめる。一郎はますますわからなくなってきた。先ほどの意味不明な質問、そして今の表情……こんな理解不能なやりとりに時間を費やすほど、自分は暇ではない。いや、暇はあるが……。
「申し訳ないですが、急いでいるので失礼します」
一郎はその場を離れ、ほっと一息ついた。今時、給料袋を社員に直接渡す会社など、どこにあるというのだろうか……そのせいで月に一度、あの事務員と顔を合わせなくてはならない。たまらない苦痛だ。
しかし、今日は事務員の様子がおかしかった。普段は無言のまま、無愛想に給料袋を渡してくるのだが……今日に限って、なぜか話しかけてきた。初めて話した気がする。全く中身のない、不毛な会話だったが……。
まあいい。今日の仕事も、これで終わりだ。さて、どこに行こうか……。
少し迷ったが、結局いつもと同じく、真っ直ぐ帰ることにした。バスに乗り、そして電車に乗る。
ふと、昨日会った女のことを思いだした。もしかしたら、また会えるかもしれない……一郎は電車の中で、それとなく探してみる。しかし見当たらない。今日は乗っていないようだ。あの女は一体、何者だったのだろうか……。
はっきりわかっていることは……自分はあの女に二度会っている。そして、以前にもどこかで会っているということ。
そして、自分の心をかき乱す存在だということ。しかし、彼女はいない……。
もういい。
さっさと帰ろう。
帰って……メシを食べて寝よう。
そういえば、昨日は嫌な夢を見たな……。
形容しがたい醜い化け物が、何かを食べていた。
いや、誰かを食べていた……。
誰を?
考えているうちに、電車は真歩路駅に到着し、一郎は電車を降りていた。そして、自宅への道を歩き始める。
しかし、公園の前を通りかかった途端……吸い寄せられるように、公園に入っていた。
まず、一郎は公衆便所を覗く。誰もいない。昨日は誰かがいた。誰かは知らない。しかし、見覚えがあったのだ。
そうだ……血だ……。
床に付いていたはずの血液……それが今では、拭き取られている。
一郎は辺りを見回した。落書きはあちこちに書かれている。壁も床も黒ずみ、汚ならしい。だが、血痕だけは拭き取られている。なぜだろうと一郎は思った。ここまで汚いのなら、血痕があろうがなかろうが関係あるまい。
一郎は外に出る。さらに公園内を歩いた。既に陽は沈みかけている。夕暮れ時の公園はひどくもの悲しい雰囲気に満ちている。
逢魔が刻……。
一郎はそんな言葉を思い出した。少し行くと、凝ったデザインの滑り台があるのが見える。動物の顔を模したような形だ。後頭部の位置に階段が設置されている。上から滑り降りると、顔の中を通って口の中から出てくるような格好になる。子供たちを虜にしていたのであろう巨大な遊具……しかし子供たちが帰ってしまった今となっては、巨大な魔物の死骸にも見えてくる。
その死骸の上に、あの女が立っていた。
電車にいた女が……。
一郎は近づき、女を見上げた。女は一郎の方を見ようともせず、遊具の上でじっと遠くを見ている。何もかも諦めてしまったかのような表情。その大きな瞳は憂いを帯びていた。
「すみません……何を……見ているのですか?」
ためらいながら、声をかける一郎。だが、言った直後に後悔した。自分は何を言っているのだろう。これでは、ただの変質者ではないか……。
しかし女は答えない。黙ったまま、ずっと遠くを見ている。一郎は心の中の衝動に突き動かされるまま、遊具の階段を上がる。遊具の上は思ったより広い。女は一郎に背を向けたまま、ずっと遠くを眺めている。もう一度、声をかけようと一郎が口を開きかけた時に――
「忘れたの?」
女の声。一郎は愕然とした。やはり、この女は自分を知っているのだ。一郎は女の肩に触れた。女は依然として、こちらに背中を向けている。
「あなたは……誰なんですか……」
次の瞬間、女は動いた。壁に覆われ、暗い地下道にも似ている滑り台を、一気に滑り降りる……たわむれているカップルのような行動。
しかし一郎には、女が奈落の底に消えて行ったように見えた。
一郎は呆然としていた。しかし我に返り、すぐに滑り降りる。女の後を追うために。そして話を聞くために。
女は消えていた。
・・・
「杏子……また来たよ。無職の生活てのも、案外楽なもんじゃないね……いろいろあって疲れたから、しばらく休んでるんだけどさ……」
大和武志はそう言いながら、持ってきたカバンの中からおにぎりと菓子パンを取り出した。そして、鈴木杏子の前で食べ始める。
「また痩せたよ……杏子によく言われたよね……痩せろ痩せろって。腹がみっともないってさ。けどさ、今は十キロ……いや、また五キロ落ちたから十五キロ落ちたんだね。凄いだろう。杏子はどうなの? ちょっと太ったみたいだけど……あ、ごめん……」
武志は食べながら、一方的に喋り続ける。だが、杏子は何の反応も示さない。じっと壁を睨んだままだ。武志のことを見ようともしない。
それでも、武志は語り続ける。いつの日か、言葉が返ってくると信じているかのように……。
「あとさ……南野って覚えてる? 高校ん時のさ……あいつ、お笑い芸人になったらしいよ……テレビでネタ披露してた……あいつ、高校の時はすっごい暗かったのにね……人は変わるもんだよ……本当にさ」
「いや……南野の漫才は凄かったよ……あいつにあんな才能があるなんてね……いや、意外だよ……」
おにぎりと菓子パンを食べ終わった後も、一方的に語り続ける武志……だが、ドアをノックする音が響いた。そして、天田士郎の押し殺したような声。
「武志、時間だ」
すると武志は立ち上がった。自分の出したゴミを始末し、そして杏子の耳元に顔を近づける。
「肥田を片付けたよ……あいつは、もうおしまいだ。次は中島を仕留めるつもりだよ……中島を仕留めたら、また来るからね」
「なあ、武志……この仕事を終わらせたら、杏子ちゃんを病院から連れ出さないか?」
家に戻った武志に、突然そんな言葉をかけた士郎。武志は驚愕の表情を浮かべた。
「士郎さん、あんた何を――」
「金さえ出せば、さらうのに協力するよ。日本で、年間何人の人間が行方不明になるか知ってるか? 毎年およそ十万人だよ。そこに一人追加されるだけだ。あんな病院に入れっぱなしじゃ……杏子ちゃんが可哀想過ぎやしねえか?」
「……」
武志は士郎の顔を見つめた。士郎は裏の仕事人である。これまで士郎と関わってきて、彼の恐ろしさはちゃんと理解している。肥田をあっさりと叩きのめし、肥田の傷の手当てをした後、切り取った両手両足を薬品で溶かし、後の掃除もやってのけたのだ。しかも、快楽殺人者だという噂も聞いている。
しかし……目の前にいる士郎の表情は暖かく、瞳からは深い優しさを感じた。武志のこれまでの人生において、こんな優しい目をした男は見たことがない。
しかし――
「気持ちは嬉しいですが……無理ですよ。あそこは酷い場所ですが、それでも……俺には彼女を治せないし、世話もできない。それに……杏子の両親を……これ以上悲しませたくないんです」
そう言って、武志は切なそうな笑みを浮かべた。
「両親、ねえ……あんな所に閉じ込めてる親に、何も言う権利はないだろう。大体、犯人も探さないでお前に責任を押し付けるような奴らに――」
「仕方ないんですよ……俺にも責任があるんです。二人は……誰かを責めたい……本当に……仕方ないんです……」
杏子の両親は、武志を口汚く罵った。だが、武志には何も言い返すことができなかった。黙ったまま、両親の罵声を受け続けていたのだ。
それには理由があった。
「俺はあの時……言ってしまったんですよ……死んでも言ってはいけなかったのに……」
(もう許してください……杏子を……その女を皆さんの好きにして構いませんから……)
四人から散々に殴られ、蹴られた。特に肥田の暴力は執拗だった。顔は変形し、前歯は折られ、指を潰された。
その暴力の嵐の前に、武志の心はへし折られ……。
「最悪の男ですよね……絶対に言ってはいけなかったのに……俺がそう言った時の、杏子の絶望的な顔……今でも忘れられないんです……俺はこの件が片付いたら、杏子の前から姿を消します……それまでは……会わせてください……金は払いますから……」
武志はそう言うと、士郎に深々と頭を下げた。
「なあ、それはお前のせいじゃないだろうが。そんな状況にあったら、俺だって同じことを言ったよ……とにかく、お前は悪くないだろうが――」
「でも、あなたなら……そんな目には遭わなかったでしょう……それ以前に……あなたなら……四人全員を殺してでも……杏子を守ったはずだ……俺にはそれが出来なかった……俺は……自分可愛さゆえに……言ってはいけない言葉を吐いて……無様に生き延びたんです……」
そう言うと、武志は下を向いた。
体が震え出す。そして……こらえきれず、涙がこぼれた。
「もう一度言う。武志、お前は悪くない。お前に必要なのは……自分で自分を許すことだ。なあ、はっきり言うぞ……俺たちはな、どうあがいても真っ当な人生は歩めないんだよ。俺たちみたいな人間は……底辺を這い回って生き続けるしかないんだ。どんなに無様でも、な……」