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あんた、この現象をどう思う?

 恐ろしいまでの緊張と、そして時おり襲ってくる、全身が硬直してしまうような恐怖……西村陽一はこれまでの人生において経験したことのない、未知の感覚に翻弄されていた。

 普段ならパソコンに向かい、小説を書いているはずの時間だ……しかし、何も書けない。そもそも、書く気になれない。頭の中を支配しているのは、二日後に起きるはずのイベント……いや、戦いだ。


 暴力団の銀星会が仕切っている闇カジノ……そこから売り上げ金を持った数人のヤクザが、地下駐車場にて車に乗り込む。銀星会の事務所に運ぶために……そこを襲撃し、金を奪い逃げる。その襲撃に、陽一も加わることになっている。

 闇カジノの存在は公にはなっていない――そもそも存在自体が違法である――ため、売り上げ金を奪われたとしても警察には訴えられない。襲撃により死人が出たとしても、適当な事故をでっち上げてもみ消すだろうというのが藤田鉄雄の考えだ。


(闇カジノの存在が警察にバレたら、銀星会は重要なシノギを失うことになる。だから……一人や二人くたばったぐらいじゃ、警察には訴えないよ。一般人を巻き込まない限り、刑事事件にはならない。銀星会は確実にもみ消す。その代わり……銀星会は組織の面子に賭けて、必死で犯人を探すだろうがな)


 鉄雄の言葉を思い出してみる。辻褄は合う。そもそも、鉄雄がこの計画の首謀者なのだ。自身が破滅しかねないような、バカなことはしないだろう。

 しかも……こんなことも言っていた。


(お前は、ただのニートだろうが? こっちの世界に詳しい友だちもいないだろうしな……だったら、お前は絶対に疑われない。銀星会はまず、同じ裏社会の住人を調べるだろうよ。ヤクザか、外国人マフィアの日本支部の連中か、あるいは金がなくなりトチ狂った半端者か……奴らの考えるのは、こんなところか。いずれにしても、お前は完全にノーマークだ。お前にたどり着くのは、まず無理だろうよ)


 この言葉もまた、辻褄は合っている。矛盾点は見当たらない。そもそも、自分と銀星会との接点はないのだ。となると……。

 本番で致命的なヘマをしない限りは、問題ないということだ……しかも、奪うのはヤクザの金と命。ならば、罪悪感を覚える必要もない。どうせ、社会のクズなのだから。

 しかも、大金が手にはいる……。


 陽一は今、必死で自分を納得させようとしていた。冷静に考えてみれば、無茶苦茶な話ではある。普通の人間であれば、強盗そして殺人をしようなどとは思わない――いくら相手がヤクザとはいえ――……法的に罰せられるかどうかよりも、まずは道義的な部分を考えただろう。特に、人の命を奪うという行為は……。

 だが、陽一は既に人の命を奪っていた。 殺人の罪悪感により追い詰められていた陽一にとって、鉄雄の提案はあまりにも魅力的なものだった。結局、陽一は新しいトラブルを起こして、古いトラブルを忘れる道を選んだのだ……。


 その時、不意に電話が来る。陽一はスマホを見た。知らない番号だ……もしかすると、鉄雄か火野正一かもしれない。陽一はスマホを手に取った。

「あ、はい……」

(あー、陽一くん? 覚えてるかな、天田……天田士郎だけどさ)

「あ、天田……さん?」

 陽一の脳裏に甦った映像……大柄で強面の鉄雄と相対しても、全く臆することなく飄々としていた士郎。 そして、まるでマネキンか何かを分解するように人体をバラバラにし、薬品の入った巨大なバケツに放り込んでいったのだ……。


 その時のことを思い出した瞬間、陽一は吐き気を催した。あの恐ろしい光景……二度と思い出したくない映像。だが、かろうじて堪えた。


(なあ陽一くん、聞いてるのかい? 大丈夫か?)

 士郎の声。陽一は吐き気を押さえつつ、何とか返事をする。

「は、はい……」

(……まあいい。無事で何よりだ。ひょっとして、一人で思い悩んだ挙げ句に首でも吊ってるんじゃないかと思ってね)

 軽い口調で放たれる言葉、そして笑い声……陽一はドキリとした。驚きのせいか、吐き気が消える……士郎には自分の心理、そして行動を全て見透かされていたのだ。


(ところで陽一くん……君は、藤田とは今も会ってるのかな?)

 またしても、ドキリとする台詞を吐く士郎。ここは内緒にしなくてはならない……。

「い、いいえ……会ってませんが……」

(何か嘘っぽいな……まあいいや。会おうが会うまいが君の自由だ。ただ……念のため言っとくけど、あいつはヤバイよ。あいつは本物だから)

「本物……」

(そう、本物。ちょっと調べてみたけど、藤田鉄雄は窃盗から人殺しまで、なんでもござれだ。プロの仕事人だよ。君一人くらい、奴は簡単に殺す。俺が君の立場なら関わらないね。それと、もう一つ……警察に自首とか、そんなことは考えない方がいいよ。こんなネット社会じゃ、いったん前科がついた人間は立ち直るのが難しい。それに、刑務所にいるのは、八割方は人間のクズだしね。あれは悪い夢だった……そう解釈して、全てを忘れるんだ。君はまだ若い。焦った挙げ句、バカなことをしたらダメだ。君の悩みは……いずれ時間が解決してくれるさ)


 ・・・


「鉄さん……拳銃だけで大丈夫ですかね? いっそ、ショットガンでも用意しますか? 知り合いの中国人から買えますよ」

 心配そうに声をかける正一……だが、鉄雄は片手を振って見せた。NOという意思表示だ。

「バカ野郎、ショットガンなんか使ったら、そこから足がつくだろうが。中国人はベラベラ喋りまくるぞ、お前がショットガンを買って行ったってな。俺たちが今持っている拳銃だけでやるんだよ」

「そうですか……大丈夫ですかね……」

 正一の表情は固い。だが、それも当然だろう。闇カジノ売上金強奪計画の本番が、あと二日後に迫って来ている。今回、正一は運転手だが……もし、鉄雄が生きたまま銀星会に捕まったら、正一も捕まるだろう。そうなると、二人とも命はない。もともと命のない陽一は別だが。

「まあ、仕方ねえさ。どっかのバカが寺門や肥田を襲った。結果、そのとばっちりが俺たちにきちまった……ふざけた話だよ。だが、こうなった以上、あとは逃げるしかねえ」

 鉄雄は低い声で、半ば毒づくように言った。そう、何もかもがバカげている。自分の知らない間に何かが起きた。その何かがきっかけとなり、もう一つの何かが起きた。その結果、とばっちりが自分の方に来てしまった……そんな気がするのだ。


「ところで鉄さん……もしあのガキが来なかったら、どうします?」

「来るさ。あいつは今、拷問に合ってるような気分だろうよ。殺人の罪悪感ってのはキツいぜ。もし、そこからの逃げ道があるなら……ガキは必ず飛び付く。たとえ、それが地獄に通じる道でもな。俺にはわかるんだよ。同じ経験をしてきたからな……」

 そう、かつては鉄雄も似たような経験をしてきた。盗み、奪い、殺し、その罪悪感に怯え……そして気が付いてみたら、この世界にどっぷりと浸かっていた。違う生き方をするなら……今がその時だ。

 これ以上、裏社会にいては……死ぬまで抜け出せなくなる。


「おい、邪魔するぜ」


 わずかな間ではあるが、物思いにふけっていた鉄雄……しかし耳障りな声が、その時間をぶち壊す。振り返るまでもなく、何者かわかる。高山裕司だ。

「た、高山さん……一体、何の用です……」

 正一の顔がひきつっている……鉄雄は思わず舌打ちをした。高山のような刑事は、独特の優れた嗅覚を持っている。正一の態度から事件の匂いを嗅ぎつけるのは簡単であろう。これは高山が特別なのではない。何十年もの間、犯罪者と関わるうちに独特の勘が身に付いていくのだ。理屈ではなく、実際に現場で動いて来た者でなければ、理解できない話だろう。

 もちろん、その逆もあるのだ。長く裏社会に潜んでいる住人たちは、一般人と私服刑事を見分けることができる。これもまた理屈ではない。裏社会で生きるうちに、自然と身に付いてきたものなのだ。


「おいおい、そんな嫌そうな顔するなよ火野……仲良くしようぜ。こっちは色々あってな……」

 言いながら、高山はずかずかと入って来る。その臆面の無さもまた、刑事の特徴なのだが。

「何の用です、高山さん……こっちは忙しいんですよね」

 言いながら、鉄雄は顔を上げて高山を見る。不快そうな表情を隠そうともしない。

「そんなに嫌わないでくれよ。なあ藤田、お前に聞きたいことがある。五年前の事件のことなんだが……」

 その言葉を聞いた瞬間、鉄雄はドキリとした。五年前の事件といえば……カップルが襲われて、その犯人たちが今になって次々と何者かの手によって、見るも無惨な姿に変えられているのだ。

 しかし、何故その話が出てくる?


「おい藤田、五年前の事件だよ? 前に来た時に話しただろうが。夫婦が滅多刺しにされた事件……忘れちまったのか?」

 高山の言葉を聞き、鉄雄はやっと状況を理解した。五年前には、そちらの事件もあったのだ……夫婦が滅多刺しにされ、たまたま近くを通りかかった自分――盗みをしていたのだが――に疑いがかけられた事件。

「あ、ああ……忘れるわけないじゃないですか。それがどうしたんです? 今になって真犯人がパクられたんですか?」

「いや、まだパクってはいないが……その夫婦には子供がいたんだよ。血の繋がりのない姉と弟が、な。事件当時、弟は行方不明になっていたが……今は普通に生活している。妄想の世界でな」

「はあ? 妄想?」

「ああ、心の病気になっちまっててな。どうやら、今では姉が生活費を渡しているらしいんだが……わからねえんだよな。何で、姉は弟を病院に入れずに野放しにしてるのか……入院させた方が、費用は安くすむはずなんだよ。何でだろうねえ……」

「んなこと、俺が知るわけないでしょうが……だいたい、俺と何の関係があるんです?」

「まあ、これは俺の勘だがな、イチロ……いや、弟の方は犯人の顔を見たんじゃねえかと思うんだよ。犯人が自分の両親を殺す場面を、な……その場面を見たせいで、弟は精神に異常をきたしたんじゃないかと……俺はそう睨んでる」

「……」

「まあ確かに、お前には関係ない話だよな」


 ・・・


 誰が殺したんだ?

 一体、なぜ……。


 昨日、刑事の高山から聞いた話……それは、仁美一郎の心をかき乱すのには充分過ぎるくらいの威力を持っていた。


(お前さんの両親は殺された。二人とも、全身の十数ヵ所を滅多刺しにされてな……ひでえもんだったよ。当時、俺はその事件を担当していた。あちこち手を尽くしたんだが……結局、犯人は捕まらなかった。事件は迷宮入りさ……)


 何故だ……。

 俺は何故、その事を忘れていたのだ?


 記憶が徐々に甦り、己の内に眠っていた何かが目覚めていく。それと共に、これまでの自分の生きてきた世界……それがどれだけ奇妙なものだったのかに気づかされたのだ。

 あの会社で、俺は何をやっていた?


 そう、自分はデスクワークをやっていた。主にパソコンに向かい、書類をチェックし、上司や部下と話し合い、時にはアルバイトの代わりに雑用までやっていた。

 だが、具体的な内容が思い出せない。書類をチェックした記憶はあっても、そこに何を書いたのかがわからない。上司と話した記憶はあっても、何について話したのかがわからない。

 さらに恐ろしいことに、自分はその事実に気づかなかったのだ。


 いや、違う。

 俺は見なかったことにしていたのだ。


 都合の悪い事実からは本能的に目をつぶり、耳をふさいできた。そうすることで、自分の幻の世界を守ってきた。世界の矛盾に気づいたが最後、綻びが生じてしまう。いったん生じた綻びはどんどん大きくなり……世界に亀裂をもたらしてしまうのだ。

 自分の造り出した世界が……。


 じゃあ、今まで見ていた物は全て幻だったというのか……。

 嘘だろ……。

 今までの俺の生活は、全て幻だと……。

 そんな話があってたまるかよ……。


(五年前のあの日……お前さんは記憶を失っていた。その後、心の病気で入院したと聞いたぜ。だから、俺は何も言わなかった。お前さんが思い出したくねえのかと思ってな)


 高山の言葉を思い出す。心の病気で入院していた……そんな記憶は全くない。しかし、その話が本当だとしたら……。

 自分の病気は、まだ治っていなかったのではないか? 病気が治らないまま、退院してしまった。そしてここに住んでいる。ありもしない会社に毎日通い、居もしない同僚と話し……。


 待てよ……高山が嘘を言っているとしたら?

 いや、あいつは刑事だ。俺に嘘を言ってどうするんだ?

 何のメリットがある?

 じゃあ、嘘を吐いているのは……俺か?

 俺の壊れた脳が、嘘の映像を見せていたのか?


 一郎は膝を抱え、座りこんだ。体が震えている。何が何やらわからない……何が真実で、何が虚構なのか……全ての存在が危うい。何を信じればいいのか、さっぱりわからない。今までは、目で見たものや耳で聞いたものを疑う必要などなかった。 自分の目で見たものしか信じない……そんな考え方の人間が存在する。しかし、その考え方は「自分の目は真実を映し出す」という条件があってこそ成り立つものだ。

 もし自分の目が、嘘つきだったとしたら?

 自分の目や耳すら信用できないのに、刑事だからという理由で高山の言うことを信じるのか?


 一郎は目をつぶり、布団に潜った。もう何もしたくない。何も考えたくない。これは夢だ。夢なのだ。明日になれば、きっと元通りの生活が待っている。そう、元通りの生活だ。羽場商事に行き、そして大森部長に叱られ……。


 ちょっと待て。

 大森部長?

 そうだ……大森部長だけははっきりと覚えているじゃないか……。

 俺は大森部長と何度も話したぞ。

 話した内容だって、ちゃんと覚えてる。


 ようやく、一郎の表情に明るさが戻る。そう、自分にはっきりと覚えていることもあるのだ。大森部長の存在……学生時代はアメフトとレスリングに打ち込み、今もジムでのトレーニングを欠かさない男。大柄で筋肉質、しかし温厚な性格の持ち主だった。いつも穏やかな表情で話し、そして白いスーツに身を包み――


 白いスーツ?

 あり得ないだろうが。

 一般企業の部長が、白いスーツを着て仕事をするというのか?


 一郎の表情が、みるみるうちに歪んでいく。白いスーツ……そんな物を着て働くサラリーマンがいるのだろうか? いるはずがない。繁華街のホストではないのだ。そんな物を着ていたらどうなるか、考えるまでもない。

 いや、それ以前に……。


 違うぞ……あれはスーツなんかじゃない。

 あれは……白衣だ。

 白衣を着ている、ということは……医師?

 大森医師?

 俺は知ってる……大森医師を知ってる!


 一郎の頭に、かすかな記憶が甦る。病院での生活……一日に一回、大森医師と一対一で話をした。大柄な体を白衣で包み、優しい口調で話をする男だったのを覚えている。


(仁美くん……それは、君の過去と関係あるんじゃないかな。君にとっては、思い出したくない辛い記憶だろうけど……しかしね、いつか君は、その辛い記憶と向かい合わなくてはならない、と私は思う。私は、君には期待しているんだよ……)


 大森医師の言葉を思い出した……そう、自分はこの言葉をはっきりと覚えている。

 では、やはり……。

 羽場商事など、存在しないのだ。

 自分は今まで、ずっと幻を見ていたのだ……。

 覚めない夢の中で、生きていたのだ……。


 ・・・


「やあ杏子……調子はどうだい? そう言えば、前々から疑問に思ってたんだけど……ここでの生活はどんな感じなのかな? お菓子とか食べられるのかな? 最近、友だちに聞いたんだけど、刑務所でもお菓子とか出るらしいんだよね……ゼリーとか、ぜんざいとか食べられるらしいよ」


 殺風景な部屋の中……ベッドの端に座り、にこやかな表情で話しかける大和武志。だが、傍らの鈴木杏子は何も答えようとしない。前に来た時と同じく、黙ったまま前方を凝視している……。

 武志の表情がわずかに歪む。だが、彼は話し続ける。まるで、それこそが自分に残された、たった一つの大切な義務であるかのように……。

「いやあ、参ったよ……ついに体重が五十キロを割ったんだ。五年前は八十キロ近くまでいって、杏子に腹の肉をつままれてたのにね……今じゃあ、杏子よりウエスト細いんじゃないの?」

 武志は立ち上がり、細くなったウエストを誇示するかのような格好をする。武志のウエストは確かに細いが、他の部分も細い。顔の肉はすっかり削げ落ち、腕は枯れ枝のようだ。お世辞にも健康的とは言えない。夜の街を歩いていたら、ヤク中に間違われることだろう。

「なあ、杏子……俺は決めたよ。もう、全てを終わらせることにした。南部の奴は……結局、前歯と鼻をへし折っただけで終わらせたよ。杏子、俺は半端者だね……復讐すら、きっちりと遂げることができないんだな」

 そこまで言った時、武志の顔が歪んだ。涙がこぼれ落ちる。

「俺は……君と出会えて……本当に幸せだった……ありがとう……本当に……ありがとう……俺は幸せ者だよ……」


「おい武志、そろそろ時間だぜ」

 扉越しに聞こえてきた、士郎の声。武志は立ち上がり、杏子の耳元に顔を寄せた。

「もう、お別れの時間だ……杏子、二度と会うことはないだろうけど、元気でね……」




 暗い廊下を歩いている間、二人は一言も口を聞かなかった。ブツブツ呟くような声が扉越しに聞こえてくる。時おり、奇声や何かがぶつかるような音が響き渡ったりもしている……しかし、二人は押し黙ったまま進んでいた。


「ふう……何やかんやあったが、とりあえずは無事に終わったな。なあ武志、これからどうすんだ? マジな話、もう一度考え直してみないか?」

 帰りの車の中、不意に問いかける士郎。武志は訝しげな表情になった。

「考え直すって、何をですか?」

「杏子ちゃんを連れ出すって話だよ……いいか、閉鎖病棟から患者が逃げるなんてのはな、よくある話なんだよ……見つからないまま行方不明になってるケースも珍しくない。さすがに人殺しでもやってりゃあ、警察も必死で探すだろうが……杏子ちゃんは何もやってないんだぜ。まあ、病院は訴えられた挙げ句、相当の額を払わされるだろうがな……そんな事はどうでもいい。お前の依頼さえあれば、俺はいつでもやるよ」

 士郎の口調は軽いものだった。まるで、近所のコンビニに買い物にでも行くような……知らない人が聞いたら、冗談かと思うことだろう。

 しかし、武志にはわかっている。士郎はできもしない事を簡単に口にするような男ではないのだ。自分が頼めば、士郎は確実にやるだろう……その時、またしても武志の中に疑問が浮かんだ。士郎と接していて、幾度となく感じた疑問が……。

「士郎さん……あなたは何で、こんな仕事をしてるんです?」

「こんな仕事って、お前は本当に失礼な奴だなあ。前にも言ったろ、俺はならざるを得なかった、ってな。俺には、こんな仕事くらいしかできそうにない。それにな……」

 士郎は言葉を止めた。その瞬間、顔つきが変わる。

「俺はな、殺しをやらないでいると……頭の中に霞がかかったようになっちまうんだ。まあ、もって一月くらいかな。それを過ぎると、ぼんやりし始める。そのうち、目の前の映像が歪み出して……そいつが俺の病気さ。恐らくは、一生治らないんだろうよ」

 士郎の口調は淡々としたものだった。だがそれだけに、より一層の真実味が増す……やはり、士郎に対する噂は本当だったのだ。

 そして……そんな士郎だからこそ、この仕事を頼みたかった。


「士郎さん、最後に一つお願いがあります」

「何だ……やっと杏子ちゃんを逃がす気になったのかよ――」

「違います。あなたに頼みたいのは殺しです。俺を殺してください」

 だが、士郎は黙ったまま言葉を返さない……武志はもう一度、口を開いた。

「士郎さん……あなたに新たな仕事を頼みたいんですよ。俺はもう、何もかも嫌になっちまったんです。俺はこの先、何もしたいことがないんです。生きるのも面倒くさい……本当に嫌になりました」

「ちょっと待て。その前に……明日、ちょいとした用事がある。付き合ってくれないか? 会わせたい人がいる」





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