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あんた、この体験をどう思う?

 流れる血液。

 そして力を失い、崩れ落ちていく肉体……。

 生命が消えた。

 僕が殺したのだ……。


 西村陽一は目を覚ました。最初に目に入ってきたものは、灰色の壁と見慣れない殺風景な部屋。明らかに自分の家とは違う。

 その時、記憶が甦った……悪夢であって欲しかった記憶。

 ピアスの男を刺し殺してしまった記憶。


 僕は……。

 僕は人を殺してしまったのだ。

 人殺しだ……。

 僕は人殺しなのだ……。


「やっと起きたな。気分は最悪だろうが……まずは話をしようか」

 そして部屋の中にいた男……中肉中背で平凡な顔つき。人混みの中に入ったら、一瞬でまぎれ込めるだろう……しかし、同時に猛獣のような雰囲気も漂わせている。

「あなたは……」

「おいおい、昨日のことも忘れたのか? 俺は天田士郎……昨日、お前が殺した男の始末をしたんだぜ。いや、本当に臭いんだよ。手足を切り取り、細かく刻んで薬で溶かす……本来なら一件につき、最低五十万で請け負うんだがな――」

 その瞬間、夕べの記憶が甦った。耐えられなくなり、陽一はその場で膝をつき、胃の中のものを戻し始める。

 だが、胃の中には何も残っていなかった。




 昨日、ピアスの男に廃墟に連れ込まれ……一方的に殴られた。体をくの字に曲げていたせいか、さしてダメージはなかったが。

 しかし――

「これで済んだと思うなよ……てめえ、ぶっ殺してやるからよ」

 ピアスの男の声は普通ではなかった。陽一が見上げると、男は転がっていた角材を拾い上げ、そして振り下ろす――

 ガスッという鈍い音……凄まじい痛みが走り、思わず悲鳴を上げる陽一。頭めがけて振り下ろされた角材を、とっさに片手で受け止めたが……腕が折れたのではないか、と思うほどの激痛。腕を押さえ、うずくまる陽一の背中に、なおも振り下ろされる角材――

「おら! 調子乗ってんじゃねえぞ! てめえマジ殺すからな!」

 男は狂ったように叫びながら、なおも角材を振り下ろす……暴力が男を興奮させ、そして狂わせている。もはや歯止めが効かない状態だ。


 殺される……。

 嫌だ……。

 死にたくない!

 殺らなきゃ殺られる!


 うずくまった状態で、陽一は隠し持っていたナイフを抜いた。

 そして痛みに耐え、男が角材を振り上げた瞬間に立ち上がり――

 ナイフを突き立てた。


「てめえ! 何しやがる! 痛えだろうが!」

 男はわめき、陽一を突き飛ばす。弾みでナイフは抜けた。だが、陽一は再度突進し、突き刺す。

 ナイフで、何度も突き刺す。

 何度も何度も――




「おいおい、こんな所で吐くなよ……」

 声と同時に、何かが飛んできた。陽一が顔を上げると、トイレットペーパーが転がっている。

「ちゃんと綺麗にしとけよ……いいな」

 ぶっきらぼうな口調。しかし、その顔には、こちらを憐れむような表情が浮かんでいる。陽一は汚物を拭き始めた。とはいっても、吐いたのは胃液だけだったが。考えてみれば、昨日は朝食を食べたきりだった。

 しかし、空腹は感じていない。それどころか、今は食べ物のことを考えただけで胸がむかついていた。陽一は胸に不快感を覚えながらも、掃除を続ける。今になってやっと、辺りの様子を見るだけの余裕が出てきた。部屋は狭く、生活に必要な物が全く置かれていないのだ。床にはライト、そして壁は剥き出しのコンクリート……。


 そうだ……思い出したよ……。

 ここは、廃墟の地下室じゃないか。


 そうなのだ。昨日、突然現れた士郎。彼は藤田と、その仲間らしき男の二人と交渉し、引き上げさせた。その後は、ピアスの男の死体を担いで地下に降りたのだ。そして自分の目の前で死体を解体し、薬品の入った容器に入れていった……自分は耐えられなくなり、何度も吐いた。まさに地獄絵図……しかし、陽一は目を離すことが出来なかった。士郎が手際よく死体を解体し、溶かしていく様をじっと見つめていたのだ。


「なあ、陽一くん……君の住所も電話番号もわかっている。俺は君に危害を加えるつもりはない。弱味を握ったからといって、君をゆするつもりもない。俺は……君の味方のつもりだ。だから一つだけ約束してほしい。警察に自首はしないと……いいね? 君に自首されると、困ったことになるんだよ」

 掃除を終えた陽一の前にしゃがみこみ、優しい表情で言い含める士郎。だが、その目には有無を言わさぬ危険な光があった。陽一は頷く以外の反応が出来なかった。

「そう、それでいいんだ……大体、少年院だの少年刑務所だのといった場所に行っても、更生なんかしやしない。大半の連中は、更に悪くなる……それが現実なんだよ。そうそう、あともう一つ、君に聞きたいことがあったんだ」

 そう言うと、士郎は立ち上がった。そして端の方に歩き、床に置いてあったリュックから粉末の入ったジョッキを取り出す。次いで水の入ったペットボトルを出し、ジョッキに注いだ。そしてかき混ぜる。

 注がれた水が、チョコレート色のどろりとした液体に変わっていく……。

 士郎はそのジョッキを、陽一に差し出した。

「まずは、こいつを飲め。そして答えるんだ。君はそもそも、何のためにここに来たんだ?」


 ・・・


「あの二人、大丈夫ですかねえ……」

 狭い事務所で、呟く火野正一。だが、藤田鉄雄は頭を振る。

「さあな……天田が付いているんだ。恐らくは大丈夫だろうよ。それにしても……あいつは、本当にヤバい男だな……」

 そう言うと、鉄雄はソファーに腰掛ける。昨日のことは……思い出すだけで頭痛がしてきた。




 発端は……あの陽一という少年が人を殺した事。それを聞いて現場となった廃墟に行き、そこで天田士郎に出会った。

 士郎は言った。

「ここを警察に調べられると色々と面倒なんだよ。だから、ここは俺に任せてくれないか? 死体はちゃんと始末する。あんたらは、何も見なかったことにして引き上げてくれ」


 しかし、鉄雄は納得できなかった。会ったばかりの人間に任せるには、あまりに危険な話だ。一歩間違えれば、自分たちにも害が及びかねない。

「待てよ……お前の噂は聞いたことがある。しかしな、今顔を合わせたばかりのお前に全部任せるってのは不安だな……もし俺が嫌だと言ったら、お前はどうするんだ?」

 と鉄雄が尋ねると、士郎はじっとこちらを見て――

「俺の始末する死体が、三つに増える……あるいは、あんたらが死体を一つ始末することになる。なあ、バカな争いは止めようぜ……あんたらはただ、黙ってここから立ち去るだけでいいんだ。そして、見ざる聞かざる言わざるを決め込めばいいだけなんだぜ……楽なもんじゃねえか。どうしても俺と殺り合いたいなら、話は別だが……」

 そう言うと、士郎はポケットに手を入れる。鉄雄は嫌なものを感じた。ポケットの中の物は……護身具の類いか、それとも拳銃か。あるいはハッタリか……士郎の噂は聞いている。見た目はチンケだが、甘く見てはいけない……こっぴどい目に遭わされると。しかも、異常者であるとの噂も聞いている。

 そして、今目の前にいる実物の士郎から感じる雰囲気……確実に危険な男だ。鉄雄の勘は、これまでに幾多の修羅場をくぐり抜けて研ぎ澄まされ、磨き抜かれている。凡人のそれとは全てにおいて異なる、レーダーのごときものになっているのだ。その勘が告げていた。士郎は危険だ、と。

 そんな男と、武器も持たない状態で殺り合う訳にはいかない。


「鉄さん……どうするんです?」

 正一の声。緊張のせいか、若干ではあるが裏返っている。鉄雄は苦笑した。

「仕事に行くぞ正一……俺たちは何も見てないし聞いてない。物置小屋の片付けがあるんだろ?」




 鉄雄はため息をついた。士郎は、あの廃墟で何かやっていたらしい。もし、陽一が自首したりすると、士郎のやったこともまた、明るみに出ることになるかもしれない……士郎はそれを恐れていた。場合によっては、あの場にいた鉄雄と正一の二人を殺してでも守らなくてはならなかった秘密……。

 それが何なのか、鉄雄は知りたくなかった。知る必要のないことを知ったばかりに命を落とした者を、鉄雄は大勢見てきていた。


 鉄雄がそんな事を考えていると――

「よお、邪魔するぜ」

 声ともに入ってきたのは……銀星会の若頭、桑原徳馬であった。桑原は例によって、デカい力士崩れのボディーガードと小柄な男を一人連れ、何やら不機嫌そうな様子で入って来た。

「あ、どうも桑原さん……どうなさったんです?」

 予期せぬ訪問に、慌てながらも挨拶する正一。鉄雄もまた、立ち上がって挨拶したが……既に嫌な予感しかしていない。少なくとも、この桑原が美味い儲け話を持って来るというのは……太陽が西から昇るのと同じくらい、あり得ない話なのだ。


「おい藤田……お前、中島とはどういう付き合いなんだ?」

「中島……一体、どの中島ですか?」

「ああ? とぼけんなよ……中島隆一だよ、ポン中のな。お前が一昨日、中島の家に行ったのを見たって奴がいるんだよ」

 桑原の表情は、殺気を帯びてきている。鉄雄はようやく気づいた。自分は今、相当マズい立場にいるらしい。ただ、それが何故なのか……全くわからない。とりあえずは……少しずつ探っていくしかないだろう。


「ああ中島隆一ですか……確かに会いましたが、何か問題でも――」

「問題どころじゃねえんだよ……今朝早く、あのバカは両手両足ぶった斬られ、両目を潰されて病院の前に放り出されてたんだよ」

「……」

 鉄雄は二の句が継げなかった。となると……やはり、五年前に襲われたカップルの片割れか、あるいはその両方が復讐して回っているのではないのか……。


「藤田……お前がやってないのはわかってんだよ。でもな、お前が犯人と関係あるんじゃねえか……そう言ってる奴らもいる。俺たちはな、ケジメとらねえとやっていけねえんだ。お前にもわかるな……藤田」

 桑原の目は、獲物をいたぶる猫……いや、ライオンのものに変わっていた。冷酷で残忍なヤクザの素顔が剥き出しになる。

「いいか藤田……俺も忙しい身だ。お前の知っていることを洗いざらい吐かせたい気分だが、そうもいかねえ……いいか、ウチのシマを荒らしてる切り裂き魔を三日以内に連れて来い。でないと、お前ら二人からケジメとることになる。金か、あるいは体か……好きな方でな」


 ・・・


 目が覚めると、既に三時を過ぎていた。昨日のうちに休みの連絡を入れておいて正解だった……でないと無断欠勤になるところだ。無断欠勤していいのは、学生の間だけだ。正社員が無断欠勤など、シャレにならないからな……仁美一郎は胸の中で呟きながら立ち上がる。まだ頭がふらつくが……それでも、だいぶ良くなった。明日には会社にも行けるだろう。

 一郎はテレビを点ける。すると、またしても両手両足を切断された男が発見されたとのニュースを伝えてきた。これで三人目だという。若手芸人の覚醒剤所持使用……そちらの方が依然として扱いは大きいが、それでも猟奇的事件として報道されているようだ。

 しかし、一郎にとってはどうでもいい話だった。自分の生活には、どちらも関係ない。


 俺はただ、普通に生きていければいい。

 ごく普通に……。

 何者とも関わらず、静かに。

 今まで通り、誰とも話さずに……。


 その時、一郎は違和感を覚えた。自分は何を考えているのだ? 自分は今までに、会社やそれ以外で色んな人間と話していたではないか。


 大森部長。

 事務員の女。

 刑事の高山。

 そして、あの女。

 待てよ……。

 他の人間は?


 一郎は必死で思いだそうとした。会社で会ってきた大勢の人間……だが、そのほとんどの者の名前を知らない。今までは、忘れたで済ませていたが……いや、そもそも名前を忘れている事実すら忘れていた。

 そして今までは……その事に疑問すら感じていなかったのだ。


 どういう事だよ……。

 俺は一体、何者なんだ……。


 違和感がどんどん膨れ上がっていく。そして、根源的な不安も……自分の存在が、非常に不安定な物の上に成り立っているような気がしてきた。何かの本で見た、古代インド人の世界観を思い出す。三匹の象が世界を支え、その象を巨大な亀が支え、さらにその亀をとぐろを巻いた巨大な蛇が支え……。

 だが、その巨大な蛇がある日突然、支えるのを止めたとしたら?

 とぐろを巻くのを止め、巨大な鎌首をもたげて自分を呑み込もうと……。


「馬鹿馬鹿しい!」

 思わず大声が出ていた。そう、馬鹿馬鹿しい話だ。自分は今まで、何の問題もなくやってきた。大学を卒業し、そして羽場商事に就職した……。


 俺は何を考えている?

 そうだ……こんな狭い部屋にとじ込もっているから、おかしな事を考えるようになるんだよ。

 外を歩いてみよう。


 一郎は服を着替え、外に出た。いつの間にか、陽は沈みかけている。ほんの僅かな時間、考え事をしていたつもりだったのだが……時計を見ると、六時を過ぎていた。

 時間の感覚に……ズレが生じている気がする。

 そして、自分の存在が不安定な気も……歩いていても、どこかふわふわしているのだ。一歩踏み出すたびに、地面が僅かに揺れるような……。


 気が付くと、あの公園に来ていた。一郎は吸い寄せられるように入りこむ。公園を歩き、そしてベンチに座った。

 ふと、あの巨大な遊具を見る。怪物の顔を模したようなデザインの滑り台。あの女と出会い、そして消えた場所。

 一郎は立ち上がった。そして遊具に付いた階段を昇る。周囲には誰もいない。一郎の行動を見ている者はどこにもいないのだ。

 だから、どんな事でもできる。

 誰も見ていない時ならば、人殺しでもできる。


 一郎は遊具の上に昇り、辺りを見回した。前の時は高山が話しかけて、ぶち壊しになってしまったが……今は誰にも邪魔されない。


 あの女は、何を見ていたのだろう。

 視線の先にあったものは……。

 彼女の見ていた物……俺にも見えるだろうか。


「一郎……」

 後ろから声が聞こえた。振り返るまでもなく、誰の声かわかる。彼女だ。彼女の声なのだ。

 一郎はゆっくりと振り返り、彼女を見つめる。

「助けて……ください……俺は……誰なんです?」

 思わず口をついて出た言葉。だが、一郎は真剣だった。彼女以外、自分を救済できる者などいない。

 いや、自分だけではないのだ。自分を取り巻く世界……今までは何の問題もなく機能していたはずの全てが、崩壊の危機に瀕している。


 このままだと、全てが崩壊してしまう。

 そして……。

 俺は怪物に変わる。

 夢で見た、あの醜い怪物に変わってしまう……。

 人間を貪り喰らう怪物に……。


「一郎……私には、あなたを助けることはできない……」

 女は哀しげな瞳で、一郎を見つめる。

 その時、一郎は確信した……目の前にいる女こそが女神なのだ。彼女以外に、自分を救える者はいない。彼女は知っているのだ……一郎が何者であるのか。


「どうすれば、あなたと会えるんです? いや……どうすれば会いに来てくれるんです? 教えてください……俺は一体……」

「あなたは……本当に知りたいの?」

 女は哀しげな瞳で尋ねてくる。

 一郎は頷いた。自分が何者であるのか……少し前までは、そんな事はどうでも良かったはずだった。

 だが、今は……。


 ・・・


 夕方になったが、士郎は現れない。大和武志は言い様のない不安を感じた。一体、どうしたのだろうか。こんな事は、今までになかったのだが……。

 その時、武志のスマホにメールが来た。


(ちょっと面倒なことになった。夜になるが、顔は出す。とりあえず、飯だけは食っとけ)


 士郎からだった。武志はホッとする。もし万が一、士郎が警察に逮捕されたとしたら……。

 武志は自分が逮捕されるのは怖くなかった。自分という人間は、あの時に死んだのだ。五年前の、あの日に……。

 そして、もし計画の途中で自分が逮捕された場合、そういった事態に対する備えもちゃんとしてある。裁判の時に、弁護士を通じて士郎に指示を出す……そんな手筈になっているのだ。自分がどうなったとしても構わない。奴らへの復讐さえ果たせれば……。

 だが、士郎が逮捕されてしまったら……。

 計画は自分一人でも、最後までやり遂げる。それよりも、自分の計画のために士郎が逮捕されてしまう……その展開だけは絶対に避けたい。今の武志にとって、士郎は親友……いや、それ以上の存在だった。士郎に迷惑をかけたくはない。もし、士郎が逮捕されてしまったら……。

 安心した武志は、テレビを点けてみた。ニュース番組は最近、全く観なくなっていた。自分の起こした事件に関するニュースが流れるのを聞く羽目になるからだ。

 サスペンス映画などで、自らのしでかした事件のニュースをニヤニヤ笑いながら見ているサイコキラーが登場したりするが……武志にはあの心境が全く理解できない。武志は自分の事件のニュースを見るたび、ひどく嫌な気分になる。

 自分が世間一般の人々と違う人間になってしまったことを、否応なしに思い知らされるからだ。

 そう、自分はいろんなことを知り過ぎた……もう、人並みの幸せは二度と掴めないだろう。

 士郎の言葉を思い出す。


(忘れんなよ。この世界に一度足を踏み入れたら……幸せなんてものは掴めっこねえんだ。絞首刑台の上でくたばるか、誰かに殺されるか……その覚悟だけはしておくんだ)


 ああ……。

 覚悟しておくよ、士郎さん……。


 武志はふと、空腹を感じた。そういえば、昨日から何も食べていない。部屋の中には、食べられるものは何もなかった。


 こんな時でも、腹は減るのだな……。

 俺はあんなことをしでかしてもなお、生きていたいのか?

 いや、まだ生きなくてはならない。

 南部が残っている。


 服を着替え、武志は外に出た。奴らを「解体」した作業場は、かなり近い位置にある。そしてコンビニも……だからこそ、コンビニにはあまり来たくはなかった。来る途中、否応なしに通ることになる……血塗られた作業場を。


 その時、思い出したことがあった。一昨日、士郎はこんなことを言っていたのだ。ここに誰かが来ている形跡がある、と。それを調べるとも言っていた。

 ひょっとしたら、まだ作業場にいるのだろうか?


 武志は作業場の前に立った。暗闇にそびえる、潰れた病院……現在は廃墟と化しており、不気味な雰囲気を醸し出している。地元の不良少年たちですら近寄らない。廃墟好きな旅行者たちも、入り口で尻込みして引き返す。ホームレスたちでさえ、住み着こうとはしないのだ。

 それが何故なのかは、誰も知らない。


「おいおい……お前さん、こんな所で何をやってるんだ?」

 不意に、背後から聞こえてきた声。武志が振り向くと――

 一人の男が立っている。街灯の明かりも届かない位置のため、何者なのか判別できない。武志は一瞬、どう動くべく迷ったが……。

 判断する間もなく、不意にライトで照らされた。顔を照らされ、武志は眩しさのあまり目を覆う。

「お前さん何者だい? 俺の名は高山裕司……お巡りさんだよ。こんな所をうろついていると、逮捕しちまうぜ……」

 そう言うと、男は警察手帳を開いて見せた。そして、次は自分の顔写真の部分を懐中電灯で照らして見せる。

「どうだ? 間違いないだろうが。で、お前さん……名は何ていうんだ?」


「大和武志さん、か……ところで大和さん、あんたはここで何をやってる? ここは立ち入り禁止だぜ」

「す、すみません……つい…いたずら心で……」

 武志は気の弱そうな表情で頭を下げる。刑事を相手に、ここで下手な態度をとるわけにはいかないのだ。頭を下げまくり、この場を乗り切るしかない。

「不思議だねえ……見たところ、あんたはこんな廃墟で悪さするタイプには見えねえ。本当は……何する気だったんだ?」

「いや、あの……すみません……」

 今にも消え入りそうな声で、武志はもう一度頭を下げる。今はとにかく、しらを切るしかないのだ。あと一人というところまで来たのに、ここで躓くわけにはいかない。

「はあ……あのなあ、お巡りさんを舐めてもらっちゃ困るんだよ。お前さんが嘘をついているってことくらい、こっちはお見通しさ……しかしな、今の俺はお前さんに構ってるほど暇じゃない。あんまりこの辺をうろちょろしないでくれ。いいな?」

 そう言うと、高山は顔を近づけて来た。武志は気弱そうな表情を作り、視線を逸らす。相手を怒らせても何の得にもならない。

「お前さん、ヤバい匂いがするな……普段なら、適当な理由付けてしょっぴくところだが、今日は疲れた。見逃してやる。早く帰れ」





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