あんた、この結末をどう思う?
西村陽一が目を覚ますと、既に昼を過ぎていた。
昨日はどうやって帰ったのか、よく覚えていない。ただ……実家に帰ると同時に、泥のように眠ってしまった。両親は血相を変えて怒鳴りつけてきたが、陽一はその言葉を無視した。いや……無視したというよりは、疲労のあまり何も反応出来なかったと言った方が正しい。
そして今日、久しぶりに昼間に目覚めた。ここ数日間、目覚ましもセットしていないのに早く起きられていたのだが……あれは何故だったのだろう。陽一は苦笑いを浮かべて起床する。
その時、ふと思い出したことがあった。昨日、公園で会った男……確か、大和武志と名乗っていた。不健康そうに痩せた体と鋭く不気味な顔立ち、そして得体の知れない独特の雰囲気を醸し出していた。
だが、親切な男でもあった……公園にて、飢えた自分にパンを買って来てくれたのだ。さらに、帰りの交通費まで握らせてくれた。しかも、年上の人間にありがちな説教臭いことは何も言わずに……。
ただ、この言葉だけを残して。
(陽一くん……君に何があったかは知らないし、あえて聞こうとも思わない。ただね……とりあえずは、帰って眠った方がいい。考えるのは……その後でもできる。何をしていようが、人生なんて大して変わりないんだよ。とにかく、食べて、寝て、最期には死ぬ。それだけさ)
身も蓋もない言葉だ。しかし、なまじ励ましの言葉をかけられるよりも……今の陽一にはありがたかった。あの人はいったい何者だったのだろう……今まで会った誰よりも、暖かい目の持ち主だった気がする。あっさりと別れてしまったのが残念だ。連絡先を聞いておけば……いや、向こうにとって迷惑かもしれない。
陽一はそこで初めて、この数日間の出来事を振り返った。
始まりは偶然だった。そこから、様々な事件が起こり……まるで、バカな脚本家の書いたB級映画のようだ。
藤田鉄雄を刺し殺したサラリーマン風の男――刑事の高山は仁美一郎と呼んでいた――は、突然乱入してきた天田士郎に絞め落とされ意識を失った。
そして、士郎は言った。
「陽一くん……君はさっさと帰った方がいい。君はここには居なかった。後の始末は……俺とこのおっさんがやる。君はここには居なかった。何も見てないし何も聞いてない。何も知らない。そういうことにしておけ。それと……もし君に、その気があるなら電話してきな。君は……面白い」
そう……陽一は初めから、この事態を想定していたのだ。鉄雄からの電話の直後、士郎に連絡した。そして火野正一の使っている事務所にいた時も、士郎とメールのやり取りをしていたのだ。万が一、鉄雄にスマホをチェックされた時に備え、メールはこまめに削除しながら……。
そのやり取りの最中、士郎は陽一からのメールに違和感を覚えた。鉄雄はなぜ、わざわざ廃墟に寄り道するのか? まず間違いなく、陽一の口を封じるためだろう。士郎は用心するように、と書かれたメールを送信した。自分も念のため、そこに向かうと書き添えて……。
だが結局、死んだのは鉄雄と正一の方だった。鉄雄は一郎の妄想に巻き込まれ、滅多刺しにされて命を落とした。正一は……皮肉にも鉄雄の落とした拳銃が暴発し、その銃弾が頭を貫き、命を奪ったのだ。
二人の死体は、士郎が始末した。そして一郎は、高山が手錠をかけて連れて行ってしまった。適当な理由を付け、警察の権限で強制入院させるのだと言っていた。
それにしても、士郎という男には本当に驚かされる……あの高山という刑事は、士郎の仲間だったらしいのだ。刑事を仲間にしているとは……士郎は想像を超える大物なのかもしれない……。
そんな恐ろしい男と、この先も付き合っていていいのだろうか?
陽一はぼんやりと考えながら、パソコンに向かう。いつものように、自分の投稿した小説をチェックした時――
見慣れぬ文字が表示されていた。
(感想が書かれました)
陽一は一瞬、何事が起きたのかわからなかった。だが、気を取り直してすぐにチェックする。
(初めまして。貴方の作品を拝読させていただいています。他の方とは一味違う独特の文体とリアリティーある描写、そして重厚なテーマに圧倒されている次第です。最後まで読み終えたら、また感想を書かせていただきます)
ディスプレイの前で、陽一は動けなくなっていた。自分の作品を評価してくれる人がいたのだ。異世界ものでもなんでもない、絶対に一般ウケしないであろう自分の作品……それを誉めてくれる人がいたのだ。体験したことのない初めての感覚。陽一はしばし呆然となっていたが……。
やがて、嬉しさがこみ上げてきた。
そして、陽一は思った。書き続けていても、読んでくれる人間が存在するとは限らない。書いた作品が、評価されるかどうかもわからない。
しかし、書くのを止めてしまったら……可能性は0になってしまうのだ。書き続けている限り、可能性は0ではない。少しずつでも進んでいる。
それに、表現することの喜び……こうやって、創り出したものを読んでくれる人がいる。評価してくれる人がいる。たとえ一人でも、そんな人がいるのなら……。
自分は創作を続けていける。
・・・
高山裕司は高級マンションの一室にいた。そしてリビングで、女と向き合っている。上品そうな美しい顔立ち、白い肌と長い黒髪、そして豊満な胸元が印象的だ。
だが、この女は……一郎の姉、呉萌子なのである。
「萌子さん……あなた、噂以上にいい暮らしをなさってますね。それにしても、ずいぶんと若く見えますな……二十代と言っても通りそうだ。それに、お美しいですね」
言葉自体は軽いものだ。しかし、高山の目付きは鋭かった。まるで尋問でもするかのようだ。
「か、関係ないでしょ……一郎は……いったい何をしたの?」
萌子は怯えた表情で尋ねる。顔色も悪い。体を震わせながら、こちらを窺うように上目遣いで見ている。
「弟さんは……まあ、色々ありましてね。措置入院させました。ところで萌子さん、俺にはどうしてもわからないんですがね……」
高山は鋭い目付きで、萌子をじっと見つめた。
「あなたは、弟さんの病気を知ってましたよね? 病状も……なのに、どうしてほっといたんです?」
「……あなたには関係ない――」
「関係ない、なんて言ってもらいたくないですな。私は弟さんに刺されそうになったんですよ」
そう言うと、高山は萌子を睨み付ける。萌子の表情は、怯えから恐怖へと変わった。体を震わせながら高山を見つめる。
「う、嘘――」
「嘘じゃないんですよ。弟さんは、果物ナイフを振り回して俺に襲いかかってきました。どうにか取り押さえましたがね」
「そんな……」
萌子の顔は完全に青ざめていた。体を震わせながら、両手で頭を覆う……だが、高山は容赦しない。
「俺の思ってることを言いましょう……あなたの両親を殺したのは弟さんだ。あなたは、弟さんが両親を殺す場面を見ていた……ところが、あなたはそのことを警察に言わなかった。それどころか、弟さんをどこかに匿った。さらに……たまたま外で目撃した人相の悪い男を犯人に仕立てあげようとした」
「ち、違う――」
「いいえ、違いませんよ……ただね、今さら弟さんを裁くことはできない。証拠を見つけるのは難しいでしょうしね。そもそも、弟さんには刑法三十九条の壁がある」
そう……日本の刑法三十九条において、心神喪失者は責任能力無しと判断され、処罰することはできないのだ。一郎を殺人の罪で裁くのは不可能だろう。
「俺は弟さんを逮捕できません。また、あなたをどうこうする気もありません。あなたが望むなら、墓場まで口をつぐんでいるつもりです……ただね、俺は真実を知りたいんですよ」
「真実……」
「そう、真実です。あなた方にいったい何があったのか……俺はそれが知りたいんですよ」
仁美の家は異常だった……仁美敬史は実業家であり、貧乏人から一代で財を成した傑物ではあったが、同時に人格破綻者でもあったのだ。五年前には、二十歳になっていた息子の一郎や、再婚した妻の三十歳近い娘にまで、自分への絶対服従を強いていたのだ。
仁美の家には細かいルールがあった。それも一つや二つではなく……全ては敬史が決めたものだ。だが敬史のルールはどんどんエスカレートしていき……。
そこまで話した時、萌子の顔が歪んだ。
「これ以上は……話したくない……二人とも……死んで当然よ……一郎がやらなかったら……私が殺してた……」
萌子の顔には、凄まじいまでの憎悪の念があった。義理の父親である敬史だけでなく、実の母親である弥栄子に対しても激しい憎しみを抱いているようなのだ……。
高山は黙ったまま、じっと萌子を見つめた。何があったのか、なんとなく想像はついた。高山はこれまで、人間の裏の部分を嫌というほど見てきたのだ。実の娘と関係を持つ父親を見た。それを見てみぬふりをする母親も……恐らく、萌子の身にも似たようなことが起きたのだろう。
彼女には同情の余地はある。だが……。
「あんたには同情する。俺もあんたの立場だったら、同じことをしたかもしれない。だが、弟さんを退院させた……あれはいけなかったな」
「何を――」
「弟さんは両親を殺した記憶を封じ込め、親を失い心に傷を負った哀れな少年として……羽場医院に入院していた。その間、あんたは実業家の呉広介と出会い結婚、見事な玉の輿だよ……だが、問題が起きた。羽場医院の大森医師が、弟さんの記憶を甦らせようとし始めた。だから、あんたは弟さんを退院させちまった」
「……」
「いきなり退院させられた弟さんは社会に適応できず……その結果、妄想の中で生活することになった。あんたは弟さんの妄想を守るため、金を援助し続けた……違うかい?」
高山の口調は完全に変わっていた。容疑者を追い詰める刑事のそれになっている。獲物に襲いかかる猟犬のような表情で、高山は言葉を続ける。
「あんたにしてみれば、今の生活を守るため、やむを得ずそうしたんだろう……だがな、あんたが弟を野放しにしていたせいで、死ななくてもよかったかもしれない男が二人死んだ」
「そ、そんな……嘘……嘘よ!」
恐怖に満ちた表情で叫ぶ萌子……だが、高山はそれを制した。
「心配するな。その二人の死体は俺が処理した。事件にはならない。さらに言うと、そいつらはプロの犯罪者だ。生きる価値もないかもしれねえ人間さ……しかし、奴らも奴らなりに必死で生きようとしていたのも確かだ。あんたの弟は、それを奪った……それだけは忘れないでもらいたいな。あんたが一生、背負うべき十字架だよ」
「その……二人は……誰なの……」
「それについちゃあ、あんたは知る必要はない。俺も教える気はない。こいつもまた、俺が墓場まで持っていく秘密だよ」
・・・
ヒトミ・イチローは勇者である。彼は羽場商事でうだつのあがらないサラリーマンをしていたが……会社に行こうとしていた時、車道でよろよろしていた子猫を発見してしまったのだ。慌てて子猫を助けようとしたところ……猛スピードで走ってきたトラックに跳ねられ、イチローは即死した……。
ところが、である。死んだはずの彼の前に、神と名乗る老人が現れたのだ。白い髪、白く長い髭、そして怪しげなデザインの杖……そして、老人は言った。
「いやあ、すまんすまん。間違えて君を死なせてしまったよ。本来なら、君が死ぬはずではなかったのだが……こちらに手続き上のミスがあったようだ。お詫びのしるしに、君を異世界に転生させてあげよう。それも……チート能力を持つ、その世界では最強の勇者としてね」
その言葉の直後、イチローは強烈な光に全身を包まれた――
そして次の瞬間、イチローは見たこともない場所にいた。周りの風景は一変し、見渡す限りの草原……しかし、彼はさっそく雑魚モンスターであるゴブリンの群れに襲われる。緑色の肌をした、凶暴なゴブリン。だが、イチローは強力な火炎系魔法で、襲い来るゴブリン全てを一瞬にして消し炭に変えてしまったのである。
そして……イチローはあちこちを飛び回るうちに、ここが中世ヨーロッパ風の異世界であることを知る。同時に、自分の恐ろしい強さも……チート勇者、イチローはこうして誕生したのである。
今、勇者イチローは異世界の街を白馬に乗って練り歩いている。先日はダンジョンに忍び込み、魔王とその部下たちを刺し殺した。どのような成り行きでそうなったのか……記憶はあやふやである。気がついたら、魔王とその部下は倒れていた……ただ、魔王が大きく強かったことは覚えている。妖刀ムラマサムネで魔王を刺し貫いたことも覚えている。
あやふやな記憶ではあるが……ともかくイチローはこの地に平和をもたらしたのだ。
「きゃあああ! イチローさまよ!」
「勇者さま、素敵!」
「イチローさま、カッコいい!」
「素敵だわ!」
「こっち向いて!」
若く美しい娘たちから投げかけられる、憧れと賞賛声の嵐……イチローは乗っている白馬の上から、軽く手を上げてそれに応じる。自分はヒーローなのだ……この世界にいる限り、自分を傷つける者はいない。自分の障害になるようなものもない。それどころか、全ての人間が自分を崇め奉る……何もかもが、自分の思い通りなのだ。こんな素晴らしい世界が、他にあるだろうか?
「すんません……この新しく入ってきた仁美一郎って、どこかで見たような気がするんですけどね?」
「ああ……実は昔、あいつの両親が殺されたんだ。殺人鬼に滅多刺しにされてな……その時、ネットで顔写真が出回ったらしいからな……殺人を目撃したショックで、記憶喪失になっちまったんだよ。それで、一時期はちょっとした有名人になったんだ」
「道理で……どっかで見た顔だと思ったんですよ。それにしても……拘束衣を着せられてんのに、ずいぶん幸せそうっすね」
「そりゃ、幸せに決まってるさ……ずっと自分の頭の中の世界に引きこもってるんだからな。ほら見てみろよ……笑ってるぜ」
「何か羨ましいですよ。こいつ、何の悩みもなく幸せなんでしょうね……」
「そりゃそうだよ……何の悩みもなく、ずっと夢の世界の中に居られるんだからな。現世の苦労も悲しみも知らずに生きてられるんだから。俺たちみたいに、仕事もしなくていいし」
「そうですね……俺もいっそ、こうなりたいですよ。毎日が凄い楽しそうじゃないですか……さあ仁美さん、食事の時間ですよ。はい、口開けて」
「まあ、こいつは素直でおとなしいから助かるよな。暴れだしたりもしないし……」
「あ、暴れるっていや……隣の女子棟にいる鈴木杏子なんですけどね、最近、妙におとなしくなったらしいんですよ」
「ええ? 本当かよ? あいつ、入ってきた当時は凄かったんだぜ……普段ボーッとしてるけど、こっちが近寄るといきなり暴れ出したりしてたんだ。窓から飛び降りようとしたこともあってさ……」
「そうっすよね。あ、あと……最近、一人言を言うようになったらしいですよ。たまにブツブツ呟いてるそうです」
・・・
「杏子……また来たよ。この前、不思議な男の子に会ってさ……潰れた病院からフラフラ出てきたんだよ。俺、どちらかって言うと人見知りじゃない? なのにさ……その子には自分から話しかけてたんだよね。何かほっとけなくてさ。いや……もしかしたら俺、いつの間にか人見知りじゃなくなったのかもしれない」
暗い独房のような部屋……ベッドで寝ている杏子――体は寝ているが目は開いている――の前で椅子に腰掛け、武志は一人で喋り続けている。
「何があったのか知らないけどさ、死人みたいに顔色が悪くて、今にも倒れちまいそうでさ……コンビニで菓子パン買ってあげたら、凄い勢いでガツガツ食べてたよ。まるで、難民の飢えた子供みたいにさ。でも、極度の飢えという感覚は……人間にとって一度は経験しておくべき感覚なのかもしれないね」
そう言いながら、武志は菓子パンを取り出し食べ始めた。
しかし、杏子は何も反応しない。黙ったまま、ずっと天井を見つめている。
それでも、武志は喋り続けた。
「あとね……俺には友達ができた。天田士郎さんて人さ。君がここを出られるようになったら……会わせるよ。俺が今まで会った中で、最も危険だが……最も信頼できる人だよ」
「武志……そろそろ時間だぞ」
扉をノックする音、そして扉越しの声。武志は寝ている杏子の耳元に顔を近づけた。
「杏子……俺は生きることにしたよ。ここに通い続けるために……君が治るまではね。仮に一生、君がこのままだとしても……それでも俺は、ここに通い続けるよ。俺の命が尽きるまで、ずっと……」
そして、武志は立ち上がった。扉を開け、部屋を出る。
そして、部屋の中は沈黙に支配される……はずだった。しかし――
「た……け……し……たけ……し」
病棟の廊下を、武志と士郎は無言のまま歩く。相も変わらず、様々な音が聴こえてくる。ブツブツ呟くような声、何かを殴っているような音、さらには、表現のしようのない――そして何が行われているのか想像したくない――奇怪な音。そんな中、二人は無言のまま歩いた。
「お前は結局、生きることにしたんだよな?」
帰り道、車を運転しながら尋ねる士郎。武志は頷いた。
「ええ……俺はあなたみたいに、無様に生き続けることにしましたよ。この先も、よろしくお願いします」
「そうか……俺はいいと思うぜ。ところでお前、この先は何する気だ?」
「何する気? さあ……何しましょうかねえ」
武志は思案する。この先の生活など、考えてもいなかった。復讐のみを考えて生きてきた、これまでの自分。したがって、その後の人生など考えてもいなかったのだ。
「本当に、何しましょうかね……仕方ないから、また悪さでもしますか――」
「なあ武志……お前、社長になる気はないか?」
「はあ?」
思わず聞き返す武志。だが、士郎の横顔は真剣そのものだった。
「いや、社長って言っても小さい会社だよ……いや、個人事業主でもいい。とにかく、お前はもう……こっちの世界には関わるな。お前はこっちの世界の住人にはなれないし、なっちゃいけない……お前はまだ、人を殺してないんだ」
「……殺し、ですか」
「ああ。武志……俺はな、この世界には目に見えないボーダーラインがあると思ってる。越えてしまったら、戻れないラインが」
「ボーダーライン……」
「そうだ。俺は既にそいつを越えちまった。人を殺した奴が、そのラインを越える……少なくとも、俺はそう思ってる」
士郎の口調は静かなものだった。しかし、その言葉の奥に秘められたものは重い……武志は思わず、士郎の話に聞き入っていた。
「はっきり言うぜ。俺は金のために殺しをやってるわけじゃない。俺は悪党しか殺さないが……悪い奴を裁く、なんてガキ向けのマンガに出てくるようなもののためでもない。金だの正義だの、そんなことで人間が殺せるかよ……殺しは殺しだ。こいつからは一生、逃れられねえんだ」
士郎の顔に、自虐的な笑みが浮かぶ……武志は何故か、ひどく悲しい思いに襲われた。
「なあ武志……お前は俺のようにはなれない。お前にはお前の生き方ってヤツがあるはずだ。今のうちに、この業界からは身を引け。そして表の世界で生きていくんだ。その方が、俺としてもありがたい」
「え……それは、どういう意味です?」
「世間的には、俺は無職なんだよ。だから、お前が会社を創設し……俺はそこの社員てことにしてもらえるとありがたいんだ。つい最近、知り合った奴がそうだったんだよ……そいつは表稼業の存在にはこだわってた。俺もそいつを見習おうかと思ったんだよ」
「へえ、そんな人がいるんですか……」
「ああ。事実、そいつは一度しかパクられたことがないんだ。ただし……ちょっとしたヘマが原因で死んじまったが」
「ヘマ……何をしでかしたんです?」
「相手を甘く見た……ただ、それだけさ」
・・・
士郎は武志と別れた後、とあるアパートに行った。築六十年の木造で、今にも崩れ落ちてしまいそうな雰囲気だ。事実、住んでいる人間は誰もいない。本来なら立ち入り禁止だが、士郎はここの大家とは顔馴染みである。
そして……もう一人、大家と顔馴染みの男がいた。
「お前さん、まだあいつとつるむ気かい?」
二階に上がるなり、声をかけてきた男……刑事の高山だ。共有部分であるはずの洗面所のそばに座り込み、缶ビール片手にこちらを上目遣いで見ている。士郎は腰を降ろした。
「まあな……武志には色々やってもらいたいこともある。あいつは、あんたみたいな悪党じゃないから信用できるしな」
「お前さんには言われたくねえなあ」
吐き捨てる高山。その瞳には、士郎に対する軽蔑の念がある。士郎は苦笑し、持っているカバンの中からビニール袋に包んだ四角い物を一つ取り出す。そして高山に差し出した。
「ほらよ、おっさん……あんたの取り分だ。まさに漁夫の利って奴だな。藤田と火野、そして陽一が奪って来た金を俺たちがいただく……こんな良い仕事はないぜ」
そう、鉄雄の計画を陽一から聞いた瞬間……士郎はその金をかっさらうという絵図面を描いたのだ。そして高山が、その計画に協力した。
もっとも、一郎の乱入は完全に想定外だったが……高山は一郎と再会した時から、彼が両親殺しの犯人ではないかと疑っていた。しかし、一郎は当時の記憶を失っていたのだ。その上、妄想に憑かれてしまっている……しかも、夫婦惨殺事件の担当でない高山には下手な真似はできない。そこで高山は、しばらく様子を見ていたのだ。
もっとも、自身との出会いが記憶を取り戻すきっかけになったとは、当の高山も想定外だったが。
「にしても、あのガキが藤田を出し抜いたのか……信じられない話だよ」
そう言いながら、高山は頭を振った。皮肉ではなく、本当に感心しているようだ。
「ま、一見うすのろに見えても甘く見ちゃいけねえってことさ。それに……あんたにだって、わかるだろ? 人間て奴には、どんな才能が眠ってるかわかりゃしねえ。あの陽一には才能があった。ただ……周りの人間は誰も気づかなかった。さらに言うと……あんな才能は、普通に暮らす上では無い方がいい」
「まあな。ところで……お前さんは、あのガキをどうする気だ?」
「俺はどうこうする気はないよ。陽一の意思に任せるさ。じゃあ、俺は行くぜ。悪さもほどほどにな、おっさん」
そう言うと、士郎は立ち上がった。そして振り向き、立ち去りかけたが――
「よく言うぜ。いいか、お前さんがパクられないでいられるのは……俺のおかげだってことを忘れるな、士郎……いや、アスカショウくん。それが本名だったよな」
その言葉を聞き、士郎は足を止めた。そして振り返る。
「あんたも忘れるな。俺がパクられる時は……あんたも地獄行きだ」
・・・
それから二日後。
陽一が新しく書き、投稿した作品……そこに、またしても感想が来た。
(はじめまして。現在、貴方の作品を拝読させていただいております。リアルな心理描写に圧倒されながら読ませていただいている次第です)
陽一はその短い感想をじっくりと読んだ。そして何度も何度も読み返した。読み返すたび、嬉しさがこみ上げてくる……。
だが意外なことに、それはほんの一時的なものだったのだ……。
その嬉しさは、現れた時と同じく唐突に消える。あとに残ったもの、それは……この二日間、陽一の胸に繰り返し去来してきているものだ。脱け殻になってしまったかのような漠然とした寂しさ、そして虚しさ。そう……陽一の今の生活には、何かが足りないのだ。それはもう、表現することの喜びなどでは埋められない。他者に評価されることの快感でも……。
では、何なら埋められるのだろう?
あの人なら、知っているのだろうか?
帰ってきてからの陽一は……心の空洞を埋めるため、部屋で体を鍛えぬいた。腕立て伏せ、腹筋、スクワット……さらに、昨日は外を走り、公園に設置されている鉄棒で懸垂をしたりした。体を動かすことで、一時的にせよ気をまぎらわせることはできた……はずだった。
しかし……。
ふと気がつくと、あの日のことを思い出している。鉄雄や正一らと共に、二人を射殺し金を奪い逃走……時間にして三十分にも満たない。だが、これまでの人生であり得ないくらい濃密な時間だった。さらに、その後の展開……家に帰りたい、そのためだけに陽一は己の全てを集中させた。自分の全能力をフル稼働させ、血みどろの修羅場を生き延びたのだ。
気がつくと、陽一は拳銃をいじくり始める。鉄雄が落としたものを、どさくさに紛れて持ち出したのだ。鉄雄に教わったようにマガジンやトリガーをチェックし、両手で狙いを定める……最後に安全装置をかけ、枕の中に隠した。そして、ため息をつく。
退屈だ……。
そう、あまりにも退屈な日常。あの時、陽一はただ……無事に家に帰りたいとだけ願っていた。そのため彼は必死になったのだ。
だが、あれだけ苦労して戻ったはずの日常は……。
陽一は虚ろな表情で立ち上がった。手早く着替え、外に出る。
そして……ただ、行く当てもなく歩いた。
前から二人連れの若者が歩いて来た。何やら大声で語り合いながら歩く二人の姿からは、知性や品といったものがまるきり感じられない。表面的なもので全てを判断するタイプ……陽一にはそう思えた。
全ての始まりの日、会った奴らと同類の……。
「おいおい! ちょっと待てや!」
「ぶつかっといて、挨拶もなしですか!?」
そうか……。
やっとわかったよ。
僕に必要なのは、君たちだ……。
「何笑ってんだよ! ちょっと来いや!」
言われなくても、行くよ……。
さあ、楽しもう。
想定していたものより長くなりましたが、どうにか終わらせることができました。いや、難しかったですね……予定では、武志は違う形で終わらせるはずでした。しかし、そうなると救いがなさ過ぎるので……まあ、何はともあれ無事に完結させることができました。レビューを書いてくださったくろすぐりんさん、畑本祥光さん、立花黒さん、プレートニフさん、猫我好さん、風雷寺悠真さん、和泉ユタカさん、鷹樹鳥介さん、本当にありがとうございました。また、感想、評価、ブックマークを下さった皆々様、心より感謝します。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




