第五話 平穏な夜
ガス灯だけでは心許ないので、僕は部屋のランプに火を入れ、そして二人で卓袱台を挟んで座った。主食として食べるパンの塊のようなものを渡すと、僕は早速、箸を取って燻製をつまんだ。
「どこから来た、とか、何でそこに倒れていたとか、聞いても良い?」
僕は燻製を噛みしめながら訊ねると、ユミは少し顔を翳らせて一つ頷いた。
「ごめんなさい……」
「まぁ、良いけど」
聞けるとも思っていなかったし。
僕はそう思いながら漬け物に箸を伸ばす。それを見て、ユミは燻製に箸を伸ばしてそれをつまんだ。主食はバゲッダと呼ばれる、穀物を練って焼いたものだ。異世界による所の『モチ』や『パン』に近いが、中はモチモチで外はサクサクと言った感じで、両者の中間だろう。そして色が緑である。
それを千切ったもので包み、ユミは口の中へそれを運んだ。
「ん……」
そして美味しそうに目を細める。
「美味しいか?」
「はい……美味しいです。兄様」
そう言いながら僕を見る目には薄く水の膜が張られている。
僕はそれに気付かないふりをして、卓袱台越しに手を伸ばし、彼女の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。
「ゆっくり、たくさん食べな」
「――はいっ」
ユミは年相応の笑顔を浮かべると、漬け物に箸を伸ばした。
「ごちそうさま、でした」
ユミはほぅ、と一息つくと箸を置きながら呟いた。僕は笑みを見せながら頷き、湯飲みに煎れたお茶を差し出した。ここでのお茶は烏龍茶である。砂糖多めだ。
「お粗末様でした。はい、お茶」
「あ、ありがとうございます」
彼女はぺこりと頭を下げるとそれを受け取り、ふぅふぅと冷ましながら口を運ぶ。そして小さく、あち、と悲鳴を上げた。
僕は少し笑いながら自分の湯飲みを持って口元へ運び、口を湿らせてから彼女に訊ねた。
「それで、これからどうするつもり? 宿や家は別の場所にあるの?」
「……いえ」
小さく、答えにくそうに否定する。
「そっか」
僕は首肯すると、お茶をもう一口含む。砂糖の甘みと烏龍茶の苦みが口の中で混ざり合い、癖になる味だ。それを味わってから彼女に言った。
「じゃあ、ここにいても良いよ」
「え――?」
少女は短く揃えた髪を揺らしながら驚いたように顔を上げる。僕はうん、と頷きながら続ける。
「僕さ、城に仕えているからこの家にはあまり戻ってこないし。この家だったら好きに使ってくれて構わないよ。もちろん、出来るだけ帰るようにするけど」
「良い……んですか?」
「構わないよ」
僕も大概お人好しかも知れない。
僕は苦笑しながらそう思い、お茶のお代わりは? と訊ねた。彼女は嬉しそうな顔をしてコクンと頷いてみせる。僕は卓袱台に用意しておいた急須を取ってお茶を注ぐ。
そして窓越しに見えるガス灯を眺めた。
それに、彼女を他人と割り切る事は、どうしてもできないんだ。
それから暫く、彼女と軽く雑談をした後、僕は席を立って外で水浴びをした。湯を沸かして浴びた方が良いのだが、そんな事に薪を使うのは勿体ない。
家の傍にある川で僕は身体の汚れを清めると、指がピクピクと震えている事に気付いた。今朝ほどは酷くないが、寝不足がまだ続いているのかも知れない。僕は軽く指を揉むと、川から出て身体を拭いてから衣服を身に纏い、そして屋内へ入った。
家の入り口は勝手口と普通の出入口がある。勝手口から入れば、そこは台所だ。だから僕は中に入ってそこにユミが立っていた事に僅かながらの驚きを覚えてしまった。
「――あ、皿を洗ってくれているのね」
そこが台所という事を思い出し、納得して頷く。彼女は苦笑しながら磨き粉を鳴らす音と共に言った。
「私が出て行くとでも思いましたか」
「はは、少しでも思った自分が恥ずかしいです」
「ふふ、反省して下さい」
ユミは楽しそうに言いながら皿を脇に置く。僕は笑いながらごめんごめん、と言ってぽんと彼女の頭に手を置いた。
すると、また彼女は驚いたように目を見開いたが……今度は、やや控えめではあったが、そっと僕の手に自分の頭を押しつけてきた。
まるでもっと撫でてくれと言わんばかりに。
「……良い子だな。ユミは」
だから、僕はその皿洗いの働きを労うようにその頭を撫でた。さらさらとした髪の感触が、心地よい。何となく、本当の妹じゃないかと思いたくなるぐらいに。
「兄、様……」
何かを堪えるように、その言葉を吐き出すユミ。うん、と僕は答えると、また、よしよし、と撫でる。そしてその頭を優しく僕の胸に押しつけさせ、あやすように撫でた。
「――ッ……ひくっ……」
やがて彼女はしゃくり上げるように嗚咽を漏らし始めた。
家も持たず、魔術的な何らかの攻撃を受けた少女。
そんな少女が、何も抱えていないはずがないのだ。
その重荷を少しでも減らせたら……。
僕はそう思いながらただゆっくりと労るようにその頭を撫で続けた。ゆっくり、優しく……。
◇◆◇
「姫様……いい加減、寝て下さいませ……」
その頃、城では。
姫の寝室でげんなりとした愛莉がベッド脇の椅子に腰掛けていた。その視線の先にはベッドで本を読んでいる少女の姿がある。
「ん、もうちょっとだけ……」
「そのもうちょっとで三時間になりますが?」
「ん、もうちょっと……」
「はぁ……」
愛莉はため息を漏らすと、視線を姫の寝室の窓の外へ向ける。そこを覗き込めばきっと城下町の様子が分かるのだろう。きっと、そこには癒希人の姿も。
「全く……癒希人……」
(そう言えば、姫を寝かしつけているのはいつも特別な事がない限り、癒希人だったか……)
愛莉はそんなことを考えながら苛々していると、ふぅ、と藍姫はため息をつきながらベッド脇に積んでいる本を取り、また読み始める。
「ですから、姫様――」
「――……」
どうやら、藍姫は本に夢中なのか、それとも……。
(いずれにせよ、癒希人……ッ! 無責任に押しつけてくれたな!)
それは自分が引き受けた事だというのに。
愛莉は苛立ちを噛みしめながら、藍姫が読み疲れるのをただひたすら待つのであった。