野良猫、泥棒猫
月の居ぬ夜だった。
薄雲に覆われた空に光はなく、濃密な闇が辺りに漂う。
ぽつりぽつり漏れる明かりは家々からのもので、完璧な眠りにはまだ早い時刻であることがうかがえる。
人っ子一人いない道を時折黒い何かが走る。最近たまりはじめた猫たちらしく、夜中や朝によく喧嘩をしていて、厄介者扱いされている。
音をたてぬよう気を使いながらある一軒に近づく。裏路から入るそこはある店の看板娘の部屋。まだ仄かな明かりが部屋の片隅を照らしている。ちょうど壁を隔てた真後ろにいるらしく、書き物をしている姿が影でわかる。
そして少しひかえめな音で扉が開かれ、どっど、と男のような足音が聞こえた。
「のう、梅。おまえ……なぜ染め師などになった」
「これしか、取り柄がないもんで」
「それはおまえがそう思い込んどるだけだ。おまえには……才能がある」
「な、なんの……」
誘うような甘ったるい声でくすくすと笑う女に、梅と呼ばれた男がとまどっている気配が伝わってくる。
「脅えずとも、おまえに何かをさせるようなことはせぬ。ただこうして……ありのままを話してくれれば……」
中からは時折衣擦れの音がするだけで、静かになった。おそらく男がこの無言の空気に押しつぶされまいと吐き出すのを待っているのだろう。
女の思惑通り、男が息をのむ気配がした。
「“アカ”、は……手に。今すぐお連れ……いかが、いたしましょう」
「あちらは」
「……ないと」
「言い含められそうか?」
「……ためならば」
「もう少し。して、白は」
「繋いで、地下に」
「そのまま見張れ。他には?」
「……んとこに…………くは、いずれ……」
「いずれ?」
男の声が更に小さくなり聞き取りづらい。もう少しと壁に近づいた。
「いずれ……」
「よい。今はよい。うるさい泥棒猫が耳をとんがらせていないとも限らぬからな」
「なんですと!?」
あわててこちらに来る足音がしたので、急いで路地に入り走る。
家へ向かおうか悩み、もしものために観光名所の桜の木のもとで止まる。そこで何気なく橋に寄りかかり息をつく。
夜の為か、下に流れる水の音がよく届く。暗闇のせいであまりわからぬが、なんとなく川を見ていると駆け寄ってくる足音があった。
「……染? 染か?」
「おや、梅都殿。こんな時間に奇遇ですね。まだお仕事ですか?」
「いや……って、お前こそこんなとこで何してんだ? もう夜だぞ」
「ええ、夜ですね。それが何か?」
「ちったぁ自分のこと考えろってんだ……お、そうだった。さっきここらへんを誰か通らなかったか?」
「さぁ……考え事をしていたので気付かなかったのかもしれません」
「そうか。まぁ、それならいいんだ」
「ところで。よく私だとわかりましたね? こんなにも暗いというのに」
「そりゃあ何年一緒にいると思ってる。わからんはずがない。お前だってそうだろ?」
「どうでしょう。怪しい者と叫んでしまうかもしれません」
「ひっでぇなぁ! ……とにかく、気ぃつけて帰れよ! 本当なら送ってやりたいんだが……」
「はいはい、大丈夫ですよ。本当に夜も走り回っているとは思いませんでしたが、お仕事頑張ってくださいね。それでは失礼」
何事もないようにひらひらと手を振り彼のもとを去る。
しばらく歩いていると彼の走っていく音がした。おそらく盗み聞きの泥棒猫を探して夜中走り回るのだろう。少し哀れに思うが、仕方のないことだった。
彼が誰に仕えているか、誰かの手先となっている可能性は考えていたからさほど衝撃的ではなかった。ただ、その相手が問題だった。
どうにかして断ち切らせるか、元を消せないものか。
選ぶのは彼自身だとわかっていても、簾桜の為にならない、むしろ害するものならば早めに手を打たなければならない。
簾桜と梅納寺は同業者でライバル。良き競争相手という綺麗なものではない。そこに確執があることを知るのはその家の者のみ。
おそらく相手には今宵の泥棒猫のあてはわかっていることだろう。
もともと心配事を確かめる為に家を出たというのに、ここ数日得た情報を照らし合わせる限り、その予感が近いものであったのを確かめる結果となっていた。
梅納寺は簾桜を落としたいと考えている。少なくとも彼女は。
その為に彼を間者として利用しているのだろう。同じ手段しか使えないことにふっと笑みをこぼした。
家の前に立つ。いつの間にか着いていたようだが、異物が足元に転がっている。
威嚇しているのか、少し唸っている。手を近付けると噛みつこうとするので、ゆっくり背中を撫でているとしだいに唸りは小さくなっていった。
「よしよし、良い子だ。そのままおとなしくしてなさい」
動かせないらしい足をそっと持ち上げ、次いで胴体と頭の下に手を差し入れ持ち上げる。
子猫よりは大きいがまだ大人には遠く、思ったより軽い。行儀悪いとは思いつつも足で扉を開け上がると、座布団の上にそっと横たえる。
明かりを灯し手当てをする。幸い片足を痛めただけらしく、曲がったり折れたりした様子はない。やけに疲労しているのはそれだけ長いこと追われたのだろうか。
そっと頭から背中を撫でてやれば、うっすら開いていた瞼を閉じた。
「ゆっくりおやすみ」
ふっと灯りを消すと、明日の為自分も床へとついた。