あんた、この展開をどう思う?
その日、西村陽一はほとんど眠ることが出来なかった。浅い眠りに落ち、そしてハッと目覚める。その繰り返しであった。
昨日の藤田鉄雄の話……自分はいったい何をするのか――そして何をさせられるのか――、正確なところはわからない。ただ、鉄雄は殺しだと言っていた。その上、ヤクザを殺すのだとも言っていた。ヤクザ同士の抗争なのか、あるいは誰かからの依頼による暗殺なのか……いずれにせよ、自分は確実に人殺しをさせられることになる。
もちろん、人殺しなどしたくはない。
だが……。
(俺にはわかる。お前は家畜じゃない。お前は善悪なんて概念を超越できる人間のはずだ。そして……今の俺に必要なのは、お前のような人間だ)
昨日、鉄雄から言われたセリフが甦る……陽一のこれまでの人生において、他人からそんな言葉をかけられたことはなかった。どこに行っても、居ても居なくても誰も気にしない存在……陽一はそんな少年のはずだった。
なのに――
この僕を……必要だと言っていた……。
本気で言っているのだろうか?
僕を騙そうとしているのではないだろうか……。
しかし……。
陽一は考えた。鉄雄が何を考えているのかは、正直わからない。だが、確実に言えることが一つある。
昨日……鉄雄は一度たりとも、暴力を背景にした脅しめいた文句を吐いていない。鉄雄は自分よりも強い……いや、比較すること自体が馬鹿馬鹿しいほどの差がある。初めて鉄雄に会った時――考えてみれば、全ての発端はあの日にあったのだ――の闘いぶり……数人の男たちを圧倒した暴力。その時のように暴力を用いれば、自分には抵抗すら出来なかっただろう。鉄雄に言われるがままになっていたはず。
なのに、鉄雄はそれをしなかった……。
一度たりとも脅し文句を口にせず、終始やさしく語りかけ、さらには最終的な判断を自分に委ねてくれたのだ。
(俺の申し出を断るつもりなら……俺は何も言わないし、何もしない。黙ってお前を帰らせる。お前とは縁を切るよ……お前に迷惑をかけないようにな)
実際の話、自分は無事に帰ってきた。 このまま部屋に閉じこもり、一切連絡をしなければ……今までと同じような生活が待っているのだろう。表面的には、平和で安全な生活……自分の犯した殺人という罪に怯えながら、誰も読まない小説を書き続けるだけのつまらない日々。
それでいいのか?
本当に、それでいいのだろうか?
陽一は立ち上がり、部屋の中を見回す。この狭い部屋の中で、ずっと閉じこもっているつもりなのか? 今の自分は、もはや人殺しなのだ。普通の人間ではない。境界線を越えてしまったのだ……今さら普通に生きることなど出来はしないだろう。
それならば……鉄雄の誘いに乗り、裏の世界で生きていくしかないのではないか?
しかも、鉄雄の話によると……金が入るという。一千万という金が。
それだけあれば、この家から出られるだろう……今までは生活力がないため、仕方なく親に頼っていた。ニートと呼ばれることを余儀なくされてきたのだ。しかし、金さえあれば……自分は自由を手にできる。
そう、金さえあれば、誰からも文句を言われないのだ。例え仕事をしていなくても、金さえあれば何も問題はない。世の中、しょせんは金なのだ。
そして陽一は、鉄雄の言葉を思い出した。
(人生は戦いなんだよ。戦いなくして変化はない。変化がなければ進歩はない。お前は今、生まれ変わるチャンスなんだよ……この時を逃していいのか? 俺の提案を無視して家に帰り、ずっと引きこもっている気か?)
(俺と縁を切ってしまって……本当にいいのか? 俺はお前を引き上げられる人間だぞ)
いいわけないよな……。
今の僕に、何が残されている?
何もないじゃないか。
今の僕には……何もない……空っぽだ……。
次の瞬間、陽一はスマホを手にしていた。そして、昨日登録したばかりの番号へ――
「あ、あの……藤田鉄雄さんの電話――」
(陽一だな……引き受けてくれる気になったか?)
「はい……僕は……やります……やらせてください……」
(そうか……だったら明日の午後二時、事務所まで来い。待ってるぞ)
「午後二時ですね……わかりました」
通話を終えた後、陽一は不思議な感覚に襲われた。意味もなく体が震え出すような……それでいて体の真はゾクゾクするような、奇妙な感覚が五体を駆け巡っている……。
ふと、ある言葉を思い出した。
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」
誰の言葉であるか、もう忘れてしまった。ただ、今の陽一の状態に最も近い言葉であるような気がする。陽一はじっとしていられず、拳を握りしめて構えた。そして、虚空めがけてパンチを放つ……左ジャブ、そして右ストレート。己の心を縛りつけようとする恐怖心を断ち切るべく、一心不乱にパンチを打ち続ける。
やってやる……。
僕はもう、戻れないんだよ……。
毒を食らわば、皿までだ……。
陽一は凄まじい形相でパンチを打ち続けた。体から汗が流れ出て、床にしたたり落ちる……。
それでも陽一は、パンチを打つのを止めなかった。
・・・
「正一……ガキは明日の二時に来るそうだ。チャカは用意できてるな?」
鉄雄の言葉を聞き、火野正一は頷いた。そして拳銃を取り出し、鉄雄の視界に入れる。
「よし……ところで、天田とは連絡ついたのか?」
「いや、連絡ついたんですが……奴は今、仕事でしはらく手が離せないと……」
そう言うと、正一は顔をしかめ首を振る……鉄雄はため息をついた。これはもう無理だ。天田士郎を計画に加えるのは諦めよう。正一と自分、そして陽一……この三人で、当初予定していた現金強奪計画を遂行するのだ。
正直、無理がある計画だとは思う。だが、今となっては仕方ない。何せ、切り裂き魔が捕まらないことには……自分たちがケジメを取らされるのだ。運が良くても飼い殺し……下手をすると犯人に仕立てあげられるかもしれない。
鉄雄は桑原徳馬の恐ろしさをよく知っている。他のヤクザと違い、そうそう暴力を振るったりはしない。その代わり、何のためらいもなく人の命を奪うし、時には殺すよりもえげつない手段を用いる。桑原は完全な商売人なのだ……金勘定が全ての。時にはヤクザ以上に冷酷かつ残虐な手段を用いる。
以前、銀星会の幹部の娘にさんざん貢がせた挙げ句、ぼろ切れのように捨てたホストがいた。当時、まだ一介の組員だった桑原はそのホストを拉致し、有り金を残らず奪った。だが、桑原の恐ろしさはそこからである。ホストを自分の息のかかった病院に入れ、麻酔で眠らせているあいだに性転換手術を施させ、女の体に変えてしまったというのだ……。
噂によると、そのホストは今もどこかで桑原の監視の下、体を売って生活しているのだという。しかも、戸籍上は事故で死亡したことになっており、さらにそのホストは精神に異常をきたしており、逃げることも訴え出ることもできないとか……。
ちなみに、その一件で桑原は出世した。上の人間からは信頼され、周りからは恐れられるようになったのである。
こんな真似をする桑原だ……自分と正一を犯人に仕立てあげるくらいのことは朝飯前だろう。しかも、自分と正一には何の後ろ楯もないのだ。自分たちを始末した後、仮に真犯人が出てきたとしても……桑原を責めるだけの度胸のあるものなど、今の銀星会にはいない。桑原の評判が多少は下がるかもしれないが、そんなことになったとしても……既に死んでいるかもしれない状態の自分には、何のたしにもならない。
結局は逃げるしかないのだ……。
「鉄さん、あのガキと組むんですか? 大丈夫ですかね?」
「ああ……仕方ないだろうが。銀星会を敵に回そうなんて奴がどこにいる? いないだろう。かといって、二人じゃ無理だ。あのガキを使うしかないんだよ……正一、お前にはドライバーをやってもらう。俺とガキが奴らを襲い、金を奪う……お前は車で待機だ」
「なんか、不安ですねえ……」
正一の表情が曇る。しかし、それも当然だろう。何せ、ニートの少年を計画に加えることになってしまったのだ……それも襲撃の実行犯として。しかも、相手は殺気立っている状態の銀星会である。普段ならば、文句無しに中止にするはずだ。
「こうなったら、やるしかねえよ」
言葉を返す鉄雄。不安なのは鉄雄も同じである。だが、この状況では他に手がないのだ。銀星会を相手にヤマを踏もうという奴などいない。少なくとも、今すぐ確保できるのは陽一しかいないのだ。しかも、陽一は銀星会には顔も名前も知られていない。いや、そもそもアウトロー連中には一切知られていないのだ。
さらに……鉄雄と陽一の付き合いはつい最近始まったばかりだ。陽一の両親も、鉄雄の存在には気づいていないはず。陽一という点と……藤田鉄雄と火野正一という点を線で結ぶためには、かなりの時間がかかることだろう。
そして辿り着いたころには……自分たち二人はとっくに高跳びを済ませているのだ。
そう、陽一には荒事の経験はない。その点において不安ではあるが……手駒として使うには、まずまずの人材である。そこら辺のひねくれた不良と違い、素直だし、真っ直ぐな心根も評価できる。
あくまでも、使い捨ての手駒ではあるが……。
「で……鉄さん、もし上手くいったとしたら……ガキはどうするんです?」
正一の質問に対し、鉄雄は大げさにため息をついて見せた。
「上手くいこうがいくまいが、死んでもらうよ……万が一にも、あのガキにベラベラ喋られたらマズいことになる。口は封じなきゃ、安心できない」
「やっぱ、そうなりますよね……」
そう言う正一の表情には、かすかな哀れみのようなものが感じられる。鉄雄は目を細めた。
「正一……てめえ何考えてんだ? 俺たちはな、銀星会に追われることになるんだぞ。タイに逃げたって安心できねえんだ。あのガキに分け前を渡して、また会おうぜって訳にはいかねえんだよ……可哀想だが、あのガキには死んでもらう。こっちの世界に踏み込んで来たのが運の尽きさ」
・・・
床は血の海だ……。
そして、人が二人倒れている。
さらに……。
その二人に馬乗りになり、狂ったように手を振り下ろしている男。
誰だ?
お前は誰なんだ?
次の瞬間、男はこちらを見る。
そして、ゆっくりとこちらに歩いて来た。
手には、血だらけの包丁が握られている……。
その顔には、見覚えがある……。
仁美一郎は目を覚ました。恐ろしく気分が悪い。その上、未だに頭が混乱しているのだ……昨日の出来事はなんだったのだろうか? 会社に何度も電話したのに通じなかったのだ。いつの間にか、会社が電話番号を変えてしまったのだろうか?
しかも、あの大柄なスキンヘッドの男は……一体誰なんだ?
どこかで会っているはずなのに……。
一郎は時計を見る。既に夕方だ……いつもは目覚まし時計をセットしなくても朝の七時に起きられていたのに。
壊れていく……。
俺の世界が……凄まじいスピードで崩壊している……。
嫌だ!
起き上がり、服を着替える一郎。電話が通じないのなら、直接会社に行くしかない。一郎は手早く着替えると、何も食べずに家を出た。
駅までの道を歩いている最中、一郎はこれまでの出来事について考えてみた。一体どうしてしまったのだろうか……つい一月前までは、普通に暮らしていたはずなのだ。会社に行き、仕事をして、そして家に帰る……。
いつからこうなった?
いや、待てよ。
そもそも……俺の目に映っているのは現実か?
俺が触れている物……実在しているのか?
自分の感覚すら信用出来なくなってきている……一体、自分はどうしてしまったのだろうか。そもそも、始まりは――
その時、一郎の目の前を一人の女が通り過ぎて行った……。
あの女だ。
今の自分を救うことができる、唯一無二の存在。
俺の女神だ……。
女は歩いていく。どこに向かっているのか、早足でわき目もふらず真っ直ぐに……。
その瞬間、一郎の目的地は変わった。彼は女を追い始める。仕事帰りのサラリーマンや、学校帰りの学生を避けながら、一郎は女に追い付こうとする。
しかし追い付けない。女は普通に歩いているはずなのだが、その速度は異常に早い。
追い付けない……。
このままだと、見失ってしまう!
追い付くんだ。
追い付くんだ。
追い付くんだ。
追い付くんだ。
そして……。
一郎の顔に、不気味な表情が浮かぶ。前を歩いていた女子高生――と思われる少女――を突き飛ばし、彼は進んで行く。誰かの罵声が聞こえたが、そんなものは無視した。一郎の目に映るもの、それは前を進んでいる女だけだった。
「なぜ……付いて来たの……」
人気のない裏通りに入ると同時に、女は振り返る。その顔は悲しげだった。
「あなたは……誰なんです……やはり……俺の思った通りの人なんですか?」
「そうよ……ずっと、あなたを見ていた……私には気づかないでいて欲しかった……」
「何を言ってるんです……あなたは俺の光だ……あなただけです……俺を救えるのは……」
うわ言のように呟きながら、女に近づいて行く一郎……そう、今の自分を救える者は、この女しかいないのだ。この女は全てを知っている。この女なら……。
「一郎、あなたは子供の時のことを覚えてる?」
「子供の時?」
一郎は記憶を辿ってみた……子供の時の出来事は少ししか覚えていない。まず母親が消えた。そして父親が再婚し……新しい母親と姉ができた。
姉?
「思い出した?」
女の声。一郎は頭を抱える。そうだ……自分には義理の姉がいたのだ。おぼろ気な記憶……そこに登場する姉の姿。歳の離れた姉が……。
「あなたは……俺の――」
「違う。私はあなたの姉さんじゃない。あなたは姉さんと会っている……何度も……」
「そんな……バカな……」
一郎は途方に暮れた。姉とどこで会っているというのだ? そもそも、自分は姉の存在すら忘れていたというのに……。
待てよ……。
俺は何故、姉の存在を忘れていたのだ?
何故だ? 何が起きている? どうしたんだ? 狂ってる? 何が現実だ? 俺はは正気か? この女は誰だ? 何を信じればいい? そもそも、会社はどうなった? 一昨日のあれは一体なんだったのだ? あの男は何者だ?
突然、湧き上がってきた疑問の数々……一郎は耐えきれず、その場にうずくまる。
「俺は……どうしたらいいんです……わからない……何がどうなっているんですか……」
「思い出して……五年前に何があったのかを……」
五年前……だと?
何があった?
一郎はうずくまったまま、必死で考えた。五年前……そう言えば、父と母は五年前に死んだ。悲しくもなんともなかった。葬式が面倒だったのを覚えている。父も母もどうしようもないクズだった。だから、死んだからと言って悲しくなかった……。
「そう、あなたの両親は五年前に死んだ。でも、あなたは間違っている……あなたの両親は殺されたのよ……」
「違う……父と母は事故で死んだ――」
そこまで言ったとたん、愕然となる一郎。近頃、毎晩のように彼を悩ませる悪夢。怪物が二人の人間を食べる夢。
食べられているのは……両親だった……。
・・・
「なあ、あんた……何が目的なんだ? 金か? 俺なんか誘拐しても、大した金にはならないぞ」
恐怖に震えながらも、静かな口調で問いかける南部道彦。彼はロープで縛られ、床に転がされていた。粗末な木の床はほこりが積もり、ところどころ虫食いのような穴が空いている。壁もまた木製だ。明かりといえば、テーブルに置かれたランタンのみである。
そして大和武志は椅子に座り、無言のまま南部を見下ろしていた。
「あんた……いったい誰なんだ。俺に恨みでもあるのか――」
「俺が誰だか、覚えてないのか?」
表情の消え失せた顔で尋ねる武志。だが、南部は首を振る。
「俺はあんたを知らない……なあ、人違いじゃないのか? 俺は何もしてないはずだ――」
「何もしてない、と言ったな? お前は今、何もしてないと言ったな?」
武志の顔に、初めて感情が浮かぶ。怒り、憎しみ、悲しみ……負の感情の入り混じった顔で、南部を睨み付けた。その表情はあまりにも恐ろしく、南部の震えはいっそう大きくなった。震えは顔にまで広がり、歯と歯が当たりガチガチと音が鳴っている。それでも南部は声を絞り出した。
「あ、あんた……な、何があったか……知らないが……すまない……本当にすまない……お、俺には……家族が……妻が――」
「おい、連れて来たぞ」
南部の言葉の途中、部屋に入って来たのは天田士郎だった。巨大な布袋を肩に担いでいる。士郎はすたすたと歩き、袋を床に下ろした。
そして袋の口を開けると、縛られた若い女の姿が……それを見た途端、南部の表情が一変した――
「アヤァ! お前ら! アヤを離せ!」
先ほどまで震えていたのが嘘のように、大声でわめき始めた。必死でもがき、どうにか女のそばに行こうとする……だが、武志の爪先が腹にめり込む。
悲鳴を上げる南部……すると武志は彼の髪の毛を掴んで、無理やり顔を上に向かせた。
「こんな状況を作ってやったのに、まだ思い出さないのか……じゃあ、思い出すまで殴り続けてやるよ」
そう言うと、武志は拳を天に突き上げた。
そして、勢いよく降り下ろす。
グチャ、という音、そして南部の悲鳴……だが、武志の表情は虚ろだった。またしても拳を振り上げ、そして落とす。
淡々と繰り返される暴力……まるで職人がハンマーを振るうかのように、武志は殴り続けた。
「まだ……思い出さないのか?」
武志は手を止めた。南部の顔は血まみれであり、前歯は何本か折れている。苦痛に歪む顔で、南部は口を開いた。
「頼む……アヤは……アヤだけは帰らせてあげてくれ……お願いだ……アヤのお腹には……子供がいるんだ――」
「じゃあ、今度はアヤさんの体に聞いてみるか」
表情を歪ませ、立ち上がる武志……その途端、南部は激しくもがき出した。
「止めろ! 止めてくれ! アヤは関係ないだろうが――」
「何故、アヤさんが関係ないと思うんだ? 心当たりがあるからなんじゃないのか?」
問い詰める武志……南部は傷ついた顔を歪ませ、声を振り絞った。
「あ、あんたは……五年前の……カップルだろ……あれは……俺が悪かった……許してくれ――」
「俺は何度、許してくれと叫んだ? あんたの前で何度、土下座した? 何度、あんたらに殴られた?」
そう言いながら、武志はゆっくりと顔を近づけていく。
「あんたの友だちの寺門、肥田、中島がどうなったか……知ってるよな?」
「知らない……奴らとは、もう会ってないんだ……奴らとは縁を切った……」
「それは残念だ。奴らは両手両足を切断され、両目を潰された……ほら、見てみろ」
武志の言葉と同時に、士郎が写真を投げる。南部がその写真を目にした瞬間――
「うわああああ!」
恐ろしい形相で叫び、もがく。そして次の瞬間、床めがけて胃の中のものをぶちまけた……。
「うわ、汚ねえなあ」
武志は無表情で言い放ち、南部の髪の毛を掴んで、床に顔を叩きつける。
「おい、お前もこうなるんだよ。お前もアヤもな、両方ともやってやる。生まれてきたことを後悔させてやるよ」
うわ言のように呟きながら、南部の頭を床に叩きつける武志。だが、その時――
「うぁえぇえぇぇぇ!」
室内に響き渡る、奇妙な発音の声……武志は呆然とした顔で振り返った。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたアヤが、荒い息をつきながら、こちらを見ているのだ……。
「お前、喋れないんじゃなかったのか?」
「いや、声は出せるよ……ただ、耳が聞こえないから自分の声も聞こえない……だから喋らないだけだ」
士郎が代わりに答える。そして士郎は、哀れみのこもった目で武志を見つめ――
「武志……こいつは友人として言わせてもらう。せめて……アヤだけは無事に帰してやれ。お前はこっち側の人間には絶対になれないんだ。二人ともやっちまったら……お前は一生後悔するぞ」
「うるせえ! 俺は……俺は!」
武志は吠えた。
思い出せ……こいつが何をしたか。
こいつが、杏子をあんな風にしたんだ……。
杏子を……。
頭の中に記憶を呼び覚ます。嘲笑の声……暴力の嵐……血と涙……そして、杏子の虚ろな表情……。
「うおぉう! うぁえぇえぇぇぇ!」
またしても響き渡る、アヤの絶叫……武志は立ち上がり、ナイフを抜いた。
「お前、うるさいな……まず、お前から黙らせてやるよ」




