あんた、この戦いをどう思う?
大沼ビルの地下駐車場……西村陽一は目出し帽を被り拳銃を握りしめ、車の陰に身を潜めていた。傍らには藤田鉄雄がいる。鉄雄もまた目出し帽を被り、拳銃を握りしめていた。
昨夜、陽一は鉄雄から拳銃の扱い方を教わった。とはいえ、最低限のことだけだが。
(いいか、お前には正確な射撃なんか期待してないんだ。とにかく、コイツを構えて奴らの前に出て、胴体を狙って引き金を引けばいいんだ。あとは俺が引き受ける)
鉄雄はそう言いながら、陽一に様々なことを教え込んだ。
そして陽一も……スポンジが水を吸い込むように、教わったことを吸収していった。学校の勉強とは違うのだ。もし学んだことを本番で忘れたのならば……それは死を意味する。陽一はかつてないほど真剣に学習したのだ。
「そろそろだ。スーツを着た二人組の男が降りて来る……片方はアタッシュケースを持っている。そいつらを見たら……あとは、打ち合わせ通りにやれよ」
そう言うと、鉄雄は足音を立てずに移動する。打ち合わせでは、陽一が拳銃を構えて前に出る。わずかに遅れて、鉄雄が拳銃を構えて後ろから襲う。
もし相手が抵抗する素振りを見せたら、迷わず撃て……陽一はそう教わった。陽一は拳銃の安全装置を解除し、車の陰から待ち受ける。広い駐車場……だが、車は二台しか停まっていない。そもそも、このビルは銀星会の所有物みたいなものなのだ。関係者以外は入って来ない。そう、裏社会の人間以外は……。
だからこそ、銃声を聞いたとしても……誰も通報したりしない。
エレベーターが降りて来る。そして、二人の男が出て来た。二人ともいかつい風貌で、高級そうなスーツを着ている……もっとも、陽一にはスーツの値段などわかるはずもないが。
そして片方の男は、手にアタッシュケースをぶら下げている。
それを見た瞬間……陽一の心臓は一気に動きを速めた。痛みさえ感じるような激しい鼓動、そして息苦しさ。陽一は、逃げ出したい気持ちに襲われた。いや、逃げ出すというよりは、その場にうずくまってしまいたかった。そして、何もかも見なかったことにしたい衝動に駆られた……。
だが、それは出来なかった。
自分の中に蠢く、どす黒い何か……それが自分に命じたのだ。
殺せ、と。
陽一は立ち上がる。口からは、本人以外には意味不明なわめき声……陽一は雄叫びと共に拳銃を構え、二人の前に躍り出る。二人は驚愕の表情を浮かべながらも、目の前の事態に反応した。一人は懐に手を伸ばし――
その瞬間、陽一は引き金を引いた。
乾いた銃声……銃弾を胸に受け、のけぞる男。だが、陽一は止まらない。さらに引き金を引く。発砲の衝撃で、手首に痛みが走る……しかし、陽一は痛みに耐えた。さらにもう一度、引き金を引く。
三発の銃弾は男の胸に全て命中し……男は仰向けに倒れた。
だが、もう一人いる。もう一人がアタッシュケースから手を離し、懐に手を入れる……。
陽一もそちらに拳銃を向けるが――
今度は、別方向からの銃声。鉄雄だ。後ろに回った鉄雄が、もう一人に銃弾を撃ち込む――
男は地面に崩れ落ちる。だが鉄雄は容赦なく、倒れた男に銃弾を撃ち込んでいった。
「陽一、よくやったな。さあ……ずらかるぞ」
鉄雄の声は震えていた……さすがの鉄雄も、このような状況では、いつものようなクールな態度ではいられないらしい。陽一は体を震わせながらも、鉄雄の後に続く。歩きながら目出し帽を脱ぎ、ポケットに入れる。
鉄雄と陽一は、階段で地上に出た。二人とも、清掃業者のような作業服を着て帽子をかぶっている。そのまま、なに食わぬ顔で歩いていた。陽一は今にも力が抜けそうになる足をどうにか動かし、鉄雄の後にピッタリとくっついて歩いている。
そして……人気のない場所に停まっている車に乗り込む。
その運転席には、火野正一が座っていた。
「鉄さん、やりましたね……じゃあ、行きますよ」
正一は努めて冷静に振る舞おうとしているが、声は震えている。そして車を発進させた。
「陽一、チャカをよこすんだ」
鉄雄の声。陽一は不自然なものを感じながらも、鉄雄に拳銃を渡した。
そして……三人は廃墟の中に居た。鉄雄がアタッシュケースを開け、正一が狂喜乱舞する……その様子を、陽一は呆けたような表情で見ていた。彼の胸に去来していたもの……仕事を終えた満足感、恐怖から解放された安心感、そのどちらでもなかった。
虚無感だった……。
自分の全てを賭けた計画――鉄雄が描いた絵図とはいえ――は、見事に成功した。人生で初めて拳銃を撃った……そう、人間を射殺したのだ。
その結果、自分は金を手に入れた。
だが、自分が欲しかったものは何だ?
金か? 金なのか?
あんたたちは……あんな紙切れが欲しかったのか?
陽一の目には、札束を前に狂喜乱舞する正一と、満足げな笑みを浮かべる鉄雄が映っている。二人のその姿は、あまりにも無様に見えた。
自分の嫌悪していたはずの者たちと、本質的には変わりない姿……。
僕は、こんな奴らに憧れていたのか……。
だが、次の瞬間……鉄雄の表情が変わった。
鉄雄は冷酷な表情で、こちらを向く。
そして、拳銃を向けた。
やっぱり、そういうことだったのかよ……。
・・・
鉄雄は拳銃を向けた。正直、目の前の少年を殺したくはない。陽一は、自分の期待以上の動きをしてくれた。今まで、口ばかりの連中を何人も見てきた。少年院や少年刑務所を出てきたチンピラ……だが、そんな連中のほとんどが、いざとなると使い者にならなかったのだ。大抵、彼らは怯えて尻込みするか……あるいは度を超えた凶暴さを発揮して計画をぶち壊しにするか、のどちらかだった。
怯え、そして凶暴さ……そのどちらもが、自分の中に芽生えた恐怖心を制御できなくなった時に現れる現象なのだ。結局のところ……不良と呼ばれる人種は、暴力慣れ――それも弱い者を一方的にいたぶるような――はしていても、厳しい環境下で自分を鍛練した経験がない。仮にあったとしても、それは上から強制されてのものだ。自ら進んで、厳しい環境下に身を置いたことなどないのだ。そんな人間に、自分を制御できるはずがない。
だが、陽一は違っていたのだ。恐怖に震えながらも、懸命にやるべきことをやった。いや、やるべきこと以上のことをやってのけたのだ。それも、初めての仕事で……こんなタイプは、今まで見たことがない。
陽一、お前は大した奴だよ。
そう、本当に大した奴だった。もう少し早く出会っていれば……目の前の少年をスカウトしていたことだろう。
自らの右腕として、持てる知識をきっちり教え込んだかもしれない。
だが……。
可哀想だが、死んでもらうぜ。
この少年が生きている限り、安心はできないのだ。拳銃を用いての強盗殺人……警察に逮捕されれば、確実に死刑である。強盗殺人ともなれば、警察は海外にまで捜査の手を伸ばすだろう。
いや、警察はまだマシだ。銀星会に捕まったら……確実に死ぬよりも悲惨な目に遭うことになる。
だから、口を封じなくてはならないのだ。
鉄雄は拳銃を構え、ゆっくりと近づく。せめて苦しまないよう、一思いに殺してやる。だからこそ、外しようのない位置まで近づき、一発であの世に送る。それが鉄雄の、せめてもの情けだった。
やっぱりこいつ……天田に似てるな。
何故か、そんな考えか頭をかすめた。しかし――
「藤田……銃を捨てろ」
突然聞こえてきた声。刑事である、高山裕司のものだ……鉄雄は愕然となった。声のした方向に顔を向ける。高山は拳銃を構え、ゆっくりと姿を現した。どうやら、壁に隠れてこちらの様子を窺っていたらしい。
だが、そんなことはどうでもいい。
このままだと、俺は逮捕される
逮捕されたら……確実に死刑だ……。
ならば……。
「高山さん、銃を捨てるのはあんただよ。でないと……ガキの頭をぶち抜く」
そう言いながら、鉄雄は高山の様子を横目で窺う。ただし、銃は陽一に向けたままだ。
「藤田……バカな真似はよせ――」
「バカはあんただ。こんな場所に、一人で乗り込んで来るとはな……」
鉄雄は口を動かしながら、同時に目も動かして状況を判断する。陽一は震えながら、銃を見ている。高山は険しい顔で、銃を構えている。そして正一の姿は見えない……。
野郎……どさくさにまぎれて逃げたか?
いや、奴が現金を捨てて逃げるはずがねえ。
となると……。
次の瞬間、鉄雄の目の端に動くものが映った――
「てめえ! 何しやがる――」
「るせえ! 鉄さん! 早く!」
後ろから、高山を羽交い締めにしている正一……鉄雄はニヤリと笑い、拳銃を高山に向ける。まずは高山を始末する。陽一はその後でいい……鉄雄は勝利を確信した。
だが、それは大きな過ちだった。
突然、鉄雄の顔に炸裂した一撃……鉄雄は完全に不意を突かれ、思わず目を瞑る。だが、攻撃は止まらない。続けざまに放たれる拳の一撃が、鉄雄の顔面を襲う――
さらに、襲撃者は鉄雄の腕を掴む……拳銃を奪い取ろうとしているのだ。その時になって、鉄雄は襲撃者が誰であるのかがわかった……陽一だ。陽一は自分の手にしがみつき、拳銃を奪い取ろうと無駄な努力をしている……。
こんな状況にもかかわらず、鉄雄は感心していた。陽一が本格的に化けてしまったことを悟ったのだ。彼は震えながらも、この一瞬の隙を狙っていた……普通の人間なら、腰を抜かし足がすくんで動けないであろう状況なのに……。
だが、惜しむらくは腕力が無さすぎることだ。陽一は度胸はある。思い切りもいい。その点に関しては申し分ない。だが、自分と素手で闘うには、あまりにもひ弱すぎる。鉄雄は陽一をいとも簡単に吹っ飛ばしたが……。
今度は、腹に痛みを感じた。何者かが、自分の体に鋭い物を突き刺している……。
鉄雄は痛みよりも、むしろ呆気にとられて動きを止めた。誰が自分を刺したのか? 何のために? 鉄雄は、自分に組み付きナイフを突き立てている者に視線を落とす。
それはサラリーマン風の男だった。どこかで見た覚えのある……しかし――
「お前だ……お前はあの時……家のそばを歩いてた! お前だろ!」
男は意味不明のことを叫びながら、鉄雄の体に刃物を突き立てる。鉄雄は力を振り絞り、男を突き飛ばした。男は床に倒れたが、そのはずみで鉄雄の手から拳銃が落ちた。拳銃は床に落ち、暴発する。
だが……鉄雄の目には、そんなものは見えていなかった。腹を押さえたまま、よろよろと後退る。その時、頭から血を流し、倒れている正一が目に入った。一体、何が――
その時、またしても突進してくるサラリーマン……鉄雄は腹を突き刺される。それを突き放す体力も気力もない。サラリーマンは狂ったように、何度も何度も突き刺す……薄れゆく意識の中、鉄雄は思った。
こんなはずじゃなかった……。
ツキも流れも、俺に味方していたはずだ。
俺は、どこでヘマをしたんだ?
もしや……あのガキか……。
あのガキを殺そうとしたのが……俺のミスか……。
鉄雄はかすむ目で、陽一を探す……だが、見当たらない。高山が何やらわめきながら、後ろからサラリーマンを羽交い締めにして引き離す。体から流れ出る大量の血液……みるみるうちに、床を真っ赤に染めていく。
ガキは……逃げたのか……。
あいつのせいで……俺は……。
いや、違う。
俺は……己が人生に裁かれたのだ。
・・・
仁美一郎は、ようやく思い出したのだ。
今、自分が刺し貫いている大柄な男……その男こそが、父と母が殺された日に近所を歩いていたことを……。
昨日、一郎は廃墟の中で一晩過ごした。
何かに導かれるように廃墟をさまよっていると、記憶がかすかに甦ってきたのだ。二度と思い出したくなかった記憶が……。
惨殺された父と母……床を赤く染める大量の血液……。
そして刃物を握り、大量の返り血を浴びた姿でこちらに歩いて来る男。
その後、スキンヘッドの大柄な男が歩いていた記憶が……。
そうだよ。
あの男は……。
一郎の脳裏に甦る映像……そうなのだ。父と母の死体となり……その後に、スキンヘッドの大柄な男が近所を歩いていたのを見たのだ。。
さらに、そのスキンヘッドの男と自分は会っている……それも最近、数回に渡って。
あいつなのか?
あいつが父さんと母さんを殺したのか?
血まみれで外を歩いていた少年……そして、近所を歩いていたスキンヘッドの男……。
「殺せ」
不意に聞こえてきた声……一郎はハッとなった。周りを見回すが、人の姿は見えない。
しかし、声はなおも聞こえてくる。
「殺せ……奴らはクズだ……殺せ」
地の底から響いてくるような不気味な声……一郎は頭を抱えた。よろよろと後退り、壁に背中をつける。ここには、確実に何かいるのだ……ドス黒い負の感情が渦巻いている。怨念が漂っている。
そして、死神が棲んでいる……。
声の命ずるまま歩いた。すると目についたのは、スキンヘッドの男。拳銃を片手に、少年を突き飛ばした……。
一郎の記憶が甦る……姉を殴る父、それを黙って見ている母。そして姉を突き飛ばす父。
姉には自由がなかった……そして自分にも。二十歳になった自分と三十近い姉には門限があった。門限を破ると殴られ、蹴飛ばされたのだ。父は子供を自分の持ち物であるかのように扱い、母と姉は言いなりになっていた。そう……父は暴力で一家を支配していたのだ。
そうだ……。
うちは異常だったんだよ……。
姉さんは家を出ようとしたが、何度も連れ戻されたんだ。
そして連れ戻されるたびに殴られた……。
あの日も殴られていたんだ。
「一郎! バカはやめろ! おとなしくしろ!」
誰かの声が聞こえる。聞き覚えのある声。
そうだ。
あの時も聞こえてきた……母さんの声が……。
俺に飛び付いてきて……だから俺は……。
何をした?
「一郎! 思い出すんだ! お前のやったことを!」
さらに声が聞こえる。中年男の声だ……。
やったこと?
そうだ……。
俺が二人を殺したんだ……まず父さんを刺した。包丁で何度も何度も……。
そして、止めに入った母さんも刺した。
その後、見たものは……鏡に映る、血まみれで包丁を握りしめていた自分の姿……。
そして表に出た時、スキンヘッドの大柄な男が歩いているのが見えた。
「うわあぁぁぁ!」
一郎はわめきながら、高山の羽交い締めを力ずくで振りほどいた。そして力任せに突き飛ばす。高山の体は驚くほど軽く感じられた……簡単に吹っ飛び、驚愕の表情を浮かべてこちらを見ている。
「一郎……バカな真似はよすんだ」
「うるさい! お前のせいだ! 俺の目を覚まさせやがって……お前さえ現れなければ……俺はずっと夢を見ていられたんだ! 俺を現実に引き戻しやがって……ぶっ殺してやる……ぶっ殺してやる!」
一郎はナイフを振り上げ、襲いかかろうとしたが――
後ろからしがみつく者。同時に腕を掴み、ナイフを奪い取ろうとする……見たことのない少年だ。少年は必死の形相で自分の腕にしがみつく……。
だが一郎は、片腕の一振りで吹っ飛ばす。今の一郎は、狂気に支配されていた……狂気は一郎の体内のリミッターを外し、異常な腕力を発揮させていたのだ。少年は吹っ飛び、床に倒れる。一郎はナイフを振りかざして襲いかかるが……。
その時、別の男が出現した。恐ろしい腕力で、一郎の腕を掴む。同時に奇妙な形で右腕を伸ばされ――アームバーという関節技である――、肘を極められた。すると次の瞬間、肘に激痛が走る……。
一郎は思わず悲鳴を上げた。肘から先に力が入らなくなり、握っていたナイフが床に落ちる。さらに突然、目の前の風景が一回転――
一郎の体は、床に叩きつけられていた。あまりの衝撃に動くことができない……。
「おっさん、遅くなったな……すまねえ」
自分を投げた男が、高山に言った。その声には聞き覚えがある……一郎は男の顔を見た。
以前、会社に乗り込んできた男だった……。
・・・
大和武志は歩いていた。
ただ、あてもなく近所を歩いていた。一日考えろ、と士郎に言われたものの……今となっては、何もしたいことがないのだ。考えは堂々巡りをするだけであった。
三人の人間の両手両足を切断し、両目を潰した。ある意味、殺すよりも残酷な仕打ちだろう。だが、武志には罪の意識はない。良心の呵責もない。
そもそも、自分が悪を為したという思い……それ自体がない。
しかし、武志は死にたかった。
なぜなら……生きるための理由がないのだ。俺は無様に生き続ける、と士郎は言った。士郎の言葉には重みがある。無能なくせに講釈ばかりする人間の言葉とは根本から違う。武志の心にも響くものがあった。
だが……それでも生きる理由を見出だせない。
(人間って奴は、生きるにせよ死ぬにせよ理由ってものを欲しがる。カッコつけるためにな。だがな……相手の流した血で、真っ赤に染まっちまった俺たちには……カッコ良く死ぬことは許されないんだ)
士郎の言葉を思い出す。そして自分の手を見た。自分は人を殺していない。だが……自分の手も、真っ赤に染まっているのだ。
士郎さんは……それでも生きろと言うのか?
生き続けることが、俺の罰なのか?
生きる理由など関係なしに……。
考えながら歩く武志。歩いているうちに、廃墟の前を通りかかった。しかし――
廃墟から、一人の少年が出てきた。作業服のようなものを着ていて、ひどく顔色が悪い。よろよろとした足取りで歩いている。今にも倒れてしまいそうだ。
武志は一瞬、どうしようか迷った。あの少年は、廃墟で何をしていたのだろう……ただ、中で遊んでいただけなのだろうか? いや、そうは思えない。あの顔色は、見たくもないものを見てしまったような……そんな様子だ。無視して立ち去るか、それとも……。
「ちょっと君! そこで何やってるんだい?」
武志が声をかけると、少年はビクリとした。恐る恐る顔をこちらに向ける。その目は、武志の出方を窺っているようだった。武志は少し迷ったが――
「君、凄く顔色が悪いよ。今にも倒れそうだ。すぐそこに公園がある。そこにあるベンチで少し休んだらどうだい?」
少年は西村陽一と名乗った。高校を中退し、今は無職であるらしい。だが、それ以上のことは何も話さなかった。ベンチに座り、虚ろな目で下を向いていた。
武志も、それ以上は何も聞かなかった。黙ったまま、陽一の横顔を見ているだけだった。何も言いたくないのなら、言わなければいい……。
自分にも、人には言えない過去がある。
「陽一くん、お腹空いてないか?」
武志が尋ねると、陽一は頷いた。
「じゃあ、すぐそこにコンビニがある。パンか何か買ってくる――」
「何が目的なんです?」
不意に投げかけられた言葉……武志は立ち上がりかけていたが、また腰を降ろした。そして苦笑する。
「何が目的って――」
「僕の家は金持ちじゃないです。親切にしても、何のメリットもないですよ」
そう言う陽一の表情は荒んでいた。一見すると不良少年には見えない。むしろ、内向的なおとなしいタイプに思える。
だが、裏社会に身を置いた武志にはわかる。目の前の少年は……恐ろしい何かを経験したのだ。それが何かは知らないし、知る必要もない。
ただ、陽一をそのままにしておきたくはなかった。さらに言うなら、武志も話す相手が欲しかった。何となく、一人でいたくなかった……。
「そうだな……俺がそうしたいから、ていう答えじゃ駄目かい?」
「……」
訝しげな表情になる陽一……武志は言葉を続けた。
「俺は……今までひどいことをしてきた。だから、次は善いことをしたくなった。困っている人を助けたくなった……それじゃ駄目かい?」
「あなたは……変な人ですね」
陽一の顔に、ようやく笑みが浮かんだ。
武志の買ってきた菓子パンを、ガツガツと貪るように食べる陽一。よほど飢えていたらしい。武志はその横で、陽一の食べる様をじっと見ていた。意味もなく笑みが浮かぶ。思い起こせば、鈴木杏子もガツガツ食べる自分を微笑みながら見ていた。
(あんた……よく食べるねえ。太るよ)
杏子は呆れたような口調で言っていた。だが、顔は優しく微笑んでいた……そう、杏子は自分を見守っていてくれていたのだ。彼女がそばにいてくれたから、自分は今まで……。
そうだよな……。
士郎さん、やっぱり俺は……無様に生き続けることはできない。
生きるための大義名分……そいつがないと、無理だよ。
でも、見つけた。
そう、今度は俺が杏子を見守る番だ。
あんたがリンさんを見守っているように……。
次が最終回となります。よろしければ、最後までお付き合いください。




